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万事が益となる(記事No.34)

 今朝、中学生の次男が所属するサッカー部のオンライン・ミーティングがあり、秋の新人戦が中止になったとの連絡があったという。次男は、中学生になってから本格的に始めたサッカーで、しかも昨年は部活動が全面中止されていたというハンディを、必死の努力と工夫で乗り越え、新人戦ではフォワードとして出場することが内定していたので、随分と落ち込んでいた。オリンピック・パラリンピックは開催したのに、それよりは比べ物にならないほど小規模の、一地方都市の中学生新人戦は中止である。西脇・門川の京都府・市政では教育行政もお粗末であることが、またしても現されたような格好である。これも、現代日本社会の異常さを象徴しているような出来事と言えなくも無い。

 日本人は、もうそろそろ、為政者ら支配階層(と思い込んでいる者たち)は、国民に仕えるという思いなど、少しも持ち合わせていないことを学習すべきであろう。口だけなら弁舌爽やかに何とでも言えるが、結果が全てを証明している。パンとサーカスで誤魔化されることと、いい加減決別しなければ、この国の未来は無いと思った方がいい。現在進行中の新型コロナ騒動にしても、本気で国民を守ろうと思えば、少なくとも台湾並みのコントロールは可能であったと思う。だが実際は、昨年1月末、既に中国武漢市の都市封鎖が始まった段階で、安倍首相(当時)は、春節に中国人の訪日を歓迎すると宣伝していたのだ。その後も、場当たり的な全国学校休校を行いながら、オリンピックは開催方針を堅持するなど、支離滅裂な対応を続けた。今さら、医療体制の逼迫などと言っても、言い訳にもならないであろう。

 日本がかくもお粗末な社会となってしまった原因は、危機感を抱いている人々の中でも、様々な見方があるだろう。政治的立場が異なれば、視点も異なるのは当然である。だが、最大公約数的に、愛の欠如があるとは言えまいか。国に対する愛、隣人に対する愛、(自己中心とは違う)自分自身に対する愛である。その代わりに増進したのは、今だけ、金だけ、自分だけの利己的な行動様式ではなかったか。書きたいことは山ほどあるが、小ブログは政治的主張を行うことを目的としていないので、脱線しないよう、この辺で今回のテーマに戻りたい。

 さて、秋の新人戦が中止となったことで失望した次男に対して、私は、聖書の法則の1つを示して励ました。それは、神を信じる者たちのために、万事が、すなわち、良いことも、悪いことも、全てが益と変えられるという法則である。私たちは、神に対する信仰の有無に関わらず、この世では悩みがある。それは、この世界の中に、罪の法則が働いているためであり、それは、世の終わりの万物更新の時まで続く。であるから、神を信じるクリスチャンにとっては、この世界は信仰の訓練の場でもあるのだ。なぜ、全能の神がそれを許容されるのか。それは、訓練が無ければ成長も無いからである。神は、人をロボットのようには創られなかった。自由な意思で、神に従い、聖書の教えを実践することを、神は望んでおられる。そして、聖書にある神の言葉を信じる時、神の法則が私たちの人生の内に現される。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8:28・口語訳)


 私も、万事が益となるという聖書の法則を、自分で認識しているだけも幾度となく体験した。いや、万事であるから、人生の全ての歩みが、失敗も、挫折も、過ちも、ことごとく有益であったのだ。強がりでは無く、負け惜しみでも無く、そう言えるのは、神が私の人生の唯一無二の援護者であるからだ。楽しみにしていた新人戦の中止で、今は失望している次男であるが、いずれ聖書の法則が真実であることを身を持って体験し、このことさえも益となったと言える日が来るだろう。