それでは、15年戦争とも称されるあの戦争とは、どのようなものであったのだろう。侵略戦争、防衛戦争、アジア解放戦争など、様々な捉え方がある。サンフランシスコ講和条約を締結した以上、極東軍事裁判(東京裁判)の結果を受け入れたのであり、少なくとも日本政府の公式な立場は、日本による侵略戦争であったと言う見解のはずである。しかしながら、東京裁判は勝者による敗者に対する一方的な断罪であった訳で、その結果を受け入れると言うことは、勝者を納得させ、日本が国際社会に復帰するための、一種の通過儀礼でもあった。いわゆる東京裁判史観に抗う動きは、日本が主権を回復してから後も、今日に至るまで続いている。
あるいは、日本はもう十分戦争について反省して来たと言う人もいるだろう。中国や韓国が、今もなお歴史を政治的に利用し、日本に対して事あるごとに、反省と謝罪が十分で無いと非難を浴びせることも、日本人にとっては、むしろナショナリズムが刺激され反発するだけである。それでは、天皇が戦争の歴史を学ぶようにと促された背景は何か。直接的には、天皇にとって、当時の安倍政権の姿勢は歴史の教訓に学んでいないと危惧されたのであろう。しかし、そのメッセージは、ひとり政権に対するものではなく、広く国民全体に向けられたものであったはずである。
私にとって、あの戦争をどう受け止めているかに少し触れたい。戦争について何かしらの関心を持つようになったのは、小学生の頃である。当時は、従軍経験のある大人が親族を含め周囲に何人かいた。私が通っていたカトリッ系小学校にも、理科の教師で元海軍士官の人がいて、謹厳実直であったが、子供たちに対する愛情が感じられた。戦争の話は、大人たちから断片的に聞かされた。私や何人かの級友は、乗り物に対する興味と同じような感覚で、零戦や戦艦大和に関心を持ち、子供向けの図解などを手に入れた。親にせがんで、田河水泡の「のらくろ」復刻版シリーズを手に入れたのもその頃である。一時期は、戦争ごっこなども流行ったが、程なく学校では禁止されてしまった。高学年になると、私は戦記物なども読むようになり、僅かであるが、兵器や軍人のカッコよさとは違う、戦争の悲惨な実相にも触れるようになった。
その後、中高生時代には、単に兵器に対する関心にとどまらず、軍事や国際関係の視点からも戦争について知ろうと、様々なジャンルの書を読み漁ったりもした。その延長線上で、高校時代の一時期は、将来は海上自衛隊幹部候補生学校に進みたいと考えていたほどである。そんな私が、日本が経験した戦争について、世界史的な意義など広い背景を含めて考えるようになったのは、米国留学中の20代の頃からだったと思う。しかし、あの戦争について自分自身の考えが定まったのは、その後40歳くらいになってからである。私は、日中戦争も対米戦争も、やってはならなかったし、避けることも出来たと考えている。日本だけが一方的に侵略者であったとは思わないが、特に中国に対しては、防衛戦争であったと強弁することは出来ないであろう。あの戦争は、先に挙げたように、侵略戦争、防衛戦争、アジア解放戦争という多面性を有する壮大な戦いであり、その戦いに日本は敗れたのだ。勝者は、米英中ソであり、また、広義の国際共産主義勢力であった。私は、そう考えている。
戦争について、どのような史観を有していたとしても、日本人に共通して必要なのは、あの戦争に対する国家的な検証であり、総括であるだろう。日本は戦後、そのことに正面から向き合って来なかった。であるから、戦争の責任についても、勝者による裁きはあったが、日本人として、国家と国民に対する責任の所在を追及することはなかった。ドイツが戦後今日に至るまで、政治的にそうせざるを得なかった面はあるにせよ、ナチス時代の戦争犯罪者の責任追及を続けていることと対照的である。私が危惧していることは、あの戦争を謙虚に顧みること無しに、軍人らの祖国に対する献身と犠牲を美化し、あるいは、国民が辛酸を舐めた経験から、被害者としての側面だけが強調されることである。またそれは、遡ること明治維新を無批判に賞賛することと、大日本帝国に対する憧憬にもつながる。
「『昔が今よりもよかったのはなぜか』と言うな。あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。」(伝道の書7:10・口語訳)
私たちは、昔よりも今が、今よりも未来が、明るい国を造らなければならないと思う。そのためにも、ただ8月にだけ戦争のことを考えるのでなく、学校教育を含めて、より深く考察し続ける必要があるだろう。