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深く考えないことの末路(記事No.59)

 昨日から今日にかけて、札幌に出張して来たのだが、日中は気温が17度近くもあり、歩くと少し汗ばむ程であった。新千歳空港に到着した時には、ほとんど陽が落ちていたので、空港から札幌に向かう快速エアポートの車窓からは、外の景色は夕闇に紛れていた。帰路は昼間であったので、空港に向かう列車の窓外には、所々紅葉の林が美しく過ぎて行った。北海道は、真冬を除けば過ごし易く、自然豊かで魅力的な地である。最近言われるようになった、ワーケーションを、夏から秋にかけての北海道で実践出来たらと願ってもいる。

 さて、本土に生まれ育った私から見て、魅力溢れる北海道であるが、札幌を除けば、必ずしも繁栄しているとは言えない。かつての基幹産業の衰退や、全国的現象でもある、農漁村部の過疎の深化などで、どちらかと言うと活力が失われつつある自治体が多い。コロナ前のインバウンドによる経済効果も、道全体を活性化させるまでには至っていなかった。活力低下の根本的原因としては、一番は、明治以来の中央集権的な画一的行政システムと、それを所与のものとして受け入れて来た道民の意識があるだろう。もちろん、それは、北海道に限らず、全国的に言えることである。

 衰退しつつある自治体の中には、起死回生を図ろうと、中央政府がぶら下げる、特定の補助金や交付金といった、人参に飛びつくところも出てくる。人参を得るには、対価を支払わなければならないのは当然である。自治体が、つまりは、地域住民が支払う対価とは、往々にして、当座は大したことが無いように思えても、時が経つにつれ、確実に多くのものが失われていくものである。10月26日に町長選挙の投開票が行われた、北海道寿都(すっつ)町も、人参に飛びついた自治体の1つである。

 20年振りという今回の寿都町長選挙では、高レベル放射性廃棄物最終処分場選定に向けた文献調査の継続が最大の争点となったが、現職の片岡晴男氏(72)が対抗馬の前町議を下し、6選を果たした。争点となった文献調査は、片岡町政5期目の2020年8月に、町長が町議会への提案を経ずに、突然応募を表明したものである。寿都町は、同年10月に原子力発電環境整備機構への応募を行った。その後、是非を問う住民投票条例の制定案が住民直接請求により町に提出されたが、同年11月の議会で否決されている。確か東京新聞に掲載されていたと記憶するが、片岡町長は、文献調査応募について新聞記者から問われ、「いいじゃないの、深く考えなくって」と答えていた。

 文献調査そのものは、建前上は放射性廃棄物最終処分場の選定決定を前提としたものでは無いが、北海道や寿都町の周辺3町村は、調査自体と、それによる20億円と言われる国からの交付金受け取りを辞退しており、寿都町の独走が際立つ形となっている。寿都町には、今後どれくらいの交付金が配分されるのかは、現時点では明確でないが、人口2830人(2021年3月末時点)、年間町予算約55億円(令和3年度)、その内町税収入は僅か4パーセントの小自治体とすれば、かなりインパクトのある収入になるだろう。

 原子力発電所など、核関連施設を誘致することは、その地域にどんな影響を及ぼすことになるのか。近視眼的には、それなりに大きなメリットもあるだろう。国からの交付金収入などに加えて、電力会社などからの様々な協力金もある。それらにより、道路や町施設の整備も進む。原発や関連企業での雇用も創出され、勤労者が増えれば、税収増や経済効果も期待出来る。しかし、デメリットもまた大きい。福島第一原子力発電所の事故では、首都圏を含む広域が放射能汚染されてしまった。チェルノブイリ基準では、居住禁止となる汚染度の地域にも、国や福島県は住民を戻そうとしているのが現実にある。

 長期的なデメリットは、ひとたび事故が発生したなら、周辺地域が重度に汚染されることだけではない。原発などの日常運転でも、放射性物質が環境に放出される。この点を、核関連施設誘致推進の旗を振る人々がどう考えているのか、分かりやすい実例がある。敦賀原発や、建設以来1度もまともに稼働せずに国費を食い潰して来た、高速増殖炉もんじゅが立地する敦賀市の、高木孝一市長(当時)が、1983年1月に、石川県志賀町で開催された講演会で語った言葉である。「協力金で棚ぼた式のまちづくりが出来るからお勧めしたい。」、「50年後、100年後に生まれる子供が皆かたわになるか分からないが、今の段階ではやった方がよいと思う。」と、当時志賀原発の誘致を進めようとしていた町で語ったのだ。ちなみに、この高木市長は、あの高木毅元復興大臣の父である。血は争えないとも、思わせてくれる親子ではある。

 寿都町が候補地選定調査に手を挙げた、放射性廃棄物最終処分場は、その辺の産業廃棄物処理場(これはこれで問題もあるが)とは全く別物である。公表されている中では、現在世界で唯一の放射性廃棄物最終処分場である、フィンランドにあるオンカロは、堅い岩盤を地下400メートル以上も掘削して整備された。その想定保管期間は、何と10万年である。私は、聖書の記述を信じる創造論に立った歴史認識を有しているが、それに基づけば、10万年前は、この地球自体が今の形では存在していなかった。あるいは、進化論に立っている場合でも、10万年前と言えば、人類の祖先がアフリカに出現した頃であろう。日本列島は、ユーラシア大陸と陸続きだった頃である。

 高濃度放射性廃棄物の最終処分場を設置することは、本来ならば、10万年単位で物事を計画するべき事案である。どう理論を飛躍させても、10万年間安全に保管出来る確証など得られるはずも無い。この一事を以てしても、原子力発電とは、現在だけでなく、未来の人々にも重荷を負わせる、明らかに利己的で不道徳なシステムだと確信する。そして、それは、ほとんど全ての利益は自分たちに、不利益は後代を含めた他者に付け回す仕組みである。私たち今に生きる者たちは、将来の世代に、豊かな国土と、そこに根を張る人々の活き活きとした暮らしのある社会を、受け継いでもらう責任があるのではないか。

「彼が残して食べなかった物とては一つもない。それゆえ、その繁栄はながく続かないであろう」(ヨブ記 20:21 口語訳)


 深く考える必要は無いとの、片岡寿都町長であるが、残念ながら、町民多数の民意により再選されてしまった。まだ最終処分場設置が確定した訳では無いが、このまま進めば、片岡町長だけでなく、彼を支持した町民も、未来の人々から厳しく責められることになるだろう。後は野となれ山となれか、あるいは、我が亡き後に洪水よ来たれのメンタリティか。その時、豊かな自然に恵まれた寿都町は、寂れた生気も魅力も無い田舎町として、北海道の片隅に、ひっそりと佇むだけであろう。