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預言的ミニストリー(記事No.55)

 昨日、東京都内にある教会で奉仕をさせていただいた。礼拝メッセージ(説教)と、礼拝後には希望者に対して個別に祈る時を持った。祈りの時間には、その教会の牧師同席のもと、礼拝堂の片隅で順番に祈らせていただいた。私たち新約教会では、牧師などの教役者が兄弟姉妹のために個別に祈る時には、しばしば個人預言が伴う。私自身は預言者ではないが、そのような機会には、預言的賜物を用いて務め(ミニストリー)を行う。昨日も同様であり、祈りと個人預言がセットであった。

 個別の祈りや個人預言の中身については、当然書けるはずもないが、幸い兄弟姉妹に励ましを与えることは出来たようである。預言者の中には、祈る時にビジョンが見える人もおり、その場合は、それに伴って示しが与えられる。その示されたことを語るとき、それは預言となる。私の場合は、祈る時に印象(イメージ)が与えられることが多い。過去に、あることについて、その中身だけでなく、時期もピンポイントで示されたことがあったが、それは特別な体験であり、私の場合普段は、未来の出来事を期日付で指し示すような示しは与えられない。

 預言や預言ミニストリーについては、キリスト教会の中でも、否定的な考えを有しているところも多い。個々のクリスチャンについても同様である。預言とは、聖書の言葉そのものがそうであり、預言者とは、聖書の言葉を語る者がそうであるという考えである。私も、その考え自体には同意する。同時に、現在においても、預言の賜物は与えられ得るものであり、預言の働きに召されたクリスチャンも存在することを信じている。預言については、聖書解釈が大きく分かれてはいるが、それらの考え方の違いに関する詳細は、興味のある方が自分で調べていただきたい。

 これは、癒しや解放のミニストリーや異言(聖霊の霊感を受けて、知らない言葉で祈ること)を語ることについても言えるが、行き過ぎや混乱を警戒するあまり、それらの賜物や働きまでも否定することは、残念であり、もったいないことである。預言の場合も、聖書に基づくガイドラインに沿った用い方をしないと、混乱や弊害が生じる場合もある。また、神の霊ではない、別の霊による惑わしにも警戒する必要がある。個人預言の場合も、その人自身の悩みや問題について何か聞いている場合には、先入観が入ることを防ぐために、余程明確に示されない限りは、あえて語らない方が良いと思う。であるから、昨日祈った際も、相手が自ら話さない限り、祈りの課題については聞かず、ただ示されたことを語った。

 神から示されて語られた真の預言は、人を慰め、励まし、建て上げる結果をもたらす。逆に、人を傷付け、落ち込ませ、混乱させるならば、それは真の預言ではなく、それを語った者は、神の霊で預言したのではない。全ての霊的務めがそうであるように、預言とそれを語る者もまた、その実によって判断されるべきである。中には預言と称して、実は人々をコントロールしようとしているケースもあるので注意を要する。また、預言を受けたいと願う者は、それが占いとは違うことを認識している必要がある。占いは聖書が明確に禁じている。何か選択に悩んでいる時には、まずは、自分で神に祈って導きを願うべきである。その上で、預言によっても確認が与えられるなら感謝なことである。

 あらゆる預言的ミニストリーにとってそうであるが、クリスチャンとしてのいかなる務めや働きにとっても、最も欠かすことの出来ない要素は、愛があることである。神の愛によって動かされる時、自己中心的な動機は潔められ、自らに栄光を帰すような思いは消し去られる。であるから、どんな務めを行うにしても、まず、神の愛を求めることが大切である。愛に基づいて預言を語るのであれば、相手を支配しようと思うはずは無く、まして、それを通して金銭的・物質的な利得を得ようとはしない。預言的ミニストリーに携わりたいと願うならば、神の愛を祈り求めることから始めるべきであろう。
 
「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(コリント信徒への手紙一 14:1 聖書協会共同訳)