この死刑判決のニュースを読んだ時、改めて思ったことが2つあった。1つは、凶悪事件の犯人とされた人に対して、国民の多くが死刑を望んでいることは、当然のことと受け止めて良いのかどうかである。もう1つは、死刑制度そのものの是非である。前者については、凶悪事件の被害者や被害者の遺族らと、事件と無関係の国民とは分けて考える必要があるだろう。家族を無残に殺された被害者遺族が、犯人に対して強い報復感情を抱くことは人として当然である。同じ立場になったら、誰もが犯人を激しく憎悪するだろう。しかし、被害者とは面識も無い国民が、犯人を死刑にせよと軽々しく口にすることには、どうしても違和感を感じてしまう。なぜそう感じるのかと言えば、自分が絶対に死刑に処せられる側にならないとは、誰もが断言できないということが1つである。もう1つは、死刑制度の是非にも関わることであるが、絶対に冤罪処刑が無いとは言い切れないからである。
もう30年くらい前のことであるが、図書館で面白い本はないかと探していた時、イギリス人ジャーナリストが書いた、アメリカの死刑囚についてのルポタージュ本が目に止まり、一気に読んだことがある。残念ながら、本の題名を忘れてしまったのだが、読んだのは日本語翻訳版であったので、古本なら探して手に入れることも可能だろう。何人もの死刑囚に実際に面会して、その肉声を聴くという作業を積み重ねてまとめ上げられたものであった。本の最後に筆者が記した言葉が、今でも印象に残っている。それは、「神の恵みが無かったら、私も彼らの1人になっていたかも知れない」というものであった。
死刑についての私自身の考え方を明かすなら、数年前まで、一貫して死刑制度賛成の立場だった。実は、クリスチャンの中でも、死刑制度については考え方の隔たりが大きい。賛成派は、旧約聖書にある、命は命で贖われるべきだという教えを根拠にしていることが多い。これに対して、反対派は、新約聖書の報復禁止の教えや赦しについての教えを、より重視していると思う。聖書の教え自体には、死刑を禁止している箇所は無いので、社会の中でどのように取り扱うかは、私たち人間に委ねられているとも言える。牧師の中でも、死刑制度の維持は当然と教える人と、逆に死刑制度廃止を説く人とに分かれているし、その種のテーマにはなるべく触れないようにする人もいるだろう。そのような中で、数年前、私はそれまでの死刑制度維持の考えから、死刑制度原則廃止の考えに変わった。
死刑について、私が考え方を変えた最大の理由は、冤罪処刑があってはならないと思うからである。日本でも、一応は近代的な刑法体系が成立していたはずの大日本帝国憲法下において、数々の冤罪処刑があったと言われている。中でも、1911(明治44)年に、幸徳秋水氏ら24名が明治天皇暗殺計画を理由に死刑判決を受け、その内12名が処刑された冤罪事件はよく知られている。日本国憲法下でも、幼児2人を殺害したとして死刑判決が確定し、最期まで無実を訴えながら、森英介法務大臣(当時)の命令により2008年に処刑された、いわゆる飯塚事件の久間三千年氏のケースが、冤罪疑いが濃厚ではないかとして知られている。本件は、久間氏の遺志を継いだ同氏の妻が再審請求を起こしたが棄却され、その後新たな有力目撃証言も得て、現在2度目の再審請求中である。飯塚事件で証拠とされたDNA鑑定は、別の再審事件では証拠価値が否定され、服役していた人が釈放されることになったものと同じ方式であった。久間氏については、裁判所や検察庁は今でも真犯人と捉えている訳だが、DNA鑑定結果に合理的な疑いがある以上、少なくとも、再審裁判を開くのが法治国家として当然ではないか。
このように、一度死刑が執行されてしまうと、たとえ、後年に冤罪事件だったと判明したとしても、決して取り返しがつかないのだ。しかも、冤罪に関与した裁判官、検察官、警察官といった公務員は、決して、個人責任を問われ免職されたり、まして処罰され服役することも無いのである。それどころか、退官後は叙勲などの栄典も受ける。これは、著しく公正に欠き、正義に反するとは言えまいか。国家の威信、その実は役人の面子のために、過ちが正されないとすれば、もはや法治国家とは言えないであろう。ちなみに、誤判で死刑が執行された場合の補償金額はご存知だろうか?刑事補償法の定めるところでは、3,000万円以内である。これは、車の自賠責保険の死亡保険金額と同額である。国家が国民の生命を、1人あたり3,000万円程度と見做しているのだ。本来は、もし冤罪処刑なら、関係者個人の処罰に加え、天文学的賠償金を支払うべきだと思うが、如何だろうか?
日頃、品行方正に生きている人であっても、何かのきっかけで冤罪事件の当事者になる可能性が絶対無いとは言い切れないであろう。もしそれが、殺人事件など死刑の定めがある犯罪であれば、あなたも冤罪で処刑されるかも知れないのだ。そう考えると、凶悪事件について、私たちがより関心を持たなければならないことは、第1に被害者と被害者遺族に対する国家の全面的なサポート体制の構築であり、犯人を絞首台に吊るすことではないと思う。そして、公正な裁判が行われるよう、司法手続きで改善すべき点は改めるべきだ。国民が裁判員として参加する、再審裁判所の設置も必要だろう。ヨーロッパ諸国をはじめ、死刑を廃止する国々が増えているが、日本も一般刑事犯罪については死刑を廃止し、最高刑は仮釈放無しの終身刑に改めてはどうだろう。それで社会正義が損なわれるとは思えないし、冤罪処刑も根絶することが出来る。私たちは、自分と死刑囚との運命を分けたのは、ほんの紙一重の幸運の積み重ねだったかも知れない、という意識を持った方が良いだろう。
「彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』」(ヨハネによる福音書8:7・口語訳)
先に書いたように、私は死刑制度原則廃止の考えを持つに至った訳であるが、例外的なケースもある。それは、戦争犯罪に対する場合である。刑法犯に対する死刑を廃止したヨーロッパ諸国などでも、戦争犯罪に対しては死刑適用の余地を残している。一般刑法と戦争法規では、違反者の認定や処罰に対する考え方が違うからである。私も、戦争犯罪については、死刑制度を存置することに賛成である。戦争法規は、日本人としては馴染みが薄いが、ハーグ陸戦条約など戦時国際法は日本も批准している。現行憲法が特別裁判所の設置を禁じているとは言っても、国際条約が上位法であるので、国内法制の不備があるにせよ、戦争犯罪者を裁く特別法廷の設置は可能であろう。あるいは、日本人が、例えば、人道に対する罪を犯した場合、外国に移送されて裁判を受ける可能性もある。戦争犯罪は、武器が用いられる戦争や紛争の場合だけでなく、例えば、将来世界規模の薬害事件が認識された場合などにおいて、人道に対する罪が適用されることも十分あり得る。自分が死刑に直面するとは夢にも思って居なかった人々が、その時、特別軍事法廷に立つことが無いとは誰も言えないであろう。