戦後長い間アメリカでは,原爆投下が戦争の終結を早め,結果的に双方の多くの人命を救ったとの見解が支配的であった。仮に原爆投下が実行されず,日本本土上陸作戦が決行されたならば,連合軍側にも最大25万人規模の死傷者が見込まれていた。その場合,日本側死傷者は数百万人に及んだであろう。しかし,この説は前提として,原爆投下が戦争終結に不可欠であった場合にのみ成り立つ。今日では,長崎への原爆投下の同日未明に開始された,ソ連による満州侵攻が,日本をして降伏への最終決断をさせたという説が有力である。原爆投下は,既に日本の敗戦が決定的な状況の中で実行されたのであり,軍事的には不要であったことは明白であろう。このあたりの事情は,鳥居民の労作である,「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」に詳しく解き明かされている。
原爆投下が新兵器の人体実験でもあったことは,広島と長崎に投下された爆弾のタイプが,それぞれウラン型とプルトニウム型とに使い分けられていたことからも明らかであろう。原爆投下の目的については,さらに衝撃的な説もある。アメリカ陸軍情報士官であったデイビッド・J・ディオニシが退役後に著した,「原爆と秘密結社(原題:ATOMIC BOMB SECRETS)」を読んだ時,私は衝撃を受けると同時に,記されている内容が歴史的事実と照らしても矛盾が無く,ストンと腑に落ちたのである。それは,原爆の目標都市は長崎が本命であったという説である。広島はそのことをカモフラージュするために,最初の攻撃目標とされたと言うことだ。もちろん,両都市への原爆攻撃は,実験の意味もあったことに変わりは無い。なぜ,長崎が狙われたか,それは,ここが日本におけるキリスト教の中心都市であったからだと言う。
それでは,なぜキリスト教国と言われるアメリカが,敵国とは言えキリスト教の中心都市を原爆で攻撃したのか。ディオニシの書名にあるように,ある秘密結社がそう仕向けたと言う。著者は,この本の中で秘密結社の名称を明らかにしてはいないが,どう考えてもフリーメーソンしかあり得ない。フリーメーソンは当時も今も,アメリカにおいて強大な影響力を有し、軍内部にも多数の会員がいる。現在でも,日本国内の主要米軍基地にはメソニックロッジが存在している。フリーメーソンは会員に特定の宗教への信仰心を持つことを奨励していることから,クリスチャンの会員も少なくないと言われる。実際私も,アメリカ人クリスチャンでフリーメーソンの元会員と個人的親交を持っていたこともある。しかし,33階級あると言われている組織の中で,最高位会員らは名目上はどうであれ,聖書の神を信仰していないと断言しても良いだろう。彼らが信仰しているのは悪魔であり,その事実は末端会員らには伏せられている。
フリーメーソンの起源については,中世ヨーロッパの石工組合とする説が一般であるが,実際にはもっと古く,古代バビロニアやバベルの塔を築いたニムロデの時代とするなど諸説ある。そのルーツがいつの時代であったにせよ,確かなのは,この組織が最初から神に反逆する思想を有し,またキリスト教成立以降は反キリストで一貫していることである。このため,カトリック教会では,1738年に教皇勅書でフリーメーソンへの加入を禁止し,結社員は破門とすることが定められた。しかしながら、1962年の第2バチカン公会議以降は,カトリック教会は実質的にフリーメーソンとの融和路線に転じ、これを危惧してバチカン内の結社員を排除しようとした教皇ヨハネ・パウロ1世は、在位33日目に急死した。このように、フリーメーソンとキリスト教、中でもカトリック教会とは本来は不倶戴天の敵同士であるが、現在ではバチカンも相当侵食されていると見做せるだろう。
以上のような背景を考えるとき、アメリカ政府や軍の内部にいたフリーメーソンが、恐らくはさらに上部組織からの指令を受けて、原爆を日本におけるキリスト教の中心都市長崎に投下したことは、彼らにとって、少なくとも一石何鳥かの重要な目的の1つであっただろう。長崎に投下された原爆は、軍事目標であったはずの三菱長崎造船所ではなく、浦上天主堂のほぼ直上に投下された。280年近くに及ぶ激しい迫害に耐えて公然と復活した、長崎におけるキリスト教信徒らの信仰の結晶であり、日本のみならずアジアにおけるカトリック教会の象徴的な大聖堂である。悪魔の意思を受けた邪悪な人々により、神を愛する素朴な信仰者らを含めた、多数の人々の命が一瞬にして奪われたのである。
「主に忠実な人たちの死は 主の目に重い。」(詩篇116:15・聖書協会共同訳)
長崎は、現代ではそうは認識されていないかも知れないが、16世紀以来、日本におけるキリスト教の一大中心地であり続けた。日本に最初にキリスト教が伝わったのは、教科書的には1549年にフランシスコ・ザビエルが来日し教えを広めたとされているが、実際は1世紀中には原始キリスト教会の宣教師が到来した可能性があり、遅くとも7世紀頃には景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)が数万人規模で大陸より渡来している。カトリック到来以前のキリスト教が、やがて神道や仏教と融合し、その実体を失ったのに対し、カトリック教会によって宣教されたそれは、2百数十年に及ぶ世界最長の禁教時代と厳しい弾圧を生き延びた。そして、1865年に、居留外国人のためという名目で教会堂を建てたフランス人司祭のもとに浦上の婦人信徒らが訪れたことを契機に、長崎とその周辺の潜伏信徒らがカトリック教会に公然と復帰したのである。
現在、日本におけるキリスト教の中心地があるとすれば、数の上では人口が最も多い東京都であろう。文化庁の2020年の宗教統計では、東京都には約87万人のキリスト教信者がおり、その人口比は約6.3%である。これに対して、長崎県は約6.3万人、4.8%の人口比である。しかし、この統計には、キリスト教系の異端宗教(統一教会系、モルモン教、エホバの証人等)もカウントされており、本来のキリスト教徒の人口比では、恐らくは長崎県が日本最大であろう。長崎地域は、実に400年以上も日本におけるキリスト教の中心地であった意味が分かるであろう。このことは、文化的に重要であるだけでなく、霊的にも重要であり、それはカトリック、プロテスタントといった宗派の別を超えた意味がある。弾圧と原爆というこの世の地獄に耐え抜いて復興した長崎と彼の地の教会は、やがて日本におけるキリスト教の中心地として、もう一度回復されるに違いない。その時には、日本人の、埋もれていた開明的な霊性と精神性もまた回復され、再び長崎は、世界に向けてキリストを証する都市となるであろう。