それはそうと、なぜ多くの人々が、友人や仲間たちと酒を飲みたがるのか?酒を飲まなくても、集まって食事を共にするだけではダメなのか?今さら書くまでもないが、それは、酒を飲み交わすと、より楽しさが増すからである。なぜ、楽しさか増すのか、それは、心が少しでも開放的になるからであろう。開放的になると同時に、解放的に過ぎると、酒の席での様々な過ちの元にもなる。もっとも、今日では、セクハラや暴言などは、酒の席を理由に許されることでは無くなった。楽しく飲むなら良いというのは優等生的意見であるが、酒が無ければ人生を存分に楽しめないとすれば、それは気の毒なことではあろう。
「酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが 後になると、それは蛇のようにかみ 蝮の毒のように広がる。 目は異様なものを見 心に暴言をはき始める 海の真ん中に横たわっているかのように 綱の端にぶら下がっているかのようになる。『打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。』 」(箴言 23:31-35 新共同訳)
まあ、実際問題、他人がどれだけ酒を飲もうと、他の人々に絡んだり、隣でとぐろを巻いたりしない限り、別にどうでもよいことである。それよりも気になることは、酒の席での、周囲の人々の会話である。仕事の話に加えて、人現関係や家族の話をする人々もいる。ある程度セーブしながらも、ストレスや悩みの一端を愚痴という形で吐き出す人もいる。多くの場合は、自分の心の内にある何かを話すことで、少しスッキリするようである。だが、他人に話すことで解決する悩みや問題であれば良いが、しばしば、一時的な気分転換は出来ても、根本的な解決を得られる訳ではない。
今回、特に酒について触れたが、それは、喉を潤したり、一時的なストレス発散には役立ったとしても、私たちの人生の諸課題に対して、何の解決策にもつながらない。また、単なる楽しみとしても、ほんのひと時の享楽に過ぎず、それどころか、過剰に飲めば確実に心身の健康を蝕むであろう。このような一時の、表面的な楽しみや現実逃避をもたらすものは、何も酒だけではない。あらゆる娯楽や芸術、学問や宗教もそうであろう。もちろん、それらの中には、私たちにとって表面上は良いものも多くある。私たちが、この地上で楽しく生きること自体は罪ではない。また、芸術や文学に親しみ、スポーツに汗を流すことも良いだろう。私たちが心に留めるべきことは、いかに良いものであっても、それらは、私たちの魂の奥底を潤し、心を満たすことは出来ないということである。
現代社会では、誰でも、生きているだけで、強度のストレスを受ける可能性がある世界となっている。だから、物質的には満たされているように見える、大金持ちや有名人でも、精神を病む人もいれば、中には自殺する人もいる。一時的なストレス解消という意味では、酒も麻薬も似たようなものかも知れない。喉が渇いているからと言って海水を飲むならば、もっと乾きが強まるようなものである。私たちの心には、身体がそうであるように、潤いが必要であるが、それは正しいリソースから得る必要がある。そうでないと、いくら潤いの素を求めても、決して渇きは癒やされない。私たちの魂を潤してくださる方、イエス・キリストを求めるならば、その愛と力は、私たちの心の渇きを癒すのに十分である。
「わたしはた疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(エレミヤ署 31:25 新共同訳)