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何故いじめが悪なのか(記事No.8)

 先日、東京オリンピックで開会式の音楽制作を担当していた、ミュージシャンの小山田圭吾氏が、20数年前に雑誌に掲載された自身のいじめ加害者としての告白が問題視され辞任した。告白内容が反省を語っていたならともかく、その逆で、まるで武勇伝のようだと受け取られたからであろう。いじめの具体的内容が一部に報道されているが、事実であれば犯罪レベルであり、被害者に対する謝罪とそれを受けての許しが無かったならば、今般の辞任は当然であろう。

いじめ自体は人間社会のどこにでも見られる現象であり、日本だけに起こっているわけではない。しかし、他の国々と比べるまでもなく、日本社会におけるいじめは、しばしば悪ふざけの範疇にとどまらない陰湿で凶悪なものである。しかも、子供から大人の社会まで、年齢問わずそれが見られる。その理由は様々考えられる。同調圧力が強い社会であるから、少しでも他人と違った点が目立ったりすると疎まれることもある。出る杭は打たれるということわざもあるように、自分が出来ないことが出来る人に対する妬みも理由の1つであろう。

いじめられる方にも原因があると言う人もいるが、例えそうであったとしても、暴力や侮辱を加える方により大きな非があると断じても良いだろう。ちなみに、嫌いな人とは関わらないと言うのは、時に身を守る方法ともなり得るので、目上の立場の人が目下の立場の人にそうするのでない限り、それ自体はいじめとは言えない場合もある。ただし、他の人々を巻き込むといじめとなり得るから注意が必要である。

今回、小山田氏が批判を浴びた事にも見られたように、いじめ自体が悪であることは、社会の共通認識であろう。であるから、いじめが発覚すると、加害者の社会的立場や状況に応じて程度の違いはあるが、糾弾され世間に対しても謝罪を求められる。学校で児童・生徒によるいじめが隠蔽し切れず明らかになると、校長が保護者集会などで謝罪に追い込まれる。

いじめの加害者や、いじめを防止する責任がある者が被害者に謝罪するのは当然である。しかし、同時に重要なことは被害者のケアと、再発防止のための実効性がある措置であろう。

いずれにせよ、何故いじめが悪であるのか、説得力のある理由が示されなければならない。その理由とは何であろうか?自分が同じことをされたら嫌だから?人が嫌がることを強要してはならないから?人権侵害だから?犯罪だから?社会の秩序を乱すから?いずれも、いじめが悪であることの理由として正しい。だが、もう一つ根本的な理由がある。

私たちがいじめをしてはならない最も根本的な理由とは、人は神に似せて造られた尊い存在だからである。神は天地万物を創造された時、ご自身に似せて人を創造された。それゆえ、人は他の生物には与えられていない霊を有する存在である。人には創造主である神の性質、すなわち神性の一部が分与されているのだ。だから、人をいじめることは、創造主の尊厳を傷つけようとするに等しい。このことは、なぜ人を殺してはいけないかの理由でもある。

私もあなたも、あの人もこの人も、人は皆、神の前に尊い唯一無二の存在である。