昨年の夏、年末年始、そして今年の夏と、帰省や旅行を控えた人は多かったと思う。旅行はまだしも、帰省は、老親と離れて暮らす人々にとっては、多くは年に1回か2回の貴重な親子水いらずの機会でもある。これで、今年の年末年始も帰省取り止めとなれば、丸2年間親子や3世代が対面出来ないことにもなってしまう。中には、この地上では2度と会えないというケースもあるだろう。安倍、菅両氏の首相時代もそうだったが、岸田首相の要請も、国民にとっては残酷な話である。帰省自粛要請を無視して故郷に帰れば、テレビで洗脳された心の狭い人々が、自粛警察となって陰湿な圧力を加えることになる。
私たちは、これまでの日本における新型コロナ・ウイルスの流行状況と、それに対する政府の対応をつぶさに観察して来た訳だが、いい加減極度に恐れる必要は無いと気付くべきであろう。もし本当に、新型コロナ・ウイルスが、帰省や旅行を控えなければならない程の強力な感染力を有しているのであれば、なぜ大都市圏の満員電車は自粛要請されないのだろう?通勤や通学の移動距離は、帰省よりも短いに違いないが、ほぼ毎日利用しているのであり、感染者との接近機会は遥かに可能性が高い。
結局のところ、日本を含めた世界の多くの国々の政府とマスコミによって、実態以上にウイルスの危険性が煽られているのであろう。昨年初頭の世界的流行当初は、ウイルスは強力な感染力と毒性を有していたのかも知れないが、変異を繰り返して毒性は相当低下している可能性が高い。そうなると、少なくとも現時点でパンデミックは、本当は終息に近付きつつあると思われる。もちろん、ワクチン接種なども必要ない。最初はワクチン接種は感染を防ぐと言われたが、接種者も感染することが明らかになると、今度は重症化を防ぐ効果があると言われるようになった。すぐに、接種者も重症化することが判明したが、今度は抗体が減少しているためで、ブースト接種が必要であると言う。既に十分、詐欺に等しいことが明らかであろう。
なぜ、今なお世界の多くの国々で、人々に対する行動制限が、強制であれ自粛要請であれ継続され、一部の国ではむしろ強化されようとしているのか。また、なぜ、有効性や安全性に疑問符が付きまくりのワクチン接種が、多くの国々で強力に推進されているのか。もちろん、決して人々の健康を守るためでは無い。これらを推進している者たちの最大の目的は、人々に対する管理を飛躍的に強化して、世界統一政府樹立への道筋を付けることである。だから、非科学的であろうが、憲法違反であろうが、人々に行動制限を課し、ワクチン接種へと駆り立てるのである。
コロナ前はそう意識していなかったと思うが、私たちにとって、移動の自由はとても大切な自由である。この自由が保障されているか否かは、言論や信教の自由と並んで、ある国が全体主義的国家であるかどうかのリトマス紙のようなものである。日本でも、江戸時代には、一般には国境(くにざかい)を超えての移動の自由は無かった。国境を越えて旅行するには、通行手形などの旅行許可証が必要であり、それが無いと各地に設けられた関所を通過することは出来なかった。神奈川県の箱根には、お玉ヶ池という名称の池がある。その名の由来は、江戸で奉公していた、お玉という女性が故郷に帰ろうと関所破りをして捕らえられ、処刑されたことを人々が悼んで付けたものとされる。移動の自由が無い時代、許可なき移動は死刑に処せられる重罪だったのである。
現代でも、北朝鮮などは国内旅行をするにも許可が必要であることは知られているが、ソ連や共産主義政権下の東欧諸国も同様であった。中国では、旅行許可証こそ今では必要ないものの、長距離列車の切符や航空券を買うときには、窓口で身分証明書の提示が求められるため、政府が国民の移動を監視していることは変わらない。全体主義国家では、人々の移動の自由を制約することが、国民管理上不可欠とされているのである。新型コロナ・ウイルス流行を口実に、移動の自由を奪おうとするのは、世界を全体主義体制に導こうとする意図があまりにも明白である。
私は、帰省したい人はすれば良いし、旅行したい人は好きな所に行けば良いと思う。手洗いやうがいなど基本的な感染予防策の励行は、自分の身を守るためにも必要だが、ウイルスを過剰に警戒するあまり、大切な家族や友人と過ごす時間を失ってはならないと思う。もし私たちが、移動の自由の制約という理不尽を甘受するのであれば、次は言論や表現、やがては信教や思想など内面の自由も侵害されるようになるだろう。帰省や旅行の自粛は、それを唱えている人たちだけで努めてもらえば良いと思う。
「それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった」(使徒言行録 9:28 新共同訳)