さて、日本には、キリスト教主義を掲げる学校が多く存在する。歴史の古い学校は、明治初期に創設されたものもある。カトリック学校の場合は、修道会が設立母体となっているものも多い。私の通っていた小学校も、そのような修道会立の学校であった。当時は、修道会のシスターが校長以下何人も教鞭を取っており、厳しくも愛のある教師たちであった。プロテスタント学校の場合も、外国の宣教団が設立したものが多く存在する。また、使命感に燃えた日本人伝道者や教育者が設立した学校もある。私が通っていた中学・高校は、アメリカのバプテスト宣教団によって設立されたものであった。
近代日本の学校教育において、キリスト教主義学校が結んで来た実は多大である。それらの学校の中には、名門校として知られるものも少なくない。特に、歴史が古い学校ほど、創立者をはじめ、代々の教職員たちの労苦と、幾多の卒業生たちの足跡により、名門校としての今日があると言えよう。決して、現在の教職員らの功績ではなく、今後の活躍が未知数の生徒たちのゆえでもない。であるから、キリスト教主義学校の経営陣と教職員らは、最初に据えられた土台の上に、時代に即した変化をしながらも、先人たちの教えに忠実に、キリスト教教育の精神を受け継いで行く責務を有している。
しかし、残念なことに、多くのキリスト教主義学校において、信仰を有する教職員は少数派になって久しく、それゆえ、生徒らに対して信仰的感化を与えることも、容易では無い実情がある。それでも、ほとんど全てのキリスト教主義学校では、学年礼拝や全校礼拝など、学校生活の中で、礼拝の時間が設けられている。かろうじて、聖書の教えが語られていることで、キリスト教主義の面目を保っているとも言えよう。
ここからは、ある実在する、関西地方にあるキリスト教主義学校の話である。その学校は、幼稚園から大学までを有する大規模な学校法人に属する、男女共学の中学校である。関西地方では、いわゆる名門校として知られている。もちろん、カリキュラムには聖書の授業もあり、専任の宗教教師も置かれている。ところが、2年前に日本でも新型コロナ騒動が始まって以来、何と、この学校では感染防止を理由に、学年礼拝を止めてしまったのだ。過去2年間、この学校の「礼拝」は、各教室での昼食時に放送で流される、「祈り、讃美歌、メッセージ」を聞くことなのである。1学年が丸ごと入れる規模の立派な礼拝堂は、この2年余り、本来の目的に使われることは無かった。
当然のことながら、在校生の保護者の中で少数いるクリスチャンの父兄は、このような状況を憂い、それぞれに祈り続けて来ただろう。ある保護者は、学校幹部に手紙を書き、参加人数を分散させるなど、感染防止の工夫をしながら、礼拝を再開して欲しいと訴えた。返信はあったが、「キリスト教についての考え方はそれぞれだと思います。」との、木で鼻をくくったような、愛も熱意も無いような内容であった。私も、その学校が、最初に据えられた、キリスト教信仰の土台の上に再生されるよう、祈り続けて来た。そして、愛も信仰もやる気も無い教師たちは去るように、と何人かの教師たちの名前を挙げて祈って来た。礼拝を蔑ろにするのは、愛や信仰の欠如が一番の問題であると思っていたからである。
ところが、つい昨日のこと、これまでは、全く想像もしていなかったことが思い浮かんだ。それは、教師たちの中で、礼拝を含む学校のスケジュールを仕切っているキーパーソンが、少なくとも2人いるのだが、彼らは、ある目的を持って礼拝を止めているという疑いである。彼らの内の1人は、クリスチャンと自称しているようである。彼は、保護者からの礼拝再開を訴える手紙に返信した幹部教師である。礼拝を止めた彼らの目的は、生徒たちの新型コロナ感染防止のためではなく、キリスト教主義学校を内部から骨抜きにすることだったのではないか!?仮にそうだとすると、彼らは、ある組織から送り込まれた、エージェントである可能性も浮上する。その組織とは、恐らくは統一教会ではないだろうか。
統一教会は数十年前から、日本でも中央官庁や政界に浸透を続けているのは、もはや公知の事実であると思う。その最初の日本支部設立を支援したのは、岸信介元首相であったが、その孫にあたる安倍晋三元首相も、統一教会の式典に祝辞を贈るなど、自民党との親密な関係は知られている。彼らはまた、キリスト教会にも、知る限りではプロテスタント教会のみであるが、浸透を試みて来た。最初は常識もある信徒を装って教会に入り込み、やがて執事など役員に選任されると、教会をコントロールしようと動き、牧師が反対すると追放を図るのが典型的な手口である。彼らのターゲットには、キリスト教主義学校も含まれているのではないだろうか?なぜ、こんなことに今まで気づかなかったのか。私の預言的賜物も、まだまだ開発途上であると言うことか。
以上書いたことは、現時点では確信を持つに至った訳ではなく、濃厚な疑いの段階である。私も、その学校のために祈り続けているが、いずれ神が彼らを取り扱われるであろう。このような学校の実態を、創立者が草葉の陰で嘆いているとは言うまい。彼は、神の御国で永遠の安息の内にあり、もはや悲しみや憂い、嘆きとは無縁である。だが、神の霊である聖霊は悲しんでいるだろう。イエス・キリストを信じる信仰者が、聖書の教えを土台として創設した学校が、その教えから、また、キリストに対する愛から離れてしまったのだから。このような悪魔の計略については、イエスご自身が預言され、警鐘を鳴らされている。
「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている」(使徒行伝 20:29 口語訳)
考えてみれば、何も不思議な話では無い。古今東西の国々で、国家指導者クラスが外国のエージェントであった事例もある。同様に、キリスト教会の指導者たちの中で、神に対する信仰を持っていないどころか、自覚的な悪魔のエージェントも存在して来た。キリスト教主義学校も、決して例外では無いだろう。学校をコントロールするためには、校長、副校長、事務長、宗教主任などの要職に就くのが、彼らとしてはやり易い。役職に就いていない教職員では、全体に対する影響力も弱い。であるから、どのような職業でも同様であるが、私たちは、人を肩書きや職位だけで判断するべきではない。私たちは、敬虔な信仰者や紳士淑女の仮面を被った、悪魔のエージェントもいるということに、もっと警戒感を持つべきであろう。
「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから」(コリント人への第二の手紙 11:14. 口語訳)