このような、一部に観光公害のような現象が起きるほどに観光客が押し寄せたのは、インバウンド誘致を強力に推進した安倍政権と、それに与した門川市政がもたらしたものである。2015年に約3万室であった京都市内の宿泊施設客室数は、門川市長が掲げた誘致目標4万室をはるかに超え、2020年3月末時点では約5万6,000室となった。ホテルの建設ラッシュのほか、ゲストハウスなどの簡易宿泊施設も雨後の筍のように次々と開設された。ホテル建設計画の中には、世界遺産の仁和寺の山門前や、二条城の北側などに高級ホテルを建設する計画も含まれている。外国人観光客を誘致するために、観光スポット周辺の景観や環境を破壊するという、本末転倒を絵に描いたような事態も起こっているのだ。ホテルなどの民間事業者が進出を計画するのは当然であろうが、環境や景観、あるいは社会インフラなどとの調和を図るために、規制や各種基準を定めるのが行政の役割であろう。市民の平穏な生活環境を維持・向上させることよりも、外国人観光客へのサービスを優先させるかのような門川市長は、自治体の長として明らかに間違った動きをしている。
京都市の事例を挙げたが、優先順位が間違った実態は、日本中で見られることである。いや、国全体がそのような状態と言っても良いだろう。厚生労働省の人口動態統計によれば、日本における2021年の出生数は、前年比約2万9千人減少の、約81万人であったと言う。これまでの政府の推計では、出生数が81万人台前半まで減るのは2027年であり、6年も早まったことになる。日本では、約30年前より様々な少子化対策が打ち出されて来た。しかし、どれも根本的な解決策となっていないことは、結果が証明している。既に、日本は人口減少社会に突入しているのだが、言うまでもなく、それは多くの問題を引き起こす。市場規模の縮小による経済衰退、社会保険の担い手が減少することで、年金や健康保険の制度の改悪も進む。およそ、現在の人口規模を前提に制度設計されているものは全て、抜本的見直しを迫られるか、それが上手く出来なければ破綻する。
誰が考えても、このまま手をこまねいていては、悲惨な未来が日本に訪れるだろう。もちろん、巨大災害や戦争などのリスクは別としてである。国民多数が納得するなら、現在のような一応の福祉国家を維持することを諦め、何とか最低限生きて行けるならば、それで良しとする選択肢もあるだろう。しかし、年金や健康保険、介護保険などの制度を維持したいのであれば、人口減少のスピードを、国民の福祉を保てる程度の緩やかなペースにしなければならない。そうであれば、出生数の減少を食い止める、実効性のある政策が必要となる。普通なら、誰が考えても、同様の結論に至るはずである。ところが、世の中には、日本人の子供を増やす(減らさない)のではなく、外国人の移民を増やせば良いと考える人々もいる。そのような考え方の人々は、日本人の労働力が足りない3K職種などでは、労働者の待遇を改善して人材を確保するよりも、外国から技能実習生という名の安価な労働力を導入することの方が良いと考えて、それを実現させて来た。
長々と書いてしまったが、先進諸国とされる国々の中で、日本だけが、過去30年間で実質的には貧しくなっており、人口減少も加速する一方であることには、明確な理由があったと言うことである。ひとことで言うならば、国全体が、誰を優先するべきかを誤って来たことの結果が、今日の日本の姿である。京都市のように、市民生活よりも外国人観光客を優先するような誤った政策が、国の様々な領域で進められて来た、その結果である。それは例えば、日本人労働者の待遇改善よりも、賃金水準が相対的に低い外国人労働者を導入することである。また、日本人学生の給付型奨学金制度を大規模に拡充することよりも、岸田首相が明言したように、「国の宝」とされているらしい、外国人留学生への返済不要奨学金などの支援策の重視である。もちろん、小泉政権以来推進されて来た、日本人社員の雇用よりも、株主である外国の機関投資家を優先するような政策も、同様に間違っている。正社員を減らし、現在のように、被雇用者の約4割が派遣社員やパートなどの非正規雇用となるに至ったのも、その「成果」である。
さて、この世の全ての疑問に対して、答えを見出すことが出来る聖書には、優先順位についての指針も含まれている。私たちが、何よりも優先すべきものは、創造主である神である。忙しい日常生活の中で、余力があれば神を求めるのではなく、あるいは、助けが必要な問題が生じたときだけ、神に寄り頼むのでもない。私たちが生きて行く上で、最優先にすべきことが、神を求めることである。聖書は、そうすれば、全ての必要は与えられると約束している。個人レベルだけでなく、集団レベル、国家レベルにおいても、神を第一にすることが、組織や国が守られ繁栄するには必要である。それは、国家としてキリスト教を戴いたり、国教化するという意味ではなく、指導者らが神を畏れ、その教えに従った行動や政策を進めるということである。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書 6:33 口語訳)
それでは、神の次に優先されるべきものは何であろうか。それは、個人レベルでは家族であり、国家レベルでは国民である。もちろん、自治体レベルでは住民である。時々、クリスチャンの中にも勘違いする人々がいるが、神に従うために家族を捨てると言うことではない。ただし、イエスに対する信仰ゆえに、家族の方から距離を置かれる場合は、祈りつつ甘受する選択もあり得るだろう。だが、神に仕えることを理由に、しばしばそれは、教会活動であったりするのだが、クリスチャンの方から、自分の家族を蔑ろにするような態度は間違っている。自分と家族が幸せであれば、他の人々のことは無関心というのも愛が無い態度であるが、他の人々を助けることを、家族を支えることよりも優先することは、もっと間違っている。
「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」(テモテへの第一の手紙 5:8 口語訳)
優先順位の第3位以降は、それぞれの価値観や置かれている環境、直面している状況によっても異なる。仕事、教会奉仕、友人など、それぞれが重要であり、人生において重みを持っている。常にどれかを優先させる考えもあるだろうが、むしろ、必要なのはバランス感覚であろう。その中でも、多くの人にとって、仕事は優先度が高いと思う。何と言っても、生活の糧を得る手段は重要である。しかし、ブラック企業のように、他の全てが犠牲となり、健康も損なう様では、そこから離れる選択が賢明である。神に信頼して寄り頼むならば、一時的に仕事を失ったとしても、もっと良い仕事が与えられるに違いない。私たちは、優先順位が間違っていることが多々ある社会に住んでいるが、私たち自身もそうならないように気をつける必要がある。人生の安寧は、まずは神を信じ、この方を第一とすることから始まる。日本社会は、今後ますます厳しい状況になるだろうが、神に信頼する人々は守られ、打ち捨てられることは決して無い。
「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない」(詩篇 37:25 口語訳)