長男が中高生の時に、母親同士の気軽なランチ会に妻も時折参加していたが、今回の幹事役は、初めて接したタイプの人であったという。これまでも、マウントを取りたがる人々には随分と会って来たが、これほど強烈にセレブ臭を発散させていたのは、今回が初めてであったとのこと。もしかしたら、その幹事役にとっては、普段通りのランチ会であったのかも知れない。それ自体は個人の生活スタイルであるが、問題は、中学生の母親のランチ会で、しかも、初対面同士が集まるのに、あえてシティ・ホテルを会場に、6,000円の会費で設定する感覚であろう。私も、仕事などを通して知り合った人々の中には、世間的には金持ちに該当する人々もいる。しかし、多少なりとも個人的に付き合いのある人々の中では、金持ちであることを、殊更ひけらかすような人はいない。くだんの幹事役は、自分がセレブ(?)であることを見せつけたかったのだと思う。
帰宅した私に、一部始終を話した妻は、もう二度と同じメンバーでのランチ会は御免だと言う。自慢話をあれこれ聞かされる訳であるから、それも当然であろう。別に不思議なことでもないが、世の中には、何かと自慢することが好きな人たちも存在する。持ち物の自慢などは、その人の幼児性が現れているようで、ニコニコ笑いながら聞き流せば良い程度のものである。自慢レベルが少し高くなると、職業や社会的地位、年収などを何かとひけらかしたいのが伝わる。自慢したがる人は男女問わずいるが、偏見かも知れないが、配偶者の学歴や職業、子供の学校や成績自慢などは、どちらかと言えば、女性の方に多く見受けられる。自慢あるいはマウントは、嫉妬心の裏返しでもあるが、男性の方が、それを表に出さないように、抑えようとする傾向があるのかも知れない。この辺りは、アダムを誘惑したのがエバであったことや、イスラエル王を堕落させたのが、王妃イゼベルであったことなどからも、男女の霊的な、正確には魂の性質の違いかも知れない。
人は誰でも、他人から認められたいという欲求(承認欲求)を有している。それ自体は、悪いこととは言えず、魂の自然な性質の一部である。私が思うに、自慢とは、歪んだ承認欲求の現れではないだろうか。意識の深部に、人としての存在価値を十分認めてもらっていないとの思いが強くある程、自慢への渇望度も高くなるのだと思う。そのような人にとっては、何か他人よりも優越感を得られることがあれば、それは自慢の種となり、あの手この手でひけらかすのである。そこには、人の虚栄心、あるいは、劣等感や嫉妬心を刺激して、自慢を引き起こさせる悪霊の働きもある。生活の質を高めたいという願いは、私も持っているし、多くのクリスチャンも同じであろう。進んで清貧に生きようとすることは、霊的賜物の1つでもあるだろうし、誰もが出来る訳ではない。だが、何でも他人に対する自慢をしようとすれば、それは自らの品性を卑しめることになり、無限ループのように続く競争心の発露により、魂の安息を得られることは決して無い。
「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」(コヘレトの言葉 4:4 新共同訳)
聖書には、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」は、神から出るものではなく、世から出るものとある。この場合の世とは、神を認めない価値観に立つ世界のことであり、その支配者は悪魔である。そうなると、自慢のルーツは悪魔であり、そこには悪霊が働いていることが分かる。それゆえ、私たちは、自慢することが自分の性質の一部とならないように、十分気をつける必要がある。そうでないと、知らず知らずのうちに、私たちの価値観が、世の価値観と同様になって行き、世が与えるものより優れた、神からの知恵や力を得ようとしなくなるかも知れない。私たちは、誰かから自慢された時、その対象が自分が持っていないものであったとしても、劣等感や敗北感を抱く必要は全く無い。そんなつまらない事に、あるいは、あえて言うが、程度が低い人に、悩まされるより、神の御心を求め、それを行うことが重要である。私たちが真摯に追い求めるべきものは、遅かれ早かれ過ぎ去る世のものではなく、永遠に残る実であるべきだ。
「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(ヨハネの手紙第一 2:16-17 新改訳)