翌日の新聞報道では、豊橋駅で通過中の新幹線のぞみ号に人が接触し、遺体は損壊が激しく、性別も年齢も不明とのことである。また、豊橋駅には、ホーム柵は設置されていなかったと言う。状況からすると、ホーム転落事故ではなく、自殺であろう。接触と言うよりも、衝突であり、遺体は原形を留めず四散したため、現場検証が長時間に及んだのであろう。鉄道自殺とは、かくも悲惨な結果となる。
いつの頃からか、首都圏や関西圏の鉄道路線では、飛び込み自殺が毎日のように起こるようになった。自殺数もほとんど人口に比例すると仮定すると、首都圏では特に多い訳である。私も、数年前までは満員電車で通勤していたので、特に朝の時間帯は、毎日のように、どこかの路線で人身事故と称される鉄道自殺が発生し、しばしば電車の遅れを体験した。以前は、長時間満員の電車内に缶詰になったり、予定に遅れそうになると、鉄道遅延の原因を生じさせた自殺者に対して、迷惑なことをするなとも思ったものである。
ところが、10年くらい前に、当時開拓していた教会の礼拝に、自殺願望を持っていたと言う女性が出席し、彼女の話を聞いたことをきっかけに、鉄道自殺に対する受け止め方が変わった。その女性の話では、死にたいといつも思っていた時期には、駅のホームに立ち、電車の近づく音が聞こえて来ると、今飛び込んだら楽になるだろうなという思いがよぎり、体が線路の方に引き込まれそうになったのだと言う。なるほど、鉄道自殺者を図る人が、遺体となった自分の姿や、他の人々の迷惑など考える余裕は無いであろう。
こうなると、鉄道自殺が起きる原因は、自殺志願者の方にあると言うよりも、分かっていながら十分な対策を実施しない、鉄道会社や主務官庁である国土交通省の怠慢にあるのであろう。今回事故が発生した豊橋駅のように、新幹線の駅でさえも、未だにホーム柵が設置されていない所があるとは、安全よりも利益追求を優先させるJR各社の体質が端的に現れている。多くの私鉄各社も、同様の体質があると思う。自動改札機の設置スピードに比べて、ホーム柵やホームドアのそれは、明らかに遅いという事実からも、そのことは明らかであろう。
多くの場合、自殺者は、精神的に追い詰められることで、自ら死に至るのであろう。しかし、それはまた、霊的な問題でもある。人が重苦しい精神的問題を抱えると、そこに悪霊が足場を築くことがある。そして、自殺を促す死の霊に囚われてしまうと、思いの中に、死にたいという願望が強くなっていく。周囲に親身になって手を差し伸べてくれる人がいれば、助けを得られることもあるだろうが、そうでない場合は、最悪の結末として自ら死を選んでしまうことにもなる。自殺者は自らの選択の実を死という形で刈り取るが、その死に対する責任を有しているのは、往々にして当人だけではない場合がある。いじめ自殺などは、死に追いやった者たちや、いじめを止めさせるべき立場だった者たちに、全面的な責任があるケースと言えよう。
鉄道自殺の場合も、責任があるのは自殺者当人だけではない。むしろ、防止できる技術的方策がありながら、それらの導入を様々な理由を見付けて怠って来た、鉄道会社各社の歴代経営陣と、国土交通省の歴代大臣と幹部たちに大きな責任がある。彼らは、これまでに鉄道自殺した夥しい人々の血の責任を負っている。その責任を人々は見逃したとしても、神は知っておられる。責任を負っている人々は、これまでの不作為の罪を悔い改めて、実効性のある自殺防止策の導入を急ぐべきであろう。
「『できなかったのだ』などと言っても 心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される」(箴言 24:12 新共同訳)