本ブログ記事No.5において、不法がはびこると愛が冷えることを書いた。このテーマは奥が深く、人間の営みの広範囲にその現われが見られることから、今一度別の角度で取り上げてみたい。
イエスは、弟子たちから、世の終わりの時にどのようなことが起こるのかを問われ、挙げられたことの1つが、不法がはびこるので多くの人々の愛が冷えるということであった。この場合の不法とは、神の教えに背くという意味であり、愛は、正確に言えば、神的な愛を表すアガペーの語で語られている。つまり、全世界的なスケールで神の教えがないがしろにされるようになり、その結果として、多くの人々が神的な愛から離れてしまうという意味だ。
神的な愛とはどのような愛か。それは、受ける側に対価を求めない無償の愛であり、無条件に与える愛である。これは、人が誰でも本来持っているはずの愛とは違う。誰もが持っているはずの愛、人間愛とは、家族や友人に対する愛である。家族愛、夫婦愛、兄弟愛、友愛、同胞愛、祖国愛などのことである。ペットに対する愛も含まれるだろう。人間愛は、愛を与えたなら、その対価として愛を受けたいと願う。与えることも、求めることもある愛である。
人間愛は、善を行うものだけでなく、悪を行うものであっても、多くの場合少しは持ち合わせている。人を人と思わないような凶悪犯罪者でも、自分のペットは大事にしたりする。マフィア映画などで部下に平気で殺人を命じるようなボスが、愛犬をいたくかわいがっているイメージである。人間愛には、自分が愛せる対象と愛せない対象とがある。
これに対して、神的な愛とは、どのような対象であっても愛を与える。後は、その愛を受け取るか否かである。神の教えがないがしろにされるなら、そこでは人々が神的な愛を知ることができなくなる。無償の愛を無条件で受けることができるにもかかわらず、その愛を知ることができないとは、何という悲劇であろうか。無償の愛と書いたが、正確には、対価が既に支払われている愛である。そう、2000年前にキリストが十字架の上で。
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