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携挙は近いのか?(記事No.48)

 今日は久しぶりに、横浜の主に在る姉妹(クリスチャン)のゲストハウスにおいて、少人数の特別集会を持った。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 18:20)とのイエス・キリストの約束のとおり、神の目においては、人数の多寡ではなく、神を愛する人々が集っていることこそが重要である。礼拝メッセージでは、終末時代を生き抜くために、欺かれずに歩むことについて語らせてもらった。

 メッセージでも触れたのだが、私は、世界は終末に向けて大きな分岐点に差し掛かっていると捉えている。すなわち、悪魔の側に立って世界を統一しようとしている、反キリストの勢力が勝つか、それとも、神を愛し、自由を愛する、世界の人々が勝利するかである。それは、闇と光の戦いである。もし闇側が勝つなら、世界は一挙に患難時代に突入するだろう。しかし、光側が勝つなら、患難時代の到来はもう少し先となり、愛と自由が世界を覆うとの希望を持つことが出来る。どちらの方に世界が進んで行くのか、恐らくは、これから半年から1年くらいの間に帰趨が決すると思われる。

 さて、ここからの話は、聖書にあまり馴染みが無い方々にとっては、分かりづらいかも知れず、なるべくシンプルに書きたいと思う。それは、聖書の中で、世の終わりの時に起こると預言されている、「携挙」についてである。携挙とは、キリストが天から降臨(再臨と言う。)し、地上のクリスチャンたちを天に携え上げるという聖書の教えである。御伽噺のようでもあるが、聖書の中で明確に語られていることであり、初代教会より多くのクリスチャン(決して、全てのクリスチャンではない。)によって、信じ続けられてきた教えである。

 「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(テサロニケの信徒への手紙一 4:16~17 新共同訳)


 私がアメリカでお世話になった、ある韓国系牧師は、携挙のメッセージが好きで、いつもこう語っていた。「もし、あなたが新生した(つまり真の)クリスチャンであるなら、あなたは、神のラッパの音を聞くことが出来る」アメリカ留学中、決して幻聴ではなく、神の声を聞いた体験が何回かあったので、いつの日にか神のラッパの音を聞くと言うことが、とてもリアルに感じられたものである。

 聖書の預言では、世の終わりの最終段階において、7年間の、患難時代と言われる、世界的な苦難の時が到来する。実は、携挙がいつ起こるのか、患難時代の前なのか、途中なのか、それとも後なのか、いくつかの説がある。その中で、最も広く信じられている説は、患難前携挙説である。これは、クリスチャンは、患難時代が始まる直前に携挙され、全世界を覆う患難から守られるという考えである。福音派あるいは保守派と称されている神学に立脚する諸教会の多くは、患難前携挙説を説いている。福音派の政治的影響力が強いアメリカでは、対中東外交政策などにも、この教えの影響が見られる。もっとも、それは表層上のことで、実際は、シオニズムの影響の方が強いのだが。

 それでは、私自身はどのように信じているのかを書いておこう。私は、10数年ほど前までは、患難前携挙説を信じていた。それまで所属したり通っていたりした教会は、洗礼を受けたバプテスト教会を除き(そこでは、終末論は詳しくは語られていなかった。)、どこも患難前携挙説が教えられていたからである。ところが、詳しい過程は省略するが、次第にその説に疑問が生じ、やがて患難末期携挙説を支持するようになった。それら2つの説のどちらを信じようとも、神の救いには変わりはない。しかし、どちらが現実となるかで、違いは決して小さくはない。患難前の携挙であれば、地上のあらゆる苦難から逃れることが出来る。それに対して、患難中あるいは患難末期もしくは患難後の携挙とすると、クリスチャンは地上における苦難の中を通り、なおも神の守りを受けると言うことになる。

 聖書を信じる人が、その教えをどのように解釈するかは、個々の自由である。キリスト信仰により許される解釈の幅の中で、教会によって教えが違うことも、決しておかしいことではない。そうとは言え、世の終わりについての考え方、携挙についての理解については、自分自身の悟りを持っていた方が良いと思う。それによって、これからの時代を、どのような心備えを持って生きるのか、また、実際的な備えをどうすべきかなど、具体的な準備を進めることが出来るからだ。世の終わりなど来ないと考える人々にとっては、馬鹿馬鹿しい話であろう。仮にそのような考えの持ち主であったとしても、聖書の語っていることを知っておいて損は無いと思う。その教えは、私たちが今をどう生きるべきか、終末についての考えがどうであれ、それぞれの心に鋭く問いかけるだろう。