さて、これは私の習い性とでも言おうか、どんなんことでも、何かキリスト教や聖書に関係があることが分かると、そのことについて調べてみることにしている。大同生命の営業員と話したことで、同社の創業者の一人である、広岡浅子氏がクリスチャンであったことを思い出し、改めて、彼女について少し調べてみた。広岡浅子氏とは、2015年に放送されたNHKの連続テレビ小説、「あさが来た」の主人公、「あさ」のモデルともなった人物である。とは言うものの、私自身は基本的にテレビを観ないので、その番組も観ていないのだが。
幕末の1849(嘉永2)年、豪商三井家の1つ、京都の出水三井家の四女として、浅子氏は生まれた。既に2歳の時には、大阪の豪商加島屋当主の次男広岡信五郎氏と、将来結婚することが決められていた。浅子氏は、将来豪商に嫁ぐ女性として、三味線、琴、習字、裁縫といった教養を身につけさせられる。今で言う、お嬢様教育を受けさせられて育ったのである。1865(慶応元)年、17歳で浅子氏は広岡信五郎氏の元に嫁ぐ。広岡家の一員となった浅子氏は、家業である加島屋の内実を見て行く末に危機感を抱く。自分がしっかりしなければと思い立った彼女は、夫信五郎氏の理解を得て、学問を修めようと励んだ。おっとりした御曹司であった夫だが、生涯浅子氏の良き理解者であったと言う。
浅子氏の抱いた危機感は、結婚から3年後に現実となる。明治維新が起こり、新政府は、加島屋を含む大阪商人にも、巨額の御用金の献金を命じた。江戸時代より長州藩と取引のあった加島屋は、何とか危機を乗り切りることが出来た。次なる危機は、1871(明治4)年に訪れた。廃藩置県により、諸藩への融資が焦付き、主要な収入源が途絶えてしまったのだ。家業の重大な危機に直面し、浅子氏は、今こそ自分が力を発揮すべき時だと腹を据え、加島屋の経営に参画することになる。その後、浅子氏の八面六臂の奮闘の甲斐あって家業は再生され、次に加島屋は炭鉱事業に進出する。さらに、1888(明治21)年には、加島銀行を設立する。炭鉱事業は後に政府に買収されたが、さらに転機が訪れる。
1896(明治29)年、一人の紳士が浅子氏を訪ねて来た。成瀬仁蔵と言い、大阪の加島銀行本店から近い、梅花女学校の校長であった。成瀬氏ははクリスチャンであり、女子大学設立の構想を抱き、協力者を探していたのである。初対面では色良い返事をしなかった浅子氏であったが、贈られた成瀬氏の著書「女子教育」を読み、大きな衝撃を受ける。成瀬氏は、女子を、「人」として、「婦人」として、「国民」として教育するとの理想を説き、その具体論を詳細に述べていた。幼少期より、女子に学問は不要とする当時の商家の中で、独力で学問を修めて来た浅子氏にとって、成瀬氏の理想は、深く心に染み渡った。
こうして、浅子氏は日本女子大学校(現在の日本女子大学)の発起人の一人として、学校設立のため奔走し、苦難の末、ついに1901(明治34)年、日本初の女子高等教育機関である、日本女子大学校が開校する。その頃、浅子氏は、別の新規事業の準備も進めていた。生命保険事業である。当時は生命保険会社の新設ブームであり、そのうちの1社であった、浄土真宗を基盤とした、名古屋に本社を置く真宗生命を買収したのである。社会公益のためとの目的のもと、1899(明治32)年のことである。経営権を取得すると、早速本社を京都に移し、社名を朝日生命へと変更した。その後、乱立する生命保険会社を集約したい政府の意向もあり、1902(明治35)年、朝日生命は、護国生命、北海生命と三社合併を果たし、ここに、今日に至る大同生命が誕生する。浅子氏自身は大同生命の経営陣には加わらなかったが、株主構成は広岡家が75パーセントを占め、いわば生みの親としての役割を果たしたのである。時に浅子氏54歳(数え年55歳)であった。
その後、1904(明治34)年に夫信五郎氏が64歳で死去すると、浅子氏は、事業を娘婿に委ねて潔く引退する。その後の人生を、女性の地位向上のための活動に専念するためであった。愛国婦人会の活動に参画しながら、日本女子大学校の機関誌に寄稿するなど、言論活動にも積極的に取り組んだ。浅子氏の人生に最大の転機が訪れたのは、そのような時である。後に自ら、「新たな人生」と語った、キリスト教との出会いである。そのきっかけの1つは、60歳の時に受けた乳癌手術であった。万が一を覚悟し、身辺の整理を行なった浅子氏であったが、無事手術が終わった時、「天はなお何かをせよと自分に命を貸したのであろう。」と感じたと言う。もう1つは、梅花女学校校長であった成瀬氏から紹介され、宮川経輝牧師と出会ったことである。自分の知らない宗教を学ぶためという理由で、宮川牧師に師事して聖書を学ぶことにしたのである。
聖書を学び始めた浅子氏は、避暑に訪れた軽井沢で霊的経験を感じ、そこでキリスト教信仰への確信を持つ。こうして浅子氏は、1911(明治44)年のクリスマスに、宮川牧師が牧会する大阪教会において洗礼を受けた。62歳であったが、新しい人生のスタートである。浅子氏は、言論活動の場をキリスト教系のメディアに移し、伝道活動で全国を巡回した。代表的な活動として、廃娼運動や禁酒運動などを進めていた、キリスト教婦人矯風会での働きがあった。また、1917(大正6)年からは、基督教世界というキリスト教系新聞で連載を開始する。その際、浅子氏が名乗ったペンネームが、「九転十起生」というペンネームである。クリスチャンとなった浅子氏の、活動の集大成ともなったのが、御殿場に建設した別荘で開催された、若い女性たちとの勉強会であった。合宿形式で開催されたこの勉強会は、浅子氏の死の直前まで続けられ、市川房江ら、後に政治、教育、ジャーナリズム、文学など各分野で活躍する女性たちの若き日の姿があった。
御殿場の勉強会で参加者らが見た浅子氏は、かつての叱咤激励する女性経営者ではなく、若い女性たちと共に学び、語り合う、穏やかな老婦人の姿であった。浅子氏は、最後まで実践の人であり、学び続ける人であった。1919(大正8)年1月14日、浅子氏は、東京・麻布の別邸で、その波乱に満ちた地上での生涯を終えた。彼女が創設した日本女子大学校での追悼式で弔辞を述べたのは、同校の創立委員長も務めた大隈重信氏であった。生前浅子氏は、自らの人生をこう語っている。「九度転んでも十度起き上がれば、前の九度の転倒は消滅して、最後の勝利を得るものである。斯くの如く、転んで起き上がって歩くのでなければ、本当にしっかりとしたあゆみではない。そしてすべての迫害四囲の習慣、失敗など、これらの万難を排して得た月桂冠は、真の光輝ある勝利者の頭上のみかざされるのである」
『正しい人は七度倒れても、また起き上がり、悪しき者はわざわいでつまずくからだ」(箴言 24:16 新改訳)
広岡浅子氏は、その生涯で多くのことを成し遂げた女性であった。キリスト教の信仰を持つ前の数十年間もそうであり、クリスチャンとなった62歳から召天した69歳までの7年間も、同じかそれ以上の実を結んだ人生であったようにも思える。神は、浅子氏がこの世に生を受ける前から、彼女の人生に計画を持っておられた。浅子氏は、その計画、神から与えられた召しに応えた人生を送ったと言えるだろう。なお、拙稿は、大同生命のホームページに掲載されている、「広岡浅子の生涯」を参考に執筆したことを明記しておきたい。