花園には、妙心寺という臨済宗の禅寺があるのだが、散歩してみると境内は随分と広く、ゆっくり全域を歩けば1時間以上かかるかも知れない。公式ホームページの案内によれば、その境内には、46の塔頭(たっちゅう)寺院(大きな寺の中にある小寺院)があると言う。たまに近所の人と思われる通行者とすれ違う以外、観光客はほぼ皆無であり、静かに散歩することが出来た。ちなみに、妙心寺は、境内に入るのに拝観料を払う必要はなく、宗教法人の免税特権を得ているとは言え、誰もが自由に境内を通行できるとは、数ある京都の寺院の中でも良心的な寺のようである。
清掃が行き届いた境内通路を散歩しながら、随分と建物や塔頭が多くあるなと思っていたのだが、ある山門の前を通った時、その春光院と言う塔頭の門前に、銀色の金属製の案内板が設置されているのが目に入り、引き寄せられるように近づいて、その案内板に見入った。その案内板には、1つの鐘の絵が描かれており、説明文は全て英語で書かれていた。何と、案内文に描かれた鐘には、IHSの文字と十字架が記されていたのである。「IHS」とは、ギリシャ語の「イエス(イエースース)」の綴りの最初の3文字であり、イエス・キリストのシンボルとして、ローマ・カトリック教会などで伝統的に用いられて来た。英語で書かれた説明文は、明らかに外国人観光客を意識したものであろうが、近くには、日本語や中国語の説明文が記された別の木製案内板もあった。
その鐘の由来はこうである。元々その鐘は、キリスト教禁教令が出る前に、京都にあったキリスト教会、当時の呼び方で南蛮寺に設置されていた物であると言う。禁教令の後、南蛮寺は破壊されたが、その鐘は仁和寺などを経て、やがて春光院に移されたそうだ。禁教令で、日本全土のキリスト教会や神学校、福祉施設などは全て破壊され、十字架やロザリオなどキリスト教に関連する物は全て破棄された。しかし、各地で膨大な数の宗教用具や信仰を象徴する意匠などが施された物品が、幕府の激しい弾圧にも関わらず隠匿されたことは想像に難くない。春光院に保存されている鐘も、その1つである。今回は、春光院は関係者以外立ち入り禁止になっており、鐘の実物を見ることは出来なかった。帰宅してから、春光院の公式ホームページを見てみると、戦争中に軍部が武器製造のために各寺院から鐘を供出させた時にも、当時の住職は、受け継いだそのキリシタン鐘を酒樽に入れて竹藪に隠し、守り抜いたとのことである。
鐘の他にも、春光院には、キリスト教のシンボルが隠されている花鳥図の襖絵があると言う。実は、全国各地で同様に、キリシタン遺物やキリスト教のシンボルが隠された墓や灯籠などが遺された寺院がある。名古屋にある、浄土宗寺院の栄国寺もその1つであり、何年か前に、名古屋在住のクリスチャン実業家の友人らに案内してもらったことがある。栄国寺の境内には、キリシタン遺跡やキリシタン灯籠などのキリスト教遺物が残されており、寺内には切支丹遺跡博物館がある。徳川幕府の禁教令の下、1664年にキリシタン200余名が処刑された刑場跡に、当時の尾張藩主徳川光友の意向を受け、刑死者を弔うために、1682年に建立されたのが当寺であると言う。以来、340年近く経つ今日に至るまで、歴代浄土宗門徒の方々により、刑死(キリスト教の立場から見ると殉教)したクリスチャンたちが弔われて来た。その慈悲深い行いは、宗教の違いを超えて、ありがたいことであり、カトリック司教が感謝の意を捧げるために訪れたこともあると聞く。
なお、栄国寺周辺では、江戸期より大火の記録が無いとのことであるが、戦時中に名古屋が広範囲わたり空襲に遭った時にも、栄国寺一帯に投下された焼夷弾は全て不発弾となり、当寺の付近のみは被災を免れたと言う。禁教下に始まり、絶えることなく、殉教したクリスチャンを弔い続けて来た栄国寺とその門徒に対する、神の恵みがあったためであろう。京都の春光院もそうであるが、父なる神は、その子供たちであるクリスチャンたちに善意を示してくれた人々に、恵みを以って報いを与えて下さることが分かる。今日は、30分ほどの散歩ではあったが、仏教寺院で思いもかけず、嬉しい発見をした心地良い散歩となった。
「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイによる福音書 10:42 口語訳)