事故の原因は、墜落した日航123便の機体である、ボーイング747型機の修理ミスによる金属疲労が原因で、飛行中に圧力隔壁が破壊されたことであると公表されている。しかしながら、運輸省航空事故調査委員会(当時)によるこの結論には、事故から36年経った今でも疑問や批判が少なくない。事故原因を巡っては、公式説と異なる様々な説が唱えられており、その中には明らかに荒唐無稽の説もあるが、傾聴に値する説もある。運輸省が1999年に、保存期間が終わったとの理由で調査資料を大量に廃棄したことも、真相解明を阻んでいるとの批判を浴びた。墜落に至る経緯の中で、公式説明では解明されていない事実もある。少なくとも、事故原因についての異説を一括りに陰謀論と決め付けることは、決して正しい態度では無いだろう。
日航機墜落事故については、それを題材にした多くの本も書かれており、いくつかの映画もある。有名なところでは、山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」と、同名の若松節朗監督、渡辺謙主演の映画だろう。映画では、「クライマーズ・ハイ」という題名の、原田眞人監督、堤真一主演のものもあり、私は両方とも観た。その他にも、「御巣鷹山」と言う題名の、渡辺文樹監督のマイナー系映画もあるが、こちらの方は観ていない。ノンフィクションとしての本も何冊か読んだが、お勧めは、青山透子のシリーズである。当時日本航空のスチュワーデスであった青山氏は、123便の事故で親しい同僚らを失ったことから、真相究明を決意し、やがて日航を退職して、事故の調査と問題提起に半生を費やして来た。彼女はこれまで、現地調査を含めたフィールドワーク、多くの目撃者や関係者らへのインタビュー、科学的な検証など、優れた調査ジャーナリストと言っても過言では無いほどのリサーチを続けて来た。
こうした青山氏のような民間人の真相究明への熱意と努力に比べて、政府や日本航空の方は、既に調査は終了し結論ははっきりしており、調査結果の多角的な検証や再調査は必要無いとの立場である。仮に事故原因が公式調査の結論通りだったとしても、なお究明されていない点が多く残るが、それらについては調査する気が無いわけで、はっきり言えば、臭いものに蓋ということである。しかしながら、推測ではなく、事実として明らかになっている点に絞っても、いくつも疑問点がある。飛行中の機内から乗客の1人が撮影したフィルムには、機体方向に向かって飛ぶオレンジ色の円筒状物体が写っていたが、この物体が何であったのかは解明されていない。内陸部での目撃証言も多数あり、自衛隊戦闘機と見られる2機のジェット機が上空で事故機を追尾していたとの話も出ている。墜落発生から約20分後には、米空軍のC−130輸送機が現場を視認しており、連絡を受けて厚木基地から救難ヘリコプターが向かった。21時頃までに救難ヘリコプターは現場上空に達し救難員が地上降下を試みようとしたが、直後に基地からの日本側が向かっているとの理由による帰還命令が出て帰投している。この辺りの詳細な話は、1995年8月27日付米軍準機関紙星条旗新聞に記事が掲載された。
墜落後の救難活動でも、おかしな点がいくつもあった。米軍からの連絡により、現場の位置が早くから特定されていたはずであり、地上の目撃者からの通報も複数寄せられていたにも関わらず、自衛隊や警察による墜落位置の発表は二転三転し、最初の救助隊が現地に到着したのは、翌朝9時近くになってからであった。迅速に救難活動にあたるべきところ、なぜ時間稼ぎのようなことがあったのか。また、付近住民の中には、既に深夜には、自衛隊員らしき一団が、現場に向かって徒歩で山道を移動しているのを目撃した人もいる。いち早く現場に到着していたであろう彼らは、そこで何をしていたのだろうか?前述の青山氏ら、優れた調査結果をまとめた情報を総合すれば、恐らくは自衛隊員であったであろう彼らは、救助隊到着前に何らかの証拠隠滅作業をしていた可能性が高い。それは、事故機の残骸に付着した、自衛隊あるいは米軍の誤射による、空対空ミサイルあるいは訓練用標的機の証拠だったのであろうか?物的証拠のみならず、生体証拠までも隠滅対象に含まれていたということは無かったのだろうか?
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されている者で知られずに済むものはないからである。」(マタイによる福音書 10:26・新共同訳)
墜落事故の真相を隠蔽しようとした者たちは、現場で動いた者たちも含めて、当然重大な責任がある。中でも最大の責任を負うべき者は、当時の首相であり、自衛隊の最高指揮官でもあった中曽根康弘氏である。彼はついに真相を語ることなくこの世を去ったが、国政の最高責任者を務めた者としては、日本国家と国民に対する責任を果たすことなく、文字通り墓場まで秘密を持って行ったといえよう。日本人の考え方として、死んだら皆仏であり、死人に鞭打つことをしてはならない、ということが言われる。どれほどの人が本当にそう考えているのかは分からないが、少なくとも、公職者であった人物については、その死後も在職中の業績や言行を検証し、批判も含めて評価するべきであろう。そうでなければ、いつまでも為政者らは、自分たちに不都合な事実を徹底的に隠蔽しようとする。私たち国民も、私たちが選んでいるはずの為政者らも、全てを見ておられる神を畏れるべきであろう。