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多様性の罠(記事No.10)

 コロナ禍が続く最中、ついに東京オリンピックが始まった。「民族の祭典」ならぬ「利権集団の祭典」とでも呼ぶべき、嘘と賄賂(フランス当局が捜査中と報道されていたが、政治決着があったのだろうか?)で誘致した大会である。多くの国民が新型コロナ対策を優先させるべきと考えている状況の中、強行突破のように開催された。

 開会式で聖火の最終点火者を務めたのは、テニス選手の大坂なおみ氏であった。東京オリンピック開催の是非はさておき、彼女がこれまでに築き上げて来た実績からして、大役を務めるにふさわしい人物であったと思う。知られているように、大坂氏はハイチ系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフである。今回彼女が大役に抜擢されたのは、選手としての華々しい実績に加えて、多様性を象徴するに相応しいアスリートだからであったと聞く。

 スポーツの世界に限るものではないが、世の中には、人種、民族、性別、身体的特徴などの先天的な属性に加え、国籍、経歴、社会的立場、能力など、後天的な属性も様々な人々が共存している。その意味で、既に日本を含めて世界の多くの国々は、多様性に富む社会となっている。モザイク画のように、色も形もそれぞれ異なるピースが組み合わされて、美しい作品となるのであれば、多様性は素晴らしいものとなる。このように、多様性という言葉は、一般に肯定的に受け止められることが多い。

 今や多様性は、国際的な流行語としてだけでなく、各国の政策の中で具現化すべく推進されている。これと似たような世界的流行語には、地球温暖化対策やSDGsなどがある。いずれも、一見正しい取り組みのように映るであろう。しかし、それらの実態は十分検証されて来たのだろうか?私たちは、それらの実態を垣間見るとき、背後にある意図に十分警戒する必要があると気づく。

 話を多様性に絞ろう。ある国家で多様性が声高に叫ばれるようになる時、それは長年続いて来た社会の有様を指しているのではない。それらは、今更強調されなくとも、既にそこに存在するものであるからだ。もし新たに多様性が強調されるようになったなら、そこには、これまでの社会のあり方とは違う何かを実現しようとする意図があると考えられる。人種や民族の多様性が語られるなら、その国の人種や民族の構成が変えられようとしている可能性がある。ジェンダーについての多様性が語られるなら、その国や社会の道徳観や家族観が変化するよう試みられているのかも知れない。

 世界最大の移民国家は言わずと知れたアメリカであるが、WASPの言葉にもあるように、建国以来のマジョリティーは白人のプロテスタント・キリスト教徒であった。その上で、黒人(アフリカン・アメリカン)、ヒスパニック、ユダヤ系、アジア系、ネイティブ・アメリカンなどの多様な人種、カトリック、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教などの多様な宗教を信仰する人々が共存して来た。その紐帯はアメリカ国家に対する忠誠心と、アメリカ的価値観の共有であろうか。人種差別や経済格差などの根深い諸問題はあれども、これまでのアメリカは、結果的に多様性に富む社会を実現し、繁栄を謳歌して来た。多様性を受容することで移民を受け入れ続け、そのことで国家の活力を維持することが可能となったのだ。

 それでは、他の国々も同様に、さらに多様性に富む社会の実現を目指すべきであろうか?もしそうであるなら、どのような手段によってか?ヨーロッパの国々、西欧と北欧であるが、それらの諸国における多様性の実情から学ぶことが出来る。長くなるので歴史的経緯は省略するが、現在のヨーロッパ諸国は、、移民の人口に占める割合が軒並み10パーセント前後から20パーセント台となっている。移民の多数はトルコ、シリア、北アフリカ諸国出身のイスラム教徒であり、キリスト教徒は少数である。その結果起こっていることは、伝統的な文化を含めた社会の急激な変容である。イギリス人ジャーナリストのダグラス・マレーによる秀作、「西洋の自死(原題The Strange Death of Europe)」が明らかにしたように、ヨーロッパ諸国における多様性の実現は、少なくとも代々そこに住んで来た人々に幸福をもたらすことは無かった。

 ヨーロッパ諸国で起きたことを見れば、多様性を追求することが、必ずしも大多数の人々にとって有益とは限らないことが分かる。多様性自体が悪なのではなく、それは調和が取れているならば美しいものではある。悪いのは、自分たちの目的を実現するために、悪意を持って計画的に多様性を実現しようとすることであり、その共同謀議者と実行者らである。彼らにとって、多様性は利用する手段であって、目的ではない。彼らの最終目的はキリスト教の破壊とワンワールドの実現である。それは、悪魔を崇拝する世界統一国家である。今、それに向けて、キリスト教とその価値観を多様性の中に埋没させ変質させる試みが続けられているのである。

 私たちは、美しい言葉であっても、あるいは高邁な理想であっても、その背後の思想や目的を注意深く見極める必要がある。そうでなければ、日本も遠からず、多様性に富みながらも日本人にとっては暮らし難い国になるであろう。