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神は血の復讐をされる(記事No.69)

 本ブログ記事No.66「寒い冬が来る」の中で少し触れたが、北海道旭川市や東京都町田市で起こった、学校でいじめを受けていた中学生と小学生の女子生徒が、自殺及び不審死に至った事件は、日本社会から愛が失われつつあることを象徴しているような出来事である。2021年12月2日の京都新聞夕刊社会面に、この内、旭川市の中学2年生女子凍死事件(正確には自殺と断定されていない)の被害者の母親を取材した記事が掲載されていた。共同通信の取材であるので、多くの地方紙に同じく掲載されていると思う。これまで断片的に報道されて来た範囲で概要を知っているので、「決死の叫び 学校届かず」の見出しが目に入っただけで、憤りが込み上げて来るのを禁じ得なかった。

 旭川事件で亡くなった、当時旭川市立北星中学2年の生徒の母親によれば、被害者は担任に上級生からのいじめについて、「絶対に内緒で」と前置きして担任に相談したが、すぐ当事者に伝わり、いじめが悪化したと言う。その後母親は、学校側と話し合いを続けたが、同校の中山岳教頭(当時)から、「いたずらが行き過ぎただけで、悪意はなかった」、「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来を潰してもいいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」と投げかけたと言う。これらの中山氏の発言は、今年8月に公開された、被害者の母親の手記に記されていることである。今回の京都新聞の記事では、教頭に「これ以上何を望むのか」と尋ねられ、「できないのは分かるが、娘の記憶を消して元の状態に戻してください」と伝えると、「頭、おかしくなっちゃったんですか。病院に行った方がいいですよ」とあしらわれたことも明らかになった。被害者の少女は、今年2月13日に失踪、その後3月23日になって、低体温症で亡くなっているのが発見された。

 この事件に関しては、最近ではテレビや新聞で少し報道されるようになって来たが、元々は、今年4月に、「文春オンライン」が商業メディアとしては初めて報じたことで、世に明らかになったものである。旭川には、北海道新聞だけでなく、全国紙も支局を置いているが、彼らは所轄警察署も回っているはずであるのに、この重大事件を報道することが無かった。私が、加害者親族あるいは学校関係者に、地元の有力者か政治的圧力団体関係者がいると推察しているのは、このような状況もあってのことである。日本社会には、臭いものに蓋の根強い隠蔽文化があることは、いわゆる森友問題において、公文書の改竄を命じられた、財務省職員の赤木俊夫氏が自殺した事件でも如実に明らかになった。

 東京では、2020年11月に、町田市立第5小学校の6年生女子生徒が、いじめを苦にして自殺した事件が発生したが、この時も学校側の対応は似たようなものであった。五十嵐俊子校長(当時)は、彼女が推進したIT導入の中で、学年全員でパスワードを共有するなど杜撰な管理体制があったことが、チャット機能を利用した悪口の拡散などの結果を招いたにも関わらず、女子生徒の自殺を今年1月まで隠蔽し、教育委員会へも2月まで報告していなかったと聞く。その五十嵐氏は、今年3月末に定年退職し、4月には渋谷区教育長に就任している。写真週刊誌「FRIDAY」のオンライ版によれば、五十嵐氏が初めて自殺した生徒の遺族宅に弔問に訪れたのは、今年2月24日であり、この日は渋谷区議会へ同氏の教育長任命に関する議案が上程された日であったと言う。自分の栄転が決まったので、安堵して弔問に行ったのだと言われているそうであるが、誰が考えてもその通りであろう。

 本記事では、最近報道されるようになった2つの事件を取り上げたが、日本全国で同様の事件が発生しているであろう。厚生労働省がまとめた2020年版自殺対策白書によれば、15歳〜39歳の各年代の死因の第1位は自殺である。また、遺書などから推定できた原因・動機で最多は、学校問題であり、以下、健康問題、家庭問題と続いている。と言うことは、恐らくは、中高生の死の原因として、学校に関わる問題が最多であると言うことだ。その内の、かなりの割合が、いじめを主な原因とするものであるとも推測可能であろう。いじめ自殺が発生する最大の原因は、これまでも書いて来たように、愛の欠如である。この場合の愛とは、家族愛、兄弟愛、同胞愛、友愛など、人が互いに尊重し、労わり、支え合う愛のことである。教師たちが互いに愛しておらず、生徒たちのことも愛していないのに、どうして生徒同士に互いに愛し合うようにと教えられるであろうか。

 熊本日日新聞の2021年12月5日更新のオンライン記事で紹介されていたが、2013年8月に自殺した、熊本県立高校1年生の女子生徒の遺族が学校や加害生徒と学校に損害賠償を求めた裁判で勝訴してから1年4ヶ月が経ったが、今に至るまで誰からの謝罪も無いと言う。この事件でも、学校は加害生徒と歩調を合わせて、自殺の原因となったトラブルは、いじめでは無く喧嘩であると主張していたそうである。死人に口なしで、自分達に都合が悪い事実は隠蔽あるいは歪曲して説明したのである。このようなケースは、熊本だけでなく、日本各地であったことと思う。何故なら、学校を含めた日本社会から、愛が失われているからである。

 いじめ自殺が起こった場合、加害者や担任教師や校長など、生徒の死に責任を有する者たちが必ずいる。彼ら、彼女らに対して、刑事責任が追求されることは稀である。ほとんどの場合は、被害者遺族が損害賠償請求の裁判を起こした場合に、民事上の賠償責任が認められるに止まる。つまりは、多くの場合は、加害者ら責任を負うべき者たちは、せいぜい賠償責任を負う以外の社会的責任を取ることは無いのである。現代では、SNSなどで加害者名が拡散されることもあるが、それでも、テレビや新聞で実名が報道されることは無く、やがて素知らぬ顔で社会に出て行くのである。被害者が、精神的に、時には肉体的にも追い込まれて、若い命を絶たされたことからすると、何というアンバランスであり、不条理であるのか。憤りの念を禁じ得ないが、これが現在の日本の実情である。

 しかし、加害者や教師らが死んだ被害者のことや、自分たちの責任のことを忘れたとしても、神が忘れることは無い。それが直接手を下したものであっても、いじめにより間接的に手を下したものであっても、神の目からは、人の命を故無く奪ったという点では同じである。その死に際して実際に流血があったかどうかに関わらず、それは無実の人の血が流されたことと同じことである。そこには、必ず神の復讐がもたらされる。いじめ自殺に責任がある者たちの人生に復讐が現されるだけで無く、血が流された、その地に復讐がもたらされる可能性もあるだろう。今回取り上げた、旭川市と町田市には、濃淡は違うが、私にとっても、それぞれ思い出がある。だから、とても残念ではあるが、これらの自治体が、公正な調査により責任の所在を明確にし、被害者遺族への謝罪及び賠償と再発防止に真摯に取り組まないのであれば、やがて都市としても裁かれることになるだろう。その意味においても、いじめ問題は、決して対岸の火事ではなく、私たちの社会における共通の問題として、継続的に関心を持つ必要があるだろう。

「わたしは彼らが流した血の復讐をする。必ず復讐せずにはおかない。主はシオンに住まわれる」(ヨエル書 4:21 新共同訳)