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真理は私たちを自由にする(記事No.60)

 今日10月31日は、衆議院選挙の投票日である。私は、数日前に、妻と期日前投票を済ませて来た。京都に移り住んでから、初めての選挙権行使である。昨年は、2月に市長選挙があったのだが、当時は東京に住んでいたので部外者であった。もし、京都市民であったなら、決して現職の門川市長には投票しなかったとは言える。それほど、門川市政は碌でもないものと実感している。今回は国政選挙であるから、日本の今後最大4年間の国家運営を委ねても良いと思える、候補者や政党に投票する訳である。自分の支持できる候補者や政党が無い場合もあるだろうが、その場合でも、批判票であったとしても、投票することが国民の権利であると同時に義務であろう。私は、棄権は白紙委任と同じであり、健康上の支障でも無い限りは、必ず投票に行くべきだと考えている。

 日本では、残念ながら、国政選挙や地方選挙で、投票率が50パーセント前後であったり、それを下回ることも珍しくない。有権者の中には、あらゆる選挙において、投票しない人々もいるだろう。一方で、台風でも大雪でも、必ず投票に行く人々もいる。組織政党と言われる、公明党や共産党の支持者などはそうであろう。投票に行くことが国民として正しい訳だが、どの候補者や政党に投票するかは、他人から薦められることはあったとしても、決して強いられるべきものでは無い。まして、政党や政治団体でも無い企業や宗教団体などが、その社員や信者に対して、特定の政党や候補者に対しての投票を、事実上強制することがあってはならない。もし、例えば宗教団体などが、信者に対して、特定の政党や候補者への投票行動を、信心や宗教的行動とも結びつけて押し付けるならば、そのような組織は、本来は宗教団体の看板を下ろすべきであり、それが宗教法人ならば解散するべきであろう。

 このように書くのも、投票行動は、私たちの思想や信条の発露の1つであって、内心の自由に関わることとして、他人から干渉されるものでは無いからである。自由と言えば、カナダのある病院で看護師として勤務していた女性が、最近、コロナ・ワクチン接種を拒み続けたために解雇された際に語った言葉が印象に残ったのだが、彼女はこう言っていた。「私は、救いの次に大切なことは自由だと信じています」「救い(Salvation)」という語を使っていたことと、その後で、「主(Lord)」と言う言葉も使っていたので、恐らくクリスチャンであって間違いないだろう。私も、彼女と同じ考えである。私たちの主であるキリストが、なぜ十字架にかかられたのか。それは、私たち人間の身代わりとなって罪の罰を受け、私たちを罪の束縛から解放し、自由を得させるためであった。ここで言う罪とは、創造主である神から背を向けた状態のことであり、それによる、あらゆる悪しき心や行いのことである。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ人への手紙 5:1 口語訳)


 今日の総選挙で選出される、選良とも呼ばれる国会議員たちは、当選後も日々国政に関する勉強に励むはずである。(少し嫌味かも?)特に新人議員などは、国立国会図書館をよく利用する人たちもいるだろう。もっとも、国会図書館は原則として誰でも利用出来るので、一般市民の利用者の方が多いのであろう。その国会図書館の東京本館ホール中央出納台の上には、「真理がわれらを自由にする」と言う言葉が、日本語とギリシア語で刻まれている。その由来は、国会図書館のホームページで説明されているので、詳細は省くが、国立国会図書館法の制定に参画した、参議院図書館運営委員長羽仁五郎議員(当時)が、ドイツ留学中に見た大学の銘板を基に創出したとされる。なぜ、日本語に加えてギリシア語でも刻まれているかと言えば、その銘文は、(原語はギリシア語であった)新約聖書の1節を記したものであったからである。そして、国立国会図書館法の前文にはこうある。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として、ここに設立される」

「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書 8:32 口語訳)


 日本国憲法には、国会は国権の最高機関と規定されている。日本国の最高機関である国会により設立され運営されている国会図書館は、設立当時の国会議員たちが知ってか知らずか、聖書的な理念に基づき創設され、その理念は、今なおその根拠法と建物の中に刻み込まれているのだ。ああ、もし多くの国会議員たちが、その理念に立ち返ることが出来たら、少なくとも、国民を幸せにする政治を、本気で実現しようとするのではないか。私たちは、政治家の有様に憤ったり嘆息するだけでなく、神を畏れ真理に固く立つ政治家が起こされるよう、忍耐強く祈り続けなければならない。