その講演の中で、コロナ禍にあっても、危機をチャンスに変えることが出来るという話があった。お説ごもっともではある。誰もが、この状況をチャンスに変えられるものなら、変えてみたいと思うだろう。実際、コロナ禍を絶好のビジネスチャンスと捉えて、大きく売り上げを伸ばしている企業や、収入や資産を増やしている人々もいるだろう。それはそれで、公正な競争の中での結果であれば、決して非難されるべきものではなく、むしろ、実力や才能があるということであろう。
私が気になったことは、危機をチャンスに変えるのは、誰の力によるのかということである。もちろん講師は、それは自分自身の力だと言いたいのであろう。確かに、人はそれぞれ、自分の内側に力を秘めていると思う。だが、その力を十二分に発揮している人もいれば、全く発揮出来ていない人もいる。今回の講師のように、社会的には誰もが認める成功者であるならば、これまで自分の力をよく発揮して来たであろうし、そのための努力も人一倍重ねて来たはずである。その点は、賞賛されるべきかも知れない。しかし、世の中には、自分の力を上手く発揮し切れていない人々も多い。それは、必ずしも、それらの人々の努力が足りなかったのではなく、人生の歯車が思うように噛み合って来なかったという場合もある。
当たり前のことではあるが、人生が常に右肩上がりということはあり得ない。それを停滞期というか、踊り場というか、あるいは暗黒時代と言うかはさておき、誰でも困難な状況に直面することがある。自分の努力や精神力で、そのような状況を乗り越えられる人もいるだろう。多くの場合は、家族や友人の助けを借りて、困難を乗り越えるのであろう。それはそれで、人の優しさにも触れることが出来る良い機会ともなるだろう。しかし、誰もが周囲の人々からの助けを常に得られるとは限らない。苦難の中で、誰からの助けも得られずに、一人苦しみもがく人々もいる。自分の力はもとより、他の人々からの力も得ることが出来ない状況に陥るケースもある。
人の力は有限であり、それは、頼れる場合もあれば、頼れない場合もある力である。自分自身の力も、人々の力も、組織の力も、いや国家の力さえも、それは有限であり、絶対的な力とは言えない。私たちが、それらの力に全幅の信頼を置くだけであるなら、コロナ禍に象徴されるような想定外の困難の中で、常に状況を乗り越えて行けるとは限らない。しかし、この世の全ての力を合わせたよりも、遥かに偉大な力を持つ方がいる。神である、イエス・キリストである。私たちが、困難や問題に直面した時、自分の力が足りないことを率直に認め、神の前にへりくだって、その助けを願い求めるのであれば、神からの偉大な力が私たちを強くしてくださる。例え私たちは弱い者であったとしても、神の内にあって強い者とされ、困難な状況を突破して行くことが可能となるのだ。この偉大な力を、是非とも自分のものとしていただきたい。
「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」(エペソ人への手紙 6:10 口語訳)