TRANSLATE

GlobalNavi

AD | all

夏は暑くて眠れない(記事No.36)

 毎日暑い日々が続いているが、私が生まれ育った街は海沿いにあり、夏でも夕方などは海風が心地良かった思い出がある。京都は盆地であり、市街地中心部は緑も少ないので、余計に暑く感じる。こう暑いと、ある映画の中で登場人物が語った言葉が思い返される。黒澤明監督の、「天国と地獄」で、殺人犯が言った、「夏は暑くて眠れない。冬は寒くて眠れない。」という言葉である。

 「天国と地獄」は観たことがある方も多いと思うが、三船敏郎、仲代達矢、山崎努、香川京子など、錚々たる俳優が出演した名作である。誘拐事件を軸に物語が展開するのだが、引用したのは、逮捕された、山崎努扮する犯人の研修医が語るセリフである。彼は自分が置かれた境遇と、富裕層(と彼が思っていた)の人々とのそれとを比べ、憎悪と妬みがない混ぜになった感情を吐露したのだ。この映画が制作されたのは1963(昭和38)年であるが、当時も貧富の格差は当然のように存在していた。格差社会とも称される現代であるが、格差そのものは、古代から、およそ社会と呼ばれる人間集団があるところには、一部の原始共産制社会を除いては、万遍なく存在していたであろう。

 それでは何故、近年になって、格差の存在がしばしば語られるようになったのか?いくつか理由が考えられるが、1つには、格差に対する問題意識を持つ人が増えたと言うことかも知れない。それは、インターネットなどのメディアを利用して、情報発信が容易になったことで、格差問題が取り上げられることが増えたことでもある。もう1つには、実際に格差社会の下層部に置かれ、生活苦に喘ぐ人々が増えていることも見逃せない。先進国と呼ばれる国々の中で、唯一日本だけが、20年前と比べて勤労者の実質賃金が減少していることはよく知られている。また、労働者の約4割が、非正規雇用となっていることも周知の事実である。小泉政権による、いわゆる構造改革と、歴代政権が踏襲して来た、税制を含めた新自由主義的な政策こそが、今ある状況の直接的な原因であろう。

 私自身は、経済学者宇沢弘文氏が説いた社会的共通資本の考え方や、公益資本主義を支持しているので、弱肉強食的な新自由主義の考え方には違和感しか覚えない。しかしながら、この20年くらいで、日本も、自己責任が強調される社会に変容したのは事実である。それは、多くの人々が格差社会の深化を受容したことでもあるだろう。格差社会の上層部に位置する人々、それはほとんど富裕層と同義語でもあるが、彼らの多くは、自分たちの才覚や努力がその地位を築いたと考えているかも知れない。そして、対極に位置する底辺の人々に対しては、しばしば、能力や努力が足りなかったのだと考えているのであろう。

 確かに、社会の上層部に位置する人々は、全般的には、能力に恵まれた上に、努力を惜しまなかった人たちであろう。私も、例外も多く見られるという条件付きで、その点は同意する。しかし同時に、彼らもまた、社会から多くの恩恵を受けて、その位置に到達したのだ。競争社会で勝ち上がって来たことの背景には、社会から有形無形のサポートがあったと思うべきであろう。熾烈な競争社会を異常と思う私でも、互いに切磋琢磨することは必要だと考えているが、問題は、それが公平な環境でなされていないことである。よく言われる、機会の平等と、公平な果実の分配が不可欠である。例を挙げれば、教育を受ける機会もそうであろう。1,500万円の教育資金贈与非課税枠をフルに使って、経済的な不安無く勉強できる青少年がいる一方で、奨学金という名目の学資ローンを借りなければ、高等教育機関で学べない人々も多くいる。どちらも、社会の制度を利用して教育機会を得る訳だが、個人の経済的負担となると、天国と地獄ほども違う。

 新自由主義と言えば、竹中平蔵氏らが提唱した、上が潤えば下もその恩恵を受けると言う、トリクルダウン理論は、既に完全に化けの皮が剥がれている。それは格差の縮小では無く、拡大こそをもたらした。もっとも、提唱した当人らは、最初からこうなると分かって言っていたとは思う。社会が活力を回復するために、本当に必要であるのは、むしろ底辺層の底上げであろう。それは、おこぼれに与らせるということではなく、社会の制度を、より公平なものと変えていくことである。それは結果的に、犯罪や自殺の減少、社会保険料を含めた担税能力の上昇、国力の増進など、富裕層を含めた社会全体にとって有益となるであろう。本当に苦しんでいる人々は、自らの権利を主張することも出来ないでいると思う。私たちは、声が大きい人々よりも、か細い声の人々に心を向ける者でありたい。

「弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ」(詩篇82:3・口語訳)