今般の判決で、下津健司裁判長は、飯塚被告がブレーキとアクセルを踏み間違えたことが事故の原因であると認定した。被告側の、車の電気系統に異常が生じブレーキが効かなくなったとの主張は、明確に退けられた判決内容である。飯塚氏は事故直後に、被害者の救護を行うのではなく、息子に電話して、Facebookなどにある個人情報の削除を頼んだことが明らかになっている。最悪の交通事故の当事者になってしまったにも関わらず、自分の保身を最優先させたような行動には、誰もが憤りを覚えたことであろう。私自身も、飯塚氏の高慢さに対して、それは恐らく高級官僚と称される者たちが多分に持ち合わせているのであろうが、憤りと不快の念を抱いたものである。
それにもかかわらず、この裁判には疑問を拭い去れない点がある。それは、飯塚被告の車の異常でブレーキが効かなかったという主張に対する、裁判所の証拠認定にある。事故車は、トヨタのプリウスであった。そして、捜査当局(警察か検察かは不明)が、当該車両の技術的検証を依頼した先は、製造者のトヨタ自動車であった。トヨタ自動車が2021年6月21日に、マスコミ向けに発表したコメントでは、「当局要請に基づく調査協力の結果、車両に異常や技術的な問題は認められませんでした。」との内容が含まれていた。事故の当事者が、車に問題があったと主張しているのに、その検証を行なったのは、当の車を製造したメーカーである。本来であれば、第三者機関が調査するのが公正な検証方法ではないだろうか?しかし、東京地裁の下津裁判長は、そうは考えず、トヨタ自動車による調査結果を証拠として認定し、飯塚被告が有罪となる物証としたのである。
私が、何故この事に拘っているのか。それは、このような証拠認定手法が是とされるならば、同様の事故が発生した際、誰もがほぼ100パーセント有罪にされるからである。本ブログの記事No.35、「死刑制度の是非」で触れた冤罪のように、車を運転することがある誰もが当事者となり得るのだ。何故、誰もがほぼ100パーセント有罪認定されるのか?メーカーが自らの非を認めるなら、リコールだけでなく、世界的に巨額の賠償請求を起こされる蓋然性が高いからである。製造会社に技術的検証を要請した時点で、結論は決まっていたようなものであろう。うがった見方をすれば、捜査当局とトヨタ自動車の暗黙の合意があったとも言えるのかも知れない。
ちなみに、私はトヨタ自動車とは何の利害関係も無いし、現在所有している車は他のメーカーのものである。10代後半の頃は、マニアックな話で恐縮だが、AE86という型式名を有するトヨタの1600ccスポーツタイプ車が欲しかったのだが叶わず、結局1300ccのEP71を購入したことがあった。だが、車が好きなことと、裁判の公正さを願うこととは、全く別次元の話である。今回の技術的検証については、捜査当局の手法や裁判所の証拠認定に、大いに疑問を感じる。またマスコミ各社が、この点をほとんどスルーしているのも不自然である。はっきり言えば、トヨタ自動車の政治力と広告スポンサーとしての力が、影響を及ぼしたのでは無いだろうか?少なくとも、それらが全く作用しなかったとは言えないと思う。
愛知県、特に豊田市はもちろんのこと、名古屋市に住んでいる方々なら分かり易いと思うが、当地におけるトヨタ自動車の影響力は絶大である。最近も、トヨタ自動車所属のオリンピック選手の金メダルに齧りついてしまった、河村名古屋市長が、豊田章男社長からの抗議文を受け、慌ててトヨタ本社を訪問し謝罪文を提出したが、同社の政治力が如実に顕された出来事であった。笑い話のような本当の話であるが、名古屋駅周辺に林立する高層ビル群は、トヨタ自動車が建てた、ミッドランドスクエアの高さ247メートルを超えないように、配慮の上で建設されていると言う。あるいは、コロナ禍でトヨタグループが賀詞交歓会や各種懇親会を中止にすると、名古屋の財界は一斉に右に倣えをするなど、今更珍しくもない光景である。トヨタ自動車の政治力からすれば、警察・検察が、飯塚氏の事故で、第三者機関に検証を依頼しなかったことは、残念だが当然であるだろう。むしろ問題は、下津裁判長がそれを是認したことであり、彼は法治国家の裁判官としては失格であろう。
人の自然な習性として、自分の身内や仲間に対しては、他の人々に対すよりも、何かと特別扱いをしたいと思う。民間企業などが、人材採用や取引において縁故で優遇することが、全てにおいて悪いとも言えないであろう。得意客への特別サービスであれば、むしろ行わない方が商売センスが無いとも言える。だが、公共サービスはそうであってはならない。人の人生を決定的に左右する刑事裁判なら、尚更そうである。その意味において、今般の飯塚被告に対する判決と、それに至る司法手続きについては、これまで述べたように、疑念に思う点がある。繰り返すが、飯塚氏の事故についての証拠認定手法は、誰に対しても、同様に採られると考えた方がよい。本件が、仮に控訴審に持ち込まれた場合には、裁判所は、改めて第三者機関による技術的検証を行うべきであろう。
「公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの」(箴言16:11・口語訳)