TRANSLATE

GlobalNavi

AD | all

キリストに在る兄弟姉妹(記事No.32)

 今日は、記事No.24に書いた、大阪のM牧師が牧会する教会の日曜礼拝に夫婦で出席した。最後にM牧師ご夫妻とお会いしたのは2016年5月であったので、およそ5年3ヶ月ぶりの再会である。礼拝後は、教会堂に残ったメンバーの皆さんとも30分ほど話したが、楽しいひと時であった。その教会には、マーレーシアやベトナムから来た留学生も集っており、私も隣席に座っていた、その内の1人と話が弾んだ。その後は、徒歩30秒のM牧師宅に移動し、奥様の手料理をいただきながら、これまた楽しい時を過ごすことができた。時節柄、会話をするときにはマスクを装着するように気をつけながらであったが、良い親睦の時を持てたのは感謝であった。
「見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう」(詩篇133:1 口語訳)

 キリスト教会では、クリスチャン同士、兄弟姉妹と呼び合うことがある。A兄弟、B姉妹と言う具合である。クリスチャンである人のことを言うとき、キリスト(主)に在る兄弟姉妹という表現を使うこともある。キリスト(主)を長子とする、神の家族という概念があるからである。あるいは、クリスチャンは皆、父なる神の子供であるからだ。この考え方は、全世界のクリスチャンに共通した考え方である。例外は、相手がクリスチャンと称していても、生きた信仰を持っているのか分からない場合である。このような場合には、特に相手の方から接近してきたような場合には、どのような人なのか、慎重に見極めることも必要となる。なぜなら、キリスト教を詐称する異端宗教が、クリスチャンを引き込もうと接近する場合もあるからである。中には、詐欺師など犯罪者が、相手を信用させようと、キリスト教を利用しようとする場合も無い訳ではないだろう。

 時には、お互い相手が真のクリスチャンかどうか見極めようとする場合もある訳だが、その関門を過ぎれば、キリストに在る兄弟姉妹となり、一挙に距離が縮まる。私も、日本国内のみならず、アメリカで、韓国で、中国で、ヨーロッパ諸国でと、異国で異民族の、初対面のクリスチャンと、親しい友人同士のように親睦の時を持った経験がある。アメリカ留学中には、ただクリスチャンであるという理由で、助けられたことがよくあった。韓国では、日本人のクリスチャンであるというだけで、初老の紳士から夕食をご馳走になった。フランスでは、もちろん事前の紹介を受けてだが、初対面の人の家庭に数日間ホームステイさせてもらった。しかし、特にメンバーの大半が白人の教会では、文化的な問題から、紹介や事前連絡無しで礼拝に出席するとあまり歓迎されない場合もあるのは事実だ。どうしても、同じ文化圏や言語圏の人々の方が接し易いということはあるにせよ、根本的なところでは、同じ神、同じ信仰、同じ聖書の教えを共有する兄弟姉妹である。
「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラテヤ人への手紙3:28・口語訳)

 このように、人種、民族、出自、国籍、社会的立場などが異なる人々を、兄弟姉妹として結びつけるのが、同じ神に対する信仰である。ただし、残念なことに、歴史を振り返ると、キリスト教国とされる国々同士が戦火を交えたこともあった。中世から近代にかけてのヨーロッパでは、そのような戦争が繰り返されて来た。その中で、正戦論という、合法的な戦争のあり方を規定する理論が編み出されもした。歴史の教訓は、ひとたびナショナリズムが激しく刺激されるなら、宗教(教会)が政治的熱情を冷ますのは困難であると言うことだ。政治と宗教が密着している場合は、なおさらである。今なお、イスラム教諸国では、同じ神を信じる国や部族同士が戦うことがあるが、アメリカとロシアが将来そうならないという保証は無い。政治体制を異にする、中国と台湾では、それぞれの国のクリスチャンたちが、互いの国同士が戦うことが無いように祈っていると聞く。

 クリスチャンであっても、この地上では、イエスを信じて新しくされた霊の部分を除いては、罪の性質を有している。それゆえ、互いに争って、神を悲しませて来たのが人間の歴史である。だから私たちは、互いに愛し合いなさいというイエスの教えを、日頃より実践することを心がける必要がある。キリストに在る兄弟姉妹の親睦は、また、互いに愛し合い仕え合う良い機会でもある。
「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34・口語訳)