私は基本的にテレビを視ないので、ニュースはインターネットや紙媒体でチェックしている。経営コンサルタントの大前研一氏は、家族で食事中にテレビなんか視るな、頭が吉本レベルになると言っている。テレビを無批判に視聴することは、思考力を奪い、物事の表象的な面のみに目を留めるが、本質的なことを理解出来なくなってしまうということだろう。
テレビを筆頭に、あらゆるニュース媒体では、連日膨大な量の否定的な内容の報道が流されている。肯定的な事よりも否定的なことを伝える方が視聴率など商業的な側面では都合が良いと言うこと以外に、実際世の中には否定的な出来事が溢れていることの反映であろう。
日々ニュースに接していて感じることは、世の中には余りに非条理や不公正がはびこっていると言うことである。そんなことは古代から人の世の常ではあろう。文明は進歩しても、人間の本質が変わるわけでも無い。いつの世も富や権力をひたすら追い求める人々は絶えること無く、富や権力の前に平伏す人々もまた同様である。
イエスが弟子たちから世の終わりの時のしるしについて聞かれた際に、挙げられたことの一つに、不法がはびこるので多くの人々の愛が冷えるというものがあった。この場合の法とは法律のことではなく、神の法(のり)を指す。当時も不法は多くあったのに、なぜそれが終わりの時のしるしになるのか。それは、不法が、多くの人々から愛を失わせてしまうほどのスケールと根深さをもって世界を覆うということであろう。不法の世界的蔓延と愛が冷えることがワンセットであり、今がまさにそれが多く見られる時である。
最近の例で言えば、先日熱海市で発生した土石流災害の原因を作ったであろう、残土を含む土砂を不正に盛り上げた人物(実行主体は法人であっても、意思決定者は自然人である。)は、自らの利益のためならば、法令を無視するだけでなく、環境を汚染し他人に迷惑をかけることを厭わなかった。人々や自然に対して、少しでも愛があれば出来なかった行為である。このように、不法と愛が無いこととは切り離せない関係である。
鶏が先か卵が先かのようではあるが、不法が台頭 すれば愛が衰退し、愛が台頭すれば不法は衰退する。世の中には不法を行うことを好む者たちが存在し、逆に愛を実践することを志向する人々もまた存在する。その間で揺れ動く人々が多数派なのかも知れないが、どちらの生き方を選択するかで永遠の運命が変わる。現世は確かに大切ではあるが、来世、すなわち死後の世界も確かに存在し、それは人にとって最も重要な永遠の居場所である。
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