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靖国神社について(記事No.26)

今年も終戦記念日には、多くの人々が靖国神社に参拝するであろう。その中には、集団で参拝する政治家らも含まれている。もちろん、靖国神社に参拝するもしないも、それぞれの自由である。また、参拝したい人は、神社の施設管理上の決まりを遵守する限り、いつ参拝するのも自由である。現在の日本には幸い信教の自由があるので、誰も他の人々の信条や宗教的行動に干渉してはならない。例外は、その行動が他人に害を及ぼすことが明らかな場合と、公職者の公務中の行動である。ゆえに、今回の記事では、公職者の参拝の是非に絞って書いてみたい。併せて、国家としての戦没者追悼のあり方についても、少し考察したい。

 

まず、おさらいであるが、靖国神社とはどのような神社であるのか。法的には、神道系の単立宗教法人である。憲法の規定により、国から他の宗教法人と異なる特別の地位を与えられている訳では無い。宗教法人一般としての、免税特権などの配慮は受けている。敗戦前は、そうではなかった。陸海軍が祭事を統括する神社として、文字通り国家護持されていた。靖国神社の起源は、明治天皇により1869(明治2)年に創建された、東京招魂社に始まる。東京招魂社とは、戊辰戦争の官軍側戦没者を祀った神社である。1879(明治12))には、靖国神社に改称され、別格官幣大社とされた。創建以来、国内外の戦争において軍務(公務)に従事し死亡した人々が祀られて来た。敗戦後は、占領軍の方針(神道指令)により、全ての神社が国家の統制下から分離され、靖国神社も1946(昭和21)年に、東京都知事認証の宗教法人となり現在に至る。

 

その創建以来の由来がどうであれ、現在は一宗教法人としての神社である以上、最初に述べたように、誰がいつ参拝しようが、あるいは、参拝しまいが自由のはずである。しかしながら、内閣総理大臣を筆頭に、公職者、特に政治家の参拝は議論を呼んで来た。逆に、一部には、日本の政治家であるのに参拝しないのは何故かという意見が出ることもある。一方は、もはや靖国神社は国家にとって特別な関係を有してはいないと考え、もう一方は、今なお靖国神社は、法的な位置付けがどうであれ、国家と特別な関係を保持していると考える。あるいは、一方は、公職者の参拝は自由意志で判断すべきと考え、もう一方は、参拝は公職にある者の務めではないかとする。片や政教分離や信教の自由という面からのアプローチであり、片や日本人の心情や英霊に対する務めという思いからの訴えである。双方の話が噛み合わないのも当然であろう。

 

ここで、私自身の考えを明らかにしたい。結論から言えば、私は公職者が公務中に靖国神社を参拝することには反対である。その理由は、大きく分けて2つある。1つは、靖国神社と日本国家との特別な関係は、遅くとも1946年までには終了しているからである。公職者が公務中に参拝することは、国家との特別な関係が継続していることを主張するに等しい。私たちは、国家神道の愚を繰り返してはならない。神道が習俗としての一面を有しているからといって、事実上の国家宗教に位置付けるのは間違っている。もう1つは、それが国益に反しているからである。こう言うと、中国や韓国の批判を恐れて媚を売るのかと早合点する人もいるかも知れない。そうではなく、同盟国である米国を含めた、国際社会からの信頼を失うだけでなく、諸外国から疑念を抱かれることにもなるからである。それは、何の疑念か。大日本帝国を復活させようとしているのではないか、との疑念である。

 

 私たちは、日頃それを意識することは無いに等しいが、日本は現在も、国連憲章が規定する敵国条項の対象国である。細かい法律解釈は他に譲るが、理論上は、日本が大日本帝国を実質的に再現しようとした場合には、例えば中国やロシアなどが、日本に軍事的制裁を加えることも合法である。さらに言えば、現在同盟国である米国もその権利を有している。201310月には、来日中の米国ケリー国務長官とヘーゲル国防長官(いずれも当時)が、揃って千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪問し、献花を行った。その時同行した米国国防総省高官のコメントは、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、米国アーリントン国立墓地(戦没者墓地)に最も近い存在である。」と言うものであった。大日本帝国への憧憬を垣間見せる安倍首相(当時)に対する牽制とも捉えられたものの、安倍政権の受け止め方は違っていたようで、同年12月に安倍首相は靖国神社参拝を行った。米国政府は直ちに反応し、駐日大使館より、失望しているとの表明があった。公職者、特に首相や閣僚などの高位公職者による公務中の靖国神社参拝は、周辺諸国のみならず、米国の警戒心を高めることにもつながるなど、明らかに国益に反する行為であると考えられる。自ら周辺の仮想敵国を含めた他国につけ入る隙を与え、不穏な空気を醸成することは、知恵ある行いでは無いだろう。

 

「主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争がなかった。そこで彼は、ユダに砦の町を次々と築いた。」(歴代誌下145・新共同訳)

 

 それでは、国家としての戦没者追悼はどうあるべきか。戦争の勝者も敗者も、国のために戦い命を捧げた将兵らを、国家的に追悼する権利と義務を有していることは疑いない。他国の侵略に対する防衛戦争の犠牲者だけでなく、その戦争が後世の人々から侵略戦争であったと受け止められていたとしも、それとこれとは話が別である。国家の命令として将兵を戦場に赴かせ、犠牲を受け入れさせたのであれば、その死に対して国家が責任を負うのは当然のことである。国家の責任とは、遺族の生活を援護することだけでなく、戦没者の遺体を回収して丁重に埋葬し、その忠誠と犠牲とを顕彰し、国がある限り追悼することを含む。日本にも、そのための国立戦没者墓地が必要である。以前より千鳥ヶ淵戦没者墓苑を拡充するという案もあるが、国家の中央戦没者追悼施設という性格を明確にするためにも、より広い敷地や付属施設を含めて新規に整備する方が望ましいと思う。例えば、立川市にある、国営昭和記念公園の北側を整備するのも一案であろう。

 

 このように、日本が国家的戦没者追悼施設とすべきところは、靖国神社ではなく、新たに設置される国立戦没者墓地であるべきだ。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、それまでの暫定的施設という位置付けでどうであろうか?諸外国の戦没者追悼施設は、いずれも国軍儀仗兵によって警護されているが、日本も当然そうすべきで、現時点では自衛隊儀仗部隊を置いて警護と儀仗の任に当たらせるべきである。そして、国家の責務として、毎年首相以下全閣僚と国会の正副議長らが、公式墓参するのが当然であろう。小記事の最後に、日本のために命を捧げた全ての戦没者に対して追悼の意を表したい。願わくは、神がそれらの諸霊に憐れみを置いてくださるように。