その当時、その三鷹の教会には、数十名の教会員の内、20代の青年たちだけでも10数人くらい集っていただろうか。ほとんどの青年たちは、日本の霊的復興(リバイバル)の日が近いことを信じ、熱心に教会活動に励んでいた。キリストに在る兄弟姉妹としての親睦にも皆積極的で、神に仕えることについて共に熱く語り合った。その5ヶ月間、私は昼間は求人情報会社の営業アルバイトとして書店やコンビニなどを回り、平日の夜には週2日ほど中野にあった神学校の講座を受講し、水曜日夜は教会の祈祷会、日曜日は朝から晩まで教会の礼拝や各種活動に励んでいた。朝から晩まで神奈川から東京を飛び回っていたが、それなりに情熱を燃やしていたこともあり、濃厚な毎日に、ほとんど疲れは感じなかった。
M牧師は九州から来られたと書いたが、福岡県内にあるアメリカ人宣教師が開拓した教会で信仰を持った同師は、横浜にあった神学校を出た後出身教会に戻り牧師に任命され、やがて主任牧師として宣教師の後を継がれた。その後、1980年代に入ってから、その教会に大きな霊的ブレイクスルーがあり、数年の内に各地の枝教会を含めて数千人の会衆を擁する、国内プロテスタント教会有数の大教会に成長した。M牧師が東京に来られたのは、東京進出とも言うべき、首都における新教会の開拓のためであった。私が5ヶ月間集っていたのは、そのような背景のもと、教会に活気が溢れていた時期であった。M牧師は自信と活力に漲っていたように見えたのだが、後から聞いたところでは、九州を中心とした各地のグループ教会牧師たちとの関係が、次第に悪化していたのだった。そのこともよく知らなかった私は、M牧師から語られる力強い聖書のメッセージと、神の霊の働きによる奇蹟の体験談(証とも言う)に刺激を受け、自分もいつの日か、同様の力ある働きをしたいと夢描いていた。
長い話を短くすると、その後M牧師は大阪に移られ、そこで始めた教会で、80歳近い現在も牧師の働きを継続しておられる。出会ってから30年の年月が過ぎたが、この間それぞれに多くの困難と試練を通り抜け、また有益な学びの数々を経て、M牧師も私も大きく変わった。M牧師が今でも私の師であることに変わりはないが、若輩者の私に対しても、上から目線ではなく、主キリストに在る兄弟としてのリスペクトを持って接してくださるのだ。M牧師と同様、かつては私も、神の霊(聖霊)の力の現れとしての、奇蹟を伴う宣教を熱心に追い求めた。特に、癒しの奇蹟の働きには、ある意味で憧れていたような部分があった。そんな、動機が純粋かどうか怪しかった私にさえも、神は、その奇蹟の業をしばしば現してくださった。今でも聖霊による奇蹟は信じているし、癒しの祈りをするときも、聖書の約束に対する確信を持って祈る。そして、神は祈りに応えてくださる。
「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものでなく、御霊と御力の現れによるものでした。」(コリント人への手紙第一 2:4・新改訳)
しかし、かつてと違っているところもある。かつての私にとって、偉大なる神の働きというのは、大教会を建て上げることであり、大会衆を獲得することに等しかった。しるしと不思議、癒しと解放、奇蹟等の言葉が心地よく響いた。そのような私であったが、30年という年月と、その間の様々な経験と学びが、宣教についての考え方を大きく変えた。今私にとっての宣教とは、私自身がキリストをより深く知ることであり、また、私を通して、人々がキリストに出会い、神の愛に触れ、その恵みの中に導き入れられることである。それこそが、聖霊と神の力の証明だと思う。教会の人数が重要なのではないし、まして、教会堂の大きさなどは何の意味も無い。それどころか、教会堂の有無も本質的に問題では無い。
思えば、M牧師と私は、30年前の一時期を除き、それぞれ置かれていた場所は違っていたが、同時並行的に神からの取り扱いを受け、結果的に、細部はともかく、同じような悟りを得るに至ったと言える。私が言うのもおこがましいが、その意味で、ご縁があったと思う。喜ばしいことに、かつて三鷹の教会に集った仲間たちの多くも、同様に神の導きの内に変えられていると聞く。M牧師の牧会する大阪の教会は、京都からもそう遠くはない。新型コロナウイルスの流行で、招かれない限りは他教会を訪問することは控えていたが、今度お邪魔してもいいですかと聞いたところ、大歓迎とのお話である。積もる話が山ほどある。M牧師ご夫妻との再会が、今から楽しみである。