報道されているところでは、9月26日にスイスで、同性婚合法化の是非を問う国民投票が実施され、賛成が64.1パーセントと多数を占めたという。今後は、法改正手続きが進められ、同国では同性婚が合法となる見通しである。同性婚は、2001年にオランダで法制化されたのを皮切りに、現時点で、一部の州で認められている米国を含め、29ヵ国で合法とされているそうである。
近年は日本でも、「LGBT」あるいは「LGBTQ+」という用語が人口に膾炙されているように、多様な性認識や性的指向を認めようとの動きが活発化しており、同性婚合法化を訴える人々もいる。これは、一見すると、人権問題のようでもあり、社会的な影響力のある人が、これに対して否定的な言説を唱えることは、激しく糾弾されることにもなりかねない。マスメディアなども、同性婚に肯定的な声を紹介することが多いようにも感じる。ドラマや映画などでは、ごく自然に同性愛者を登場させるなど、同性婚も社会的認知が得られているという前提に立って制作されているケースもある。特にNetflixは、その傾向が露骨である。
古代より、同性愛者は公然か非公然かは別として、どの文明や国家にも存在していたと思われる。日本でも、16世紀に渡来したキリスト教宣教師が、僧侶や武将の中で広く見られた同性愛の風習について厳しく非難したことが記録されている。かく言うカトリック聖職者の中には、学校などで男子児童に性的虐待を加えていた者たちが、現代に至るまで存在して来た訳で、これはもう、人類普遍の問題であろう。しかしながら、同性婚が徐々に社会的に許容されるようになったのは、前記のとおり、20年前くらいからである。
同性婚の前提となる同性愛者の数については、もちろん日本では正確な統計は存在していない。諸外国の意識調査などでは、人口の10%未満、数パーセントの割合で同性愛者が存在するようではある。私は、これまでに、自分が同性愛者であると明言する人には数えるほどしか出会ったことがないが、そのような人に最初に巡り会ったのは中学生の時であった。今から思い返しても不愉快な体験であったが、中学3年生の時に、ボーイスカウトのキャンプに参加した際のことである。休憩時間にテントに戻ると、そこでは中3と中2の団員が2人で同性愛行為の真っ最中であった。私も加わらないかと誘われたが、速攻拒否したのは言うまでもない。トラウマにならなかったことは、不幸中の幸いであった。
これまでの私の観察では、日本では同性愛者よりも、いわゆるバイ・セクシャルの性的指向を有する人の方が多いと思われ、合わせれば、あるいは人口の1割近くにもなる可能性がある。であるから、異性の恋人がいたり結婚しているのにも関わらず、同性愛にも興味を抱く人がいると言うことだ。そのような人々は、通常は自分の密かな性的指向を決して表には出さないが、何かの機会でそれが顕在化することがあるのかも知れない。どうであれ、大人同士が、自分の意志で同性愛者カップルとして生きるのであれば、そのこと自体には他人が無闇に干渉することは出来ないであろう。問題は、それを同性婚の合法化という形で、社会的承認を与えて良いかどうかである。
そのことに対する社会的答えは、本来は、私たちの社会における最大公約数的な世界観や人間観に基づいて導き出される筈である。しかし、同性婚合法化を推進する勢力は、それらを政治的行動によって変革しようと試みて来た。例えば、2012年に米国コロラド州で、同性婚のウェディング・ケーキを注文しようとしたカップルに対して、キリスト教信仰を理由に製造を拒否したケーキ店の店主が、人権侵害だと訴えられたケースがあった。恐らくは、分かっていて仕掛けた言いがかりであろうが、州裁判所が人権侵害を認定したのに対して、2018年に連邦最高裁判所は、同性婚に反対する宗教観を人権侵害としたことは信教の自由に反しているとして、ケーキ店主勝訴の判決を下している。
このように、同性婚合法化推進勢力は、自分たちの自由や権利が不当に侵害されているという主張に立っている。しかし、実際は、彼らの方が、自分たちと異なる考えを持つ人々の自由や権利を、侵害するような行動を重ねて来たのでは無いだろうか。であるから、ポリティカル・コレクトネスとしては、同性婚合法化に正面切って反対することは、間違っているとされる可能性が高い。それでは、人間の考えではなく、神の言葉である聖書は何と言っているのであろうか?
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」(創世記 1:27 新改訳)
聖書の教えの中には、同性婚を容認する余地は無い。残念なことではあるが、欧米諸国のみならず、日本においても、少数の教会とは言え、同性婚に肯定的な教えを説いているところもある。また、同性愛者であることを公言している牧師も数名存在する。確かに、神は罪人である私たちを、ありのままで愛してくださっている。しかし、それは、何をしても許されるということとは違う。神の創造の秩序に反することは、少なくとも、教会として、また、教会が置かれている社会として、容認することは神の教えに反することである。近年、ソドムの街の跡と考えられる遺跡が確認されている。ソドムは、同性愛を含めた度を越した性的堕落によって神の怒りを買い、ゴモラの街と共に滅ばされた街である。英語で男色や獣姦などを意味する、「ソドミー」の語源は、このソドムである。
なお、同性愛については、これは自然な性的指向の1つではない。聖書の教えから判断するに、幼い頃に受けた霊的抑圧や性的虐待などに起因する、精神的、肉体的影響が、その主な要因であると考えられる。私は、同性愛から解放された、韓国人クリスチャンJ兄の体験談を直接聞いたことがあるが、神の力により、そこから自由になることが可能である。この種の問題は、聖書の正しい教えによく通じ、神の霊の力に満たされ、かつカウンセリングの訓練を受けた牧師などが取り扱うべきものであろう。