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人を潤す者は自分も潤される(記事No.14)

 本ブログをスタートして以来、主に時事問題などにも絡めたテーマで書いて来た。聖書の教えは、どのようなテーマに対しても答えを提供出来ることと、預言的な視点で事象を読み解くことが私に与えられている賜物の1つであるからだ。今回は、少し違う角度から聖書の教えの真実性について書いてみたい。

 人は誰でも、幸福な人生を送りたいと願っている。中には、人生に絶望し、幸福について願うことも考えることも出来ない人もいるであろう。一般的に、幸福は自ら掴むものというイメージもある。私としては、与えられるものという意味で、祝福という言葉を用いて書くこととする。キリスト教は御利益宗教ではないが、地上での物質的な面も含めた祝福があることを決して否定している訳ではない。例えば、旧約聖書に次のような言葉がある。

「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」(箴言第11章24―25節・口語訳)


 実例として、私の友人のことを紹介したい。彼女(仮にDさんと呼ぶ。)は私より一回り上の経営者であり、神奈川県内で老舗の和菓子会社を経営している。創業は明治後期であり、Dさんは4代目の社長である。Dさんは、外見は少し上品な感じの普通のおばさん(失礼!)であるが、実は大した人物である。経営者としての手腕も優れているが、同時に人柄も素晴らしく、Dさんの悪口は聞いたことが無い。Dさんは決して順風満帆の人生を送って来たという訳ではなかった。先代から経営を引き継いだ数年後には、工場が火災に遭うという試練も経験した。ここでは詳しく書かないが、私生活で苦労されたこともあった。

 Dさんは人々に良くする人である。それも単に親切にするだけでなく、人々のために気前良くお金を使う。取引先の人だけにそうするのであれば、あるいは打算ではないかとも思えるが、決してそうではない。周囲の人々に対して、計算ずくで無い、しばしば費用がかかる親切を、さらりと行うことが出来るのだ。Dさんは長く慈善活動への寄付も続けている。日本やアジアの貧困家庭の子供たちへの支援活動などへ、惜しみなく財を投じる。財産を多く持っているから出来るのだと言うなかれ、いくら財産を持っていてもケチな人はケチである。そういう人は、良い行いをする時も内心見返りを期待しているのかも知れない。

 さて、それでは、Dさんはどのように祝福されているのだろうか。Dさんの会社の商品で、その都市の銘菓にも選ばれた看板商品がある。約40年前新商品として世に送り出してから、何年も販売個数は低迷を続けたそうだ。それでも地道に販売を続けていたが、特別な販促活動もしていなかったのに、ある時から突然販売個数が伸び出し、あっという間に地域の銘菓になり、以来毎年、会社に多くの利益をもたらしている。もう何年も前から、その商品を買うためには各店舗の開店2時間前から並んで整理券を受け取らねばならず、いつも午前中には売り切れてしまう。今なお伸び続ける需要に応えるため、最近新工場を稼働させたところである。

 聖書の言葉にあるように、いつも人々に気前よく施し、自分は豊かな祝福を受けているのがDさんである。実は、Dさんはクリスチャンではない。しかし、自分でそうと気づかずに、神の教えを実践しているのだ。人は仮に聖書の教えを知らなかったとしても、心にはそれが刻まれている。それは良心や善意とも称される。知らずに神の教えを実践し祝福を受けるのも素晴らしいことではあるが、知ってそれを行い祝福を受けることには、神と共に歩むという大きな喜びが伴う。あなたも神を信じ、その教えを実践し、地上と天上における豊かな祝福に与っていただきたい。