営業時間の短縮に応じた飲食業者には、中小事業者の場合で1日当たり4万円から最大10万円が支給されることになっている。(東京都の場合)仮に、昨年の1日あたり売上高が10万円以下であったなら、1日4万円が支給されるはずである。4万円と言う金額は、オーナーが1人で切り盛りしているような、小規模店であれば十分かも知れない。しかし、駅近など賃料が比較的高いエリアに立地し、アルバイトを雇っているような店では、小規模店でも十分な金額とは言えないだろう。飲食店だけが補償を受けるのはおかしいという声もあるが、前述の帝国データバンクの発表にあるように、緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置によって最も打撃を受けているのが飲食店である。
飲食店の苦境は、同時に常連客を中心に、利用客が我慢を強いられていることでもある。感染予防のための工夫や、テイクアウトなど新たな販路の開拓は、飲食店側にも企業努力が必要な点ではある。しかし、全ての飲食店で、一律に営業時間制限や酒類提供制限を課すことはいかがなものであろうか?よく言われることだが、ウイルスは夜8時を過ぎると活発化する訳ではあるまい。あるいは、1人で食事をしながらビールを飲んだところで、直接的には感染リスクが高まる訳ではない。念のためであるが、私は酒を飲まないので、飲酒出来ないことへの恨み節では無い。様々な生活リズムがある中で、夕食難民になっている人も少なく無いのでは無いか。
このように、今は家族や友人と外食をするのも、しばしば不便を感じるご時世である。特に、人恋しい性格の人にとっては厳しい状況であろう。かく言う私自身も、グルメというほどではないが、親しい人々と食事をするのを好む性質があるので、何かと物足りない今日この頃である。食事というのは、単に生命維持のために栄養を補給することではない。おいしいものを食べること自体が喜びであり、気の置けない人々と共に食事をするなら、なおさらそうである。実は、聖書の中にも、食事のことを記した箇所が多くある。私が学んだ神学校で旧約聖書を教えていた老教授が、新学期に彼の講座の履修生を昼食に招待した。私も招待された1人であったが、学内のカフェテリアでの昼食に、デザートは教授お手製のアイスクリームであった。
老教授曰く、旧約聖書の時代には、食事には和解の意味が込められることがあったという。敵対していた者同士が和解した時、その証として、食事を共にすることがあったそうだ。言わば、信頼関係を結んだことの表れか。それはそうであろう。敵対者かも知れない相手と食事をするなら、食べ物に毒をもられて殺されるかも知れない。日本の戦国時代もそうであったと思うが、信用出来ない相手と食事するのは命懸けであったであろう。くだんの老教授は、自分がこれから教えようとする学生たちと、信頼関係を持っていることを示したのだ。それと同時に、聖書にある食事の記事が、神と人との和解を象徴していることを教えたかったのだと思う。
「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20・聖書協会共同訳)
イエスは、当時のユダヤ社会では罪深いとされていたり、人々から忌み嫌われていた人々と、しばしば食事を共にされた。それは、食事を共にした彼らが、自分の罪を神の前に悔い改め、イエスとその教えを信じたからであった。イエスと食事を共にすることは、彼らが、イエスを通して神と和解したことを象徴していた。今日でも、それは同じである。現在この地上では、見える形でイエスと食事を共にすることはないが、霊の内にあって、それは可能である。自分と家族や親しい友人たちとの間に信頼関係があるならば、食事を共にすることは楽しく平和なひとときであろう。イエス・キリストとも、また同様である。