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大晦日から新年の過ごし方に想う(記事No.79)

 今日は、早いもので大晦日である。年々、時の過ぎ去るのが速くなったような気がする。一説によれば、時の過ぎるスピード感覚は、人生の残りの時間に比例すると言う。人生の先が長い子供の頃は、時がゆっくり流れ、人生の残りの時間が着実に短くなる大人になると、時が速く流れて行くようになる。大晦日を迎えるに際しても、子供の頃と今とでは、気持ちが随分と違う。子供の頃は、年に一度の親公認の夜更かしができる日であり、頑張って日付が変わる頃まで起きていると、遠くに除夜の鐘の音や、山を越えた向こうから、船の汽笛が一斉に鳴る音が微かに聞こえて来た。大晦日の夜が更けるにつれて、何となくそわそわした気持ちを抱いたものである。

 中学生になると、大晦日には、友人たちと連れ立って地元の大きな神社に行き、日付が変わる前から参拝客の列に並んだ。新年とほぼ同時に、初詣するためである。その後、高校生2年生の時にクリスチャンとなり洗礼も受けたので、それ以来神社・仏閣への初詣には行っていない。ただし、友人たちと初日の出を見に、鎌倉の海岸に行くことはあった。当時は、どのような人々が用意したのかは知らないが、砂浜の随所に焚き火が起こしてあり、そこで暖まりながら日の出を待ったものである。夜から翌朝まで出歩くことには、ある種解放感を覚えた。

 大人になってからは、大晦日だからといって、特に夜遅くに外出するということはしていない。もちろん、カウントダウンのイベントなどとは無縁である。イベントと言えば、いつだったか、教会の年越し祈祷会に出席したことがあったくらいか。紅白歌合戦も、ほとんど見た記憶が無い。年越し蕎麦だけは、結婚してからは一応毎年食べている。考えてみると、もう何十年も、日本人の典型的な大晦日の過ごし方はしていないのかも知れない。そもそも、日本人の大晦日の過ごし方に決まりがある訳でも無い。だが、大昔から綿々と受け継がれて来た、日本人に広く共通した大晦日から新年にかけての風習がある。それは、年末の大掃除に始まり、元旦の初詣、お屠蘇と餅を飲食し、七草粥へと続く一連の習慣である。

 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の牧師で、聖書と日本フォーラム初代会長の小石豊牧師(2021年11月召天)は、「お正月とイスラエルの過越の祭り」というテーマで、次のように書いている。「『お正月』は玄関にしめ縄と門松、床の間にお供え餅、食卓はお節料理です。大晦日は大掃除とごちそう作りに追われ、まるで特別なお客様が来られるのを待つかのようです。そしてソバをツルツル食べながら年を越します。百八つの除夜の鐘が鳴ると非常に宗教的な、それでいて家庭的な緊張感に包まれて年が明け、何ともすがすがしい朝を迎えます。みんな服装を整えて挨拶をかわし、お屠蘇やお雑煮をいただきます。三が日は家族そろってお宮参り。(中略)この風習がいつごろから今のようになったのか、誰もわかりません。先祖伝来の習慣として当然のように守られ、そのお陰で何千年も変わらない民族性が保持されてきました。ところで旧約聖書を読みますと、『過越の祭り』という祭りが出てきますが、それが日本のお正月と大変似ているので驚いてしまいます。過越の祭りとは、エジプトの奴隷になっていたイスラエル人がモーセのよって解放され、エジプトを脱出したときに起こった数々の事件を記念し、ユダヤ人の間で厳粛に守られているものです」

 何と、日本の(大晦日を含めた)正月は、イスラエルの過越の祭りとよく似ていると言う。小石牧師の他にも、聖書研究者でレムナント・ミニストリーを主宰する久保有政氏や、聖書と日本フォーラム現会長の畠田秀生氏など、日本とイスラエルの関係について、優れた研究結果を世に示して来られた人々がいる。彼らの研究の共通の結論は、日本人の主要なルーツは、古代イスラエルに遡ることが出来るというものだ。日本人は、古来より多方面から渡来した人々が、長い年月のうちに融合して、現在へと続く単一的な民族となったものである。その多様な渡来人の中でも、その武力、技術力、文化のレベルにおいて、最も強力な民族集団であったのが、イスラエル民族であったと言う。彼らは、いわゆる失われた10支族(部族)と呼ばれる民族集団である。この説を裏付ける証拠は、正月の風習にとどまらず、日本文化のそこかしこに見られる。神社とイスラエルの神殿との近似性や、神道の中にイスラエルの宗教の痕跡が見出せることもそうである。

 私自身は、この説を支持する立場である。これが事実であれば、単に日本人の最も主要なルーツが解明されるだけではない。過去の事実と言うだけでなく、日本の未来にも関わる重大な事柄が明らかになるのだ。それは、やがて、不思議な神の方法で、イスラエル12支族のうち10支族の末裔である日本人と、2支族の末裔であるユダヤ人とが、再び1つとされる日が来ると言うことである。その結果として、日本人がどうなるのかは諸説がある。大胆な説としては、日本人が実際に、大挙してイスラエルの地に帰還すると言うものがある。ある意味で穏健な説としては、日本人とユダヤ人との再結合は、少数の人々がイスラエルに移ることで象徴的に行われると言うものがある。どのような形となるかは今はまだ分からないが、それは公然と宣言され、世界中の人々が驚くことになるだろう。その時期についても諸説あるので、あるいは、現時点では空想と捉える人々も多いかも知れない。

「これに言え、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる」(エゼキエル書 37:19 口語訳)


 聖書が預言しているように、いずれイスラエル12支族が回復される時が来る。それは、世の終わりの時とも関わる出来事である。本ブログでも度々書いて来たように、今、世の終わりの時が近づいている。終末に至るタイムテーブルがあと数年なのか、それとも数十年なのかは、恐らく来年中にも判断可能な状況になると思う。それほど、今の世界には、終末の前兆が多く見られるようになった。しかしながら、神が日本人に与えた使命は、これまで十分に果たされて来たとは言えない。それどころか、それがどんな使命なのかも知られていない。私は、日本人に与えられている重要な使命の1つは、神の愛と聖霊に満たされた人々が世界中に出て行って、キリストの救いの福音を宣べ伝えることではないかと思う。それは、必ずしも宣教師というタイトルを背負って出て行くだけではない。中村哲氏のように、遣わされた国の人々と労苦を共にしながら、キリストの愛を証する人々が多く起こされるのだろう。その時には、イエスを信じる者とされた、ユダヤ人と日本人が手を携えながら、世界の人々のために活動するようになると思う。
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世界の動きを見ながら再臨信仰を確認する(記事No.78)

 2021年は、あと1日と数時間で過ぎ去るが、今年も世界には多くの変化があった。それらの変化のほとんどは、世界の支配者層に属さない、私たち大衆にとっては、有益なものでは無かった。その最たるものは、作られた新型コロナ・パンデミックの継続と、それに伴う世界的なワクチン接種キャンペーンであり、それらの結果もたらされた、自由な社会の崩壊であったと思う。取り分け、西ヨーロッパ諸国やカナダ、オーストラリアなど、これまで自由社会の砦であったような国々が、あっという間に全体主義的な政策を強力に推し進めるようになったことは、そのスピードにおいて、私自身の予測を越えていた。もちろん、それら諸国に寄生する悪魔崇拝者であるグローバリストたち(今回はこの表現で書く、イルミナティとほぼ同義語である。)が、数十年かけて準備していたことである。

 また、各地で戦争が近づいていると思わざるを得ない状況があった。アジアでは、中国の台湾に対する恫喝がエスカレートする一方であり、中共政権は台湾を武力併合するという野望を隠そうともしない。中国は、これまでに併合したウイグル、チベット、内モンゴルなどにおいて、以前より同化政策を進めているが、近年では、民族浄化に等しい手法を導入している。中共政権は人類の敵と言うにふさわしいが、情け無いことに、日本の政治家、官僚、企業人、教育関係者、報道関係者など、社会的影響力を有する人々の中には、中共のハニトラ、マネトラに籠絡されて、あるいは、ビジネス上の利益のため、人道に対する犯罪には目を瞑る者たちもいる。日本では、北朝鮮が最大の軍事的脅威であるように報道される傾向があるが、実際は、日本周辺で最も戦争を起こす可能性があるのは中国であり、彼らが台湾侵攻作戦を発動する時は、ほぼ確実に日本領域の一部も戦争区域となり、尖閣諸島や先島諸島は奪取されると考えてよいだろう。

 ユーラシア大陸では、本ブログ記事のNo.75とNo.76でも書いたように、現在ウクライナ情勢を巡り、米欧とロシアの対立が深まっている。北太平洋条約機構(NATO)の東方拡大を図る米欧に対して、ロシアは戦争覚悟で拒否の姿勢を貫いており、来年1月上旬に実施されると言われる米露の協議が決裂すれば、ロシアは時を置かずに、ウクライナを軍事制圧する動きに出るだろう。どこかの段階で歯止めが掛けられなければ、その行き着く先は、米露の直接軍事衝突であり、第3次世界大戦である。アメリカはオバマ政権当時、シリアの反政府勢力を支援してアサド政権の転覆を図ったが、同政権の要請を受けたロシアのプーチン大統領は、ロシア正規軍をシリアに派遣して軍事介入を実施し、アサド政権は崩壊を免れ、シリアの分裂は回避された。自国の勢力圏が侵害されれば、躊躇うことなく軍事力を行使するのが、プーチン政権の方針である。

 冒頭に記した新型コロナ・パンデミックやワクチン接種キャンペーンとも密接に関連するが、昨年から今年にかけて、GAFAやGAFMAなどと呼ばれる巨大IT企業による、情報空間寡占化の弊害が明らかになった。GAFAとは、Google(グーグル)、Apple(アップル)、Facebook(フェイスブック=メタと社名変更)、Amazon(アマゾン)のことを指し、GAFAの4巨大IT企業にMicrosoft(マイクロソフト)を加えて、GAFMAと言われる。彼らは、例えば、新型コロナ・パンデミックと新型コロナ・ワクチンに関する疑念などのコンテンツを、情報空間から排除するなどして来た。グローバリストの情報通信部門としての面目躍起であり、政府やマスコミとも連携しながら、情報統制と個人情報収集・管理の役割を担っていることが分かる。AI化の隠された狙いもそうであるが、来るべき世界統一政府樹立に向けて、彼らの究極の使命は、人類奴隷化のための技術提供であろう。

 このような世界の情勢を見ると、どうしても悲観的な近未来を予測してしまう。このまま進めば、来年中にもヨハネの黙示録が預言する7年間の患難時代が始まる可能性が小さくない。しかし、希望もある。全体主義的な政策を矢継ぎ早に打ち出している国々でも、民衆に牙を剥く政府に対して、多くの人々が大規模な抗議行動を続けている。ワクチン強制を人道に対する罪として、国際刑事裁判所に告発する動きもある。グローバリスト側としては、世界の民衆の反撃により彼らの計画が頓挫させられるより先に、全体主義体制を固めようと躍起になっている。数においては、民衆の方が圧倒的多数であり、それゆえ、人々が覚醒してしまわないように、情報空間における攻撃を強めている。彼らとしては、数十年前からの、いや恐らくは100年以上前からの、3次の世界大戦を含む人類支配完結に向けての計画の仕上げの段階である。家畜にも等しい大衆に計画達成を阻止されないよう、彼らも今必死である。

 今、私自身もそうであるが、世界中で多くのクリスチャンが、主イエスの再臨が近いことを感じている。30年ほど前、韓国ソウルにあるヨイド純福音教会の日本語礼拝で、ハレルヤおばさんと呼ばれていた、崔子実牧師が流暢な日本語で、「主再臨今夜かも知れない。」と語った言葉が今でも印象に残っている。同様のメッセージは、その前にも、その後今に至るまでも、国内外の多くの説教者から聞いて来た。私の終末理解は、患難末期携挙説であるので、今夜携挙が起こる可能性は考えられない。しかし、現在の世界の動きを見ると、イエスが再び来られる日が近いことは疑い無い。来年は、いよいよ、この世界がどちらに進むのか、分水嶺の年となるだろう。もちろん、世界中の民衆の力が、グローバリストらの攻撃を撃退することを期待している。何よりも、全能の神の介入により、敵の企てが打ち砕かれることを願っている。どうなるにせよ、神の私たちに対する守りがあることに変わりは無い。主を待ち望みつつ、間も無く来たる新しい年を迎えたい。

「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい」(ヤコブの手紙 5:7−8 口語訳)
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移動の自由は大事(記事No.77)

 岸田文雄首相は12月24日、国内で新型コロナ・ウイルスの変異株「オミクロン株」の市中感染が相次いで確認されたことを受け、国民に対して、年末年始の帰省や旅行について「慎重に検討していただくようお願いする」と呼びかけた。自身も、年末に予定していた広島への帰省を取り止めると言う。いくら法的拘束力の無い要請に過ぎないとは言っても、首相の発言であり、大きく報道もされたことから、真剣に受け止めて、帰省や旅行を取り止めることを考える人も多いのではないだろうか。

 昨年の夏、年末年始、そして今年の夏と、帰省や旅行を控えた人は多かったと思う。旅行はまだしも、帰省は、老親と離れて暮らす人々にとっては、多くは年に1回か2回の貴重な親子水いらずの機会でもある。これで、今年の年末年始も帰省取り止めとなれば、丸2年間親子や3世代が対面出来ないことにもなってしまう。中には、この地上では2度と会えないというケースもあるだろう。安倍、菅両氏の首相時代もそうだったが、岸田首相の要請も、国民にとっては残酷な話である。帰省自粛要請を無視して故郷に帰れば、テレビで洗脳された心の狭い人々が、自粛警察となって陰湿な圧力を加えることになる。

 私たちは、これまでの日本における新型コロナ・ウイルスの流行状況と、それに対する政府の対応をつぶさに観察して来た訳だが、いい加減極度に恐れる必要は無いと気付くべきであろう。もし本当に、新型コロナ・ウイルスが、帰省や旅行を控えなければならない程の強力な感染力を有しているのであれば、なぜ大都市圏の満員電車は自粛要請されないのだろう?通勤や通学の移動距離は、帰省よりも短いに違いないが、ほぼ毎日利用しているのであり、感染者との接近機会は遥かに可能性が高い。

 結局のところ、日本を含めた世界の多くの国々の政府とマスコミによって、実態以上にウイルスの危険性が煽られているのであろう。昨年初頭の世界的流行当初は、ウイルスは強力な感染力と毒性を有していたのかも知れないが、変異を繰り返して毒性は相当低下している可能性が高い。そうなると、少なくとも現時点でパンデミックは、本当は終息に近付きつつあると思われる。もちろん、ワクチン接種なども必要ない。最初はワクチン接種は感染を防ぐと言われたが、接種者も感染することが明らかになると、今度は重症化を防ぐ効果があると言われるようになった。すぐに、接種者も重症化することが判明したが、今度は抗体が減少しているためで、ブースト接種が必要であると言う。既に十分、詐欺に等しいことが明らかであろう。

 なぜ、今なお世界の多くの国々で、人々に対する行動制限が、強制であれ自粛要請であれ継続され、一部の国ではむしろ強化されようとしているのか。また、なぜ、有効性や安全性に疑問符が付きまくりのワクチン接種が、多くの国々で強力に推進されているのか。もちろん、決して人々の健康を守るためでは無い。これらを推進している者たちの最大の目的は、人々に対する管理を飛躍的に強化して、世界統一政府樹立への道筋を付けることである。だから、非科学的であろうが、憲法違反であろうが、人々に行動制限を課し、ワクチン接種へと駆り立てるのである。

 コロナ前はそう意識していなかったと思うが、私たちにとって、移動の自由はとても大切な自由である。この自由が保障されているか否かは、言論や信教の自由と並んで、ある国が全体主義的国家であるかどうかのリトマス紙のようなものである。日本でも、江戸時代には、一般には国境(くにざかい)を超えての移動の自由は無かった。国境を越えて旅行するには、通行手形などの旅行許可証が必要であり、それが無いと各地に設けられた関所を通過することは出来なかった。神奈川県の箱根には、お玉ヶ池という名称の池がある。その名の由来は、江戸で奉公していた、お玉という女性が故郷に帰ろうと関所破りをして捕らえられ、処刑されたことを人々が悼んで付けたものとされる。移動の自由が無い時代、許可なき移動は死刑に処せられる重罪だったのである。

 現代でも、北朝鮮などは国内旅行をするにも許可が必要であることは知られているが、ソ連や共産主義政権下の東欧諸国も同様であった。中国では、旅行許可証こそ今では必要ないものの、長距離列車の切符や航空券を買うときには、窓口で身分証明書の提示が求められるため、政府が国民の移動を監視していることは変わらない。全体主義国家では、人々の移動の自由を制約することが、国民管理上不可欠とされているのである。新型コロナ・ウイルス流行を口実に、移動の自由を奪おうとするのは、世界を全体主義体制に導こうとする意図があまりにも明白である。

 私は、帰省したい人はすれば良いし、旅行したい人は好きな所に行けば良いと思う。手洗いやうがいなど基本的な感染予防策の励行は、自分の身を守るためにも必要だが、ウイルスを過剰に警戒するあまり、大切な家族や友人と過ごす時間を失ってはならないと思う。もし私たちが、移動の自由の制約という理不尽を甘受するのであれば、次は言論や表現、やがては信教や思想など内面の自由も侵害されるようになるだろう。帰省や旅行の自粛は、それを唱えている人たちだけで努めてもらえば良いと思う。

「それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった」(使徒言行録 9:28 新共同訳)
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さらに緊張高まるウクライナ情勢(記事No.76)

 毎日新聞の2021年12月22日付電子版が報じたところでは、ロシアのプーチン大統領は、12月21日、同国国防省の会議で、「西側諸国が攻撃的路線を続けるなら、軍事技術的な対抗措置を取る」と警告した。12月17日に公表した、米露2国間の条約案や北大西洋条約機構(NATO)との協定案について、西側諸国が受け入れるよう、重ねて圧力をかけたと見られる。ウクライナとの国境地帯には、既に17万人から最大26万人規模と言われるロシア軍地上部隊が集結し、戦闘準備がほぼ完了していると見られる。

 さらに、12月23日、プーチン大統領は年末恒例の記者会見において、ロシア周辺に外国軍基地が増えていることに危機感を示し、NATOの東方不拡大を直ちに確約するよう米欧に要求すると共に、来年1月上旬にアメリカとの協議が始まるとの見通しを明らかにした。硬軟両睨みながら、交渉が決裂した場合には、直ちに軍事侵攻する態勢を整えているということだ。ウクライナは現在NATO加盟国ではなく、アメリカと2国間安全保障条約を締結している訳ではないので、もしロシアがウクライナに侵攻したとしても、米欧側には防衛義務は無い。となると、米欧の対抗手段は、経済制裁や人的交流の制限などが中心となると思われるが、同時に、ロシアに対して軍事的圧力をかける動きにも出るだろう。

 これまでのウクライナ情勢を見る限り、同国をめぐり緊張を高めているのは、ロシアよりも米欧の方だと見做せるだろう。かつての冷戦の場合は、大国同士の背後にいた勢力による壮大なゲームであったと捉えることが出来る。その勢力とは、本ブログでも繰り返し説明して来たように、一般にイルミナティと呼ばれる集団である。その中核を構成するのは、偽ユダヤ人の悪魔崇拝者らであり、ヨハネの黙示録が語っている通りである。さらに言えば、その偽ユダヤ人らは、ロシアとは歴史的因縁がある。現下のウクライナ危機が、なぜ起こされたのかを知る上でも、このことは知っておいた方が良いと思う。

 話は、およそ1200年前に遡る。現在、ウクライナとカザフスタンとなっている地帯には、ハザールという王国があった。800年頃のこと、ハザール王国は、王をはじめ国を挙げてユダヤ教に改宗した。これは、キリスト教とイスラム教をそれぞれ奉じる周囲の国々から圧迫を受け、第三の宗教としてのユダヤ教を受け入れることで、国の存続を図ろうとしたためとの説が有力である。当時は、ロシア人とハザール人は、しばしば戦火を交えており、ハザール人は捕虜としたロシア人を奴隷として売買していたと言う。965年にハザール王国は、ついにロシア人の国、ルーシに敗北し事実上滅亡した。その後、13世紀には、モンゴルがハザールに侵入し、多数のハザール人がロシアに逃れたと言われる。ユダヤ教に改宗したハザール人は、本来のユダヤ人がセム系であるのに対してヤペテ系であり、アシュケナジーと称される東欧系ユダヤ人の祖先と言われている。

「ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。ゴメルの子孫はアシケナズ、リパテ、トガルマ」(創世記 10:2−3 口語訳)


 ハザール人ユダヤ教徒が民族的にセム系で無いことは、その子孫の現在アシュケナジーと称される人々が、イコール偽ユダヤ人という意味では無い。民族的にセム系で無くとも、ユダヤ教を信仰しているのであれば、少なくとも、人々の目からはユダヤ人と見做されるであろう。問題は、ハザール人が受け入れたユダヤ教が、(旧約)聖書を信奉する純然たるユダヤ教であったのかである。その当時、既にユダヤ人は、聖書以外に、タルムードと呼ばれる教学書を持っていた。これは、新約聖書でラビや律法学者として記録されている、宗教教師や賢者らの教えを編集したものである。ユダヤ教の主流派は、このタルムードを聖書と同等かそれ以上に重んじている。また、新バビロニアによってユダ王国が征服された結果、紀元前597年から同538年の間にユダヤ人たちが集団で捕囚となった、バビロン捕囚が起こったが、その時代に、バビロンの悪魔崇拝の思想を取り込んだともされる。それは、カバラと称される秘儀となって、伏流水のように一部ユダヤ人に受け継がれて来たと言われている。ハザール人の中にも、ユダヤ教に改宗した際に、カバラの教えを受けた者たちがおり、彼らは今日カバールとして知られている。

 ロシアの歴史は、かつてのハザール人である、改宗ユダヤ人の中の悪魔崇拝者と、正教を信奉する生粋のロシア人との戦いの繰り返しであった。ロシア革命とはユダヤ革命であったとも言われるが、正確には、偽ユダヤ人革命であったと言えよう。その文脈で歴史を見るならば、ソ連崩壊後の混乱から立ち直った後のロシアは、ようやく自分達の国を取り戻したと見ることが出来るだろう。当然、プーチン大統領は、ハザール王国との確執以来のロシアの歴史から十分に学んでおり、それゆえ、「我々にとって世界革命は必要無かった。」と語ってもいる。地政学において、ロシアはハートランドと見做されている。ロシアを制する者がユーラシア大陸を制するのであり、世界を制するには、ユーラシア大陸を制することが不可欠であるからである。すなわち、世界統一国家を樹立するためには、何としても、ロシアをコントロール下に置かなければならない。ロシアがイルミナティのターゲットとされているのは、前述のような、ハザール王国滅亡の怨念を晴らすためと、世界制覇の実現という目的がある。聖書の預言によれば、いずれロシアは、自ら望まなくとも、戦争へと駆り立てられる。

「人の子よ、メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグに、あなたの顔を向け、これに対して預言して、言え。主なる神はこう言われる、メセクとトバルの大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。わたしはあなたを引きもどし、あなたのあごにかぎをかけて、あなたと、あなたのすべての軍勢と、馬と、騎兵とを引き出す。彼らはみな武具をつけ、大盾、小盾を持ち、すべてつるぎをとる者で大軍である」(エゼキエル書 38:2−4 口語訳)


 現在進行中のウクライナ危機が、ストレートに米露の直接軍事衝突になるかは、まだ分からない。私は、そこまで一気に事態が進むのではなく、ロシアがウクライナに侵攻し、一旦その状況で米露の睨み合いになる可能性が高いと推測する。しかし、そのまま膠着状態が長く続くとも思えない。遅かれ早かれ、米露は戦争へと突入するだろう。恐らくそれは、これまでに預言されているように、ロシアによる奇襲核攻撃で火蓋が切られるのではないだろうか。開戦前に、ロシア政府内部に巣食う内通者により、米欧のイルミナティ構成員には警報が発せられ、彼らは堅固な地下バンカーに避難する計画であろう。この米露戦争が勃発すれば、世界は7年間の患難時代に入っていることになる。患難時代の起点がいつなのかは現時点では分からないが、米露核戦争とは第3次世界大戦そのものであり、エゼキエル書などに記されている聖書預言の成就である。

 昨年の今頃の時点では、ここまで世界が一気に終末に向けて大きく動くとは、まだ考えられなかった。しかし、ついに患難時代の到来が目前となってしまった。神が恵みの時を暫し延ばしてくださらなければ、私たちの生きている今この時代が終わりの時代となる。ロシア正教のクリスマスは、2022年1月7日である。来年1月上旬の米露の交渉が決裂すれば、クリスマス明けからそう日を置かず、ロシア軍のウクライナ侵攻が実行に移されるだろう。その時、核戦争が近づいていることを、世界の多くの人々は悟るだろう。だが、日本ではどうだろうか?もし、私たちが神を信じているのであれば、恐怖に囚われることは無い。神の特別な恵みを信じて祈り求めるなら、超自然的な方法で私たちの安全は守られる。昔も今も後も生きておられる、全能の神が私たちの主なる神である。

「われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです」(ヨシュア記 24:17 口語訳)
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米露戦争勃発の危機(記事No.75)

 アメリカとロシアの関係であるが、ウクライナを巡り緊張が高まっている。ロシア政府は2021年12月17日、緊迫するウクライナ情勢を緩和させるための条件として、北大西洋条約機構(NATO)の東ヨーロッパでの活動を大幅に縮小するよう求める、米露2国間条約案を示した。ウクライナとの国境地帯に、17万人とも見られる地上部隊を集結させているロシアが、来年1月にもウクライナに侵攻するのではないかと懸念されている。しかしながら、NATOがロシアの要求に応じる可能性はほとんど無いと見られている。アメリカなどNATO側も、ウクライナに武器を供与していると言われており、ロシアとしても強硬姿勢を崩せない状況である。ウクライナは旧ソビエト連邦の一部であり、ロシアとは歴史的、文化的、宗教的にも緊密な関係があった。

 ウクライナは、1991年にソ連邦から独立したが、その後は、次第にロシアよりも西側諸国との関係を深めて来た。2014年のロシアによるクリミアの併合は、ウクライナは当然認めておらず、日本を含む西側諸国も同様である。宗教面でも、多くのウクライナ国民が信仰しているとされる、ウクライナ正教は、2018年10月にコンスタンティノープル総主教庁の承認を得てロシア正教会から独立、これを受けてロシア正教会は、世界の正教会の筆頭格である、コンスタンティノープル総主教庁と断交した。ちなみに、日本ハリストス正教会もロシア正教会側に立ち、同総主教庁と断交している。ロシアとウクライナとの対立が、政治的な領域に止まらず、宗教的な関係にも及んでいることは、両国の対立を深化させ、戦争へと導こうとする者たちの策略であろう。

 私たち日本人は、日本が四方を海に囲まれており、イメージし難いが、仮にウクライナがNATOに加盟し、アメリカ軍など西側軍隊が同国に駐留する、あるいは同国の基地を自由に使用できるとなると、ロシアにとっては、安全保障上極めて重大な事態となる。例えるなら、カナダかメキシコがロシアと軍事同盟を結び、国内にロシア軍が駐留することになったらどうであろうか?アメリカは、そうなることを口先の抗議だけで見過ごすだろうか?1962年11月のキューバ危機に際しては、当時のアメリカ・ケネディ政権は、最悪の場合核戦争に突入するリスクを承知で、カリブ海において海上封鎖を行い、ソ連がキューバに配備した核ミサイルを撤去させた。ロシアが、ウクライナのNATO加盟を戦争覚悟で阻止しようとしていることは、彼らの側からすれば当然であろう。

 最近、インターネットで視聴した、スペイン人の歴史学者であり神学者である、ダミアン・ガレロン氏の警告メッセージを動画に編集したとされるビデオがある。「2021年から2022年にかけて起こること(Events to come for 2021/2022)」と題され、英語の翻訳ナレーションが付いたその動画は、映画のシーンをつなげたり、CG映像などを多用した手の込んだものである。世界統一政府樹立を企む、イルミナティ側の偽情報という可能性もあるので、吟味しながら数回視聴した。結論としては、内容の全てを鵜呑みにすることは出来ないものの、近い将来起こり得ることに着目させる、視聴者に対するアラートの効果はあると判断した。ガレロン氏は、ロシアとアメリカの情報機関の、それぞれ最高幹部クラスから情報を得たと言う。その通りだとすれば、情報源の意図は、イルミナティの陰謀を暴露して人々に警鐘を鳴らそうとしているのか、それとも、逆に人々に恐怖を植え付け、抵抗を諦めさせようとしているのか、いずれかであろう。

 そのビデオ・メッセージによると、今後連続した3段階で世界に大きな出来事が起こると言う。まず、各国に大停電が起こされる。それは、ヨーロッパで広範囲に雪が降る1月か2月に起こされると言う。1ヶ月に及ぶこの大停電により、電気だけでなく、インターネットを含む全ての通信が遮断され、食料の供給は途絶する。国際航空便は、全面的に運航を停止し、陸上交通も麻痺する。大停電の間、各国では戒厳令が敷かれ、人々は自宅に留まるよう命じられると言う。ビデオの中で、グローバル・エリートとして語られる彼らの目的は、世界の人口の削減であり、3年間のうちに50億人を削減することが目標だと言う。今年10月に全世界的に一時的な通信障害が発生したのは、彼らの予行演習とされる。ガレロン氏は、最低限5ヶ月分の食料を備蓄するよう勧めている。

 大停電が終わる時、今後は第3次世界大戦が起こされる。主要な戦場はヨーロッパであり、ロシアと中国の連合軍が侵攻する。そして、アメリカも攻撃を受ける。攻撃には大陸間弾道弾などの核兵器も使用され、3週間の内に22億人を殺害する計画とのことである。この戦争により、ヨーロッパの50パーセントは壊滅する。アメリカは、戦争開始から2年以内に、1億8,000万人が犠牲になると言う。その後、3番目の段階へと進むが、直径7キロメートルもある巨大な隕石が地球に落下する。隕石はその際2つに分裂し、大きい方は太平洋に、小さい方は大西洋に落下する。それは、2023年か2024年の5月に起きるそうだ。計算では、隕石落下により生じた、高さ500〜600メートルの巨大な津波により、大西洋のすべての島々は消滅し、ニューヨークなど各国の沿岸部にある都市もことごとく消滅する。これらのことは、5月に月が赤く変わる時に起こると言う。なお、核戦争や隕石による巨大災害が起こっている間、それを待ち望んだ者たちは、地下都市そのものである巨大シェルターで、快適な避難生活を送る計画らしい。

 23分少々にまとめられたこのビデオの中では、カトリック教会のミサから聖体(カトリックの聖餐式である聖体拝領に用いられるパン、キリストの体がパンに現存するとされる。)が取り除かれる時が来ると言う。それ以降のミサは、全て悪魔的な儀式へと変わるそうである。ガレロン氏は、推察するに、スペインのカトリック系大学の教授であろうが、終末論を長年研究して来たように思われる。また、カトリックの預言者(幻視者とも言われるようであるが。)が語ったという預言も引用していることから、聖霊の賜物についても受け入れているようである。ビデオ・メッセージでは、現在のローマ教皇は悪魔崇拝側から送り込まれた人物であることも明らかにしており、カトリック教会の悪魔化を憂慮していることが伝わる。ビデオは最後に、人々に神の前に悔い改めて祈ることを呼びかけ、主の祈りで終わる。前述のように、情報源による情報提供の意図が、正邪どちらとも受け取れるのだが、少なくとも、イルミナティの計画を暴露していることは間違い無いと思われる。全てを鵜呑みにすることは危険であるが、今後の世界の動きとも照らし合わせながら、彼らの策略を見抜くための参考にはなるかも知れないと思い、あえて概略を紹介した。

 
「あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マタイによる福音書 24:33b 新共同訳)


 もう1つ、アメリカとロシアの戦争に関する預言を紹介したい。こちらの方は、預言した人物は間違いなく神の人であると断言できる。私も1度だけお会いする機会があり、その際に祈ってもいただいたが、謙遜で柔和な聖霊に満たされた器である。その神の人、ヘンリー・グルーバー師は、祈りの歩行(Prayer Walking)の実践者として知られている。同師は何度も来日し、日本ために各地で祈りとメッセージの奉仕をされた。2019年10月に召天されたが、同師を通して語られた神のメッセージは、今なお多くの人々に励ましと慰めを与えている。グルーバー師は1986年に、祈りの歩行の最中、神からある幻を見せられた。それは、ロシアの指導者が、アメリカに対して激しく怒っているシーンから始まる。次に、ロシアの軍港から多くの潜水艦が出港し、密かにアメリカ大陸沖に展開する。グルーバー師は、すぐに警戒警報が発令されるものと思ったが、アメリカでは誰もロシア潜水艦の接近に気が付かない。驚いて見ていると、海中の潜水艦から一斉に核ミサイルが発射される。ミサイルは、アメリカの主要都市に着弾し、核爆発でそれらの都市は破壊される。幻があまりにもリアルだったため、その幻が終わった後、今にも警報が出されると思ったほどだったと言う。

 現在進行中のウクライナを巡るアメリカとロシアの対立が、果たして戦争にまで突き進むのかは、現時点では確定的なことは言えない。しかし、これはイルミナティにとってはゲームかも知れないが、世界の人々にとっては、真剣に憂慮すべき現実である。旧約聖書のエゼキエル書には、ロシアがイスラエルに攻め込むと解釈される預言がある。その預言には、時を同じくして、別の国も侵略するとも解釈可能な記述がある。その別の国とは、アメリカを指しているようにも捉えることが出来る。もしアメリカとロシアが戦争に至るならば、それは世界が世の終わりに入ったことを意味する。世界は今、かつてのキューバー危機と同様、核戦争の脅威が現実的になりつつある状況である。私自身は、アメリカとロシアの軍事的衝突は、ひとまず回避される可能性が高いと考えている。希望的観測であるかも知れないが、もうしばらくの間、神は人類に再生の機会を与えてくださるのではないだろうか。私たちは、世界平和のためにも、祈り続けることが重要である。
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日本だけが貧しくなるのは何故か(記事No.74)

 東京新聞の2021年12月15日朝刊1面トップに、「借家追われる危機急増』と言う見出しで、自治体が生活困窮者に対して家賃を補助する、「住宅確保給付金」の支給件数が、昨年比で約34倍に激増したとの記事が掲載されていた。コロナ禍対策で、休業などによる減収の場合にも適用出来るようにした、利用条件緩和の影響もあるとのことだが、経済的に追い詰められている人々が増加していることは確かであろう。

 昨今の新自由主義的な考え方の蔓延で、勘違いしている人々も多いのかも知れないが、そもそも住居の確保は国民の権利である。具体的には、日本国憲法第25条に、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」との明文規定がある。すなわち、政府は、最も基本的な性能を有する公営住宅を、国民のために十分に供給する責任を有している。現在の公営住宅の多くが、低所得者層向けと言う、言外にいささかの侮蔑の意味を含んだカテゴリーとして整備されていることは、憲法の精神からも問題があり、これまでの住宅政策の誤りを現しているようにも思える。このように、住宅政策に関わる現況にも、日本が単に精神的にだけでなく、実際的にも貧しいことが現れている。

 最近は、この現実を認識している人が増えたが、先進国と言われている諸国の中で、何故か日本だけが貧しくなって来ている現実がある。過去30年間の経済成長率は、日本は先進国で最低レベルである。1990年から2020年までの30年間で、国内総生産(GDP)の変化は、アメリカが3.5倍、ドイツが2.3倍に対して、日本は1.5倍である。平均賃金の伸び率も最低レベルであり、30年間で日本は4.4パーセントの増加であるのに対して、アメリカは47.7パーセント、ドイツは33.7パーセントの増加率である。俗に、失われた30年と言われる所以である。日本経済新聞2021年12月16日付記事によれば、このままでは、日本の1人あたりGDPは、2027年には韓国に、2028年には台湾を下回る見込みとの予測である。

 こうなった原因は、様々な説があるが、故意であれ過誤であれ、政策の失敗が最大の要因であろう。国家指導者らが愚かだったと言うことである。もちろん政治家たちだけでなく、中央省庁の官僚たちにも大きな責任がある。政治家の陰に隠れて、国民にとって不利益をもたらす政策を進めて来たのが彼らである。財務省がしれっと発表した統計によれば、2021年の国民所得に対する税金と社会保険料の負担割合を示す国民負担率は、何と44.3パーセントに達するとの見通しである。彼らが言う将来の負担とされる、財政赤字を加えた潜在的国民負担率は56.5パーセントとなるそうである。既に五公五民並の負担率であるから、封建時代に等しい搾取である。百姓は生かさず殺さずの思想は、現代の政治家や官僚に、しっかりと受け継がれていると言えよう。

「指導者に英知が欠けると搾取が増す。奪うことを憎む人は長寿を得る」(箴言 28:16 新共同訳)


 私が思うに、日本人は、政府からだけでなく、各種業界の利権構造からも、長年搾取され続けている。中所得者層(先進諸国の国際的感覚では、年収4,000〜5,000万円程度以下の層か)までの人々、すなわち、私たち、俗に言う99パーセントの人々は、住宅、教育、医療・介護の3大出費要因により、経済的余裕の乏しい生活を強いられている。これらの各分野における公費の投入を増やし、同時に過剰な出費を強いるような仕組みを改める必要がある。住宅分野では、先ほど公営住宅の供給において質・量共に問題があることを指摘した通りである。教育分野においては、公立小中学校の教育レベルが低いことと、生徒に異常な負担を強いる受験システムのため、塾に通う必要があったり、私立学校に行けば高額な授業料を払うことになるなど、とりわけ子供が複数いれば教育費負担が重くのしかかる。医療分野では、医学が進歩すれば病人が減って医療費も減るのが正しいはずであるが、実際は逆で、病人は減らず、医療費は膨張を続け、介護費用と併せて国民生活を圧迫している。以上の全ては、政官財などの利権構造を徹底的に改めることによって、大きく国民負担を減らすことが可能であり、出来ないのではなく、やらないだけである。

 解決策としては、本ブログでもこれまで書いて来たが、国家指導者が神を畏れ、民を愛する者となる必要がある。そのような人は、国民から搾取するような政策は拒否し、国民を豊かにするような政策を進めるだろう。以前、政治の表舞台に、「悪夢の民主党政権」とよく口にする人がいたが、失われた30年間の中で、民主党政権が国政を担っていたのは3年余りに過ぎない。彼らにも責任があるのは確かであるが、より大きな責任を負っているのは誰であるか、一目瞭然である。多くの日本人が苦しい生活から脱却し、この国がもっと暮らしやすい国となるためには、責任を負っている者たちが心を入れ替えるか、さもなくば、表舞台から(裏舞台からも)退場するかが必要であろう。正しい心を持つリーダーたちが、この国の各分野に起こされることを祈りたい。
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魂に響く音楽(記事No.73)

 今日12月15日の午後、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールで開催された、フジコ・ヘミング氏のコンサートを、妻と次男と一緒に鑑賞して来た。フジコ氏は、本ブログ記事No.43「ある老ピアニストのこと」で書いた、今月で89歳となったピアニストである。スウェーデン人建築家の父と日本人ピアニストの母を両親として、ドイツ・ベルリンに生まれた彼女は、母の指導で幼少の頃よりピアノを習い始めた。10歳の時、ロシア生まれのユダヤ系ドイツ人ピアニストである、レオニード・クロイツアー氏に師事し、彼をして、将来世界中の人を魅了するピアニストになると予言させた。その後の彼女の軌跡は、先の記事でも書いたとおり、波乱万丈の人生であった。

 「昼下がりのコンチェルト」と題された今回のコンサートは、関西フィルハーモニー管弦楽団との共演であり、指揮者はスロバキア国立放送交響楽団の音楽監督を長年務めた、マリオ・コシック氏という豪華な布陣であった。最初の曲、ショパンのピアノ協奏曲第1番第2楽章の演奏が始まると、その次の瞬間、会場の空気が一変した。何と、優しく、美しい調べであることか。目を少し閉じて聴くと、奏でられる旋律に心が洗われるようである。続いて、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番、ショパンのエチュード・エオリアンハープが演奏され、締めは、フジコ氏の十八番である、リストのラ・カンパネラである。これまでフジコ氏の演奏会には行ったことがなく、Netflixでドキュメンタリーを観たり、Youtubeで演奏を観ただけであったが、今回生演奏を聴くことが出来て感激した。

 聞くところによると、これまで、何人かの日本人有名ピアニストや音楽評論家からは、フジコ氏の演奏は酷評されて来たそうである。その主な理由は、技術的なレベルやレパートリーの少なさとのことらしい。はっきり言って、何を勘違いしている人たちであろうか。音楽専門家らが、彼らの指標で、フジコ氏の演奏をどう評価しようが勝手ではある。しかし、演奏家は、一体何のために演奏するのであろうか?自分の演奏を極めるためか、あるいはコンクールなどで高い評価を受けるためか。また、一体誰に向けて演奏するのであろうか?自分と同じ演奏家たちにか、あるいはコンクールの審査員に向けてか。そうではなく、聴衆のために、多くは音楽の素人かアマチュアである彼らに向けて演奏するのが、本来の演奏家ではないだろうか。

 フジコ氏は、誰が名付けたか、「魂のピアニスト」と呼ばれている。彼女は、絵の才能も並はずれているが、全て芸術とは魂にあるものを、形にする作業であると言える。表現者その人の、内側にあるものが音楽や絵画や演劇などとして現されるのが芸術であろう。人の魂は、知性・感情・意思の3つの部分から成っているが、それらを結ぶことが出来るのが愛である。愛はまた、人と人とを結ぶ帯でもある。フジコ氏の演奏が人々の心を打つのは、彼女の魂に愛が豊かに宿っており、演奏を通して、それが溢れ出るからであろう。目に見えない愛が、彼女が演奏する時、鍵盤を弾く手に宿り、それがピアノによって音色となって、人々の耳に入り、心(魂)にまで伝わるのである。だから、技術や曲のレパートリーの面においては、フジコ氏を上回る演奏家が少なくないにも関わらず、彼らよりも、多くの聴衆をより感動させることが出来るのだろう。

 
「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ人への手紙 3:14 口語訳)


 音楽の起源は、創造主である神を讃えるために創造されたものである。そこには、神による愛、神に対する愛があった。歴史における音楽の拡がりの中では、愛だけでなく、様々な影響を受けて多様な音楽が作られてきた。人を感動させるものだけでなく、陶酔させたり、催眠効果を与えるものなど、音楽が人々に与える影響は様々である。しかし、フジコ氏の音楽には、その根底に愛がある。今日は、その愛を感じ取ることが出来た、素晴らしい演奏会であった。帰宅してから、家庭の祈りの時間で、フジコ氏の健康と益々の活躍のため祈ったことは言うまでもない。
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国際的医療犯罪者たち(記事No.72)

 オーストリア政府はヨーロッパで初めて、2022年2月より、12歳以上の全住民を対象とした新型コロナ・ワクチン接種の義務化に踏み切る方針とのことである。同国は、11月20日より20日間の都市封鎖(ロックダウン)を再び実施している。ロックダウン解除後も、ワクチン未接種者に対する外出制限は継続されると言う。オーストリアも、記事No.70「風前の灯となったオーストラリア」で書いた、オーストラリアと似たような状況のようである。また、ドイツでも、同様の政策が導入されようとしている。まるで、ナチスの亡霊が甦ったかのようではないか。

 そのような状況がある中、気になるニュースがある。EU委員会委員長のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏が、ニュルンベルク綱領(Nuremberg Code)の廃止を唱えたと言う。ドイツ人である彼女は、2005年に第1次メルメル内閣で家族・高齢者・婦人・青少年担当相に就任以来、労働・社会相、国防相を歴任し、2019年12月より第13代EU委員会委員長に在任している。政治家になる前は、医師としてのキャリアを歩んで来た。メルケル前ドイツ首相と同じ、キリスト教民主同盟(CDU)に所属している。ちなみに、CDUは、キリスト教の理念を基本綱領の中核に置いているが、キリスト教徒のみで構成される政党ではなく、日本における創価学会と公明党の関係などとはイメージが大きく異なる。

 ところが、AP通信(AP News)の2021年12月7日付オンライン記事によれば、ライアン氏がニュルンベルク綱領の廃止に言及したのは、彼女の発言を曲解した人々が流した誤報だと言う。実際の彼女の発言を調べてみたところ、BBCオンライン版2021年12月1日付記事に、次のように伝えられていた。ライアン氏は、新型コロナ・ウイルスとそのオミクロン株の流行に立ち向かうために、EU諸国は、ワクチン接種義務化を検討すべきであると述べた。BBCが報道した発言のみであれば、ニュルンベルク綱領の廃止を直接的には言及してはいない。しかしながら、新型コロナ・ワクチンは治験中のワクチンであり、各国政府が緊急的に使用を許可する形式で、接種が進められているものである。

 そもそもニュルンベルク綱領とは、何であろうか。これは、第2次世界大戦でドイツが降伏した後、連合国によって、ドイツ側戦争犯罪者を裁くために開設された、国際軍事裁判、いわゆるニュルンベルク国際軍事裁判において、戦時下のナチスによる人体実験などの医療犯罪を裁いた結果、制定された倫理原則である。ニュルンベルク国際軍事裁判では、医療犯罪は第1法廷第1事件として審理され、被告人は23名、うち20名が医師であった。1947年8月20日に判決が言い渡され、死刑7名(うち医師4名)、終身刑5名などの厳しい判決が下された。この裁判後に制定されたのがニュルンベルク綱領であり、10項目から成っている規定である。その第1番目は、「被験者の自発的同意は絶対に不可欠である。」という規定である。なお、この綱領に違反した場合には、「人道に対する罪」などと同じ、戦争犯罪に問われることになり、最高刑は死刑となる。

 AP通信は、新型コロナ・ワクチンの接種義務化は、人体実験とはカテゴリーが異なるとして、ニュルンベルク綱領廃止はフェイク・ニュースだと言う。各国政府が、新型コロナ・ワクチンを正式承認すれば治験期間は終了となるが、そうなれば義務化=強制接種しても許されると言う考え方はおかしいと思う。いや、異常と言っても過言では無いだろう。政府であれ、医師であれ、人が明確に拒否しているのであれば、いかなる薬物を投与することも許されないと思う。これは、例えば精神医療などの分野でも同様である。新型コロナ・ワクチンの場合、安全性や有効性が十分に検証されているとは言えず、製造しているファイザーなどの製薬会社は、成分さえも全てはオープンにしていない。このようなワクチンを接種義務化すれば、言い方は何であれ、ニュルンベルク綱領違反であり、それを有名無実化=実質的廃止するのに等しいと思う。ファイザーCEO アルバート・ボーラ氏とも親しいとされるライエン氏が、ワクチン接種義務化を望んでいることを公言したことは、彼女の思考の根底には、ナチスと同様の発想があることを認めたに等しい。

 アメリカでは、連邦政府による民間企業従業員に対する接種義務化について、一部の連邦巡回裁判所(高裁)で違憲判決が出されるなど、全国的な接種強制の試みは根強い抵抗で進んでいない。連邦議会では、ワクチン導入の政府側の司令塔であるファウチ博士を糾弾する動きも出ている。ファウチ氏がそうであるように、どこの国の誰であっても、新型コロナ・ワクチン接種を推進している者たちは、いずれ、ニュルンベルク綱領違反の犯罪者として、人道に対する罪等で裁かれる可能性が高い。もし、そうはならず、逆に、アメリカを含めた多くの国々で、全住民に対するワクチン接種強制に至るならば、いよいよ世の終わりの時が来たと判断すべきかも知れない。ヨハネの黙示録に預言されている、7年間の患難時代に突入すると言うことである。目を覚ましていなければ、気がついたら患難時代に入っていたと言うこともあり得る。世界は今、大きな分岐点にある。私たちは、それぞれが持つ信仰や自由を堅く守らなければならない。

「ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい」(ヨハネの黙示録 2:25 口語訳)
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真珠湾を巡る奇蹟の物語(記事No.71)

 今年12月8日は、日本海軍による真珠湾攻撃から80年が経つ日である。それは、日米開戦の日でもあった訳だが、武力衝突が始まる少なくとも20年以上前から、両国は戦争へ向けて突き進んでいた。戦争準備という点では、アメリカの方が先を進んでおり、既に1920年代には、対日戦争を想定した、オレンジ計画と呼ばれる作戦計画が立案されていた。国としての歴史がより古い日本よりも、はるかに歴史の浅いアメリカの方が、長期的な視野に立って国家戦略を策定していたのである。当時も今も、その違いは変わっていない。

 私が小学生だった1970年代には、従軍経験のある大人が現役世代にも多くいて、戦争体験者からの話を直接聞くことも普通であった。子供向けの本でも、戦争や兵器をテーマにしたものが多く出版されていたし、テレビドラマやアニメも同様に多くあった。戦争アニメ「決断」などは、子供ながら毎回観ていたし、映画でも「トラトラトラ」など真珠湾攻撃をテーマにしたアメリカ映画や、「沖縄決戦」などの日本映画を、テレビ放送で観たことを覚えている。戦争の実態は悲惨であり、一握りの権力者や資本家などを除き、誰も得することは無い。戦争によって利益を受ける者たちは、総じて卑怯者であり、自分達は安全な場所にいる。これに対して、戦争によって損失を受ける者たちの中には、勇敢で愛国心と使命感に富んだ者たちも多くいる。真珠湾攻撃における第1次攻撃隊総指揮官として戦爆連合部隊を率いて突入した、淵田美津雄元海軍大佐(1941年12月当時は少佐)も、そのような勇敢な人々の1人であった。

 奈良県出身で、海軍兵学校を出た生粋の職業軍人の淵田元大佐であるが、例のごとく、実は、私もこの人と細い糸で繋がっている。話は、敗戦後の日本に遡る。それまでの幾多の軍功を挙げた英雄的な軍人から、一転して日本を破滅に陥れた戦犯のように白眼視されるようになった淵田氏は、戦犯裁判を進める米国など連合国に対して、激しい復讐心と憎悪の念を抱いていた。その頃、アメリカの捕虜収容所から送還されて来た元捕虜の一群から、彼は驚くべき話を聞く。マーガレットという若いアメリカ人女性が、日本人捕虜に対して親切に看護をしてくれていた。敵国兵士に対して、心を込めて世話をしてくれるその姿に、捕虜たちは心を打たれ、ある日その理由を聞いてみた。当初は返事をためらっていた彼女に、皆がなおも聞きただすと、重い口を開いた彼女の答えは、「私の両親が日本軍に殺されたからです。」というものであった。なぜ、普通なら殺したいのが当然であるはずの、両親の仇に対して、逆に親切に出来るのか。捕虜たちが聞いた、彼女の両親の最期は次のようなものであった。

 彼女の両親、ジェームズ&シャーマ・コベル夫妻は、日米戦争が始まった時、フィリピンのパナイ島イロイロにある大学で教育宣教師として働いていた。日本軍がパナイ島にも上陸し、彼らは他のアメリカ人宣教師らと共に山奥に避難した。ところが、ゲリラ掃討の日本軍部隊に発見され、捕らえられてしまう。敵国人としてスパイの容疑をかけられた彼らは、本来は後送されて軍法会議にかけられるべきところ、部隊指揮官の判断で即刻処刑されることになった。コベル夫妻は、日米関係が険悪化する前、日本で宣教師として働いていたため日本語が堪能であり、自分達が戦火を逃れて避難した宣教師であると説明したが聞き入れられなかったと言う。1943(昭和18)年12月20日、コベル夫妻ら11名の宣教師と彼らの子供3名は、パナイ島山中で斬首された。後に、「希望の谷の殉教」として知られる出来事であった。処刑の直前、コベル夫妻らは日本軍指揮官に30分の祈りの時間を求めて許され、自分達を処刑する日本軍兵士らのために、また日本のために祈ったと言う。推察するに、彼らの最期を目撃した現地住民の証言を、フィリピンを奪還した米軍が聴き取って遺族に伝えたものと思われる。マーガレット氏は、両親が最期の時に敵を赦したことを知り、日本人への憎しみを捨て、自分も同じように敵を赦す者になったのだ。

 ジェームズ・ハワード・コベル氏は、1896に生まれ、長じてアメリカン・バプテスト宣教団(北部バプテスト派)の派遣宣教師として1920年に来日、以後約18年間、横浜にある関東学院に奉職し、中学及び高等部で英語と宗教教育を担当する。教会では、日曜学校の校長も務めていた。ところが、日米関係が悪化する中、平和主義を唱えていたコベル氏は、警察からの度重なる圧力により関東学院を辞職せざるを得なくなる。コベル氏は、捜真女学院で同じく教育宣教師として働いていたシャーマ夫人と共に、1939(昭和14)年6月に日本を離れ、フィリピンに活動の拠点を移す。バナイ島イロイロの大学で教鞭を執りながら、キリスト教伝道に従事した彼らは、日米戦争勃発により、遂に前述のような最期を遂げたのである。

 元捕虜らから衝撃的な話を聞いてからしばらくの後、淵田氏は渋谷駅前で1人のアメリカ人から1枚のパンフレットを受け取る。そこには、ドーリットル東京空襲で爆撃機の搭乗員として出撃、乗機が中国大陸の日本軍占領地に不時着し捕虜となった、ジェイコブ・デシェーザー氏の体験談が書かれていた。デシェーザー氏は、中国・南京の日本軍収容所で戦争犯罪人として獄中生活を送っていたが、ある時仲間が病死、その葬儀に使うために日本人看守が差し入れた聖書を読み、キリストを受け入れる。日本敗戦により解放された同氏は、アメリカに戻った後神学校に入り、1948年に宣教師として妻のフローレンス氏と共に来日する。淵田氏が手に取ったのは、彼の「私は日本の捕虜であった」というパンフレットであった。パンフレットに書かれた体験談に心打たれた淵田氏は、聖書を読むようになり、ある聖句に捉えられた。コベル宣教師夫妻が、最期の時に神に捧げたであろう祈りと同じ、十字架上のキリストの祈りである。

「かくてイエス言ひたまふ『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』」(ルカ伝福音書 23:34a. 文語訳)


 キリストの言葉は淵田氏の心に激しく迫り、1951年についに彼は、イエス・キリストを信じる者となり洗礼を受ける。クリスチャンとなった淵田氏は、デシェーザー宣教師と協力し、日本各地のみならず、かつての敵国であるアメリカにも渡り、キリストの福音を伝える伝道者として残りの生涯を捧げた。伝道者としての淵田氏は、日米両国で多くの人々に自分の体験談を通して福音を語った。日本では、敵国の宗教を伝えるのは許せないという一部の元海軍軍人らからの批判も受け、アメリカでは、「リメンバー・パールハーバー」の憎悪の声を浴びせられることもあった。しかし、彼は終始、憎しみの連鎖を断つことを訴え続け、互いに赦し合うことが必要であると聖書の教えを説いた。1976(昭和51)年5月30日、かつて真珠湾攻撃の英雄であり、その後、キリストの伝道者として新たな人生を歩んだ淵田氏は天の故郷に帰った。今では、先に天に召されたコベル夫妻や、後に天に帰ったデシェーザー氏らと共に、神の元で安らいでいる。

 さて、私が中学・高校に在学していた時、学校の礼拝メッセージの中で、コベル氏のことを聞いたことがある。メッセージを語った教師は、真剣な眼差しで私たち生徒に、「本学院の礎は、彼らのような宣教師の犠牲の上に据えられた」と教えた。私が、高校在学中にキリストを信じることが出来たのは、彼らがその生涯を捧げ、命を捧げて神に仕えた、その献身と労苦と犠牲の賜物である。そして、このキリストを通して私は、コベル氏とも、淵田氏とも細い糸で繋がっている。神に栄光があるように!
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風前の灯となったオーストラリア(記事No.70)

 2021年12月4日(土)午後、世界各地でオーストラリアにおける国家的人権侵害に対する抗議デモが開催された。日本でも、東京都港区三田のオーストラリア大使館前に、動員ではなく自発的な参加者である200人以上の人々が集結し、同国の強権的な国民統制に対して抗議の声を上げた。日本ではほとんど報道されることは無いが、オーストラリアでは、COVID-19と称される新型コロナ・ウイルスの蔓延防止対策を名目に、人権無視の強圧的なワクチン接種キャンペーンが展開されており、非接種者は社会的な自由を次々と奪われている状況である。

「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である」(ヨハネの黙示録 13:16−17 新共同訳)


 一般的に日本人がオーストラリアに抱くイメージは、美しい大自然に恵まれた、自由で開放的な社会というものではないだろうか。そこに住む人々は、おおらかで、明るく、フレンドリーというイメージか。私自身は、未だオーストラリアに行ったことは無いのだが、同国の人々とは少し縁がある。現在大学生の長男が中高生の時、オーストラリアからの交換留学生を2回ホームスティで受け入れたことがある。その内1人の生徒は、2ヶ月間受け入れた。同じ屋根の下で暮らしてみて、オーストラリア人は日本人と比べて、のんびりしているような印象を受けたことは確かである。オーストラリアに交換留学したことがある長男に聞くと、やはり現地でも同様であるとのことなので、同国民の一般的な国民性なのだろう。それも、彼の国の風土と自由な社会により培われたものであろう。

 ところが、そんな国が今、収容所国家に堕してしまった。同国では、公共の場所でマスクを着けないでいると現行犯逮捕される。呼吸器系の持病など健康上の理由があっても、取り締まりの警官にとっては、お構い無しである。それ以上に酷いのは、新型コロナ・ワクチンを「完全に」接種していなければ、社会生活が大幅に制約を受けることである。「完全に」というのは、最低2回接種済みのことを指すが、2回目接種後6ヶ月経つとブースター接種の対象となるので、事実上エンドレスで(死ぬまで)、「完全に」接種したと見做されるために、半年ごとにワクチンを打ち続けなければならない。同国では、御多分に洩れず、政府やマスコミと医療業界が足並みを揃えて、新型コロナ・ウイルスとその変異株に対する恐怖を煽りに煽り、一方で、自由を得たければワクチンを打てと脅し、非接種者を弾圧することで、今年11月末までの時点で、公称では全人口の約90パーセントが、2回以上のワクチン接種を終えたことになっている。

 なぜ、自由な国であったはずのオーストラリアが、短期間で急速に全体主義国家と化してしまったのか。そのスピードについては私の想像を超えていたが、こうなったこと自体は不思議でも何でもない。その理由は、オーストラリアが歴史の浅い人造国家であり、実験国家として、恐らくは数十年以上前から、世界統一政府樹立を図る勢力のターゲットとして選定されていたからである。この理由の前提として、この世には、世界の国々を1つにまとめて、統一国家を作り出そうと動いている勢力があることを認識する必要がある。彼らは、一般にはイルミナティと呼ばれる集団であるが、その上層部は別の名称を有している可能性がある。彼らは、悪魔崇拝者であって、キリスト教を憎悪し、その変質と破壊に努めてきた。彼らの目的を実現するための最大の障害が、真のキリスト教会の存在であるからだ。イルミナティの中核は、ヨハネの黙示録が示す通り、偽ユダヤ人の悪魔教徒である。彼らにとって、世界の民衆は家畜に等しい奴隷であり、彼らが意のままに利用し処分出来る存在でしかない。オーストラリアは、不幸にも彼らに目をつけられてしまったのだ。

 私がこの事実に気づいたのは、故小石泉牧師の著作の中で、オーストラリアがイルミナティの根拠地に選ばれているという記述があったことが1つである。もう1つは、20年以上前に観た、ある映画の中で、「彼ら」のメッセージを読み取ったからである。日本では興行的に大ヒットとは言えなかったであろう、その映画とは、「ゲーム(原題:The Game)」という、1997年に公開されたアメリカ映画である。日本では、1998年に公開されており、私もその時に映画館で観た。映画の内容は、マイケル・ダグラス扮する実業家ニコラスが、48歳の誕生日に弟からCRSという会社主催のゲームの招待状をプレゼントされ、その後次々と不可思議な出来事に巻き込まれて行くというストーリーである。映画を見始めてすぐに、これは、「彼ら」のメッセージ映画ではないかという疑念が湧き起こり、結末を観る前にそれは確信となった。「彼ら」の思想やアジェンダが、場面の随所に盛り込まれていたからである。その映画のラストシーンで、CRS社のクリスティーンという女性がニコラスに語ったことが、一語一句まで正確には記憶していないものの、「今度は、オーストラリアに行って、羊ちゃんたちを騙すのかしら。」というセリフであった。この一言で、私は、オーストラリアが「彼ら」のターゲットにされていることを確信したのである。

 世界にはもう1カ国、現在ワクチン接種キャンペーンが強力に展開され、接種率が高まるほど、逆に新型コロナ感染者と死亡者が急増している「人造国家」があるが、この国については、はっきり疑問を書くとクリスチャンの兄弟姉妹からも批判を受ける可能性もあり、もう少し考えを整理してから書くこととしたい。今私たちに出来ることは、国民国家としては風前の灯となったオーストラリアで現在進行形で起こっている事態が、日本で決して起こることの無いように、状況に関心を持ちながら、目を覚ましてオーストラリアの人々のために祈ることである。そして、この状況に関する情報を周囲の人々と分かち合うことも重要であり、導かれれば、抗議デモに参加する選択肢もあるだろう。オーストラリアに、神の正義が現されることを祈りたい。
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神は血の復讐をされる(記事No.69)

 本ブログ記事No.66「寒い冬が来る」の中で少し触れたが、北海道旭川市や東京都町田市で起こった、学校でいじめを受けていた中学生と小学生の女子生徒が、自殺及び不審死に至った事件は、日本社会から愛が失われつつあることを象徴しているような出来事である。2021年12月2日の京都新聞夕刊社会面に、この内、旭川市の中学2年生女子凍死事件(正確には自殺と断定されていない)の被害者の母親を取材した記事が掲載されていた。共同通信の取材であるので、多くの地方紙に同じく掲載されていると思う。これまで断片的に報道されて来た範囲で概要を知っているので、「決死の叫び 学校届かず」の見出しが目に入っただけで、憤りが込み上げて来るのを禁じ得なかった。

 旭川事件で亡くなった、当時旭川市立北星中学2年の生徒の母親によれば、被害者は担任に上級生からのいじめについて、「絶対に内緒で」と前置きして担任に相談したが、すぐ当事者に伝わり、いじめが悪化したと言う。その後母親は、学校側と話し合いを続けたが、同校の中山岳教頭(当時)から、「いたずらが行き過ぎただけで、悪意はなかった」、「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来を潰してもいいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」と投げかけたと言う。これらの中山氏の発言は、今年8月に公開された、被害者の母親の手記に記されていることである。今回の京都新聞の記事では、教頭に「これ以上何を望むのか」と尋ねられ、「できないのは分かるが、娘の記憶を消して元の状態に戻してください」と伝えると、「頭、おかしくなっちゃったんですか。病院に行った方がいいですよ」とあしらわれたことも明らかになった。被害者の少女は、今年2月13日に失踪、その後3月23日になって、低体温症で亡くなっているのが発見された。

 この事件に関しては、最近ではテレビや新聞で少し報道されるようになって来たが、元々は、今年4月に、「文春オンライン」が商業メディアとしては初めて報じたことで、世に明らかになったものである。旭川には、北海道新聞だけでなく、全国紙も支局を置いているが、彼らは所轄警察署も回っているはずであるのに、この重大事件を報道することが無かった。私が、加害者親族あるいは学校関係者に、地元の有力者か政治的圧力団体関係者がいると推察しているのは、このような状況もあってのことである。日本社会には、臭いものに蓋の根強い隠蔽文化があることは、いわゆる森友問題において、公文書の改竄を命じられた、財務省職員の赤木俊夫氏が自殺した事件でも如実に明らかになった。

 東京では、2020年11月に、町田市立第5小学校の6年生女子生徒が、いじめを苦にして自殺した事件が発生したが、この時も学校側の対応は似たようなものであった。五十嵐俊子校長(当時)は、彼女が推進したIT導入の中で、学年全員でパスワードを共有するなど杜撰な管理体制があったことが、チャット機能を利用した悪口の拡散などの結果を招いたにも関わらず、女子生徒の自殺を今年1月まで隠蔽し、教育委員会へも2月まで報告していなかったと聞く。その五十嵐氏は、今年3月末に定年退職し、4月には渋谷区教育長に就任している。写真週刊誌「FRIDAY」のオンライ版によれば、五十嵐氏が初めて自殺した生徒の遺族宅に弔問に訪れたのは、今年2月24日であり、この日は渋谷区議会へ同氏の教育長任命に関する議案が上程された日であったと言う。自分の栄転が決まったので、安堵して弔問に行ったのだと言われているそうであるが、誰が考えてもその通りであろう。

 本記事では、最近報道されるようになった2つの事件を取り上げたが、日本全国で同様の事件が発生しているであろう。厚生労働省がまとめた2020年版自殺対策白書によれば、15歳〜39歳の各年代の死因の第1位は自殺である。また、遺書などから推定できた原因・動機で最多は、学校問題であり、以下、健康問題、家庭問題と続いている。と言うことは、恐らくは、中高生の死の原因として、学校に関わる問題が最多であると言うことだ。その内の、かなりの割合が、いじめを主な原因とするものであるとも推測可能であろう。いじめ自殺が発生する最大の原因は、これまでも書いて来たように、愛の欠如である。この場合の愛とは、家族愛、兄弟愛、同胞愛、友愛など、人が互いに尊重し、労わり、支え合う愛のことである。教師たちが互いに愛しておらず、生徒たちのことも愛していないのに、どうして生徒同士に互いに愛し合うようにと教えられるであろうか。

 熊本日日新聞の2021年12月5日更新のオンライン記事で紹介されていたが、2013年8月に自殺した、熊本県立高校1年生の女子生徒の遺族が学校や加害生徒と学校に損害賠償を求めた裁判で勝訴してから1年4ヶ月が経ったが、今に至るまで誰からの謝罪も無いと言う。この事件でも、学校は加害生徒と歩調を合わせて、自殺の原因となったトラブルは、いじめでは無く喧嘩であると主張していたそうである。死人に口なしで、自分達に都合が悪い事実は隠蔽あるいは歪曲して説明したのである。このようなケースは、熊本だけでなく、日本各地であったことと思う。何故なら、学校を含めた日本社会から、愛が失われているからである。

 いじめ自殺が起こった場合、加害者や担任教師や校長など、生徒の死に責任を有する者たちが必ずいる。彼ら、彼女らに対して、刑事責任が追求されることは稀である。ほとんどの場合は、被害者遺族が損害賠償請求の裁判を起こした場合に、民事上の賠償責任が認められるに止まる。つまりは、多くの場合は、加害者ら責任を負うべき者たちは、せいぜい賠償責任を負う以外の社会的責任を取ることは無いのである。現代では、SNSなどで加害者名が拡散されることもあるが、それでも、テレビや新聞で実名が報道されることは無く、やがて素知らぬ顔で社会に出て行くのである。被害者が、精神的に、時には肉体的にも追い込まれて、若い命を絶たされたことからすると、何というアンバランスであり、不条理であるのか。憤りの念を禁じ得ないが、これが現在の日本の実情である。

 しかし、加害者や教師らが死んだ被害者のことや、自分たちの責任のことを忘れたとしても、神が忘れることは無い。それが直接手を下したものであっても、いじめにより間接的に手を下したものであっても、神の目からは、人の命を故無く奪ったという点では同じである。その死に際して実際に流血があったかどうかに関わらず、それは無実の人の血が流されたことと同じことである。そこには、必ず神の復讐がもたらされる。いじめ自殺に責任がある者たちの人生に復讐が現されるだけで無く、血が流された、その地に復讐がもたらされる可能性もあるだろう。今回取り上げた、旭川市と町田市には、濃淡は違うが、私にとっても、それぞれ思い出がある。だから、とても残念ではあるが、これらの自治体が、公正な調査により責任の所在を明確にし、被害者遺族への謝罪及び賠償と再発防止に真摯に取り組まないのであれば、やがて都市としても裁かれることになるだろう。その意味においても、いじめ問題は、決して対岸の火事ではなく、私たちの社会における共通の問題として、継続的に関心を持つ必要があるだろう。

「わたしは彼らが流した血の復讐をする。必ず復讐せずにはおかない。主はシオンに住まわれる」(ヨエル書 4:21 新共同訳)
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血筋の意味(記事No.68)

 今上天皇ご夫妻の長女敬宮愛子内親王が12月1日、20歳の誕生日を迎えられた。公表された「成年の感想」の全文を読んだが、成年皇族として、自分に与えられた使命と務めを自覚した、平易な文章にまとめられながら、責任感と共に気品が伝わって来るようなメッセージであった。やはり、今上天皇ご夫妻によって育てられただけのことはある。特に、「両陛下をお助けしていきたい」との言葉は、大袈裟ではなく、強い使命感を持たれていることが分かる。私たち国民としては、愛子内親王が立派に成年を迎えられたことは、喜ばしいことであろう。

「すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい」(ペテロの第一の手紙 2:17 口語訳) 


 時を同じくして、安定的な皇位継承を議論する政府の有識者会議は、11月30日に開催された第11回会合で、「女性皇族が婚姻後も皇族としての身分を保持する」、「皇族の養子縁組を可能とすることで、皇統に属する男系男子が皇族となることを可能とする」の2案を軸に、今後意見を集約する方針を固めたと報道されている。1947年5月の日本国憲法施行後に、11宮家の皇籍離脱(臣籍降下)があり、以来皇位継承権を有する皇族男子は減少し続け、現在では、秋篠宮皇嗣、悠仁親王、常陸宮親王の3人となっている。これでは、将来皇室存亡の危機に陥る可能性もあり得ることから、今年3月に設置されたのが先に記した有識者会議である。

 有識者会議では明確な結論を打ち出すことは出来ないであろうが、結局のところ最大の論点は、女性天皇を容認するか否かである。端的に言えば、女性天皇を否定する人々は、男系でなければ、天皇の血筋が継承出来ないという考え方である。人間が持つ46束の染色体は2本1組の対で存在しているが、この内22対44本は男女共通であり、残り1対2本が、女性はXX、男性はXYとして分かれる。男性にしかないY染色体は、男系においてのみ受け継がれるという論拠である。これに対して、女性天皇を容認する人々は、皇位においても、男女平等であるべきであり、歴史的にも女性天皇は存在しているのであって、男子のみが継承するというのは時代錯誤である、と言うのが最大公約数的な考え方であろう。

 ところで、天皇家のルーツについては、聖書研究家であり牧師である久保有政氏などが、これまでに優れた著作を世に出してるが、古代イスラエルにまで遡ることが出来るという説がある。驚くべきことに、ダビデ王朝の系図と、神武天皇の系図は、人物名が違うだけで関係性は同一である。天皇を国家神道の中で位置付けるのは明治時代の創作であるが、古神道との関係において見るなら、古来より日本の国における大祭司の役割を担って来られた。古代イスラエルでは、王と大祭司の職制は原則として分かれていたものの、基本的には祭政一致であり、天皇の役割とも近似していた。そうなると、現代の天皇も、古代からの血筋を守るために、男系男子が皇位を継承するべきであろうか?

 私は、クリスチャンであり、日本人であるので、聖書信仰とも矛盾せず、日本国民として皇室の弥栄を願う思いにも適った、自分なりの結論を持っている。日本国憲法では天皇は象徴として定められており、その地位は国民の総意に基づくとある。これはこれで大切な規定であり、国の制度としての天皇の職位を保つためには妥当な考え方でもあるだろう。天皇は、国の大祭司であると同時に、名称はどうあれ国王でもある訳で、世襲も当然であろう。しかし、その地位は、国民から受け入れられてこそ、存続し得ることも事実である。そうであるなら、男系の血筋であることよりも重要なことは、その地位に就くに相応しい人物であることではないだろうか。天皇家に生を受け、幼少の頃より皇族としての教育を受けた愛子内親王は、今般の「成年の感想」を読んでも、将来天皇の地位に就かれたとしても、決しておかしいとは思わない。むしろ、順当のようにも思えるのだが。

 本記事の最後に、聖書の教えに触れたいが、人はイエス・キリストを信じる時、神の子供として新しく生まれるとある。この地上で肉体的に生まれ変わるのではなく、霊的に生まれ変わるのである。霊が新しく生まれることを新生と言い、神の子となる唯一の方法である。血筋は関係無く、ただイエスを信じる信仰だけが必要条件である。天皇の存在は、日本にとって決定的に重要な事柄であるが、いかに高貴ではあっても、この地上における人の制度である。神の子となることは、地上の制度とは根本的に異なり、永遠の神の国に至る、全ての人々にとって重要な事柄である。信じる者は誰でも、聖なる神の子の立場を得ることが出来る。私をも神の子とされたことに、ただ感謝である。

「この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである」(ヨハネによる福音書 1:13 口語訳)
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自ら良いものを壊す社会(記事No.67)

 京都新聞2021年11月27日朝刊の1面トップ記事であるが、京都駅前に高さ約60メートルの高層複合ビル建設が計画されていると言う。計画は、駅前にある京都中央郵便局と隣接の立体駐車場を再開発するもので、2029年度以降の開業を目指し、日本郵便とJR西日本グループが共同で事業を進めるとのことである。計画地一帯は、京都市により新築建物は高さ31メートル以内の制限があるが、公共性と利便性に配慮した施設機能を充実させることで、高さ制限の緩和を受ける方針と言う。

 単なる都市再開発事業に関する記事のようではあるが、いくつかの点において、現代日本の問題点が浮かび上がったような内容である。1つには、当再開発の事業者2社は、両社共、かつての国営事業が民営化された法人である。JR西日本は、日本国有鉄道が分割民営化されて誕生したうちの1社である。日本郵政は、郵政省が所管していた郵便事業が現在の日本郵政グループとして民営化され、その郵便事業と郵便局の運営を担う小会社である。それぞれの民営化にまつわるエピソードは、多くの報道や出版物などで語られて来たので、ここでは詳細は取り上げない。一言で言えば、これらの民営化の本質は、官民挙げての利権の拡大であり、同時に、労働組合運動の弱体化であったと考えられよう。取り分け、各事業体が有していた不動産の売却や再開発により、関係各方面には巨額の利益がもたらされた。それらの不動産は、元々は公有財産、すなわち、国民の共有財産であったものである。今般報道された、京都駅前再開発の種地も、まさに本来は国民の共有財産である。

 もう1つ、景観を含む環境保護の観点からも、考えさせられる計画である。新幹線で特に新大阪方面から京都に近づくと、東寺の五重塔よりも先に目に入るのが京都タワーである。蝋燭を模したデザインと言うのが有力な説であるが、古都京都のシンボル的な近代建築物としては、私にはグロテスクな外見としか思えない。京都駅の巨大な駅ビルもそうであるが、建築の素人が見ても、お世辞にもセンスが良いとは言えない。その京都駅正面口の壁面に、大正年間の京都市街の鳥瞰図が展示されているのだが、実に美しい街並みである。現代の新旧ない混ぜで統一感のない京都の街並みとは、似ても似つかぬ情景である。京都は戦時中もほとんど空襲に遭わず、現在上京区の辰巳公園となっている地帯など一部を除き、市街地は破壊を免れた。それを戦後の無節操な都市開発により、自らの手で破壊してしまったのが、これまでの京都人であった。それは、日本のほとんどの都市に共通して見られる、非文化的な発想ではなかったか。

「知恵はその家を建て、愚かさは自分の手でそれをこわす」(箴言 14:1 口語訳)


 聖書は、昔の方が良かったという発想を戒めているが、それは、古いものを大切にしないという意味ではない。いかに古くても、良いものは残し受け継ぐべきであろう。明治初期に日本各地を旅し、その体験を2巻の旅行記にまとめた、イザベラ・バードというイギリス人女性がいた。牧師の長女として生まれた彼女は、病弱であった幼少期に北米に転地療養したことを契機に旅への関心を持ち、大人になると世界各地を旅するようになり、卓越した観察者として多くの著作を記した。そのバードは、1878(明治11)年6月から約7ヶ月間かけて、日本人通訳兼従者を伴い、東京を起点に新潟から東北を経て北海道に至るまで、続けて伊勢、京都、奈良、大阪、神戸など関西方面を旅した。その旅の目的は、日本の本当の姿を知り、それを記録に残すことと、キリスト教普及の可能性を探ることであった。バードは、日本旅行の記録を全2巻800ページを超える著書、「Unbeaten Tracks in Japan(邦訳:イザベラ・バードの日本紀行など)」にまとめて世に出した。

 当時は、外国人の単独日本国内旅行は厳しく制約されていたが、駐日英国公使パークスの尽力で、日本政府より内地旅行免状を取得しての旅であった。パークス公使としては、日本各地の詳細な情報を取得したいとの思惑もあったはずであるが、彼の日本政府に対する強力な働きかけもあり、バードの旅は十分に準備されたものであった。そうとは言え、公共交通網が未発達の当時の日本は、現代とは比較にならないほどの困難な旅であった。彼女は、行く先々の日本人の、北海道ではアイヌ人を含めて、生活様式や考え方などを丹念に調査し、詳細に記録した。彼女は、その著書の中で、日本各地の自然の美しさだけでなく、街々の美しさや清潔さを絶賛している。また、日本人の生活や文化については、率直な賞賛と厳しい批判の両方が記されている。もしバードが京都をはじめ現代日本の醜い街の情景を見たら、変わり果てた街並みに驚くであろう。

 バードが京都を訪れたのは、1878年10月のことであった。新島襄が校長をしていた、同志社英学校に2週間滞在するなど、京都ではキリスト教伝道活動の視察が主な目的であった。御所の東に完成したばかりの新島邸に招かれ、新島夫妻とも親しく歓談したバードは、新島襄に、日本人の最も良くない点は何かと尋ねたところ、すぐさま、「嘘をつくことと、規律を守らないことである」との答えが返って来たと言う。その答えは、クリスチャンではない2人の日本政府高官に聞いた時と、全く同じものであったそうである。日本では、正直が美徳とされ、秩序を守ることが重んじられているが、反面、その正反対の行動をとる人々も多いということであろう。これは、一部の人々が主張するように、中国人や韓国・朝鮮人だけの欠点ではなく、日本人自らも顧みなければならないことである。

 今回は、京都駅前の高層ビル開発計画に絡めた記事であったが、環境に限らず、日本の良いものを壊し続けて来たのが、実は日本人自身であったという残念な事実がある。国粋主義的な考え方を持つ人が少なくない中で、ある種不思議なことと言えなくも無いが、結局は、日本の伝統や文化をやたら強調しながら、その実、それらを蔑ろにして来た人々が上から下まで少なく無かったのであろう。私たちは、有形無形の文化や伝統、あるいは街を含めた環境においても、捨てるべきものは断捨離しつつ、良いものは大切に残し、後代に受け継いでもらうべきである。

「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(テモテへの第一の手紙 4:4−5 口語訳)
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寒い冬が来る(記事No.66)

 最近、朝夕は大分冷え込んで来た。昨年から今年にかけて経験した、京都での初めての一冬は、東京都心部や神奈川東部よりも寒かったが、色々工夫もしてどうにか耐えることが出来た。高村光太郎は、「冬が来た」の詩で、「冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と詠んだが、とてもそんな気分にはなれないのが少し哀しい。京都市内でも、中心部より標高が数十メートル以上も高い地域であると、冬は平均気温が2、3度低く、雪が積もることも珍しく無いようである。タクシーなどは、12月に入ると、スタッドレスタイヤに交換するようであるが、一般車では少数派かも知れない。私も、昨年同様ノーマルタイヤで通すつもりなので、厳冬期には、東名や名神、新名神を利用しての北から東方面へのドライブは出来ない。

 今年の冬は、昨年よりも寒くなるとの予測が出ている。それと言うのも、気象庁が発表しているところでは、現在ラニーニャ現象が発生している可能性が高いとのことである。ラニーニャ現象が発生すると、日本では冬が例年より寒くなる傾向がある。地球は温暖化していると言われているが、逆に寒冷化していると言う説もある。仮に温暖化していることが事実だとしても、その原因は、二酸化炭素濃度の上昇だけでなく、長年の熱帯雨林の大量伐採により、地球の気温調整機能が低下していることも指摘されている。また、一部には、世界中の原発から出る膨大な量の温排水が、海水温度を上昇させていることも原因とする説がある。いずれの説が正しいにせよ、地球温暖化関連ビジネスは、主導する者たちが巨大な利益を得ている現実がある。ウォール・ストリート・ジャーナル誌2021年9月2日付(電子版)記事によれば、昨年の世界の排出権取引市場(炭素市場)の規模は、約31兆円にも達するそうである。新たな製品やサービスを創出した結果では無く、世の中の仕組みを変えただけで巨額の市場が創られた訳であるから、ビジネスというよりも錬金術と言うのが相応しのかも知れない。

 自然的な意味で、これから例年よりも寒い冬が始まる訳だが、霊的な意味でも、今後世界は寒い冬を迎えるだろう。自然的な冬は、防寒具や暖房などが無ければ身体が冷えるが、霊的な冬では、暖かい愛が無ければ心(魂)が冷えるのである。逆に、もし愛があるなら、日本が、世界が、厳しい状況であったとしても、私たちは、心に温もりを保つことが出来る。私たちの人生に愛があるか否かにより、心は冬にもなれば春や夏にもなるのである。私たちが生きているこの社会も同様である。残念ながら、日本と世界の状況を見る時、刻々と愛が失われつつあることを認識せざるを得ない。神の目から見て、間違ったことが、この世に盛んになることを、聖書は不法がはびこると警告している。不法がはびこるので愛が冷え、愛が冷えると、ますます不法がはびこるのである。

「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイによる福音書 24:12 新共同訳)


 以前から書いているように、私はテレビを視る習慣が無いのだが、どのようなテレビ番組があるのかは、新聞のテレビ欄やインターネット上の情報で、ある程度は把握している。最近、テレビでは、木下富美子都議会議員の問題が各局で集中的に取り上げられている。その前は、小室圭氏と真子氏の結婚問題であった。中国の四字熟語(成語)に「打落水狗」と言うものがある。直訳すれば水に落ちた犬を打つということで、窮地に陥った者に追い打ちをかけるという意味に使われる。日本のテレビ局が行っているのは、まさにこのようなことである。ある人は、それは元々中国人や韓国人の考え方で、日本人本来の考え方では無いという。そうなのかも知れないが、現代では、それは多くの日本人の考え方にも見られるのではないか。スケープゴートを選んで集中的に叩いて見せることは、大衆受けすると、テレビ局などは踏んでいる訳である。それは、視聴率稼ぎの他に、国民にとって重要な問題から目を逸らさせると言う、一石二鳥の効果がある。小室氏や木下都議の問題は、総選挙の争点や、新型コロナ・ワクチン接種後大量死(厚生労働省発表でも、これまでに国内で1,300人以上)から、国民の目を逸らす効果があった訳である。小室氏夫妻が渡米し、木下氏は議員辞職を発表した今、次のターゲットは誰になるのだろうか?

 小室氏夫妻や木下都議の場合は、社会的弱者とは言えないが、日本は弱者に対する不正義が罷り通る国になってしまった。最近でも、北海道旭川市や東京都町田市で、小中学生がいじめで自殺に追いやられても、学校や教育委員会は校長や担任を庇い、真相究明や責任追求に及び腰である。多くのマスメディアも追求の矛先が鈍いことを見ると、加害者の親族に地域の有力者や政治的圧力団体関係者がいるのではと、つい勘繰りたくもなる。これらの事件が象徴しているように、ここまで社会から愛が損なわれ、不正義が跋扈するようになると、霊的法則では、遠からず裁きがもたらされる。恐らくは、近い将来、それは日本にも起こるであろう。それは、どのような形で現されるのだろうか?現時点では、預言では無く推測ではあるが、大きな地震か噴火が起こるのではないだろうか。それに伴い、再び巨大原発事故が起こる可能性もある。もちろん、リーマン・ショックを超える経済クラッシュや、新型コロナ・ワクチンの薬害などによる、世界規模での社会的混乱も想定しておく必要があるだろう。いずれにせよ、これから来る冬は、霊的にも寒い冬となりそうである。神の愛に包まれて、暖かい心で厳しい冬を乗り切りたい。

「このことが冬に起こらないように、祈りなさい」(マルコによる福音書 13:18 新共同訳)
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預言カフェ訪問レポート(記事No.65)

 昨日、お茶の水にあるキリスト教書店での買い出しを兼ねて、妻と日帰りで東京へ行き、かねてより一度訪問してみたかった、高田馬場にある「珈琲専門店 預言CAFE」に行ってみた。同カフェは、他に赤坂にも同じ系列店があるが、アライズ東京キリスト教会牧師でもある、吉田万代氏が立ち上げた店である。「珈琲専門店」とあるように、店で使用するコーヒー豆は、厳選した生豆を仕入れ、自家焙煎しているそうだ。しかし、同カフェが他のコーヒー専門店と決定的に異なるのは、希望する客に対して、店内で「預言」を行なっていることである。

 「預言CAFE」のオーナー経営者である吉田万代牧師と、同師のご主人である吉田浩牧師は、共にアライズ東京キリスト教会の牧師である。吉田夫妻はドイツ留学経験のある音楽家でもあるのだが、教会での働きに召命(神による働きへの導き)を受け、栃木県佐野市にある、佐野キリスト教会において、カナダからの宣教師、ロナルド・サーカ牧師夫妻らから訓練を受けた働き人である。サーカ師は、アメリカにおける預言的働き人の1人であった故ビル・ハモン師が設立した宣教団体、クリスチャン・インターナショナルに加入し、1996年に、クリスチャン・インターナショナル・アジアを設立し、使徒的・預言的ミニストリーに従事して来た。クリスチャン・インターナショナル・アジアは、その後Arise5と名称を変更し、現在ではCatch The Fireという宣教団体と統合している。

 さて、本ブログの読者の皆さんはお気づきかも知れないが、私は記事の中で、「実は」という言葉を時々使うことがある。実は今回も、「実は」である。実は私も、サーカ師の設立した、クリスチャン・インターナショナル・アジアとは、少し関わっていたことがある。彼らは、団体設立以降、佐野市において、毎年2、3回の聖会を開催していた。その聖会には、佐野キリスト教会の会員でなくても、参加申し込みをすることが出来た。当時から、預言的働きに関心を持っていた私は、妻と共に、1997年のゴールデン・ウィークに開催された聖会に参加したのを皮切りに、その後約10年間、彼らが主催するほとんどの聖会に参加したのである。また当時は、「預言のパートナー」と言うサポーター会員制度があり、私もその1人となって、毎月少しばかりの献金を捧げていた。

 クリスチャン・インターナショナル・アジアは、主催者の宣教師がカナダ人とアメリカ人の夫妻ということで、アングロサクソン系教会に豊富な人脈があったことと、預言的働きはアメリカなど欧米の教会の方が盛んだったこともあってか、聖会では、たいていは海外からのゲスト・スピーカーが主講師を務めていた。毎回賛美で始まるプログラムは、講師の説教の後、参加者が、講師や教会スタッフより個人預言を受けられる時が持たれた。特に、使徒や預言者として働いている人々からの預言は、ほとんどすべての場合において、的確であり、励ましと希望が与えられるものであった。語られたそれらの預言は、その後次々と成就して行った。それらの預言の中には、まだ成就していないものもあるが、これまでそうであったように、これから実現して行くことを信じている。
 
 その後、クリスチャン・インターナショナル・アジアは、団体名が変更されただけでなく、活動方針にも変化があり、私たちも導きが感じられなくなったことで、ここ10数年は直接的な関わりは無かった。しかし、これまで書いたような経緯があり、吉田牧師夫妻の働きのことは、20年以上前より見聞きしていたのである。なので、預言カフェの働きを始められたと知って以来、いつかは訪問してみたいと思っていたのだ。預言カフェは、私の知る限り、東京の吉祥寺にも別のオーナーが運営している店がある。こちらの方は、数年前に、あるキリスト教系研究団体の懇親会で利用したことがあったが、その時はパーティーであって、私を含めて誰も預言は受けなかった。預言カフェという以上、一度はそこで実際に、預言を受けてみたいというのが人情であろう。

 預言カフェについては、クリスチャンの中でも賛否両論があるのは承知している。否定的な考え方としては、「預言」をビジネスと結びつけるべきではないということ以外に、これは「預言」ではなく、「占い」に近いのではないか、というものがある。私も、当然事前にこられの点について、実態はどうなのか情報収集した。結論的には、カフェ自体はビジネスであるが、預言自体は収益源では無いことと、占いとは明確に別物であるという見方が固まったことで、実際に訪問し、「預言カフェ」体験をすることにしたのである。

 背景説明が長くなってしまったが、昨日の同カフェの様子と、そこで受けた「預言」について説明したい。店の開店時間は14時であったが、受付は13時からとなっていたので、13時過ぎには店を訪れ、入り口近くにあった予約受付簿に氏名を記入した。ファミリーレストランなどにある記入用紙と同じようなものであるが、30分刻みで人数制限がかけられており、私たちは14時30分入店組であった。一旦店を出て付近を散歩などして時間を調整し、予約時間少し前に戻ると、私たち以外に、2、3人1組の客が4組くらい入店待ちであり、定刻にスタッフからそれぞれ名前を呼ばれ入店した。店内は、教会の礼拝会場にも使われているからか、装飾などはシンプルで、4人掛け用のテーブル席が6、7セット置かれていた。メニューは、オレンジジュースの他は、全てコーヒーであり、値段は1,000円前後と、カフェにしてはやや高めの設定である。「預言」自体は、希望する客は無料で受けられることになっているが、ほとんどの客は希望するのであろう。

 テーブルに運ばれて来たコーヒーは美味しかったが、飲み始めて数分すると、別のテーブルで「預言」していた60代半ばくらいの男性スタッフが、椅子を持って私たちのテーブルに移動してきた。録音を勧められたので、スマホのボイスメモ以外に、安全のため、テープ代250円を払ってカセットテープでの録音も選択した。「預言」は、それぞれの客に対して個別に語られ、時間は各2分数十秒くらいであった。「預言」するスタッフは、アライズ東京キリスト教会の預言訓練コースなどで学んだ、クリスチャンと言うことである。それでは、私たちに語られた「預言」であるが、内容はやや抽象的であり、どちらかと言えば、一般的な励ましや労りを中心とするものであった。その「預言」自体は、はっきり言えば、預言と言うよりは、励ましや勧めといった印象であった。

 今回、実際に自分たちで預言カフェを訪問し、「預言」を受けて感じたことは、この働き自体が悪い訳ではなく、教会の外に積極的に出て、人々に聖書的なメッセージとの接点を提供していることは良いことだと思う。語られる「預言」は、預言についての聖書的知識を持たない人々に対しては、むしろマイルドで適切な内容かも知れない。しかし、そこで用いられている霊的賜物は、預言と言うよりも、どちらかと言えば、勧める賜物ではないかとも感じた。その辺りは、預言の重要な機能として、人を励まし慰めると言うものもあるので、預言カフェの「預言」の場合は、厳密に区別する必要は無いと思う。預言カフェの客には、クリスチャンもそうでない人々もいるだろうが、そこで見たある種の盛況は、他者からの励ましを得たいと願っている人々が多いと言う、現代日本の社会状況の反映であると言えるであろう。彼らが、「預言」を入り口に、真の神と出会うことを期待したい。

「勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい」(ローマ人への手紙 12:8 新改訳)
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修学旅行来たる(記事No.64)

 京都は、言わずと知れた修学旅行のメッカである。かく言う私も、高校の修学旅行は京都・奈良であった。もっとも、私と友人たちは、寺社にはほとんど興味が無かったので、班行動の時間には、見学は早々に切り上げて喫茶店に入り、当時よく置いてあったテーブル型のゲーム機で遊んだことを思い出す。夕方に錦市場を皆で歩いた時は、混雑していて、楽しむどころではなかった。現代の修学旅行生は、班行動ではタクシーに分乗して巡る学校もあると言うから、便利になった反面、見学をサボることは出来そうに無い。その修学旅行生であるが、昨年4月から今年8月くらいまで、京都では全くと言えるほど見かけなかった。

 8月になってから、ごく稀に修学旅行の班行動らしき中高生の姿を見かけるようになった。緊急事態宣言明けの10月に入ると、京都駅構内でも修学旅行の団体をよく見かけるようになり、観光バスも随分と走るようになった。それでも、観光・交通事業者にとっては、以前の活況には遠く及ばないのであろう。長期休業を余儀なくされていた修学旅行専門宿泊施設などの事業者にとっては、中高生の団体客の有無は死活問題である。彼らにとっては、修学旅行は無くてはならぬものである。中高生の多くにとっても、修学旅行は楽しみなものであろう。政府の無策と、教育委員会や学校の無能や保身によって、多くの学校で修学旅行が中止となり、一生に一度の機会を失って、がっかりした生徒らも多かったと思う。

 一方で、学校でいじめに遭っていたり、集団行動に馴染めないといった事情で、修学旅行が中止となってホッとした生徒らも少なくなかったと思われる。公立中学校などの一部には、経済的事情で修学旅行に行けない生徒も少数いると推察する。コロナ禍を奇貨として、修学旅行のあり方も再考すべきではないだろうか。具体的には、原則全員参加ではなく、原則希望者のみ参加として、学校教育における選択プログラムとして位置付けてはどうかと思う。しかし、修学旅行が学校と旅行会社にとっては既得権益となっている現状では、当事者側からの改革はあまり期待できないが。

 近年では、修学旅行の行き先が海外である学校も珍しく無い。私の長男の場合も、中学ではオーストラリアが修学旅行先であった。農家に分宿し牧場での農業体験をするなど、それなりに楽しいプログラムであったようである。単なる観光地での見学にとどまらず、この種の体験型プログラムを取り入れる修学旅行も流行っているのかも知れない。いずれにせよ、単にある場所を訪ねて見学するだけよりも、自分たちで何かに取り組む経験の方が、総体的には生徒らにとっては思い出深いものになるだろう。

 修学旅行も本来そうであってほしいが、若い時に、どんな所に行き、どんな人々と出会い、どんな学びや経験をしたかは、その後の人生に大小の影響を与える。もちろん、それは旅行だけではなく、家庭に始まり、学校や地域の中でのことも同じである。中でも、どんな人々との出会いがあったかは、しばしば、人生を左右するほどの影響があるだろう。私の場合を振り返って見ると、両親や近しい親族の他、友人たちや何人かの教師や習い事の師範などが思い浮かぶ。教師たちの中には、反面教師としての影響を受けた人々もいる。大人が少年少女に与える影響力を考える時、たとえ親や教師であっても、子供たちをぞんざいに扱ってはならないと思う。時々、京都駅のコンコースでは、修学旅行生の集団が体育座りをして、引率教師の話を聞いている姿を見かけることがあるが、とんでもないことである。第一、不衛生であるし、躾としたら無意味なことである。本当のところは、教師たちにとって楽だからであろう。

 さて、私の場合、数十年前に行った修学旅行は、自分自身の不真面目さもあって、残念ながら意義深い経験とはならなかった。その頃に、最も有意義だったことは、ある人に出会ったことである。その人は、今でも私の師であり、また、友でもある。その人の名は、イエス・キリスト、人となられた神の子である。人間の考えでは、本当に不思議なことではあるが、若い時に一度だけ、わずかな信仰を持つに至って信じただけであるのに、この方は、それ以来ずっと私と共にいてくださるのだ。私が、背いたり離れたりした時も、私が気づかなかっただけで、いつも共にいてくださったのだ。その私の経験からも、確信を持って言えるが、人にとって最高の出会いは神との出会いであり、人生最大の経験もまたそうである。京都を訪れる修学旅行生を見る度、彼らが、若い日に神と出会って欲しいとの思いが湧き上がる、今日この頃である。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びも無い』と言う年月が近づく前に」(伝道者の書 12:1 新改訳)
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日本社会の現況について(11月13日現在)(記事No.63)

 今週は、調停で裁判所に出頭したり、出張で福岡に行ったりと、何だかせわしなく、ついブログ記事の更新間隔が開いてしまった。引き続き、強い関心を持って注視していることに、パンデミックやワクチンに加え情報を武器として、世界中の民衆に戦争を仕掛けている、世界統一政府樹立を図る者たちの動きがある。また、独裁体制をさらに強化しようとしている、中国の習近平政権の動きも気がかりではある。しかし、それらのテーマを一度に取り上げることは、話が広がり過ぎ、記事も長文になることから、機会を改めて書くこととしたい。今回は、ここ最近の日本社会の状況に照らして、何点か思ったことと、今後の見通しを含めた分析と意見を書いてみたい。

 まず、政治状況についてであるが、今般の総選挙の結果が、これから国民に重くのしかかって来るだろう。自公維国の改憲勢力と言われる諸政党で衆議院の3分の2以上を占めたことで、早ければ来年の参議院選挙と同時の国民投票を目指して、あるいは遅くとも4年以内には、国会での憲法改正発議が行われる可能性が出てきた。誤解を恐れずに書けば、私は、憲法とて不磨の大典とは思わないし、国軍の保持は主権国家の権利であると考えている。しかし、対米従属構造から脱するでもなく、大日本帝国体制との親和性がある政治思想を有する勢力が台頭する中での改憲は、仮に実現すれば、政府ではなく国民を縛るものへと憲法の性格を変えるであろう。新生日本国軍となった自衛隊が、有志連合の先鋒として中東などの戦場へと派遣されるようになれば、再び国民にとっては悪夢の時代が始まるだろう。

 もう1つ気になったこととして、台湾の半導体メーカー、台湾積体電路製造(TSMC)が、ソニーとの共同出資の形で新会社を設立し、熊本県内に半導体工場を建設するとのニュースがある。TSMCは、世界における最大手クラス半導体メーカーの1つであり、新会社は同社が過半数を出資すると言う。設備投資額は8,000億円規模となるとされ、約1,500人の新規雇用が創出されると見込まれている。かつて1980年代後半には、日本の半導体生産は、世界市場シェアの過半数を超えていた 。1990年には49パーセントであった日本の世界シェアは、30年後の2020年には6パーセントにまで低下した。代わりにシェアを大きく伸ばしたのは、米国と日本を除くアジア各国(韓国、台湾、中国)である。失われた30年とも称される日本経済の低迷は、先端技術関連製造業の状況にも如実に現れている。

 改憲を巡る状況の背景にある、日本社会の右傾化(国粋主義とも少し違う、対米従属を是とする歪んだ右傾化か)と、半導体産業の凋落にも象徴される日本経済の低迷とは、密接にリンクしていることは明らかであろう。長期間の経済の低迷は、多くの国民にとって、生活が苦しいか、あるいは株価などの数的指標で示される、あるはずの豊かさを実感できない状況が続いているということである。それでも、将来に希望が持てるのであれば、一時の苦境は耐え忍ぶことも出来る。しかし、希望が見えず、袋小路のように、苦境からの脱出の道が見出せない状況が続くならばどうであろうか。社会には閉塞感が漂い、人々の心には落胆とストレスとが沈殿する。そのような状況の中で、日本民族の優秀さや日本の素晴らしさを唱える主張は、人々の心に響き易い。一部に指摘されているように、ヒトラーが率いるナチスが台頭した当時の、ドイツの状況にも似ているのかも知れない。しかし、決定的な違いもあり、それは、ヒトラーはドイツ経済を立て直し、少なくとも大戦前までの間は、ドイツ国民の生活を苦境から脱出させたが、現代の日本の指導者らはそれが出来ず、また、やろうともしていないことである。

 昨年来の新型コロナウイルス流行を通じて、より鮮明になったことは、日本も世界も、一握りの人々によって、誤った方向へと導かれていると言うことである。地球温顔化問題やSDGsなどの欺瞞についても、それが当てはまるが、大きな問題であるほど、全ては予め計画されていたと言うことである。彼らの最終的な目的は、これまでのブログ記事でも度々書いて来たように、世界統一政府を樹立し、支配者集団を除く全人類を奴隷化することである。その時には、キリスト教を筆頭に全ての宗教は廃止され、悪魔崇拝が唯一の宗教とされる。これは決して陰謀論などでは無く、これまでの歴史と現在世界で起こっていることとを、聖書の記述に照らし合わせると、はっきりと分かることである。彼らの計画の中で、日本はどんな役割を負わされているのか。これについては諸説あり、中国と戦争させて両者をすり潰す計画との見方も出来るし、ATMとして骨の髄までしゃぶり尽くすと言う企てかも知れない。いずれにせよ、彼らにとって日本は手駒に過ぎないのであろう。

 私たち日本人としては、テレビの垂れ流すゴシップなど低俗な話題に惑わされて、今この国に進行中の、重大な事態に気が付かないと言うことが無いようにしたい。例えば、真子氏と小室氏の結婚についてなど、一般国民にとって騒ぎ立てるような問題ではない。小室氏夫妻で新宮家を創設するならともかく、一般国民としての新家庭である。国民には、二人の結婚に反対する権利はそもそも無かったし、真子氏をして皇籍離脱の一時金を辞退せざるを得なかったような批判をするなら、はるかに巨額の、政治家や官僚による国費の簒奪こそ厳しく糾弾すべきではないか。思い返せば、小泉政権の頃から、より露骨になって来たことであるが、日本という国は、権力者たちが各界の利権集団と手を組んで、国民から搾取をする国家になり下がってしまった。明治維新以来その性質があったのだが、敗戦でも完全にはリセットされず、今では、それがさらに深化していると言えよう。このような政治体制は、泥棒政治(クレプトクラシー)と呼ばれる。

 その昔、私がまだテレビを日常的に視ていた頃であるが、東北地方のある街で、ちゃぶ台返しコンテストが開かれた様子が放映されていたのを覚えている。進行役のおばちゃんの掛け声を合図に出場者がちゃぶ台をひっくり返し、一番飛距離を出した者が勝ちである。その掛け声とは、「あんた、も〜やめて〜」というものであった。テレビアニメ「巨人の星」に登場する頑固親父、星一徹が、怒ると食事中のちゃぶ台をひっくり返していたことを思い出す。私たち国民は、この国に巣食い利権を貪る者たちに対して、「いい加減、あんたら、も〜や(止/辞)めろ!」と、ちゃぶ台を返して三行半を突きつけなければならないだろう。そのためには、まず私たちの意識を覚醒させる必要がある。神の言葉である聖書を読んで、その教えに従うことは、その為の有力な助けになる。いや、それ無くしては、ましてや世界支配を目論む者たちの策略を見抜き、彼らに対抗することが、どうして可能となるだろうか。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(ヤコブの手紙 4:7 新共同訳)
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韓国系異端宗教を警戒せよ(記事No.62)

 本ブログ記事No.28「カルトに注意」に書いた、以前所属していた教会で知り合った、70歳くらいの女性から、先日メールが送られて来た。何でも、今世界中で見られているYoutube番組を、是非見て欲しいとのことである。彼女がキリスト教系カルトにのめり込んでいると知っていたが、具体的にどのような団体か分かると思い、送られて来たアドレスをクリックしたところ、案の定、韓国系異端宗教である新天地の動画であった。

新天地とは、正式名称を新天地イエス教証拠(あかし)の幕屋聖殿と称し、李萬煕(イ・マニ)という人物が教組であり、総会長として組織を支配している。李教祖により、1984年に韓国で創設された新天地は、李自身を再誕のキリストとする、キリスト教を詐称する宗教団体であり、正統キリスト教の側から見れば異端である。先ほど記したYoutube動画は、再生して数秒で新天地と判明したので、そこで見るのを止めた。異端研究をするのでも無い限り、全部見ても時間の無駄であるからだ。

異端研究と言えば、友人の韓国人宣教師が中心となって運営している、「異端・カルト110番」という、キリスト教異端・カルト情報サイトがあるのだが、同サイトによれば、現在確認されているだけで、以下のような韓国系異端宗教が日本でも活動している。なお、以下のリスト以外にも、全能神教会という異端宗教が活動しているが、これは中国発祥である。

  • 救援派(クオンパ)3グループ ーー グッドニュース宣教会、大韓イエス教浸礼会 命の御言葉宣教会、キリスト教福音浸礼会
  • インマヌエルソウル教会 ーー タラッパン運動・レムナント運動、RUTC
  • 平康第一教会(旧・大声教会)
  • 天の父母様聖会・世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)
  • 世界平和統一聖殿(サンクチュアリ協会)日本サンクチュアリ協会
  • ソウル聖楽教会(ベレヤ運動)
  • 新天地(正式名称は先述) 
  • キリスト教福音宣教会 CGM(クリスチャン・ゴスペル・ミッション)(通称・摂理) 
  • 万民中央教会(以前、私の友人が副牧師をしていたが疑問を抱き離脱している。) 
  • インターコープ宣教会
  • 神様の教会
  • 恵み路(ウネロ)教会(グレース・ロード・チャーチ)


「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう」(マタイによる福音書 24:5 口語訳)


韓国発祥のキリスト教系(キリスト教詐称)異端宗教と言えば、統一教会が最も知られているであろう。この分野の先駆者である統一教会は、以前は、原理研究会などと称して大学でのサークル活動を立ち上げ、学生らを勧誘していた。決して少なくない日本人学生らが、彼らの組織に引き入れられ、原理講論などの教理を刷り込まれて洗脳された。最近では見たことが無いが、高額な壷を売りつけたり、珍味を売り歩いたりで資金稼ぎをしていた。また、集団結婚式で組織の決めた韓国人男性信者と結婚して渡韓し、農村部などで今なお苦しい生活を余儀無くされている日本人女性もいる。日本社会にとっての脅威はそれらに止まらず、各大学の統一教会系サークル出身者が、中央官庁など国家機関に就職し、獅子身中の虫として活動している疑念がある。

現在では、統一教会の日本における布教の成功(?)に倣ってか、先に挙げたように、さらに多くの韓国系異端が進出している状況である。日本におけるキリスト教系異端の歴史は古く、アメリカ発祥の、エホバの証人(ものみの塔)は灯台社という団体名で戦前から活動している。アメリカ系では他に、モルモン教などが活動しており、2人1組で自転車で移動する白人男性チームが、日本人の若者を、モルモン教会の無料英語教室などに勧誘しているので、街頭などで声をかけられた経験がある人もいるだろう。現代の日本には、幸い信教の自由があるので、異端であっても活動自体は自由である。しかし、詐称されている側のキリスト教とすれば、彼らの誤った教えに人々が引き込まれてしまうことが無いよう、警告と啓発は行う必要がある。異端は、人々の貴重な時間、労力、財産を奪い、人間関係を破壊するからである。

近年日本に進出している異端は、数的には韓国系が多い。ここ数十年、韓国から日本に対して、異端だけでなく、正統キリスト教プロテスタント教会による宣教活動も盛んに行われて来た。その内、最も知られており、かつ影響力を及ぼしたのは、趙鏞基(チョー・ヨンギ)牧師による活動であろう。趙牧師は、今年9月に召天したのだが、彼がソウルに創設したヨイド純福音教会は、1958年に天幕教会の形でスタートした後爆発的な成長を遂げ、一時は80万人近い信徒数を有していた世界最大の教会である。日本では、1970年代後半より趙牧師の宣教活動が始まり、各地に純福音教会が設立され、途中で分離した教会を含めれば、恐らくは10万人近い信徒を擁するのではないだろうか。彼らの典型的な宣教手法は、韓国人宣教師のもと、まず在日韓国人やその日本人配偶者らを主な対象として福音を伝え、信者となった人々を核として日本人伝道を進めるというものである。

私も、1990年代には、趙牧師の日本宣教活動に伴う聖会(キリスト教会による大小の大会)に何度か参加し恵みを受けた経験がある。また、ヨイド純福音教会の日本派遣宣教師として来日し、後に独立して教会を設立しただけでなく、日本を愛し、日本の土となることを決意し、夫妻で日本に帰化した三井康憲(韓国名・李康憲)牧師からは、礼拝やテープで聞いた説教により、これまた大きな恵みを受けた。だから、韓国系キリスト教会というだけで、否定的な考えは持っていない。警戒すべきは、アメリカ系と同様に、韓国系の異端だからである。読者の皆さんも、くれぐれも気を付けていただきたい。
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九転十起生(記事No.61)

 数日前、法人会の会合に出席した際、会社が保険契約で付き合いのある、大同生命の営業員と立ち話をした。大同生命は、全国の法人会と提携し、中小企業向け団体保険などを主力商品として扱っている生命保険会社である。近年は、個人向け保健の分野では、どこもネット販売に力を入れているが、企業・団体向け分野では、担当営業員が直接アプローチすることが多い。多くが男性であるソニー生命は別として、営業員は圧倒的に女性の比率が高く、大同生命も同様である。昔、「日生のおばちゃん」と言うテレビCMが流れていたが、今は、保険のおばちゃんならぬ、セールスレディと言うのか。

さて、これは私の習い性とでも言おうか、どんなんことでも、何かキリスト教や聖書に関係があることが分かると、そのことについて調べてみることにしている。大同生命の営業員と話したことで、同社の創業者の一人である、広岡浅子氏がクリスチャンであったことを思い出し、改めて、彼女について少し調べてみた。広岡浅子氏とは、2015年に放送されたNHKの連続テレビ小説、「あさが来た」の主人公、「あさ」のモデルともなった人物である。とは言うものの、私自身は基本的にテレビを観ないので、その番組も観ていないのだが。

 幕末の1849(嘉永2)年、豪商三井家の1つ、京都の出水三井家の四女として、浅子氏は生まれた。既に2歳の時には、大阪の豪商加島屋当主の次男広岡信五郎氏と、将来結婚することが決められていた。浅子氏は、将来豪商に嫁ぐ女性として、三味線、琴、習字、裁縫といった教養を身につけさせられる。今で言う、お嬢様教育を受けさせられて育ったのである。1865(慶応元)年、17歳で浅子氏は広岡信五郎氏の元に嫁ぐ。広岡家の一員となった浅子氏は、家業である加島屋の内実を見て行く末に危機感を抱く。自分がしっかりしなければと思い立った彼女は、夫信五郎氏の理解を得て、学問を修めようと励んだ。おっとりした御曹司であった夫だが、生涯浅子氏の良き理解者であったと言う。

 浅子氏の抱いた危機感は、結婚から3年後に現実となる。明治維新が起こり、新政府は、加島屋を含む大阪商人にも、巨額の御用金の献金を命じた。江戸時代より長州藩と取引のあった加島屋は、何とか危機を乗り切りることが出来た。次なる危機は、1871(明治4)年に訪れた。廃藩置県により、諸藩への融資が焦付き、主要な収入源が途絶えてしまったのだ。家業の重大な危機に直面し、浅子氏は、今こそ自分が力を発揮すべき時だと腹を据え、加島屋の経営に参画することになる。その後、浅子氏の八面六臂の奮闘の甲斐あって家業は再生され、次に加島屋は炭鉱事業に進出する。さらに、1888(明治21)年には、加島銀行を設立する。炭鉱事業は後に政府に買収されたが、さらに転機が訪れる。

 1896(明治29)年、一人の紳士が浅子氏を訪ねて来た。成瀬仁蔵と言い、大阪の加島銀行本店から近い、梅花女学校の校長であった。成瀬氏ははクリスチャンであり、女子大学設立の構想を抱き、協力者を探していたのである。初対面では色良い返事をしなかった浅子氏であったが、贈られた成瀬氏の著書「女子教育」を読み、大きな衝撃を受ける。成瀬氏は、女子を、「人」として、「婦人」として、「国民」として教育するとの理想を説き、その具体論を詳細に述べていた。幼少期より、女子に学問は不要とする当時の商家の中で、独力で学問を修めて来た浅子氏にとって、成瀬氏の理想は、深く心に染み渡った。

 こうして、浅子氏は日本女子大学校(現在の日本女子大学)の発起人の一人として、学校設立のため奔走し、苦難の末、ついに1901(明治34)年、日本初の女子高等教育機関である、日本女子大学校が開校する。その頃、浅子氏は、別の新規事業の準備も進めていた。生命保険事業である。当時は生命保険会社の新設ブームであり、そのうちの1社であった、浄土真宗を基盤とした、名古屋に本社を置く真宗生命を買収したのである。社会公益のためとの目的のもと、1899(明治32)年のことである。経営権を取得すると、早速本社を京都に移し、社名を朝日生命へと変更した。その後、乱立する生命保険会社を集約したい政府の意向もあり、1902(明治35)年、朝日生命は、護国生命、北海生命と三社合併を果たし、ここに、今日に至る大同生命が誕生する。浅子氏自身は大同生命の経営陣には加わらなかったが、株主構成は広岡家が75パーセントを占め、いわば生みの親としての役割を果たしたのである。時に浅子氏54歳(数え年55歳)であった。

 その後、1904(明治34)年に夫信五郎氏が64歳で死去すると、浅子氏は、事業を娘婿に委ねて潔く引退する。その後の人生を、女性の地位向上のための活動に専念するためであった。愛国婦人会の活動に参画しながら、日本女子大学校の機関誌に寄稿するなど、言論活動にも積極的に取り組んだ。浅子氏の人生に最大の転機が訪れたのは、そのような時である。後に自ら、「新たな人生」と語った、キリスト教との出会いである。そのきっかけの1つは、60歳の時に受けた乳癌手術であった。万が一を覚悟し、身辺の整理を行なった浅子氏であったが、無事手術が終わった時、「天はなお何かをせよと自分に命を貸したのであろう。」と感じたと言う。もう1つは、梅花女学校校長であった成瀬氏から紹介され、宮川経輝牧師と出会ったことである。自分の知らない宗教を学ぶためという理由で、宮川牧師に師事して聖書を学ぶことにしたのである。

 聖書を学び始めた浅子氏は、避暑に訪れた軽井沢で霊的経験を感じ、そこでキリスト教信仰への確信を持つ。こうして浅子氏は、1911(明治44)年のクリスマスに、宮川牧師が牧会する大阪教会において洗礼を受けた。62歳であったが、新しい人生のスタートである。浅子氏は、言論活動の場をキリスト教系のメディアに移し、伝道活動で全国を巡回した。代表的な活動として、廃娼運動や禁酒運動などを進めていた、キリスト教婦人矯風会での働きがあった。また、1917(大正6)年からは、基督教世界というキリスト教系新聞で連載を開始する。その際、浅子氏が名乗ったペンネームが、「九転十起生」というペンネームである。クリスチャンとなった浅子氏の、活動の集大成ともなったのが、御殿場に建設した別荘で開催された、若い女性たちとの勉強会であった。合宿形式で開催されたこの勉強会は、浅子氏の死の直前まで続けられ、市川房江ら、後に政治、教育、ジャーナリズム、文学など各分野で活躍する女性たちの若き日の姿があった。

 御殿場の勉強会で参加者らが見た浅子氏は、かつての叱咤激励する女性経営者ではなく、若い女性たちと共に学び、語り合う、穏やかな老婦人の姿であった。浅子氏は、最後まで実践の人であり、学び続ける人であった。1919(大正8)年1月14日、浅子氏は、東京・麻布の別邸で、その波乱に満ちた地上での生涯を終えた。彼女が創設した日本女子大学校での追悼式で弔辞を述べたのは、同校の創立委員長も務めた大隈重信氏であった。生前浅子氏は、自らの人生をこう語っている。「九度転んでも十度起き上がれば、前の九度の転倒は消滅して、最後の勝利を得るものである。斯くの如く、転んで起き上がって歩くのでなければ、本当にしっかりとしたあゆみではない。そしてすべての迫害四囲の習慣、失敗など、これらの万難を排して得た月桂冠は、真の光輝ある勝利者の頭上のみかざされるのである」

『正しい人は七度倒れても、また起き上がり、悪しき者はわざわいでつまずくからだ」(箴言 24:16 新改訳)


 広岡浅子氏は、その生涯で多くのことを成し遂げた女性であった。キリスト教の信仰を持つ前の数十年間もそうであり、クリスチャンとなった62歳から召天した69歳までの7年間も、同じかそれ以上の実を結んだ人生であったようにも思える。神は、浅子氏がこの世に生を受ける前から、彼女の人生に計画を持っておられた。浅子氏は、その計画、神から与えられた召しに応えた人生を送ったと言えるだろう。なお、拙稿は、大同生命のホームページに掲載されている、「広岡浅子の生涯」を参考に執筆したことを明記しておきたい。
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真理は私たちを自由にする(記事No.60)

 今日10月31日は、衆議院選挙の投票日である。私は、数日前に、妻と期日前投票を済ませて来た。京都に移り住んでから、初めての選挙権行使である。昨年は、2月に市長選挙があったのだが、当時は東京に住んでいたので部外者であった。もし、京都市民であったなら、決して現職の門川市長には投票しなかったとは言える。それほど、門川市政は碌でもないものと実感している。今回は国政選挙であるから、日本の今後最大4年間の国家運営を委ねても良いと思える、候補者や政党に投票する訳である。自分の支持できる候補者や政党が無い場合もあるだろうが、その場合でも、批判票であったとしても、投票することが国民の権利であると同時に義務であろう。私は、棄権は白紙委任と同じであり、健康上の支障でも無い限りは、必ず投票に行くべきだと考えている。

 日本では、残念ながら、国政選挙や地方選挙で、投票率が50パーセント前後であったり、それを下回ることも珍しくない。有権者の中には、あらゆる選挙において、投票しない人々もいるだろう。一方で、台風でも大雪でも、必ず投票に行く人々もいる。組織政党と言われる、公明党や共産党の支持者などはそうであろう。投票に行くことが国民として正しい訳だが、どの候補者や政党に投票するかは、他人から薦められることはあったとしても、決して強いられるべきものでは無い。まして、政党や政治団体でも無い企業や宗教団体などが、その社員や信者に対して、特定の政党や候補者に対しての投票を、事実上強制することがあってはならない。もし、例えば宗教団体などが、信者に対して、特定の政党や候補者への投票行動を、信心や宗教的行動とも結びつけて押し付けるならば、そのような組織は、本来は宗教団体の看板を下ろすべきであり、それが宗教法人ならば解散するべきであろう。

 このように書くのも、投票行動は、私たちの思想や信条の発露の1つであって、内心の自由に関わることとして、他人から干渉されるものでは無いからである。自由と言えば、カナダのある病院で看護師として勤務していた女性が、最近、コロナ・ワクチン接種を拒み続けたために解雇された際に語った言葉が印象に残ったのだが、彼女はこう言っていた。「私は、救いの次に大切なことは自由だと信じています」「救い(Salvation)」という語を使っていたことと、その後で、「主(Lord)」と言う言葉も使っていたので、恐らくクリスチャンであって間違いないだろう。私も、彼女と同じ考えである。私たちの主であるキリストが、なぜ十字架にかかられたのか。それは、私たち人間の身代わりとなって罪の罰を受け、私たちを罪の束縛から解放し、自由を得させるためであった。ここで言う罪とは、創造主である神から背を向けた状態のことであり、それによる、あらゆる悪しき心や行いのことである。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ人への手紙 5:1 口語訳)


 今日の総選挙で選出される、選良とも呼ばれる国会議員たちは、当選後も日々国政に関する勉強に励むはずである。(少し嫌味かも?)特に新人議員などは、国立国会図書館をよく利用する人たちもいるだろう。もっとも、国会図書館は原則として誰でも利用出来るので、一般市民の利用者の方が多いのであろう。その国会図書館の東京本館ホール中央出納台の上には、「真理がわれらを自由にする」と言う言葉が、日本語とギリシア語で刻まれている。その由来は、国会図書館のホームページで説明されているので、詳細は省くが、国立国会図書館法の制定に参画した、参議院図書館運営委員長羽仁五郎議員(当時)が、ドイツ留学中に見た大学の銘板を基に創出したとされる。なぜ、日本語に加えてギリシア語でも刻まれているかと言えば、その銘文は、(原語はギリシア語であった)新約聖書の1節を記したものであったからである。そして、国立国会図書館法の前文にはこうある。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として、ここに設立される」

「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書 8:32 口語訳)


 日本国憲法には、国会は国権の最高機関と規定されている。日本国の最高機関である国会により設立され運営されている国会図書館は、設立当時の国会議員たちが知ってか知らずか、聖書的な理念に基づき創設され、その理念は、今なおその根拠法と建物の中に刻み込まれているのだ。ああ、もし多くの国会議員たちが、その理念に立ち返ることが出来たら、少なくとも、国民を幸せにする政治を、本気で実現しようとするのではないか。私たちは、政治家の有様に憤ったり嘆息するだけでなく、神を畏れ真理に固く立つ政治家が起こされるよう、忍耐強く祈り続けなければならない。
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深く考えないことの末路(記事No.59)

 昨日から今日にかけて、札幌に出張して来たのだが、日中は気温が17度近くもあり、歩くと少し汗ばむ程であった。新千歳空港に到着した時には、ほとんど陽が落ちていたので、空港から札幌に向かう快速エアポートの車窓からは、外の景色は夕闇に紛れていた。帰路は昼間であったので、空港に向かう列車の窓外には、所々紅葉の林が美しく過ぎて行った。北海道は、真冬を除けば過ごし易く、自然豊かで魅力的な地である。最近言われるようになった、ワーケーションを、夏から秋にかけての北海道で実践出来たらと願ってもいる。

 さて、本土に生まれ育った私から見て、魅力溢れる北海道であるが、札幌を除けば、必ずしも繁栄しているとは言えない。かつての基幹産業の衰退や、全国的現象でもある、農漁村部の過疎の深化などで、どちらかと言うと活力が失われつつある自治体が多い。コロナ前のインバウンドによる経済効果も、道全体を活性化させるまでには至っていなかった。活力低下の根本的原因としては、一番は、明治以来の中央集権的な画一的行政システムと、それを所与のものとして受け入れて来た道民の意識があるだろう。もちろん、それは、北海道に限らず、全国的に言えることである。

 衰退しつつある自治体の中には、起死回生を図ろうと、中央政府がぶら下げる、特定の補助金や交付金といった、人参に飛びつくところも出てくる。人参を得るには、対価を支払わなければならないのは当然である。自治体が、つまりは、地域住民が支払う対価とは、往々にして、当座は大したことが無いように思えても、時が経つにつれ、確実に多くのものが失われていくものである。10月26日に町長選挙の投開票が行われた、北海道寿都(すっつ)町も、人参に飛びついた自治体の1つである。

 20年振りという今回の寿都町長選挙では、高レベル放射性廃棄物最終処分場選定に向けた文献調査の継続が最大の争点となったが、現職の片岡晴男氏(72)が対抗馬の前町議を下し、6選を果たした。争点となった文献調査は、片岡町政5期目の2020年8月に、町長が町議会への提案を経ずに、突然応募を表明したものである。寿都町は、同年10月に原子力発電環境整備機構への応募を行った。その後、是非を問う住民投票条例の制定案が住民直接請求により町に提出されたが、同年11月の議会で否決されている。確か東京新聞に掲載されていたと記憶するが、片岡町長は、文献調査応募について新聞記者から問われ、「いいじゃないの、深く考えなくって」と答えていた。

 文献調査そのものは、建前上は放射性廃棄物最終処分場の選定決定を前提としたものでは無いが、北海道や寿都町の周辺3町村は、調査自体と、それによる20億円と言われる国からの交付金受け取りを辞退しており、寿都町の独走が際立つ形となっている。寿都町には、今後どれくらいの交付金が配分されるのかは、現時点では明確でないが、人口2830人(2021年3月末時点)、年間町予算約55億円(令和3年度)、その内町税収入は僅か4パーセントの小自治体とすれば、かなりインパクトのある収入になるだろう。

 原子力発電所など、核関連施設を誘致することは、その地域にどんな影響を及ぼすことになるのか。近視眼的には、それなりに大きなメリットもあるだろう。国からの交付金収入などに加えて、電力会社などからの様々な協力金もある。それらにより、道路や町施設の整備も進む。原発や関連企業での雇用も創出され、勤労者が増えれば、税収増や経済効果も期待出来る。しかし、デメリットもまた大きい。福島第一原子力発電所の事故では、首都圏を含む広域が放射能汚染されてしまった。チェルノブイリ基準では、居住禁止となる汚染度の地域にも、国や福島県は住民を戻そうとしているのが現実にある。

 長期的なデメリットは、ひとたび事故が発生したなら、周辺地域が重度に汚染されることだけではない。原発などの日常運転でも、放射性物質が環境に放出される。この点を、核関連施設誘致推進の旗を振る人々がどう考えているのか、分かりやすい実例がある。敦賀原発や、建設以来1度もまともに稼働せずに国費を食い潰して来た、高速増殖炉もんじゅが立地する敦賀市の、高木孝一市長(当時)が、1983年1月に、石川県志賀町で開催された講演会で語った言葉である。「協力金で棚ぼた式のまちづくりが出来るからお勧めしたい。」、「50年後、100年後に生まれる子供が皆かたわになるか分からないが、今の段階ではやった方がよいと思う。」と、当時志賀原発の誘致を進めようとしていた町で語ったのだ。ちなみに、この高木市長は、あの高木毅元復興大臣の父である。血は争えないとも、思わせてくれる親子ではある。

 寿都町が候補地選定調査に手を挙げた、放射性廃棄物最終処分場は、その辺の産業廃棄物処理場(これはこれで問題もあるが)とは全く別物である。公表されている中では、現在世界で唯一の放射性廃棄物最終処分場である、フィンランドにあるオンカロは、堅い岩盤を地下400メートル以上も掘削して整備された。その想定保管期間は、何と10万年である。私は、聖書の記述を信じる創造論に立った歴史認識を有しているが、それに基づけば、10万年前は、この地球自体が今の形では存在していなかった。あるいは、進化論に立っている場合でも、10万年前と言えば、人類の祖先がアフリカに出現した頃であろう。日本列島は、ユーラシア大陸と陸続きだった頃である。

 高濃度放射性廃棄物の最終処分場を設置することは、本来ならば、10万年単位で物事を計画するべき事案である。どう理論を飛躍させても、10万年間安全に保管出来る確証など得られるはずも無い。この一事を以てしても、原子力発電とは、現在だけでなく、未来の人々にも重荷を負わせる、明らかに利己的で不道徳なシステムだと確信する。そして、それは、ほとんど全ての利益は自分たちに、不利益は後代を含めた他者に付け回す仕組みである。私たち今に生きる者たちは、将来の世代に、豊かな国土と、そこに根を張る人々の活き活きとした暮らしのある社会を、受け継いでもらう責任があるのではないか。

「彼が残して食べなかった物とては一つもない。それゆえ、その繁栄はながく続かないであろう」(ヨブ記 20:21 口語訳)


 深く考える必要は無いとの、片岡寿都町長であるが、残念ながら、町民多数の民意により再選されてしまった。まだ最終処分場設置が確定した訳では無いが、このまま進めば、片岡町長だけでなく、彼を支持した町民も、未来の人々から厳しく責められることになるだろう。後は野となれ山となれか、あるいは、我が亡き後に洪水よ来たれのメンタリティか。その時、豊かな自然に恵まれた寿都町は、寂れた生気も魅力も無い田舎町として、北海道の片隅に、ひっそりと佇むだけであろう。
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分断して統治せよ(記事No.58)

 衆議院選挙が公示され、各地で政党や候補者による選挙運動が繰り広げられている。いつの頃からか、日本では、選挙公約は破られることが普通になってしまい、マスコミはもちろんのこと、有権者も公約不履行に対してあまり厳しい目を向けなくなってしまった。であるから、選挙公約の実質とは、政党が真面目に実現を図るべき、国民との約束ではなく、単なる政治的スローガンのようなものであろう。そうは言っても、各政党の公約には、日本をどこへ導こうとしているのか、そのメッセージを読み取ることは出来る。

 今総選挙の公約の中で、特に気になる点は、ワクチン・パスポート(接種証明書)の導入に関する政策である。政党レベルでは、国政政党の中では、ワクチン・パスポートの導入を図ると明確に打ち出しているのは、自由民主党だけである。その他の政党は、仮に導入に前向きであったとしても、選挙公約化はしていない。なぜ私が、ワクチン・パスポートの導入公約に着目しているのか。それは、導入されれば、国民の自由を束縛すると同時に、ワクチン接種の有無によって、国民の間に分断が生じるからである。

 かねてから書いているように、ワクチン・パスポートは、国民の健康を守るためのものではなく、国民の管理を強化するための方策であると受け止めて良いだろう。新型コロナ・ワクチンは、現在治験中のワクチンであり、その有効性や安全性は、接種を進めながら確認されるであろうものだ。また、接種の結果健康被害が生じたとしても、ワクチンを供給する製薬会社は、免責される契約であると言われている。ワクチン・パスポートを既に導入している国々で、未接種者がどのように社会活動を制約されているか、その実態は、意図的な差別であり、類別であると言える。

 昨年から続くパンデミックと世界的なワクチン接種推進は、明らかに各国で国民間の分断をもたらしている。各国政府が、国民の間に分断を生じさせる意図は無かったと考えることは、あまりに無邪気であろう。なぜなら、分断を生じさせないような政策は採られなかったからである。日本においても、今後ワクチン・パスポートが導入されたならば、接種者と未接種者の間で分断が生じることになるのは確実である。既に、職場内や学校内で、あるいは時には家庭内でさえも、ワクチン接種が正しく、非接種は誤りであるといった、非科学的かつ差別的な考え方と、分断が生じているところがあるだろう。

 収容所国家に堕してしまったオーストラリアなど、いつくかの国々では、ワクチン接種をしない人は、公衆衛生上の脅威と見做していると言う。しかし、感染症を予防するために、ワクチン接種ではなく、自然免疫力を高める努力をすることを選択した人々が、なぜ社会の脅威になるのか、そこには何らの科学的根拠は無い。あるのは、ワクチン接種が最も有効で不可欠な感染症対策であると、あらかじめ結論付けた各国政府や一部の研究機関及び報道機関による、都合よく提示された数字やパフォーマンスだけである。

 このように、国民の間に分断をもたらしている元凶は、(共産主義国などを除き)民主的に選ばれているはずの政府であることが分かる。これは、異常ではあるが、特別なことでは無い。古今東西で、独裁的な性質を有する為政者が行なって来たことである。「分断して統治せよ」あるいは、「分割して統治せよ」と言う言葉を、聞かれたことがあるかも知れない。この言葉は、古代ローマ帝国で既に存在していたと聞く。しかし、最もそれを有名にしたのは、世界中に植民地を有していた、かつての大英帝国であるだろう。彼らの植民地統治の基本は、被支配民らの中で、民族的、宗教的に少数派を社会の要職に登用し、多数派を支配させるという、間接統治の手法であった。

 少数派に支配された多数派は、当然のことながら、自分たちを直接支配する者たちに憎悪や嫌悪の念を抱く。本来は、彼らの共通の敵は、植民地統治の大本の宗主国であるにも関わらず、被支配民同士で敵対することで、大英帝国は安泰となると言う仕組みであった。これと同じ統治手法は、歴史を見れば、多くの国々で行われていたことである。そして、現在進行形で、世界の多くの国々で行われていることでもある。もし、私たちが歴史の教訓に学ぶのであれば、国民の間に分断を生じさせるのが確実な政策は、断固拒否するべきであろう。私たちは、たかがワクチン程度のことで、互いに裁き合ったり、反目し合ったりすべきではない。国民にとって重要な課題は、他にも山積しているのだ。

 いくつかの国々の統治者たち、特に世界統一国家の実現を願う者たちは、国民が彼らの推し進める政策に疑問を持たず、ただ羊のように黙々と従うことを求めている。疑問を持つ者や従わない者は、社会から排除し、そのことを他の人々が疑問に思わないように仕向ける。ワクチン・パスポートは、そのための効果的な手段となっている。現時点で、英国がワクチン・パスポート導入を一旦見送り、北欧諸国も導入しないことを決めた。また、米国でも、これまでに導入を決めたのは、ニューヨーク、カリフォルニア、ハワイの3州だけである。既に導入されているフランス、イタリア、カナダ、オーストラリアなどでは、激しい反対運動が継続中である。世界中で、決して少なく無い人々が、ワクチン・パスポートに隠された意図を見抜いていることには、一筋の光明が見出せるであろう。このような世界を生き抜くためには、神からの賢明さと、神に対する素直さが共に必要である。

「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい」(マタイによる福音書 10:16 聖書協会共同訳)
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ある鐘にまつわる話(記事No.57)

 京都に移り住んでから1年半ほどになるが、この街の良い面と悪い面、好きな部分と嫌いな部分など、次第に明確に認識出来るようになった。否定的な面も多くあるが、それらを書くと、拙文を読んでくださる方の徳を高めるとは限らないので、今回は、肯定的な面の1つを取り上げたいと思う。その京都の良い点、魅力的な点の1つとは、散歩に適した場所が多くあることである。今朝は、右京区花園の近くに用があり車で出かけたのだが、時間が少しあったので、車を駐車場に停めて周辺を散歩してみた。冷涼な秋風が吹いていたが、陽が出ていたこともあり寒くはなく、散歩日和であった。

 花園には、妙心寺という臨済宗の禅寺があるのだが、散歩してみると境内は随分と広く、ゆっくり全域を歩けば1時間以上かかるかも知れない。公式ホームページの案内によれば、その境内には、46の塔頭(たっちゅう)寺院(大きな寺の中にある小寺院)があると言う。たまに近所の人と思われる通行者とすれ違う以外、観光客はほぼ皆無であり、静かに散歩することが出来た。ちなみに、妙心寺は、境内に入るのに拝観料を払う必要はなく、宗教法人の免税特権を得ているとは言え、誰もが自由に境内を通行できるとは、数ある京都の寺院の中でも良心的な寺のようである。

 清掃が行き届いた境内通路を散歩しながら、随分と建物や塔頭が多くあるなと思っていたのだが、ある山門の前を通った時、その春光院と言う塔頭の門前に、銀色の金属製の案内板が設置されているのが目に入り、引き寄せられるように近づいて、その案内板に見入った。その案内板には、1つの鐘の絵が描かれており、説明文は全て英語で書かれていた。何と、案内文に描かれた鐘には、IHSの文字と十字架が記されていたのである。「IHS」とは、ギリシャ語の「イエス(イエースース)」の綴りの最初の3文字であり、イエス・キリストのシンボルとして、ローマ・カトリック教会などで伝統的に用いられて来た。英語で書かれた説明文は、明らかに外国人観光客を意識したものであろうが、近くには、日本語や中国語の説明文が記された別の木製案内板もあった。

 その鐘の由来はこうである。元々その鐘は、キリスト教禁教令が出る前に、京都にあったキリスト教会、当時の呼び方で南蛮寺に設置されていた物であると言う。禁教令の後、南蛮寺は破壊されたが、その鐘は仁和寺などを経て、やがて春光院に移されたそうだ。禁教令で、日本全土のキリスト教会や神学校、福祉施設などは全て破壊され、十字架やロザリオなどキリスト教に関連する物は全て破棄された。しかし、各地で膨大な数の宗教用具や信仰を象徴する意匠などが施された物品が、幕府の激しい弾圧にも関わらず隠匿されたことは想像に難くない。春光院に保存されている鐘も、その1つである。今回は、春光院は関係者以外立ち入り禁止になっており、鐘の実物を見ることは出来なかった。帰宅してから、春光院の公式ホームページを見てみると、戦争中に軍部が武器製造のために各寺院から鐘を供出させた時にも、当時の住職は、受け継いだそのキリシタン鐘を酒樽に入れて竹藪に隠し、守り抜いたとのことである。

 鐘の他にも、春光院には、キリスト教のシンボルが隠されている花鳥図の襖絵があると言う。実は、全国各地で同様に、キリシタン遺物やキリスト教のシンボルが隠された墓や灯籠などが遺された寺院がある。名古屋にある、浄土宗寺院の栄国寺もその1つであり、何年か前に、名古屋在住のクリスチャン実業家の友人らに案内してもらったことがある。栄国寺の境内には、キリシタン遺跡やキリシタン灯籠などのキリスト教遺物が残されており、寺内には切支丹遺跡博物館がある。徳川幕府の禁教令の下、1664年にキリシタン200余名が処刑された刑場跡に、当時の尾張藩主徳川光友の意向を受け、刑死者を弔うために、1682年に建立されたのが当寺であると言う。以来、340年近く経つ今日に至るまで、歴代浄土宗門徒の方々により、刑死(キリスト教の立場から見ると殉教)したクリスチャンたちが弔われて来た。その慈悲深い行いは、宗教の違いを超えて、ありがたいことであり、カトリック司教が感謝の意を捧げるために訪れたこともあると聞く。

 なお、栄国寺周辺では、江戸期より大火の記録が無いとのことであるが、戦時中に名古屋が広範囲わたり空襲に遭った時にも、栄国寺一帯に投下された焼夷弾は全て不発弾となり、当寺の付近のみは被災を免れたと言う。禁教下に始まり、絶えることなく、殉教したクリスチャンを弔い続けて来た栄国寺とその門徒に対する、神の恵みがあったためであろう。京都の春光院もそうであるが、父なる神は、その子供たちであるクリスチャンたちに善意を示してくれた人々に、恵みを以って報いを与えて下さることが分かる。今日は、30分ほどの散歩ではあったが、仏教寺院で思いもかけず、嬉しい発見をした心地良い散歩となった。

「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイによる福音書 10:42 口語訳)
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血の責任(記事No.56)

 一昨日、夕方に用件があった東京に向かうため、京都駅13時1分発新幹線に乗車した。ところが、滋賀県内を走行中に車内放送があり、豊橋駅で線路に立ち入った人が列車に接触したため、私の乗車していた新幹線も途中で止まるという。程なくして、列車は停止、暫くしてから岐阜羽島駅まで移動し、そこで運転再開を待つと言う。停車中に何回か車内放送があったのだが、その度に運転再開予定時刻が延びて行った。ようやく運行を再開したものの、今度は先行列車で急病人が出たため救護活動中とのことで再度停車し、結局約4時間遅れとなった。

 翌日の新聞報道では、豊橋駅で通過中の新幹線のぞみ号に人が接触し、遺体は損壊が激しく、性別も年齢も不明とのことである。また、豊橋駅には、ホーム柵は設置されていなかったと言う。状況からすると、ホーム転落事故ではなく、自殺であろう。接触と言うよりも、衝突であり、遺体は原形を留めず四散したため、現場検証が長時間に及んだのであろう。鉄道自殺とは、かくも悲惨な結果となる。

 いつの頃からか、首都圏や関西圏の鉄道路線では、飛び込み自殺が毎日のように起こるようになった。自殺数もほとんど人口に比例すると仮定すると、首都圏では特に多い訳である。私も、数年前までは満員電車で通勤していたので、特に朝の時間帯は、毎日のように、どこかの路線で人身事故と称される鉄道自殺が発生し、しばしば電車の遅れを体験した。以前は、長時間満員の電車内に缶詰になったり、予定に遅れそうになると、鉄道遅延の原因を生じさせた自殺者に対して、迷惑なことをするなとも思ったものである。

 ところが、10年くらい前に、当時開拓していた教会の礼拝に、自殺願望を持っていたと言う女性が出席し、彼女の話を聞いたことをきっかけに、鉄道自殺に対する受け止め方が変わった。その女性の話では、死にたいといつも思っていた時期には、駅のホームに立ち、電車の近づく音が聞こえて来ると、今飛び込んだら楽になるだろうなという思いがよぎり、体が線路の方に引き込まれそうになったのだと言う。なるほど、鉄道自殺者を図る人が、遺体となった自分の姿や、他の人々の迷惑など考える余裕は無いであろう。

 こうなると、鉄道自殺が起きる原因は、自殺志願者の方にあると言うよりも、分かっていながら十分な対策を実施しない、鉄道会社や主務官庁である国土交通省の怠慢にあるのであろう。今回事故が発生した豊橋駅のように、新幹線の駅でさえも、未だにホーム柵が設置されていない所があるとは、安全よりも利益追求を優先させるJR各社の体質が端的に現れている。多くの私鉄各社も、同様の体質があると思う。自動改札機の設置スピードに比べて、ホーム柵やホームドアのそれは、明らかに遅いという事実からも、そのことは明らかであろう。

 多くの場合、自殺者は、精神的に追い詰められることで、自ら死に至るのであろう。しかし、それはまた、霊的な問題でもある。人が重苦しい精神的問題を抱えると、そこに悪霊が足場を築くことがある。そして、自殺を促す死の霊に囚われてしまうと、思いの中に、死にたいという願望が強くなっていく。周囲に親身になって手を差し伸べてくれる人がいれば、助けを得られることもあるだろうが、そうでない場合は、最悪の結末として自ら死を選んでしまうことにもなる。自殺者は自らの選択の実を死という形で刈り取るが、その死に対する責任を有しているのは、往々にして当人だけではない場合がある。いじめ自殺などは、死に追いやった者たちや、いじめを止めさせるべき立場だった者たちに、全面的な責任があるケースと言えよう。

 鉄道自殺の場合も、責任があるのは自殺者当人だけではない。むしろ、防止できる技術的方策がありながら、それらの導入を様々な理由を見付けて怠って来た、鉄道会社各社の歴代経営陣と、国土交通省の歴代大臣と幹部たちに大きな責任がある。彼らは、これまでに鉄道自殺した夥しい人々の血の責任を負っている。その責任を人々は見逃したとしても、神は知っておられる。責任を負っている人々は、これまでの不作為の罪を悔い改めて、実効性のある自殺防止策の導入を急ぐべきであろう。

「『できなかったのだ』などと言っても 心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される」(箴言 24:12 新共同訳)
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預言的ミニストリー(記事No.55)

 昨日、東京都内にある教会で奉仕をさせていただいた。礼拝メッセージ(説教)と、礼拝後には希望者に対して個別に祈る時を持った。祈りの時間には、その教会の牧師同席のもと、礼拝堂の片隅で順番に祈らせていただいた。私たち新約教会では、牧師などの教役者が兄弟姉妹のために個別に祈る時には、しばしば個人預言が伴う。私自身は預言者ではないが、そのような機会には、預言的賜物を用いて務め(ミニストリー)を行う。昨日も同様であり、祈りと個人預言がセットであった。

 個別の祈りや個人預言の中身については、当然書けるはずもないが、幸い兄弟姉妹に励ましを与えることは出来たようである。預言者の中には、祈る時にビジョンが見える人もおり、その場合は、それに伴って示しが与えられる。その示されたことを語るとき、それは預言となる。私の場合は、祈る時に印象(イメージ)が与えられることが多い。過去に、あることについて、その中身だけでなく、時期もピンポイントで示されたことがあったが、それは特別な体験であり、私の場合普段は、未来の出来事を期日付で指し示すような示しは与えられない。

 預言や預言ミニストリーについては、キリスト教会の中でも、否定的な考えを有しているところも多い。個々のクリスチャンについても同様である。預言とは、聖書の言葉そのものがそうであり、預言者とは、聖書の言葉を語る者がそうであるという考えである。私も、その考え自体には同意する。同時に、現在においても、預言の賜物は与えられ得るものであり、預言の働きに召されたクリスチャンも存在することを信じている。預言については、聖書解釈が大きく分かれてはいるが、それらの考え方の違いに関する詳細は、興味のある方が自分で調べていただきたい。

 これは、癒しや解放のミニストリーや異言(聖霊の霊感を受けて、知らない言葉で祈ること)を語ることについても言えるが、行き過ぎや混乱を警戒するあまり、それらの賜物や働きまでも否定することは、残念であり、もったいないことである。預言の場合も、聖書に基づくガイドラインに沿った用い方をしないと、混乱や弊害が生じる場合もある。また、神の霊ではない、別の霊による惑わしにも警戒する必要がある。個人預言の場合も、その人自身の悩みや問題について何か聞いている場合には、先入観が入ることを防ぐために、余程明確に示されない限りは、あえて語らない方が良いと思う。であるから、昨日祈った際も、相手が自ら話さない限り、祈りの課題については聞かず、ただ示されたことを語った。

 神から示されて語られた真の預言は、人を慰め、励まし、建て上げる結果をもたらす。逆に、人を傷付け、落ち込ませ、混乱させるならば、それは真の預言ではなく、それを語った者は、神の霊で預言したのではない。全ての霊的務めがそうであるように、預言とそれを語る者もまた、その実によって判断されるべきである。中には預言と称して、実は人々をコントロールしようとしているケースもあるので注意を要する。また、預言を受けたいと願う者は、それが占いとは違うことを認識している必要がある。占いは聖書が明確に禁じている。何か選択に悩んでいる時には、まずは、自分で神に祈って導きを願うべきである。その上で、預言によっても確認が与えられるなら感謝なことである。

 あらゆる預言的ミニストリーにとってそうであるが、クリスチャンとしてのいかなる務めや働きにとっても、最も欠かすことの出来ない要素は、愛があることである。神の愛によって動かされる時、自己中心的な動機は潔められ、自らに栄光を帰すような思いは消し去られる。であるから、どんな務めを行うにしても、まず、神の愛を求めることが大切である。愛に基づいて預言を語るのであれば、相手を支配しようと思うはずは無く、まして、それを通して金銭的・物質的な利得を得ようとはしない。預言的ミニストリーに携わりたいと願うならば、神の愛を祈り求めることから始めるべきであろう。
 
「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(コリント信徒への手紙一 14:1 聖書協会共同訳) 
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誰の力によるのか(記事No.54)

 先週、ある有名女子大総長の講演を聞く機会があった。自ら積極的に参加を申し込んだとは言えないのだが、仕事絡みで案内され出席して来た次第である。講師は、長く官僚を務め、その後大学教員となり、トップに上り詰めた優秀な女性である。講演のテーマを書くと、その人が誰だか分かってしまうかも知れないので、その部分には触れないことにする。なぜなら、はっきり言って、話の内容は面白く無かったからである。私大総長という公人ではあるが、政治家や官僚のような公職者では無いので、一方的な批判は控えようと思う。

 その講演の中で、コロナ禍にあっても、危機をチャンスに変えることが出来るという話があった。お説ごもっともではある。誰もが、この状況をチャンスに変えられるものなら、変えてみたいと思うだろう。実際、コロナ禍を絶好のビジネスチャンスと捉えて、大きく売り上げを伸ばしている企業や、収入や資産を増やしている人々もいるだろう。それはそれで、公正な競争の中での結果であれば、決して非難されるべきものではなく、むしろ、実力や才能があるということであろう。

 私が気になったことは、危機をチャンスに変えるのは、誰の力によるのかということである。もちろん講師は、それは自分自身の力だと言いたいのであろう。確かに、人はそれぞれ、自分の内側に力を秘めていると思う。だが、その力を十二分に発揮している人もいれば、全く発揮出来ていない人もいる。今回の講師のように、社会的には誰もが認める成功者であるならば、これまで自分の力をよく発揮して来たであろうし、そのための努力も人一倍重ねて来たはずである。その点は、賞賛されるべきかも知れない。しかし、世の中には、自分の力を上手く発揮し切れていない人々も多い。それは、必ずしも、それらの人々の努力が足りなかったのではなく、人生の歯車が思うように噛み合って来なかったという場合もある。

 当たり前のことではあるが、人生が常に右肩上がりということはあり得ない。それを停滞期というか、踊り場というか、あるいは暗黒時代と言うかはさておき、誰でも困難な状況に直面することがある。自分の努力や精神力で、そのような状況を乗り越えられる人もいるだろう。多くの場合は、家族や友人の助けを借りて、困難を乗り越えるのであろう。それはそれで、人の優しさにも触れることが出来る良い機会ともなるだろう。しかし、誰もが周囲の人々からの助けを常に得られるとは限らない。苦難の中で、誰からの助けも得られずに、一人苦しみもがく人々もいる。自分の力はもとより、他の人々からの力も得ることが出来ない状況に陥るケースもある。

  人の力は有限であり、それは、頼れる場合もあれば、頼れない場合もある力である。自分自身の力も、人々の力も、組織の力も、いや国家の力さえも、それは有限であり、絶対的な力とは言えない。私たちが、それらの力に全幅の信頼を置くだけであるなら、コロナ禍に象徴されるような想定外の困難の中で、常に状況を乗り越えて行けるとは限らない。しかし、この世の全ての力を合わせたよりも、遥かに偉大な力を持つ方がいる。神である、イエス・キリストである。私たちが、困難や問題に直面した時、自分の力が足りないことを率直に認め、神の前にへりくだって、その助けを願い求めるのであれば、神からの偉大な力が私たちを強くしてくださる。例え私たちは弱い者であったとしても、神の内にあって強い者とされ、困難な状況を突破して行くことが可能となるのだ。この偉大な力を、是非とも自分のものとしていただきたい。

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」(エペソ人への手紙 6:10 口語訳)
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暗殺者の影に(記事No.53)

 最近、東京都内の駅や鉄道などで、通り魔事件が相次いで発生している。昨日も、上野駅構内で、男性2人が相次いで男に刺され負傷する事件があった。報道によれば、40代の犯人と、被害者2人には面識は無かったようである。今年8月には、小田急線車内で、30代の男が牛刀で乗客に襲いかかり、10人が重軽傷を負わされる事件が起こっている。同じく8月に、無差別の通り魔とは違うが、地下鉄白金高輪駅改札口付近で、20代の大学生の男が、知人の20代男性に硫酸をかけ、失明寸前の重傷を負わせる事件が発生している。昔から通り魔事件はあったが、連続して発生すると、最近この種の事件が増えている印象を持つ。

 さて、海外に目を向けると、イギリスで現地時間10月15日昼ごろ、エセックス州リーオンシーの教会で開かれた、有権者との対話集会に参加していた下院議員のデービッド・エイメス氏(69)が、25歳の男に刃物で複数回刺され死亡する事件が発生した。ロンドン警視庁の発表では、犯人は単独犯で、イスラム過激主義と関連している疑いがあるとのことだ。また、地元紙は、犯人をソマリア系と報じている。殺害されたエイメス議員は、保守派で、ブレグジット(EU離脱)推進派だったと言う。事件の背景に関する警察の迅速な発表に、何か不自然さを感じ少し調べてみた。イギリスの独立系インターネット・ニュース・サイトなどの報じるところでは、エイメス議員は、ワクチン・パスポートの導入に強く反対していたという。

 こうなると、犯人が本当にイスラム過激主義に影響されて殺害を実行したのか、疑問が生じる。イギリス国会では、まもなく、エイメス議員の主導で、ワクチン・パスポートに関する緊急討議が行われることになっていたと言う。その国会討議の直前に、ワクチン・パスポート導入反対の中心的議員が刺殺されたことが、果たして偶然であろうか?私は、この事件に既視感にも似た、日本で起こったある事件との相似形を感じざるを得ない。それは、2002年10月25日に発生した、石井紘基衆議院議員(当時61)の殺害事件である。民主党(当時)議員であった石井氏は、その日、国会に向かうために東京都世田谷区の自宅から出たところ、待ち伏せていた自称右翼団体代表の伊藤白水に刺殺されたのである。

 殺害犯の伊藤は、警察の取り調べに対して、石井議員に借金を申し入れたが拒否されたことで恨みを晴らすために殺したと供述した。裁判では金銭トラブルという動機は信用できないとされたが、真の動機が解明されることは無く、無期懲役の判決が確定した。ところが伊藤は、刑務所で彼と面会したテレビ朝日記者の質問に答えて、裁判での証言は出鱈目であり、実はある人物から頼まれてやったのだと告白したのだと言う。彼は結局、頼んだ人物の名を明かすことは無く、その後は記者との面会にも応じていないので、真相はなお藪の中である。しかし、殺害事件現場からは、石井議員が国会に提出する予定だった、鞄に入れてあった質問書類が手帳と共に紛失しており、その後も発見されていない。

 それでは、石井議員は何を質問しようとしていたのか?彼が、政界を震撼させるだろうと語っていたと言われる、その内容は何であったのか?石井議員は、1993年に日本新党から衆議院議員選挙に立候補し初当選して以来、政府支出の無駄遣いや政府機関の不正を徹底的に調査していた。そして、一般会計を遥かに上回る特別会計の闇を追求していた。ちなみに、石井議員が暗殺された2002年当時の一般会計予算は約83兆円であったが、同議員は、重複を除いた国家予算の総額は約200兆円あるのではないかと国会で指摘している。つまり、一般会計以外に毎年百数十兆円規模の公金が、国会の審議を経ることなく支出されていたのである。当然それらは、各省庁の官僚機構のコントロール下にあり、天下りや関連業界との癒着を生む温床ともなっていたことは想像に難くない。

 石井議員が暗殺された当時は、小泉純一郎氏が首相を務めていたが、小泉政権の期間中、政治的不正を調査していた新聞記者などが何人か不審な死を遂げている。前記の伊藤受刑者の告白でも頼まれたとされているように、それらも政治的暗殺であった可能性がある。指令者は、一部の与党政治家か高級官僚の周辺にいる、秘密工作を担当する者たちかも知れない。暴力団の中には、鉄砲玉レベルではない暗殺要員を抱えている組織もあると言われているが、あるいは、実行犯は彼らの可能性もあるだろう。また、ある種の半島系新興宗教団体の中には、別の事件で海外から暗殺者を招き入れた疑いが持たれる組織もあることから、親密な与党政治家の意を受けて動いた可能性も捨て切れない。そのあたりの話となると、推測の域を出ないことから、この辺にしておく。

 いずれにせよ、政治的暗殺は映画や小説の世界だけの話ではなく、今日においても、民主主義国家とされている諸国の中でも、現実に起こっている可能性が高い。ある人物が暗殺された時、それによって誰が最も利益を受けるのかを考えれば、おおよその背景は推測がつくであろう。しばしばそれは、一個人や一組織ではなく、政権や国際的な利権集団の可能性がある。ケネディ暗殺事件が今までそうであったように、私たちの前には真実が明らかになることは無いのかも知れない。暗殺者の影にいる者たちは、隠し通せると考えているのだろう。しかし、全知全能の神は知っておられる。そして、例え人の思いでは裁きが遅いように感じられていたとしても、必ず悪を滅ぼされる。権力者であっても、巨万の富を有する者であっても、誰も神の裁きを逃れることは出来ない。いつの日か必ず、私の尊敬している数少ない日本人政治家の1人である、石井紘基氏の無念も晴らされるであろう。

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のらくろが走る(記事No.52)

 数日前、首都高速道路を車で移動中、車体に「のらくろ」の顔が描かれたトラックが走っていた。のらくろとは、もちろん、同名の漫画に登場する主人公の犬のことである。「丸運」との屋号か社名かが表示されていたので、早速調べてみると、創業129年にもなる老舗運送会社であった。のらくろの絵は、同社のアイドルマークとして、1981年に導入されたそうである。

のらくろと聞いても、恐らくは50歳以下の人たちにとって、余程の漫画通か実家にその漫画があったので無い限りは、聞いたことも無いかも知れない。田河水泡原作であり、1931(昭和6)年から10年間、少年向け雑誌「少年倶楽部」に連載され、大いに人気を博した漫画である。主人公は、本名を「野良犬黒吉」と言い、通称が「のらくろ」である。のらくろは、大日本帝国陸軍を模した、「猛犬連隊」に二等兵として入隊する。のらくろは、やがて戦地に派遣され、中国兵(恐らくは国民党軍か)を模したと思われる、豚の敵軍と戦いを繰り広げる。のらくろは軍功を重ねて、最終的には大尉(中隊長)で除隊するという流れである。1970年から翌年にかけてテレビアニメが放映されていたようだが、私は小学生の時、親にねだって復刻版の漫画を全巻買って貰い読んだものである。

 私は、今は堅いテーマ中心でブログを書いてはいるが、幼少期より漫画も大好きであった。「サザエさん」、「オバケのQ太郎」、「ゲゲゲの鬼太郎」、「ドラえもん」などは小学生の頃よく読んだ。中学生になると、「ワイルド7」、「ブラックジャック」などの他、床屋に行くと、「漂流教室」や「後ろの百太郎」など、今では決して読まないようなホラー系漫画も読んでいた。高校生の頃からは、「ゴルゴ13」が愛読漫画となった。大人になってからは、床屋以外ではあまり漫画を読まなくなったのだが、数年前、ある人から、「キングダム」の第1、2巻をプレゼントされたところ、これが面白く、それ以来、新巻が出るたび買い続けている。

 さて、「のらくろ」であるが、戦争中のシリーズには戦後の続編もあって、除隊した後に探偵などで活躍した、民間人のらくろが描かれている。その他、意外なところでも、のらくろは登場している。「信徒の友」という、日本基督教団出版局が発行している月刊誌に、のらくろのイラストと共に、田河水泡氏の講話が連載されていたのだ。私も、1980年代中頃の一時期、同教団の信徒ではなかったが、信徒の友誌を購読していたことがあり、田河水泡氏の記事とのらくろのイラストが掲載されていたことに、軽い驚きを覚えたものである。そう、田河水泡氏は、戦後、イエスを信じるクリスチャンになっていたのである。

 田河水泡氏がクリスチャンになった経緯はこうである。後に「サザエさん」で国民的漫画家となった長谷川町子氏は、14歳の時に母親と姉妹と一緒に上京した。幼い頃に父親と死別した長谷川町子氏は、夫の闘病中にキリスト教の信仰を持った母親の影響を受けクリスチャンとなった。その後、女学校(現在の山脇学園)を卒業後、漫画家になりたいと言う願いを叶えようと、田河水泡氏に弟子入りを願い許される。その際、母親が田河氏に、日曜日には娘を教会に通わせて欲しいと願ったことがきっかけとなり、田河水泡氏と妻の高見沢潤子氏も付き添って教会に通うようになる。その後、まず高見沢潤子氏が信仰を持ち受洗、伝えられるところでは、長谷川町子氏よりも熱心なクリスチャンになったと言われる。そして、戦後、夫の田河水泡氏もクリスチャンとなり受洗したのである。

 クリスチャンとなった田河水泡氏は、90年の地上での生涯を走り抜け、1989年に天に召された。しかし、同氏が生み出した、のらくろは、1931年に世に出て以来、90年後の今日でも、人々から愛されるキャラクターとして生きている。のらくろは田河水泡氏の残した実であるが、それ以上に、のらくろを生み出した田河氏の人生そのものが、神によって結ばれた実ではなかったか。私たちも、人生において実を結ぶ者とならせていただきたいと願う。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」(ヨハネによる福音書 15:16 口語訳)
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辛亥革命110周年と孫文(記事No.51)

 今年10月10日は、中国で辛亥革命が起きてから110年となる記念日である。この日は、中華民国建国記念日であり、台湾では双十節として祝われている。1911年のこの日、孫文らを指導者として武装蜂起した革命軍は、多大な犠牲を払いながらも清朝軍を次々と撃破し、ついに清国は滅亡した。辛亥革命により成立した中華民国は、アジアにおける最初の共和制国家である。なお、革命の指導者孫文は、亡命を含めて何度か日本を訪れたことがあり、彼を支援した日本人も多くいた。その内の1人であった実業家の梅屋庄吉は、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と約束し、生涯孫文を支援した。また、孫文らの掲げる理想に共鳴し、革命軍に身を投じて戦死した日本人もおり、最初に斃れた山田良政は、今でも革命義士として台湾の忠烈祠にて顕彰されている。
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地震列島に住まう(記事No.50)

 10月7日の夜、久しぶりに少し強い地震が首都圏を襲った。その時、私は横浜市内のホテルに滞在中で、そろそろ休もうかとベッドに入ったところだったが、携帯電話のエリアメールの音と揺れの始まりがほぼ同時にあり、一瞬で眠気が吹き飛んだ。震源地が遠ければ大地震が発生したものと思い、すぐに地震情報を確認したのは言うまでもない。強い揺れがあった地域の人々は、10年半前の東日本大震災のことが脳裏を過ったのでは無いだろうか。

 東日本大震災については、マグネチュード(M)8クラスの余震が必ず起こると言われて来たが、これまでのところは、M5〜M6クラスの中規模の余震が起きているだけである。しかし、遠からず、それは起きると思っていた方が良いだろう。その時は、当然大津波も襲来するだろう。東日本大地震の余震以外にも、首都圏直下型地震や東海、東南海、南海など、いずれ起きると予想されている巨大地震がいくつも控えている。また、中央構造線が動く可能性もあり、全国津々浦々にある大小の断層も、いつ動くかわからない。まさに、日本は地震列島そのものである。

 このような国土の特性に鑑みて、1969年に国土地理院の関連専門機関として、地震予知連絡会が設置された。以来、トップレベルとされる地震学者たちが集められ、多額の国費が観測や研究に使われてきたが、これまで、ただの一度も地震予知に成功したことは無い。数十年のタイムテーブルで予測することが全く無意味とまでは言わないが、少なくとも防災の役には立っていないことは確かである。それよりも、私たち一人一人が、日頃より自然や生物の変化に注意を払い、変わったことがあれば警戒を強めた方が良いのかも知れない。私の場合は、20年ほど前から、地震雲など自然現象に気をつけるよう心がけている。10数年前には、家族旅行で大阪方面に行った時、夜ホテルの窓から北側の山に発光現象があるのを見たが、翌日夕方に、その山の方面を震源とする震度4くらいの地震が発生したことがあった。都市部ではビル群のため雲の観察も思うようにいかないが、注意力は常に働かせるようにしておきたい。

 さて、聖書の中にも、地震に関する記述が何箇所かある。その中でも、世の終わりの時代に関するイエスの預言では、方々に地震が起こることが示されている。これは、歴史上かつてなかったほど、世界各地で大きな地震が次々と発生することだと考えられる。これは、どの程度の期間の中で起こる出来事であるのかは、はっきりは分からない。しかし、仮に百年単位の期間中に起こるのだとしても、終末が近づくにつれ、頻度も規模も激しさを増すことは確かであろう。そうでなければ、世の終わりが近い徴にはならないからだ。

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日本人とは誰か (記事No.49)

 2021年のノーベル物理学賞を、愛媛県出身で米国プリンストン大学上席研究員の、真鍋淑郎氏が受賞することが決まったとのことである。新聞に、日本人のノーベル賞受賞者は28人目と書いてあったが、よく読むと、真鍋氏は米国籍だと言う。細かいことを言うようであるが、それなら、正確には、日系アメリカ人と書くべきだろう。シュクロウ・マナベ氏とまでは、無理に書かなくても良いとは思うが。日本人の両親から生まれたなら、出生時には確かに日本人であるが、成人後に自分の意思で外国籍を取得したなら、その場合は日本人とは言えないのではないか。

これとは逆に、外国人が日本国籍を取得したなら、その人は日本人である。正確には、出身国○○を接頭語として、○○系日本人となる訳である。日本には、韓国系日本人や中国系日本人も多くいる。ところが、外国人が日本国籍を取得しても、いつまでも日本人とは認識されず、出身国の人と受け取られることが多いのではないか。となると、日本人という語の意味するものは、単に国籍だけを意味するのではなく、日本民族をも意味していることは明白であろう。そうなると、明らかに日本民族とは違う外観を有する民族の人が日本に帰化したとしても、真の日本人と認められることは無いのかも知れない。また、民族的属性に加えて、日本精神の有無を問題とする考えもある。

 先日、中国出身で日本に帰化している、評論家石平(せき へい)氏の講演を聞く機会があったのだが、話の中で自身のことを、今は日本人だからというように語っていた。私としては、同氏は中国系日本人という認識であり違和感は無かった。石氏は、当然のことながら中国事情に精通し、中共政権に対しては厳しく批判する立場である。日本の政治家や企業家でありながら、中国に媚びるような人々が散見される中で、その種の人々よりも、石氏の方が余程日本を愛していると思う。ところが、日本人の定義を狭く考え、日本民族であり、日本精神を有していることとするなら、石氏は日本人としては不十分となる。

 日本精神と書いたが、これは強調の仕方によっては、息苦しい社会を作り出してしまうだろう。例えば、日本人ならば皇室を敬愛するのが当然であると言う考えの人もいる。しかし、皇室に対する敬愛の念とは、強いられて持つものではなく、天皇をはじめとする皇室の方々の国民を想う姿勢を見て、自然に形成されるべきものである。少なくとも、これまでの上皇や天皇の言動からは、国民のことを深く案じておられることが伝わっていると思う。多くの国民も自然に、その想いに敬愛を以って応えて来た。もし、日本精神を言うのであれば、真面目、勤勉、正直など、最も基本的かつ最大公約数的な、日本人の長所を言うだけで十分ではないだろうか。

 ノーベル賞受賞が決まった真鍋氏がアメリカ人であることに触れたが、当然のことながら、アメリカ国籍(市民権)を取得する条件に、人種に関するものは含まれていない。犯罪歴や麻薬使用歴、あるいは反米組織との関与などはチェックされるが、それ以外に思想や信条が問われることも無い。しかし、初歩的な英語力以外に、絶対にクリアしなければいけない条件がある。それは、アメリカ国籍を取得するに際して、出身国を含めた他の国に対する忠誠を放棄し、アメリカのみに忠誠を誓うことである。ただし、イスラエルなどとの二重国籍は認められているので、この場合は、それ以外の国に対する忠誠を放棄することとなる。仮に二重国籍の一方の国と米国が戦争状態になった場合には、どちらかに対する忠誠を放棄することになるのではないだろうか。

 アメリカの例を挙げたように、本来は、ある国の国民とは、その国に忠誠心を有していることが最大の条件であろう。これに、愛国心を加えても良い。それ以外の、出身地、人種、民族、思想、信条、宗教などの属性は、社会に危害を加えるような具体的事情が無い限りは、国民を定義するに、一切必要条件では無いと思う。以前も書いたが、古来より日本人とは、多様な民族が長い年月をかけて融合して、単一的民族となったものである。私の先祖も1000年以上遡れば、大陸から渡来したのかも知れない。いや、実は、私のルーツは、古代イスラエルではないかと思っているのだが。それはともかく、今日でも、日本国籍を有していて、かつ日本を愛し、日本に(政府ではなく、日本という国に)忠誠心を有する人が日本人であり、それ以外の属性で純化を求めることに何の意味があるだろうか?あとは、日常生活に不自由無い程度の日本語が出来れば尚可といったところか。

 以上に記した私の考えは、聖書の教えから影響を受けて形成されたことは言うまでもない。イエス・キリストが、彼を信じる人々との間で交わされた新しい契約(新約)とは、全て彼を信じる人々は、神の家族であり、神の国の国民であるということである。神の家族とは、イエスが人として自身を現された、ユダヤ人だけがその資格を有しているのではない。イエスを神として、救い主として、個人的に信じ受け入れたならば、誰でも神の家族となり、神の国の民に加えられる。最も大事なことは、人の外側にあるのではなく、内側に、すなわち、心にあるのだ。日本人のことも、また同様であると思う。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」(エペソ人への手紙 2:19 新改訳)
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携挙は近いのか?(記事No.48)

 今日は久しぶりに、横浜の主に在る姉妹(クリスチャン)のゲストハウスにおいて、少人数の特別集会を持った。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 18:20)とのイエス・キリストの約束のとおり、神の目においては、人数の多寡ではなく、神を愛する人々が集っていることこそが重要である。礼拝メッセージでは、終末時代を生き抜くために、欺かれずに歩むことについて語らせてもらった。

 メッセージでも触れたのだが、私は、世界は終末に向けて大きな分岐点に差し掛かっていると捉えている。すなわち、悪魔の側に立って世界を統一しようとしている、反キリストの勢力が勝つか、それとも、神を愛し、自由を愛する、世界の人々が勝利するかである。それは、闇と光の戦いである。もし闇側が勝つなら、世界は一挙に患難時代に突入するだろう。しかし、光側が勝つなら、患難時代の到来はもう少し先となり、愛と自由が世界を覆うとの希望を持つことが出来る。どちらの方に世界が進んで行くのか、恐らくは、これから半年から1年くらいの間に帰趨が決すると思われる。

 さて、ここからの話は、聖書にあまり馴染みが無い方々にとっては、分かりづらいかも知れず、なるべくシンプルに書きたいと思う。それは、聖書の中で、世の終わりの時に起こると預言されている、「携挙」についてである。携挙とは、キリストが天から降臨(再臨と言う。)し、地上のクリスチャンたちを天に携え上げるという聖書の教えである。御伽噺のようでもあるが、聖書の中で明確に語られていることであり、初代教会より多くのクリスチャン(決して、全てのクリスチャンではない。)によって、信じ続けられてきた教えである。

 
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サーバント・リーダーシップ(記事No.47)

 自由民主党の新総裁に、岸田文雄氏が選任された。岸田氏は、祖父の代から数えて3代目の政治家である。岸田氏が会長を務める宏池会は、池田勇人氏が設立した、自民党で最も古い派閥である。宏池会のある議員による岸田評は、人の意見を受け止めるタイプのリーダーであると言う。私は昨年、岸田氏の講演会に参加したことがあるのだが、その時の印象は、真面目そうではあるが、総理・総裁を目指すには、もう少し情熱が伝わるような話し方をするべきでは、というものであり、正直あまり魅力的な人物とは思えなかった。

 それはともかく、今般岸田氏が自民党の総裁に就任した以上、菅氏の後を襲う次期総理大臣は同氏となる訳である。私は、今回の自民党総裁選に出馬した4人の中では、消去法で、岸田氏がまだマシだと考えていた。決選投票を争った河野太郎氏は、中央官僚からの評判がすごぶる芳しくないと聞いていた。政治主導は重要であり、官僚は選挙で選ばれた政治家による内閣の方針に従うべきではある。しかし、官僚と言えども感情を有する人であるから、何でも力で押さえ付けようとするならば、面従腹背の輩を量産するだけであろう。河野氏の性質では、総理として人心を掌握することは出来ないと思う。何だか、政治ブログのようなことを書いているが、高市早苗、野田聖子両氏については、いずれも、河野氏以上に、一国の宰相の器では無いと思う、とだけ述べておきたい。

 今般の自民党総裁選挙を観察しながら、リーダーとしてのあり方を思い巡らせていた。リーダーが持つ統率力などの能力や資質のことを、リーダーシップと言う。原語では、リーダーとしての立場や資格を含めた、もう少し幅広い意味がある。EQ(心の知能指数)を提唱したダニエル・ゴールマンは、リーダーシップを次の6種類に分類している。
1. ビジョン型、2. コーチ型、3. 関係重視型、4. 民主型、5. ベースセッター型、6. 強制型

 実際は、どれか1つに該当する場合だけでなく、複数のタイプを兼ね備えているリーダーもいるので、この分類方式で明確に区分されるという訳でも無いと思う。リーダーシップの類型としては、他にもいくつか考え方がある。その1つが、アメリカのビジネスマンであり、マネージメント研究者であった、ロバート・グリーンリーフ氏が1970年に提唱した、サーバント・リーダーシップである。その真髄は、リーダーである人は、まず相手に奉仕し、その後相手を導くものであるという、リーダーシップ哲学である。支配することにより組織や部下を導くこととは、正反対の考え方である。

 サーバント・リーダーシップを備えたリーダーの特徴には、次のようなものがある。その人は、恐怖心や義務感を相手に与えるのではなく、進んで行動したいという動機付けを与える。服従することを求めるよりも、リーダーのビジョンに共感して共に行動するよう導く。言われたことを、その通り行わせるよりも、工夫しながら行動するよう促す。自己中心的な姿勢を持たず、どうすれば周囲の役に立つかを考える。などなどである。

 サーバントとは、仕える者という意味であり、直接的には召使いのことである。リーダーは、まず仕える者となるべきである、という考えがサーバント・リーダーシップである。提唱者のグリーンリーフ氏は、リーダーの指導力の源泉は地位や職権ではなく、人々に奉仕することであると考えたのだ。彼はこう語っている。「サーバント・リーダーは、まずサーバントである。それは生まれながらに持つ奉仕したい感情であり、奉仕が第一である。そして、意識的に選択して、リードしたいと思うようになるのだ」私は、グリーンリーフ氏の示すサーバント・リーダーの、最高のお手本となった人を知っている。それは、他でもない、イエス・キリストである。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また、偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』」(マタイによる福音書 20:25−28 口語訳)


 敬虔なクエーカー派のクリスチャンであったグリーンリーフ氏は、イエス・キリストが実践された、真のリーダーとしての姿からインスピレーションを得て、サーバント・リーダシップの理論を確立したことは疑いない。世の中には、数々のリーダシップ理論があり、それらを教えるセミナーやトレーニング・コースも数多くある。しかし、サーバント・リーダーシップがそうであるように、私たちは、真に有益なことは、聖書の中にこそ見出すことができるのである。
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スイスよ、お前もか(記事No.46)


 報道されているところでは、9月26日にスイスで、同性婚合法化の是非を問う国民投票が実施され、賛成が64.1パーセントと多数を占めたという。今後は、法改正手続きが進められ、同国では同性婚が合法となる見通しである。同性婚は、2001年にオランダで法制化されたのを皮切りに、現時点で、一部の州で認められている米国を含め、29ヵ国で合法とされているそうである。

 近年は日本でも、「LGBT」あるいは「LGBTQ+」という用語が人口に膾炙されているように、多様な性認識や性的指向を認めようとの動きが活発化しており、同性婚合法化を訴える人々もいる。これは、一見すると、人権問題のようでもあり、社会的な影響力のある人が、これに対して否定的な言説を唱えることは、激しく糾弾されることにもなりかねない。マスメディアなども、同性婚に肯定的な声を紹介することが多いようにも感じる。ドラマや映画などでは、ごく自然に同性愛者を登場させるなど、同性婚も社会的認知が得られているという前提に立って制作されているケースもある。特にNetflixは、その傾向が露骨である。

 古代より、同性愛者は公然か非公然かは別として、どの文明や国家にも存在していたと思われる。日本でも、16世紀に渡来したキリスト教宣教師が、僧侶や武将の中で広く見られた同性愛の風習について厳しく非難したことが記録されている。かく言うカトリック聖職者の中には、学校などで男子児童に性的虐待を加えていた者たちが、現代に至るまで存在して来た訳で、これはもう、人類普遍の問題であろう。しかしながら、同性婚が徐々に社会的に許容されるようになったのは、前記のとおり、20年前くらいからである。

 同性婚の前提となる同性愛者の数については、もちろん日本では正確な統計は存在していない。諸外国の意識調査などでは、人口の10%未満、数パーセントの割合で同性愛者が存在するようではある。私は、これまでに、自分が同性愛者であると明言する人には数えるほどしか出会ったことがないが、そのような人に最初に巡り会ったのは中学生の時であった。今から思い返しても不愉快な体験であったが、中学3年生の時に、ボーイスカウトのキャンプに参加した際のことである。休憩時間にテントに戻ると、そこでは中3と中2の団員が2人で同性愛行為の真っ最中であった。私も加わらないかと誘われたが、速攻拒否したのは言うまでもない。トラウマにならなかったことは、不幸中の幸いであった。

 これまでの私の観察では、日本では同性愛者よりも、いわゆるバイ・セクシャルの性的指向を有する人の方が多いと思われ、合わせれば、あるいは人口の1割近くにもなる可能性がある。であるから、異性の恋人がいたり結婚しているのにも関わらず、同性愛にも興味を抱く人がいると言うことだ。そのような人々は、通常は自分の密かな性的指向を決して表には出さないが、何かの機会でそれが顕在化することがあるのかも知れない。どうであれ、大人同士が、自分の意志で同性愛者カップルとして生きるのであれば、そのこと自体には他人が無闇に干渉することは出来ないであろう。問題は、それを同性婚の合法化という形で、社会的承認を与えて良いかどうかである。

 そのことに対する社会的答えは、本来は、私たちの社会における最大公約数的な世界観や人間観に基づいて導き出される筈である。しかし、同性婚合法化を推進する勢力は、それらを政治的行動によって変革しようと試みて来た。例えば、2012年に米国コロラド州で、同性婚のウェディング・ケーキを注文しようとしたカップルに対して、キリスト教信仰を理由に製造を拒否したケーキ店の店主が、人権侵害だと訴えられたケースがあった。恐らくは、分かっていて仕掛けた言いがかりであろうが、州裁判所が人権侵害を認定したのに対して、2018年に連邦最高裁判所は、同性婚に反対する宗教観を人権侵害としたことは信教の自由に反しているとして、ケーキ店主勝訴の判決を下している。

 このように、同性婚合法化推進勢力は、自分たちの自由や権利が不当に侵害されているという主張に立っている。しかし、実際は、彼らの方が、自分たちと異なる考えを持つ人々の自由や権利を、侵害するような行動を重ねて来たのでは無いだろうか。であるから、ポリティカル・コレクトネスとしては、同性婚合法化に正面切って反対することは、間違っているとされる可能性が高い。それでは、人間の考えではなく、神の言葉である聖書は何と言っているのであろうか?

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」(創世記 1:27 新改訳)


 聖書の教えの中には、同性婚を容認する余地は無い。残念なことではあるが、欧米諸国のみならず、日本においても、少数の教会とは言え、同性婚に肯定的な教えを説いているところもある。また、同性愛者であることを公言している牧師も数名存在する。確かに、神は罪人である私たちを、ありのままで愛してくださっている。しかし、それは、何をしても許されるということとは違う。神の創造の秩序に反することは、少なくとも、教会として、また、教会が置かれている社会として、容認することは神の教えに反することである。近年、ソドムの街の跡と考えられる遺跡が確認されている。ソドムは、同性愛を含めた度を越した性的堕落によって神の怒りを買い、ゴモラの街と共に滅ばされた街である。英語で男色や獣姦などを意味する、「ソドミー」の語源は、このソドムである。

 なお、同性愛については、これは自然な性的指向の1つではない。聖書の教えから判断するに、幼い頃に受けた霊的抑圧や性的虐待などに起因する、精神的、肉体的影響が、その主な要因であると考えられる。私は、同性愛から解放された、韓国人クリスチャンJ兄の体験談を直接聞いたことがあるが、神の力により、そこから自由になることが可能である。この種の問題は、聖書の正しい教えによく通じ、神の霊の力に満たされ、かつカウンセリングの訓練を受けた牧師などが取り扱うべきものであろう。

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タクシー・ドライバー(記事No.45)

 仕事柄あちこちに移動することが多く、また、新型コロナ感染予防で満員電車を避けていることもあり、タクシーに乗る機会が多い。タクシーに乗るたび、余程の近距離でない限り、少しでもドライバーと会話をすることにしている。ドライバーは、地元の様々な情報を知っているからである。特に、昨年京都に移住してからは、市内の地理などを覚えたいということもあって、乗るたびにあれこれ質問したりしている。新幹線で帰京した際には、たいてい京都駅八条口からタクシーに乗るので、個人タクシー・ドライバーで3、4人顔馴染みも出来た。

  京都は観光地と言うことで、人口あたりのタクシー台数は日本有数と聞く。今は海外からの観光客が無いに等しいことと、修学旅行生や団体客も激減しているので、タクシーの乗客数も大きく落ち込んだ状況が続いている。京都駅からタクシーに乗る場合、なるべく個人タクシーに乗るようにしているので、顔馴染みのドライバーが出来たという訳である。彼らと話すと、もちろん乗客相手に話せないことは多々あるだろうが、業界のことや京都の面白い話も聞くことが出来るので、豆知識が増えることになる。利用客にとってはサービスが良いと評判のMKタクシーが、他のタクシー会社からは随分と嫌われていることも、ドライバーたちとの会話で知ったことである。

 タクシー・ドライバーとの会話の中で、さりげなく京都出身か聞くことも多いのだが、意外なことに、随分と他県出身者も多いことが分かった。顔馴染みになった個人タクシー・ドライバーの1人は、福岡県出身で30代の時に、九州で行われていたMKタクシーの募集に応じて京都に来たと言う。京都生まれの京都育ちのドライバーの中には、京都出身ということを誇りに思っているような人も多いのだが(なぜ、京都出身ということだけで誇りに思うのか不思議ではある。)、他県出身者は総じて京都の良いところだけでなく、悪いところも忌憚なく話してくれる人が多い。であるから、新参者としては、飾らない本当の京都の実情を、ドライバーから多少なりとも聞くことが出来る訳である。

 国際的観光都市という土地柄、タクシー・ドライバー、特に個人タクシーのドライバーの中には、外国語が出来る人も少なくない、中には、中国残留孤児の子息として来日し、今は個人タクシーを生業としている人もいる。ワゴンタイプ車に乗るその人は、コロナ流行前には、中国人観光客相手に連日フル稼働で稼いでいたそうである。英語が出来るドライバーの中には、英語のホームページで外国人観光客を集客していた人もいる。旅行代理店経由では手数料を差し引かれるので、自分で集客した方が利益が上がると言う訳だ。概して、外国人観光客相手の貸切営業は、うま味のある仕事であったと聞く。タクシー・ドライバーと言うと、長時間労働の割には、収入が低いというイメージもあるが、実際は、様々な工夫と努力で、自営の個人タクシー業者として、そこそこの収入を得て来た人もいるということだ。

 さて、こちらは個人ではなく法人車のドライバーであったが、カリスマ・タクシー・ドライバーとも言われる人がいる。現在は武蔵野市議会議員である、下田大気(しもだ ひろき)という人物である。同氏は、父親が作家の志茂田景樹であることでも知られている。現在45歳である下田氏は、中学時代からギャンブルを覚え、高校生になると新宿や麻布などのクラブに繰り出すなど、遊び人としての生活を送っていた。高校卒業後は、起業家を志すが、ことごとく失敗し、自己破産の憂き目にも遭う。そんな破天荒な人生を送っていた下田氏のために、クリスチャンであった母親は忍耐強く祈っていたと言う。

 下田氏に転機が訪れたのは、彼が32歳の時である。家族を養うために、本業の他にタクシー・ドライバーとして働いていると言う知人の話を聞いて、人生をやり直すためにハンドルを握ろうと思い立ったのである。タクシー会社に就職した下田氏は、たちまち頭角を現し、入社1ヶ月で社内トップの売上をあげるドライバーとなり、3ヶ月後には業界トップクラスの売上を上げるようになった。その秘訣は、かつて遊び歩いた繁華街などでの人々の行動パターンを熟知していたことと、何よりも、母親に倣って神を信じるようになったことで、神からの恵みを得たことであった。祈りつつ仕事をすることで、稼がせてくれる乗客を神が送ってくれたのである。

「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ人への手紙 4:2 口語訳)

 
 下田氏はその後、タクシー・ドライバー派遣事業やコンサルタントしての活動も手がけたが、政治家になるようにとの神の導きを受け、2015年4月の武蔵野市議会議員選挙に立候補し、見事当選を果たした。現在でも、無所属議員として、精力的に政治活動に従事している。クリスチャン・メディアのインタビューや、教会での講演などで、彼が常に語ることは、祈りこそ人生における最大の武器ということである。放蕩に明け暮れた少年時代にも、事業の失敗を重ねた青年時代にも、常に背後には母の祈りがあって守られて来た。タクシー・ドライバーの時代には、いつも祈りながら働き、神はその祈りに応えて優良顧客と売上を与えてくださった。政治家として市民のために働く今も、彼自身と周囲の人々の祈りが、その重要な働きを支えている。下田氏に倣い、私たちも、祈る者でありたいと思う。
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ポイント・オブ・ノー・リターン(記事No.44)

 暑さも少しずつ和らぎ、日によっては過ごし易くもなって来た。国内の新型コロナ・ウイルス感染者数も、PCR検査数のコントロールのためか、あるいは、季節的な要因からか、このところは減少傾向が続いている。この1年数ヶ月の間、私たちは、いつになったら元の社会に戻れるのかと言って来た訳だが、どうやら、戻れるのかどうか怪しくなって来たようである。

さて、ポイント・オブ・ノー・リターンという言葉がある。帰還不能点や回帰不能点などと訳される、元々は航空用語である。飛行機が離陸のため滑走路を走る時、ある地点を過ぎると取り止めることは出来なくなる。その地点を過ぎてから離陸を止めると、オーバーランで事故になるからである。あるいは、目的地に向かって飛行中、ある地点を過ぎると、出発地に戻ることは出来なくなる。戻るだけの燃料が残っていないからで、そうなると、そのまま目的地に向かって飛行を続けるか、その手前に着陸可能地点があれば、そこに向かうしかない。転じて、この言葉は、引き返すことが出来る最終段階を言い表す時にも使われる。

 昨年1月以来、国内外の状況を観察する中で、ワン・ワールド化へ向けて、世界が急激に変化して来たと感じる。私も昨年までは、パンデミックがそのための手段だと思っていた。しかし、今はっきりと世界中に現れていることは、パンデミックを理由としたワクチン接種キャンペーンが、ワン・ワールド実現のための手段であるということだ。これまでも書いて来たように、現在進行中の新型コロナ・ワクチン接種キャンペーンは、私たちの命と健康を守るための手段ではなく、社会を正常化するための方策でもない。彼らの目的は、世界統一政府樹立のために、人々に対する管理を飛躍的に強化することにある。であるから、ワクチン接種と共に、ワクチン・パスポートを導入しようとしているのだ。

 各国政府による、新型コロナ・ウイルス流行対策を名目とした社会生活の規制と、ワクチン・パスポート導入に対しては、欧米諸国を中心に人々の反発が強く、強権的な政府に対して各国で大規模な抗議活動が続いている。イギリスでは、国民の反発を受けて、ジョンソン政権は、一旦はワクチン・パスポート導入を断念した。一足早くワクチン・パスポートの導入に踏み切ったフランスや、徹底した行動コントロール政策を採り殆ど鎖国状態となったオーストラリアでも、怒れる国民による抗議活動が継続中である。ネット上でも、モグラ叩きのように消されまくっても、自由を守ろうと、多くの人々による様々な情報が掲載されている。

 世界規模で現在進行中の、ワクチンをツールとしたワン・ワールド化への動きと、それに反発する民衆の抵抗は、どちらが勝利するかで、世界の運命が決まる段階に来ていると言えるだろう。もし、彼ら、即ち、世界統一政府推進派が勝利したら、世界は一気に終末に突入し、決して後戻りは出来ないだろう。ヨハネの黙示録などに預言されている、世の終わりの最終段階、7年間の患難時代の幕開けが目の前に迫ると言うことである。逆に、自由を守ろうとする世界中の民衆が勝利したなら、悪魔崇拝者らは一旦退却して態勢を立て直す他無く、暫くは世界に再び自由の風が吹くだろう。

 私たち自身の人生においてもそうであるが、進む道がある方向に確定する前には、引き返せる点というのがある。例えば、事故のように一瞬の判断ミスで最悪の結果につながるということもあるが、人生の多くの局面において、どこかで分岐点あるいは回帰不能点があるとは言えないだろうか。決して特定の誰かを指し示しているのではないが、A男さんとB子さんが恋に落ちたとする。2人の気持ちが燃え上がり、結婚を堅く誓い合い、期日まで定めたとすと、もうそれはポイント・オブ・ノー・リターンを超えたということであろう。そうなると、もはや誰も2人を止めることは出来ない。

 個人の結婚問題であれば、行く末がどうなっても、通常は無関係の人たちには影響は及ばない。しかし、これが国家規模、まして世界規模の問題であれば、そうは言えない。結果がどうなるかは、世界中の人々の命運がかかっている。今なら、まだ世界は、かろうじて破滅への道を引き返すことができる。私たちに今必要なことは、世界が今どの方向に向かっているかを認識し、それに対する自分自身の考えを持ち、直面する一つ一つの問題に対して、正しい選択をすることである。私を含めた多くの日本人は、欧米諸国などで起こっている抗議デモのような、直接的行動には出たくないのが本心であろう。そこは、和をもって尊しとなす国民性である。しかし、いよいよ私たちの自由が奪われるような、ポイント・オブ・ノー・リターンの状況になれば、場合によっては、大規模デモに参加する選択もあるだろう。

 もちろん、神を信じる者たちは、祈りによって問題に勝利するのが基本である。祈り無き政治的行動は、神の導きに反してしまう危険がある。しかし、社会の一員として政治的行動に参加することが、不信仰的という訳では決して無い。だから、欧米諸国での抗議行動には、クリスチャンも多く参加している。声を上げるべき時には、大いに声をあげて良いのだ。私が人生の中でデモに参加したのは、サラリーマン時代に労働組合の動員で春闘デモに参加したことと、2012年に都内などで大規模に開催された原発再稼動反対デモに数回参加したことだけである。それ以外は、投票行動以外の政治的行動はして来なかった。本ブログは、政治ブログでは無いので、政治的行動についてこれ以上は書かない。私たちには、祈りによって大きな力がある。世界中の兄弟姉妹と共に、この世界が正しい道に立ち返るよう、祈り続けようではないか。今なら、まだ引き返せるかも知れないから。

「バラムは主の御使いに言った。『わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。』」(民数記22:34 新共同訳)

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ある老ピアニストのこと(記事No.43)

 皆さんも名前を聞かれたことがあるかも知れない、フジコ・ヘミングというピアニストがいる。1932年12月生まれとのことであるから、今88歳である。コロナ流行以前は、毎年世界各地でコンサートを開いていたが、現在は専ら国内で演奏している。そのような中で、10月から国内ツアーを予定しているという。今回は計16本のツアーとのことで、追加公演もあるそうだ。私も、12月15日に滋賀県大津市で開催される、彼女のコンサートを聴きに行きたいと思っている。

 フジコ氏は、数奇な運命に生きて来たピアニストでもある。ロシア系スウェーデン人画家・建築家の父とピアニストであった日本人の母との間に、ドイツ・ベルリンで生を受けた。幼い頃日本に帰国し、5歳から母親の手ほどきでピアノを始めた。10歳からは、父の友人であった、ロシア生まれのドイツ系ピアニストに師事した。その師は、「フジコはいまに、世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう。」と絶賛したと言う。青山学院高校在中、17歳の時に、コンサート・デビューし、東京藝術大学在学中には、NHK毎日コンクールなど、多数の入賞を果たした。芸大卒業後は、本格的な演奏活動に入り、国内オーケストラと多数共演した。28歳の時にドイツに留学し、ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業した。その後は、ヨーロッパに在住しながら演奏活動を続け、多くの作曲家や指揮者から高い評価を受けた。しかし、リサイタル直前に風邪をこじらせて、35歳で聴力を失うという悲劇に見舞われた。失意の中、ストックホルムに移住し、耳の治療を続けながら、音楽学校の教師としてピアノを教えることを生業としつつ、地道なコンサート活動を続けた。

 数十年の歳月が流れ、フジコ氏が再びクラシック音楽界の表舞台に立つ日が訪れた。1999年2月にNHKのドキュメンタリー番組「ETV特集」で、「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、大反響を呼んだのである。フジコ氏の演奏をもっと聴きたいという視聴者からの要望が殺到し、番組は繰り返し再放送され、続編も放送された。フジコ氏66歳の時である。その後1999年8月に発売された最初のCDは、200万枚を超える大ヒットを記録している。以来、フジコ氏には国内外からの演奏オファーが途切れることなく、世界中で多くの聴衆を魅了し、多くの高名なアーティストらから、その演奏が絶賛されて来た。

 波乱万丈の人生を過ごして来たフジコ氏であるが、彼女の芸術的才能はもちろんのこと、幾多の困難に耐えて、老年とも言える歳となって大きく羽ばたいた、その力の源泉はどこにあるのだろうか?彼女は以前、あるインタビューで、「祈りがあったから、やって来れた。」と答えたと言う。また、人生で最も大切なのは、信仰と祈りと愛であると語っている。「『遅くなっても待っておれ、それは必ず来る』という聖書の言葉は、私に訪れたのです。」とのフジコ氏の言葉が心に響く。

「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない』」(ハバクク書2:2−3 新共同訳)


 フジコ氏がまだ10代だった頃、彼女のピアノの師が「予言」したように、ついに彼女は世界中の人々を感激させるピアニストとなった。神が彼女の心に与えられた幻は、半世紀以上の年を経て現実のものとなった。この神を私も信じている。信じる者たちの人生に、素晴らしいことを成し遂げてくださる、この神を。さて、12月15日のコンサートは、チケット発売開始が9月26日である。今までは、映像でしか観たことがなかったフジコ氏の演奏である。妻と、出来れば次男も一緒に、聴くことを今から楽しみにしている。
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満州事変に学ぶ(記事No.42)

 今日、9月18日は、90年前に満州事変が勃発した日である。上皇は天皇在位当時の2015年の新年に際して、満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学ぶことが大切である、と国民に対してメッセージを発せられた。90年前の事変勃発当時、日本は日露戦争後のポーツマス条約によりロシアから譲渡された南満州鉄道を経営し、その線路の中心から左右20メートルずつは、満鉄付属地として日本の管理下にあり、日本軍守備隊が警備していた。満州に派遣されていた日本軍、関東軍は、満鉄を足掛かりに、支配圏の拡大機会を伺っていた。そのような状況の中で発生したのが、南満州鉄道爆破事件、即ち柳条湖事件であった。爆破事件を中華民国軍による破壊工作と断じた関東軍は、翌日までに、奉天(現瀋陽)、長春(後の新京)などの都市を占領し、陸軍省もこれを追認した。しかし、この鉄道爆破は、3年前に起こった張作霖爆殺事件と同様に、関東軍参謀らが首謀した破壊工作であったことが、後に判明している。

 関東軍が、このような謀略を遂行した理由は、もちろん、満州全域に不穏な状況を作り出し、居留邦人保護や日本の権益を防衛することを名目に出兵し、全満州を支配下に置くことであった。関東軍は、本国政府の事変不拡大方針に背いて、独断専行で戦線を拡大し、1932年2月には満州全域を制圧した。その年の3月には、日本の傀儡国家である、満州国が建国され、清朝最後の皇帝であった、愛新覚羅溥儀が国家元首に当たる執政に就任した。その後日本は、中国に対するのみならず、満州国の存続を認めない国際連盟勧告に反発して、1933年3月には同連盟を脱退した。その後、英米などとの亀裂が次第に深まり、1937年に始まった日中戦争を経て、1941年には対米英蘭戦争として、第2次世界大戦に参戦するに至ったのである。1945年の日本の敗戦と大日本帝国の終焉は、1931年9月の満州事変が起点であったとも言えるであろう。

 それでは、天皇が国民に呼び掛けられたように、日本人は満州事変から始まる戦争の歴史から、何を学んで来たのか。平和の尊さは、もちろん大切な教訓であるが、観念的なものとも言える。平和を守るための具体的方策としても、非武装中立から核武装軍事同盟強化まで、多様な考え方がある。天皇の胸中は拝察するしかないが、あのようなメッセージを発せられたことには、日本人が歴史から十分学んでいないとの危惧を持たれていたためであろう。私は、日本人最大の民族的欠点は、失敗から学ばない、ということではないかと思う。関東軍の独断専行にも現されたように、敗戦までの軍人には、高慢で独善的な性質を有していた者たちが、上から下まで指揮官や参謀に多くいたと思う。彼らは、失敗から学ぶのではなく、それを繰り返したことは、敵国であったアメリカ軍による評価でも明らかである。大日本帝国において、天皇が神格化されていたのと同様に、軍の指導部も無謬とされていたのではないか。

 そして、現代においても、日本人は同様の性質を有していると言えよう。とりわけ、地位が上がるほど、その傾向が強く見られる。その中でも、昔陸軍、今官僚と言われることもある、役人たちの勘違いぶりは甚だしい。本日の朝刊にも、そのようなニュースが載っていた。滋賀県近江市の湖東記念病院での患者死亡事案を巡る再審で無罪が確定した、元看護助手のNさんが起こした国家賠償裁判で、滋賀県警が無罪判決を否定する内容の準備書面を提出したという。三日月大造知事は、準備書面の内容を事前に把握していなかっとして、不適切であることを認め謝罪し、滝澤依子県警本部長にも真意を正したところ、不適切という見解を得たと説明した。確定無罪判決を否定するような行動に出た、滋賀県警幹部らのメンタリティーは、独断専行した関東軍幹部らのそれと根底においては全く同じと断じても良いだろう。彼らもまた、失敗から学習することが出来ず、何度も同様の過ちを繰り返す性質を持っている。これでは、敗戦の痛みを経ても、この国は法治国家としては、ほとんど進歩していないとも言えよう。国民に苦しみを与える主体が、軍部から官僚機構に代わっただけである。

 私たちは、彼らの独善から自分たちを守る知恵を身につける必要があるが、同時に、私たちも同じように学習しない者とならないよう、意識して努める必要がある。人生において失敗はつきものであるが、それを教訓とすることが出来るのであれば、それもまた貴重な経験となるだろう。その意味で、満州事変に始まる失敗の歴史も、日本の現在と未来のために、教訓として活かすことも出来るだろう。私たちが、歴史を省みる謙虚さを持ち合わせていればであるが。

「教訓をかたくとらえて、離してはならない、それを守れ、それはあなたの命である」(箴言4:13 口語訳)
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技能実習生と日本人(記事No.41)

 数日前、技能実習生として来日した、2人のベトナム人実習生と話す機会があった。彼らは、関西のとある街で生活をギリギリに切り詰めて暮らしながら、建設現場で働いているとのことだった。技能実習生に志願したことは彼ら自身の選択であるが、職場環境の実態を聞くと、悲惨なものであった。何でも、現場の日本人同僚から、しばしば殴る蹴るの暴力を受けることがあると言う。現場監督か職人かは知らないが、実に人間味に欠けた者たちである。職場を替えたくとも、職種の移動制限があるため、そう簡単では無いそうだ。

 技能実習生の制度については、様々な問題点が指摘されて来た。中でも、実習生らの人権が侵害されているケースが多々あることは、日本人として恥ずべきことでは無いだろうか。本来の技能実習制度の目的は、発展途上国などからの人材に日本で働きながら技能を学んでもらい、実習期間終了後は、学んだ技能を母国で活かしてもらう、と言うものであった筈である。ところが、それはほとんどの場合建前で、現実は実習生にとっては出稼ぎであり、受け入れ企業にとっては、低賃金現場労働者の確保が主目的であることは疑いない。

 建前がどうであれ、特に3K職場の人手不足に対応する方策として、技能実習生制度が有用であることは事実であろう。日本人を募集しても人材確保が難しいのであれば、給与などの待遇を改善して少しでも魅力的な職場にするのが、本来の方策ではないかと思う。そうは言っても、技能実習生制度を活用するのであれば、日本人労働者を採用した場合と同じ処遇にしなければ差別ではないだろうか?先のベトナム人実習生の話では、日本で稼いだ給料は母国では3倍の価値があると言う。彼らは、妻子帯同が認められていないので、単身来日し、毎月僅かな生活費だけを残して仕送りをしているそうだ。

 在留外国人の中でも、技能実習生らは弱い立場に置かれている。外国人の中でも、政治的圧力団体でもある民族団体を組織している人々や、外国企業の駐在員とは全く違う。また一般に、日本人の外国人に対する態度は、西洋諸国の白人に対するそれと、東南アジア人に対するものでは明らかに異なる。多くの人々は、無意識の内にではあっても、白人には劣等感を持ち、有色人種には優越感を抱いているのではないか。日本人同士でもマウントを取り合うような有り様であるから、外国人に対しても同様なのか。何だか、寂しいことである。技能実習生は、日本企業のために働いているのだから、もう少し親切に出来ないものだろうか。

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」(申命記10:19 新共同訳)


 今回、ベトナム人技能実習生から直接、彼らが虐げられている実態を聞いたので、憤りを吐露してしまったが、全ての受け入れ企業で同様の状況とは言えないであろう。中には、実習生らを日本人社員と同様に、大切に扱っている経営者も少なくないとは思う。否定的な話ばかりでは無く、彼らに愛を示した経営者の話も書いておきたい。皆さんの中にも、覚えておられる方々もいるだろう。2011年3月11日に発生した、東日本大震災の時のことである。

 宮城県女川町の水産加工会社、佐藤水産には、当時20人の大連市出身の中国人実習生が働いていた。地震が発生した時、作業場の隅に固まって震えていた彼女らを、同社の佐藤充専務は捜し出して、安全な場所へと誘導した。その後すぐ、佐藤氏は逃げ遅れた人たちを捜しに引き返したところ、津波に呑まれてしまったのだ。中国人実習生らを守るために、自分の命を投げ出した佐藤氏の行動は、日中両国の多くの人々に感動を与えた。危機に際しては、人の本質が現れる。佐藤氏は、日頃より自社のために働く実習生らに対して、思いやりの心を持って接していたことが、生死がかかった状況の中で、愛と勇気を示すことに結びついたのだと思う。

 全ての日本人では無いにせよ、どうして、外国人の中で弱い立場の人々に対して、辛く当たるようになってしまったのか。日本人同士でも弱者を虐げることがあるが、こと外国人に限って言えば、江戸時代の鎖国と、明治維新以来の欧米追従の流れの影響も大きいと思う。徳川幕府が鎖国政策を採る以前は、日本人はアジア各地と交流を持ち、フィリピン、ベトナム、タイ、カンボジアなどには日本人町も形成されていた。古代から日本は、各地からの渡来人が長い年月をかけて融合して、やがて単一的民族となったもので、元来は多民族国家であった。それにより形成された、日本人本来の霊的、精神的DNAは、今は埋もれているようではある。そうであっても、私たちに悪を働くので無い限り、私たちは、居留している技能実習生を含めた外国人にも、日本人に対するのと同じ愛を示したいと思う。
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あれから20年(記事No.40)

 アメリカ時間で9月11日は、20年前に同時多発テロ事件が発生した日である。振り返ると、あっという間の20年間だったようにも感じる。当時私は、在日米軍に勤務していたが、職場のあった基地が緊急閉鎖され、翌日は自宅待機命令が出た。非常呼集が掛ってもおかしくないと思っていたので、ある意味拍子抜けであった。2日後に出勤すると、基地には完全武装した米兵らが歩哨に立ち、それまで丸腰だった日本人警備員も小銃を携行するなど、雰囲気が一変し臨戦態勢になっていた。その後、世界規模対テロ戦争を旗印に、現地従業員でしかない、私たちの仕事の中身にも変化があった。

 テレビでは、ニューヨークのツインタワーに旅客機が激突する映像が繰り返し放映され、当初は私も、イスラムテロリストの犯行と思いこんでいた。アメリカの防諜機関はテロリストらが入国した事実は把握していたはずであり、泳がせていたところ犯行の阻止に失敗したのか、というのが私の見立てであった。イスラムテロリストの存在自体は、紛れもない事実であり、民間人を標的にしたり、自爆テロを行うことは、彼らの常套手段である。その意味では、凶悪なテロリストとして、いかに困難であっても、根絶を目指さなければならないであろう。もちろん、力で対抗するだけでなく、テロリストを生み出す背景となっている、社会的諸問題の解決に取り組むことが不可欠である。もっとも、テロリストの存在が利益になっている者たちを、その権力の座から引きずり下さない限りは、この種のテロリストの根絶は出来ないであろう。

 911同時テロ事件を巡っては、アメリカはじめ各国政府の公式説明に対して疑念を持つ人々も多く、中にはトンデモ論もあるだろうが、科学的な検証が伴う異論もいくつかある。それらの異論を総合するなら、ツインタワー及び隣接ビルの崩壊は、航空燃料による火災で鉄骨が熔解したのが原因ではなく、あらかじめ建物内部に仕掛けられた爆薬による、爆破解体で崩壊したと結論付けるのが合理的であろう。激突した旅客機は、遠隔操作されていた疑いが濃厚である。実行犯は、放置した自動車内にパスポートを残すような間抜けではなく、破壊活動の専門訓練を受けたプロの工作員らとしか考えられない。CIAとモサドの合同作戦であったという説があるが、本記事では、その点にはこれ以上は触れないこととしたい。今言えることは、情報機関には愛国者たちも多く存在するが、一方で、国家を超えた集団のために働く、獅子身中の虫らも存在すると言う事実である。これは、軍の上層部についても、同じことが言える。

 アメリカは、正確に言えばアメリカに寄生してるグローバリストらは、マッチポンプ戦術を常套手段としているのは、歴史を振り返れば明らかである。第1次世界大戦においては、参戦に否定的な世論を覆すために、客船ルシタニア号がドイツ海軍の潜水艦に撃沈されるよう画策し成功した。第2次大戦では、日本に先に手を出させるよう仕向け、日本海軍の動きを把握していながら、あえて真珠湾を攻撃させた。ベトナム戦争では、北ベトナム軍の魚雷艇がアメリカ海軍の駆逐艦を魚雷攻撃したとして、本格的な軍事介入を開始した。いずれも、アメリカ国民の怒りが沸騰し、世論は開戦支持に転換したのである。911でも、同じパターンの戦術が効を奏して、世論は勧善懲悪さながらに、テロ実行犯とされた、オサマ・ビン・ラディン率いるアル・カーイダに基地を提供したとして、アフガニスタン攻撃を支持したのである。その後、2003年3月には、大量破壊兵器を保有しているとして、イラク侵攻に踏み切ったが、アフガニスタン侵攻以上のこじつけであり、あるはずの兵器は、結局最後まで発見されることは無かった。

 もはや、作られたテロ事件と言っても過言ではない、911を契機とした、これらの戦争によって、戦争に参加した各国の軍人らは勿論のこと、それ以上に、アフガニスタンとイラク両国の一般市民に大量の犠牲者が出た。アメリカのブラウン大学の研究によれば、20年に及ぶ対テロ戦争の戦費合計は8兆ドル、戦争による死者は約90万人に上るという。個々の兵士たちの英雄譚はあれど、戦争自体は、本来戦う必要が無かったと言って良いだろう。多くの人々に傷を残した、911とその後の戦争であるが、それらを計画し実行した者たちは、莫大な経済的利益を得ると共に、彼らの世界完全支配計画を着実に前に進めたのである。

 それでは、「彼ら」の正体は何であるか。私たちは、自己防衛と共に、邪悪な計画を阻止するためにも、「彼ら」がどんな連中であるか、知っておくべきであろう。先に、「グローバリスト」という名称を使ったが、彼らは多くの通称で呼ばれて来た。「軍産複合体」、「ディープステート」、「カバール」などがそれである。それぞれを円とするなら、全ての円が重なり合う中心部がある。それが、「彼ら」の、言わば本尊であり、ラスボスである。その中心部に位置する者は、ロスチャイルド家である。これは、私の憶測などでは無く、諸国の数多くの優れた研究によっても明らかにされている、既知の事実と言えるだろう。そして、「彼ら」のことは、聖書が明確に指摘している。

「サタンの集会に属し、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足元に来てひれ伏すようにし、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう」(ヨハネの黙示録3:9・聖書協会共同訳)


 この聖句が指し示す、「彼ら」については、律法主義のユダヤ人という解釈や、真の信仰を持っていない見せかけだけのクリスチャンという理解もある。黙示文学の形式ゆえに、それらも決して根拠が無い訳ではないが、ここは、字義どおりに解釈するとしよう。そうすると、過去から現在まで、世界で起きて来た事と見事に符合するのだ。この聖句が言う、偽りのユダヤ人とは、血統的にユダヤ人では無く、信仰的にもユダヤ人では無く、悪魔を崇拝する者たちのことである。血統的にと言うのは、ユダヤ人はアブラハムの子孫であり、つまりセム系民族であるのだが、それを基準にするとである。信仰的にと言うのは、キリストを彼らの待ち望むメシア(救世主)と受け入れているか、あるいは、そうで無くとも、(旧約)聖書が預言している、メシアの到来を待ち望んでいるか否かである。決定的なのは、悪魔を崇拝していることであり、古代から現代に至るまで、脈々と続く悪魔教が御伽噺では無く、現実に存在していることと符合している。彼ら悪魔教徒たちは、西洋諸国を中心に、諸国の政府、企業、宗教組織、大学など、各界に広範囲に浸透している。いや、それらを牛耳っている、という言葉で表現するべきかも知れない。

 念のため言っておくが、私は、決して反ユダヤ主義では無く、それどころか、真のユダヤ人は遠い兄弟のように思っている。日本人のルーツには、ユダヤ人も大きな流れとしてあると思うからだ。いわゆる失われた10支族(部族)の本隊は、日本に到来したと考えている。警戒すべきは、聖書が示している、偽ユダヤ人の悪魔崇拝者たちである。私たちは、彼らが現実の存在であると認識し、彼らの謀略を見抜き、掌の上で踊らされない様に、思慮深くあるべきだろう。知識を得るために学ぶ必要はあるが、彼らの術中に陥らないための知恵は、全て聖書と聖霊から得られる。この世界が邪悪な者たちに支配されているとしても、神の遠大な計画の中で暫くの間だけ許されているに過ぎない。私たちが、全能の神の側に行くならば、神は喜んで私たちの側に立ってくださる。そして、私たちを愛しておられることを、「彼ら」に対して明確に示されることだろう。
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完全な愛は恐れを取り除く(記事No.39)

 現在21都道府県を対象に発令中の緊急事態宣言が、2、3週間程度延期されようとしている。日本人の大半が、新型コロナウイルス感染症流行に対する日本政府の対応は、昨年1月以来ずっと迷走を続けて来たように思っているだろう。私自身も、政府の対応だけを見るなら、当然そう思う。しかし、諸外国の、特に欧米を中心とした先進諸国政府の対応も、同様に際立った成果を上げていない事を見る時、このパンデミック状態は、意図的に継続されていると考えると、全てにおいて辻褄が合う。



 何故新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、今なお収束の兆しが見えないのか。それは、誰かが意図してそうしているからである。それは誰であるのか?これだけのスケールで事を運べる集団は限られている。彼らは、イルミナティと呼ばれている、国際金融資本を主力とした、世界的規模の謀略集団である。あるいは、イルミナティという呼称も表面上のもので、彼らの間では別の名称が使われている可能性もある。彼らの実体については、偽情報を含めた多くの情報がネット上にも流れているので、興味があればご自分で調べていただきたい。彼らは、悪魔崇拝者の集団であり、世俗的には各国の政府を従わせるほどの巨大な力を有しているだけでなく、霊的にも大きな悪のパワーを持っている。



 それでは、何故彼らは、新型コロナウイルスのパンデミックを計画・実行し、現在も継続中であるのか。彼らの目的は何か?それは、彼らが一貫して目指している、最終ゴールに到達するためである。その最終ゴールとは、彼らの天敵であるキリスト教を地上から消し去り、もちろん他の宗教も同様に除去されるが、悪魔崇拝を唯一の宗教とする、世界統一国家を樹立する事である。そのためには、世界人口を管理し易い程度まで削減し、残った人々は、言わば人間牧場の奴隷として、完全な管理下に置く必要がある。今盛んに取り沙汰されている、ワクチンパスポートなどは、そのための管理ツールであって、決して人々の安全のためでは無い。だから、欧米諸国では、自覚的に、あるいは本能的に、ワクチンパスポートの邪悪な目的に気づいた多くの人々が、大規模なデモや抗議集会を展開している。



 悪魔の手先である彼らが、人々を彼らの意図に従わせるために用いる手段は、人々に恐怖を与える事である。集団的に恐怖をもたらすものは、戦争、テロ、飢餓、貧困、犯罪、そして疫病などである。ひとたび人々が恐怖に陥ると、それを取り除いてくれると思われる方策を容易に受け入れるようになる。もし、冷静に、かつ理性的に考えるなら、決して受け入れ無いような方策だったとしても。であるから、現在世界でコロナワクチン接種率が高い国ほど、変異株の感染者と重症者・死亡者が増加しているという事実を前にしても、一度立ち止まってワクチン推進政策を再考するのでは無く、むしろ、ブーストショットと称して、接種を繰り返す方向に進んでいる。特にイスラエルでは、国民の1割以上が新型コロナウイルスに感染するという、悲惨な状況に陥っている。イスラエルについては、世の終わりとも関係した重大な疑問があるのだが、これについては、別の機会に書きたいと思う。



 この世界の現象には、それぞれ、そうなる実際的な原因がある。そして、その原因を突き詰めるならば、そこには霊的な世界の動きも、また存在している。聖書は私たちに教えているが、悪魔は抽象的な概念では無く、空想の産物でも無い。神に反逆した堕天使であり、その配下にある悪霊どもも同様である。彼らは反キリストであり、被造物の中で最も神に愛されて来た人間たちを、自分たちがそうであるように、神から引き離して支配下に置くことを願っている。それが、彼らの神に対する復讐であるからだ。悪魔は、盗み、殺し、滅ぼす者であり、恐れと、不安と、死を人々にもたらす者である。それは、イエス・キリストが、与え、生かし、建て上げる方であり、安息と、平安と、命を与える方であることの、まさに真逆である。



 ところで、皆さんの中には、「フランダースの犬」という物語を読んだことがある方もいるだろう。私は小学生の頃、この物語のアニメをテレビで観た。何話目であったのか覚えていないのだが、今でも印象に残っている主人公のセリフがある。ネロ少年と愛犬パトラッシュが、何のためであったか、猛吹雪の中を目的地に向かっている場面でのことである。ネロは、「完全な愛は恐れを取り除く、完全な愛は恐れを取り除く」と繰り返しながら、恐怖心を克服して歩みを進めていたのだ。ネロが口にしていた言葉は、新約聖書の一節であったのだが、当時まだクリスチャンで無かった私には、その言葉の由来は分からず、ただ強く印象に残り、記憶の中に刻まれた。後の日になって私は、その言葉を聖書の中に見出したのだ。



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」(ヨハネの第一の手紙4:18 口語訳)



 完全な愛とは、イエス・キリストのみが与えることが出来るものであり、またそれは、キリスト自身のことである。私たちは、自分自身の力では、恐れを克服するに十分では無い。危機に直面した時、精神力で恐怖心を克服出来る場合もあるとは思うが、必ずそう出来るという保証は無い。しかし、完全な愛は、神から超自然的に与えられるものであり、それは、必ず恐れに対して勝利することが出来る偉大な力である。キリストを信じ、心に受け入れるということは、その完全な愛が私たちの内に入り、いつも、いつまでも共にあると言うことである。新型コロナウイルスのパンデミックも、完全な愛を持つならば、何も恐れる必要は無い。世界が恐怖により支配されようとしている今こそ、私たちには、完全な愛が必要不可欠である。
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反乱の首領たち(記事No.38)

 菅首相が、事実上の退陣表明となる、9月末に予定されている自民党総裁選挙への不出馬を発表した。前任者の安倍氏に続き、新型コロナ対策など山積する国内外の課題対処に匙を投げた、敵前逃亡に等しい突然の辞任となる。もっとも、元々首相職には不適任であった訳で、安倍氏より鈍感力が足りなかったということか。後継者レースに名乗りを上げている人たちの顔ぶれを見ると、私としては、石破氏一択と思えるが、党内政治力学の結果はどうなるであろうか?宗主国アメリカ意中の人物は、今名前が挙がっている人々の中にはいないと思えるが、本国の政争が鎮まる迄の間、取り敢えず後継首相の選任は、日本に任せるということかも知れない。

 敗戦後の日本の首相は、菅氏を含めて35人いるが、その平均在任機関は約2年である。大統領制のように憲法で任期が規定されている訳では無いので、単純な比較は出来ないとは言え、一国の最高指導者としては、余りに短いことは確かであろう。なお、歴代首相の中で、最長在任期間を誇るのは安倍晋三前首相であり、以下、桂太郎、佐藤栄作、伊藤博文と、上位4人までが長州出身者である。それぞれに毀誉褒貶があるが、共通しているのは、明治維新以来変わらない、長州支配の構図により輩出された人物ということである。敗戦後はこれに、対米従属という要素が加わったのは、前記の佐藤、安倍両元首相を見ても明らかであろう。

 日本の首相の平均在任期間がかくも短いことは、政治的には様々な理由がある訳だが、霊的な面においても理由が明確にある。それは、神の教えに対する反逆である。加えて、正当な国の秩序と、国民に対する反逆もある。真の神を信じているか否かに関わらず、人は神が心に置かれた、良心に反さないよう歩むことが必要である。仮に聖書の教えを知らなかったとしても、良心に従うことで神の教えを守っているならば、その人は神の恵みを受けるであろう。これまでの首相たちの政治的業績を検証するまでもなく、彼らの多くは神の教えを実践して来なかったことは、現在の日本の惨状を見れば明らかであろう。

「反乱のときには国に首領となる者が多く出る。分別と知識ある人ひとりによって安定は続く」(箴言28:2 新共同訳)


 元石油開発会社の経営者でフリー・ジャーナリストでもある、藤原肇氏は、2000年4 月に当時の小渕恵三首相が脳梗塞で入院した際、青木幹雄官房長官が首相代行となり、その後小渕氏が退院することなく死去し、森喜朗幹事長が後任首相に就任した一連の流れを、談合により首相を決定した一種のクーデターであると非難した。密室政治で国の最高指導者を決めるのは、反乱に等しいと言うことである。また、元参議院議員の平野貞夫氏は、2018年9月に、安倍晋三氏を内乱罪及び同予備罪で最高検察庁に告発しているが、その後、事件は東京検察庁に回送され、2019年9月に不起訴処分とされた。平野氏の告発理由は、安倍氏が首相として憲法尊重義務に背いて来たことは、憲法の基本秩序を破壊する暴動に等しいという、大真面目なものであった。検察庁は嫌疑を認めなかった訳だが、内乱罪は諸外国の国家反逆罪にも近い犯罪であり、少なくとも平野氏の視点では、安倍氏は反逆の徒であったと言うことだ。

 このように、在野の知識人らによって、しばしば厳しく指弾されて来たように、日本にも、権力を私物化する、人治政治を行う政治家らが蠢いている。彼らは、決して国民のための政治は行わず、自分たちの既得権益のために働くに過ぎない。これは、与党政治家だけでなく、野党政治家の多くも同様であろう。首相や大臣らの下で働いていることになっている、官僚たちについても同じことが言える。国家と国民に対する反乱は、政・官・財・報・学・労といった、各分野の共犯者らによる合作であるだろう。

 もう1つ見逃してはならないことは、現在の自公連立政権は、カルト宗教の影響下にあるということである。この体制は、1999年から、民主党政権時を除き、約20年間の長きに渡り継続中である。公明党が創価学会と表裏一体であることは、誰もが知っている常識であるが、自民党は岸信介首相時代より、統一教会と親密な関係を維持して来た。加えて自民党は、生長の家の幹部らが関与して設立された、日本会議との関係も深い。もっとも、生長の家は、その後政治的には穏健な保守の立場に転じ、日本会議と決別していると言われている。自民党政治家は、韓国や北朝鮮に対する強硬姿勢を示すことがあるが、水面下では統一教会などの半島系団体を通じ、今もなお韓朝とも利権を共有している疑いが濃厚である。

 先ほど、次期自民党総裁なら石破氏一択と書いたのは、彼がプロテスタントのクリスチャンだからという理由だけでなく、国民に対する反乱を起こすような人物では無いからである。何回か石破氏の講演を聞いたことがあるが、彼の言う、自分が忠誠を尽くすべきは国民である、という言葉には偽りを感じなかった。2018年に石破氏と安倍氏が総裁選挙を戦った時、産経新聞は、石破氏は安倍氏と比べて国家観が弱いと批判した。報道機関でありながら統一教会と不自然な関係を有する産経新聞が、どの口で言うかと思ったものである。本記事を書いている時点では、石破氏が自民党総裁選に出馬するかどうかは分からないが、民主政治とは、その時に最善の選択肢が無かったとしても、少しでもマシな選択をすることの積み重ねである。私は自民党員で無いので、総裁選挙は見守るだけであるが、これ以上国民に対する反乱者が国の首領になって欲しくない。神を信じるものたちの祈りが必要である。
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