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魂に響く音楽(記事No.73)

 今日12月15日の午後、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールで開催された、フジコ・ヘミング氏のコンサートを、妻と次男と一緒に鑑賞して来た。フジコ氏は、本ブログ記事No.43「ある老ピアニストのこと」で書いた、今月で89歳となったピアニストである。スウェーデン人建築家の父と日本人ピアニストの母を両親として、ドイツ・ベルリンに生まれた彼女は、母の指導で幼少の頃よりピアノを習い始めた。10歳の時、ロシア生まれのユダヤ系ドイツ人ピアニストである、レオニード・クロイツアー氏に師事し、彼をして、将来世界中の人を魅了するピアニストになると予言させた。その後の彼女の軌跡は、先の記事でも書いたとおり、波乱万丈の人生であった。

 「昼下がりのコンチェルト」と題された今回のコンサートは、関西フィルハーモニー管弦楽団との共演であり、指揮者はスロバキア国立放送交響楽団の音楽監督を長年務めた、マリオ・コシック氏という豪華な布陣であった。最初の曲、ショパンのピアノ協奏曲第1番第2楽章の演奏が始まると、その次の瞬間、会場の空気が一変した。何と、優しく、美しい調べであることか。目を少し閉じて聴くと、奏でられる旋律に心が洗われるようである。続いて、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番、ショパンのエチュード・エオリアンハープが演奏され、締めは、フジコ氏の十八番である、リストのラ・カンパネラである。これまでフジコ氏の演奏会には行ったことがなく、Netflixでドキュメンタリーを観たり、Youtubeで演奏を観ただけであったが、今回生演奏を聴くことが出来て感激した。

 聞くところによると、これまで、何人かの日本人有名ピアニストや音楽評論家からは、フジコ氏の演奏は酷評されて来たそうである。その主な理由は、技術的なレベルやレパートリーの少なさとのことらしい。はっきり言って、何を勘違いしている人たちであろうか。音楽専門家らが、彼らの指標で、フジコ氏の演奏をどう評価しようが勝手ではある。しかし、演奏家は、一体何のために演奏するのであろうか?自分の演奏を極めるためか、あるいはコンクールなどで高い評価を受けるためか。また、一体誰に向けて演奏するのであろうか?自分と同じ演奏家たちにか、あるいはコンクールの審査員に向けてか。そうではなく、聴衆のために、多くは音楽の素人かアマチュアである彼らに向けて演奏するのが、本来の演奏家ではないだろうか。

 フジコ氏は、誰が名付けたか、「魂のピアニスト」と呼ばれている。彼女は、絵の才能も並はずれているが、全て芸術とは魂にあるものを、形にする作業であると言える。表現者その人の、内側にあるものが音楽や絵画や演劇などとして現されるのが芸術であろう。人の魂は、知性・感情・意思の3つの部分から成っているが、それらを結ぶことが出来るのが愛である。愛はまた、人と人とを結ぶ帯でもある。フジコ氏の演奏が人々の心を打つのは、彼女の魂に愛が豊かに宿っており、演奏を通して、それが溢れ出るからであろう。目に見えない愛が、彼女が演奏する時、鍵盤を弾く手に宿り、それがピアノによって音色となって、人々の耳に入り、心(魂)にまで伝わるのである。だから、技術や曲のレパートリーの面においては、フジコ氏を上回る演奏家が少なくないにも関わらず、彼らよりも、多くの聴衆をより感動させることが出来るのだろう。

 
「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ人への手紙 3:14 口語訳)


 音楽の起源は、創造主である神を讃えるために創造されたものである。そこには、神による愛、神に対する愛があった。歴史における音楽の拡がりの中では、愛だけでなく、様々な影響を受けて多様な音楽が作られてきた。人を感動させるものだけでなく、陶酔させたり、催眠効果を与えるものなど、音楽が人々に与える影響は様々である。しかし、フジコ氏の音楽には、その根底に愛がある。今日は、その愛を感じ取ることが出来た、素晴らしい演奏会であった。帰宅してから、家庭の祈りの時間で、フジコ氏の健康と益々の活躍のため祈ったことは言うまでもない。