関東軍が、このような謀略を遂行した理由は、もちろん、満州全域に不穏な状況を作り出し、居留邦人保護や日本の権益を防衛することを名目に出兵し、全満州を支配下に置くことであった。関東軍は、本国政府の事変不拡大方針に背いて、独断専行で戦線を拡大し、1932年2月には満州全域を制圧した。その年の3月には、日本の傀儡国家である、満州国が建国され、清朝最後の皇帝であった、愛新覚羅溥儀が国家元首に当たる執政に就任した。その後日本は、中国に対するのみならず、満州国の存続を認めない国際連盟勧告に反発して、1933年3月には同連盟を脱退した。その後、英米などとの亀裂が次第に深まり、1937年に始まった日中戦争を経て、1941年には対米英蘭戦争として、第2次世界大戦に参戦するに至ったのである。1945年の日本の敗戦と大日本帝国の終焉は、1931年9月の満州事変が起点であったとも言えるであろう。
それでは、天皇が国民に呼び掛けられたように、日本人は満州事変から始まる戦争の歴史から、何を学んで来たのか。平和の尊さは、もちろん大切な教訓であるが、観念的なものとも言える。平和を守るための具体的方策としても、非武装中立から核武装軍事同盟強化まで、多様な考え方がある。天皇の胸中は拝察するしかないが、あのようなメッセージを発せられたことには、日本人が歴史から十分学んでいないとの危惧を持たれていたためであろう。私は、日本人最大の民族的欠点は、失敗から学ばない、ということではないかと思う。関東軍の独断専行にも現されたように、敗戦までの軍人には、高慢で独善的な性質を有していた者たちが、上から下まで指揮官や参謀に多くいたと思う。彼らは、失敗から学ぶのではなく、それを繰り返したことは、敵国であったアメリカ軍による評価でも明らかである。大日本帝国において、天皇が神格化されていたのと同様に、軍の指導部も無謬とされていたのではないか。
そして、現代においても、日本人は同様の性質を有していると言えよう。とりわけ、地位が上がるほど、その傾向が強く見られる。その中でも、昔陸軍、今官僚と言われることもある、役人たちの勘違いぶりは甚だしい。本日の朝刊にも、そのようなニュースが載っていた。滋賀県近江市の湖東記念病院での患者死亡事案を巡る再審で無罪が確定した、元看護助手のNさんが起こした国家賠償裁判で、滋賀県警が無罪判決を否定する内容の準備書面を提出したという。三日月大造知事は、準備書面の内容を事前に把握していなかっとして、不適切であることを認め謝罪し、滝澤依子県警本部長にも真意を正したところ、不適切という見解を得たと説明した。確定無罪判決を否定するような行動に出た、滋賀県警幹部らのメンタリティーは、独断専行した関東軍幹部らのそれと根底においては全く同じと断じても良いだろう。彼らもまた、失敗から学習することが出来ず、何度も同様の過ちを繰り返す性質を持っている。これでは、敗戦の痛みを経ても、この国は法治国家としては、ほとんど進歩していないとも言えよう。国民に苦しみを与える主体が、軍部から官僚機構に代わっただけである。
私たちは、彼らの独善から自分たちを守る知恵を身につける必要があるが、同時に、私たちも同じように学習しない者とならないよう、意識して努める必要がある。人生において失敗はつきものであるが、それを教訓とすることが出来るのであれば、それもまた貴重な経験となるだろう。その意味で、満州事変に始まる失敗の歴史も、日本の現在と未来のために、教訓として活かすことも出来るだろう。私たちが、歴史を省みる謙虚さを持ち合わせていればであるが。
「教訓をかたくとらえて、離してはならない、それを守れ、それはあなたの命である」(箴言4:13 口語訳)