TRANSLATE

GlobalNavi

AD | all

妬みと凶悪事件(記事No.21)

 世の中(の一部)がオリンピックに浮かれている最中、またもや凶悪な通り魔事件が発生した。満員の小田急線車内で男が若い女性らを斬りつけ、乗客10人に重軽傷を負わせた事件である。犯人として逮捕された男は、幸せそうな女性を見ると殺したいと思っていた、と供述したそうである。また、人生がうまく行かないのは他人のせいだ、とも話したという。自分に何の害も与えていない人を無差別に襲ったことから、確かに反社会性が強い凶悪な犯人であろう。しかし、犯人の男が凶悪事件を起こすに至った心の闇は、実は、私を含めて誰もが持っているものであり、それは妬みである。



 妬みは、全ての人が持っている罪の性質の1つであり、それゆえ、子供でさえ大人が教えてもいないのに、自然に妬みの感情を抱くようになる。例えば、自分が仲良くしている子が他の子と親しそうにしていると、やきもちを妬き、相手の子に意地悪をしたり、その子の悪口を言ったりする。兄弟でも、どちらか一方だけが親に褒められると、褒められなかった方は、不機嫌になるだろう。成長と共に、うわべは繕えるようになったとしても、心の中までは中々繕えるものではない。大人になっても、それは同じで、紳士淑女の振る舞いは出来ても、それだけでは、妬みの感情を抱かなくなる訳ではない。



 情報技術をはじめとして、テクノロジーが日進月歩で進化している現代社会であるが、それらを使う人間の性質自体は、本質的には古代社会と何ら変わりがない。この社会は人々の合理的な判断も働いているが、それ以上に、感情によって動いていると言っても過言ではない。人々が、感謝や喜びあるいは憐れみといった感情に満たされるなら、そのような人々は、自然に善い行いをしたいと願うようになる。あるいは、人々が憎しみや妬みあるいは利己心といった感情に満たされるなら、それは通り魔事件がそうであるように、人々の悪い行いを誘うであろう。



「妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。」(ヤコブの手紙3:16・聖書協会共同訳)


 私たちは、自分とあまりにかけ離れたと思う存在に対しては、妬みの感情を抱くことが少ない。日本人で、皇室に妬みを覚える人は少ないだろう。皇室に対する尊敬の念の有無に関わらず、あの方々は雲の上の人たちと思うからである。あるいは、芸能人やプロスポーツ選手がどんなに目立っていても、それに激しく嫉妬する人も少ないだろう。多くの人々にとって、彼ら、彼女らは、別世界の住人だからである。多くの場合、私たちが妬みを抱くとすれば、それは自分と近い人々に対してであり、友人やクラスメイト、同僚や年齢の近い知人などに対してであろう。マウントを取るという優越感からの行動も、妬みの裏返しである。



 それでは、私たちは、どのようにすれば妬みの感情に囚われずに済むのであろうか?自尊心を保つことは大切であるが、感情コントロールのテクニックだけでは根本的な解決にはならない。最も有効な方法は、神の内にある自分の正当な立場を知ることと、神の愛を受けている事実を知ることである。私たちがイエス・キリストを通して父なる神に近づくとき、私たちは神の子となり、子としての立場を得ることになる。そして、自分だけに与えられた、オリジナルの人生の使命と賜物とを知るようになる。それらは、富によっても人の努力によっても得ることの出来ない、父なる神からの贈り物である。他の人と比べることは無意味であり、最大の関心は、どのように自分の人生における使命と役割を果たすかとなる。私たちの内に宿られる神の霊が、私たちの魂に触れて、その性質を一歩一歩変えてくださる。そして、私たちに神より与えられた愛が、妬みやマイナスの感情に勝利することを体験するようになる。人には出来ないが、神には出来るのである。