日本では報道の扱いも小さいようだが、フランスやイタリアなどワクチンパスポートの導入を進めているヨーロッパ諸国では、それに反発する国民が大規模なデモを起こすなど抗議活動が続いている。SNSなどで全世界に拡散されている映像からは、数万から10万人規模のデモが各地で行われている様子である。疫病対策の名目であったとしても、自分たちの健康や行動を政府に管理されたくないという、自由を守ろうとする人々の意思の現れである。
ヨーロッパ諸国では、人々は自由は権力者から与えられたものではなく、天賦の、あるいは神与のものとして、人が生まれながらに与えられているものと信じられている。人権もまた同様であり、これらは自然権とされる。であるから、政府が人々の自由を侵すのであれば、そのような政府は、国民により打倒することが出来ると考えられており、革命権や抵抗権と呼ばれている。それゆえ、今般のワクチンパスポートのように、政府が人々の自由を奪おうとするなら、人々が大衆威示行動としてのデモや集会で抵抗を表すことが当然なのだ。
このように、政治的、社会的な自由を守り、あるいは、それらを得るためには、人々の具体的行動が必要となる。自由のための行動は、時には生命の危険が伴うことがある。アジアでも、香港やミャンマー(ビルマ)で、官憲の激しい弾圧にも関わらず、多くの人々が自由を守るために立ち上がったことが記憶に新しい。それらの運動の背後には、外国情報機関の関与があったとも言われているが、例えそうであったとしても、人々の自由を守ろうとする決意と勇気は素晴らしいと思う。
ところが、私たちが得るべきある種の自由は、政治的、社会的な戦いによっても得られない。それどころか、人のあらゆる努力や行動によっても決して得られない。それは、罪と死に対する自由である。この場合の罪とは、犯罪や社会的規範に反することではなく、創造主である神に背を向けて生きることを言う。言い換えるなら、自己中心的な神無き歩みのことである。死とは、今ある肉体の死ではなく、霊と魂の死、すなわち、神からの永遠の別離である。罪からの自由は、罪を赦すことが出来る権威と力のある存在だけが与えることが出来る。死からの自由は、永遠の命を与えることが出来る力のある存在だけが与えることが出来る。これらの自由を与えることが出来る存在は唯一人、イエス・キリストである。
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ人への手紙5:1・口語訳)