ついに菅首相は、重症患者などを除き自宅療養を基本とすると述べて、政府方針の転換を明らかにした。東京都では、自宅療養者が既に1万人を超えており、政治方針の転換とは現状の追認に過ぎない。このタイミングで発表したのは、オリンピック番組の視聴率を睨みながらか。これまでに、自宅療養中に容態が急変し死亡した事例もあり、特に単身居住者にとっては、孤独死のリスクもある。国民が決して安いとは言えない健康保険料を支払っているのは、必要な時に適切な医療を受けられるようにである。それが無理だというのであれば、少なくとも自宅療養期間中の保険料は免除するべきであり、税金も同様であろう。そうでなければ、公共サービスにおける負担と受益が釣り合わない。
本来入院するのが普通であるような健康状態であり、患者も入院を希望しているのにも関わらず自宅で療養せよと言うのは、棄民に等しいのではないか。そうでないと言うのならば、今後は他の病気でも重症患者など以外は原則自宅療養として、その代わりに健康保険料を引き下げて国民負担の軽減と医療費の削減が実現できるはずである。国民皆保険制度がありながら、病気に罹った国民の公的ケアを疎かにするとは、国家としても人としても間違っていると思う。
「そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」(マタイによる福音書25:44-45・口語訳)
歴史的に見て、日本は苦境に陥った国民を国家が度々見捨てて来た、棄民政策が御家柄のような国である。明治期からのハワイや南米への移民送り出しはまだ希望があったが、満蒙開拓団はどうだったか。ソ連の満州侵攻の際には、関東軍は居留日本人を護らなかった。敗戦後も、在外邦人は現地に残留させるのが政府の当初方針であった。1956年から始まったドミニカへの移民事業では、土地の無償提供などの約束が反故にされ、2000年には日本政府に対する集団訴訟にまで発展した。(1審原告敗訴の後、特別一時金支払いで結着)残念ながら、日本は国民を大切にする国では無いと言えよう。
今後も、日本政府の棄民政策は事あるごとに発動されるだろう。為政者やエスタブリシュメントが、真に祖国と国民とを愛していないことの現れである。自助の国の民としては、自衛に努めるしかない。しかし、希望も道もある。私たちが神を信じるなら、常にこの方の庇護の下に置かれ、祈りに応える最高のサポートを受けることが出来る。全知全能の神の守りこそ、最も確実な自衛策である。