私が小学生だった1970年代には、従軍経験のある大人が現役世代にも多くいて、戦争体験者からの話を直接聞くことも普通であった。子供向けの本でも、戦争や兵器をテーマにしたものが多く出版されていたし、テレビドラマやアニメも同様に多くあった。戦争アニメ「決断」などは、子供ながら毎回観ていたし、映画でも「トラトラトラ」など真珠湾攻撃をテーマにしたアメリカ映画や、「沖縄決戦」などの日本映画を、テレビ放送で観たことを覚えている。戦争の実態は悲惨であり、一握りの権力者や資本家などを除き、誰も得することは無い。戦争によって利益を受ける者たちは、総じて卑怯者であり、自分達は安全な場所にいる。これに対して、戦争によって損失を受ける者たちの中には、勇敢で愛国心と使命感に富んだ者たちも多くいる。真珠湾攻撃における第1次攻撃隊総指揮官として戦爆連合部隊を率いて突入した、淵田美津雄元海軍大佐(1941年12月当時は少佐)も、そのような勇敢な人々の1人であった。
奈良県出身で、海軍兵学校を出た生粋の職業軍人の淵田元大佐であるが、例のごとく、実は、私もこの人と細い糸で繋がっている。話は、敗戦後の日本に遡る。それまでの幾多の軍功を挙げた英雄的な軍人から、一転して日本を破滅に陥れた戦犯のように白眼視されるようになった淵田氏は、戦犯裁判を進める米国など連合国に対して、激しい復讐心と憎悪の念を抱いていた。その頃、アメリカの捕虜収容所から送還されて来た元捕虜の一群から、彼は驚くべき話を聞く。マーガレットという若いアメリカ人女性が、日本人捕虜に対して親切に看護をしてくれていた。敵国兵士に対して、心を込めて世話をしてくれるその姿に、捕虜たちは心を打たれ、ある日その理由を聞いてみた。当初は返事をためらっていた彼女に、皆がなおも聞きただすと、重い口を開いた彼女の答えは、「私の両親が日本軍に殺されたからです。」というものであった。なぜ、普通なら殺したいのが当然であるはずの、両親の仇に対して、逆に親切に出来るのか。捕虜たちが聞いた、彼女の両親の最期は次のようなものであった。
彼女の両親、ジェームズ&シャーマ・コベル夫妻は、日米戦争が始まった時、フィリピンのパナイ島イロイロにある大学で教育宣教師として働いていた。日本軍がパナイ島にも上陸し、彼らは他のアメリカ人宣教師らと共に山奥に避難した。ところが、ゲリラ掃討の日本軍部隊に発見され、捕らえられてしまう。敵国人としてスパイの容疑をかけられた彼らは、本来は後送されて軍法会議にかけられるべきところ、部隊指揮官の判断で即刻処刑されることになった。コベル夫妻は、日米関係が険悪化する前、日本で宣教師として働いていたため日本語が堪能であり、自分達が戦火を逃れて避難した宣教師であると説明したが聞き入れられなかったと言う。1943(昭和18)年12月20日、コベル夫妻ら11名の宣教師と彼らの子供3名は、パナイ島山中で斬首された。後に、「希望の谷の殉教」として知られる出来事であった。処刑の直前、コベル夫妻らは日本軍指揮官に30分の祈りの時間を求めて許され、自分達を処刑する日本軍兵士らのために、また日本のために祈ったと言う。推察するに、彼らの最期を目撃した現地住民の証言を、フィリピンを奪還した米軍が聴き取って遺族に伝えたものと思われる。マーガレット氏は、両親が最期の時に敵を赦したことを知り、日本人への憎しみを捨て、自分も同じように敵を赦す者になったのだ。
ジェームズ・ハワード・コベル氏は、1896に生まれ、長じてアメリカン・バプテスト宣教団(北部バプテスト派)の派遣宣教師として1920年に来日、以後約18年間、横浜にある関東学院に奉職し、中学及び高等部で英語と宗教教育を担当する。教会では、日曜学校の校長も務めていた。ところが、日米関係が悪化する中、平和主義を唱えていたコベル氏は、警察からの度重なる圧力により関東学院を辞職せざるを得なくなる。コベル氏は、捜真女学院で同じく教育宣教師として働いていたシャーマ夫人と共に、1939(昭和14)年6月に日本を離れ、フィリピンに活動の拠点を移す。バナイ島イロイロの大学で教鞭を執りながら、キリスト教伝道に従事した彼らは、日米戦争勃発により、遂に前述のような最期を遂げたのである。
元捕虜らから衝撃的な話を聞いてからしばらくの後、淵田氏は渋谷駅前で1人のアメリカ人から1枚のパンフレットを受け取る。そこには、ドーリットル東京空襲で爆撃機の搭乗員として出撃、乗機が中国大陸の日本軍占領地に不時着し捕虜となった、ジェイコブ・デシェーザー氏の体験談が書かれていた。デシェーザー氏は、中国・南京の日本軍収容所で戦争犯罪人として獄中生活を送っていたが、ある時仲間が病死、その葬儀に使うために日本人看守が差し入れた聖書を読み、キリストを受け入れる。日本敗戦により解放された同氏は、アメリカに戻った後神学校に入り、1948年に宣教師として妻のフローレンス氏と共に来日する。淵田氏が手に取ったのは、彼の「私は日本の捕虜であった」というパンフレットであった。パンフレットに書かれた体験談に心打たれた淵田氏は、聖書を読むようになり、ある聖句に捉えられた。コベル宣教師夫妻が、最期の時に神に捧げたであろう祈りと同じ、十字架上のキリストの祈りである。
「かくてイエス言ひたまふ『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』」(ルカ伝福音書 23:34a. 文語訳)
キリストの言葉は淵田氏の心に激しく迫り、1951年についに彼は、イエス・キリストを信じる者となり洗礼を受ける。クリスチャンとなった淵田氏は、デシェーザー宣教師と協力し、日本各地のみならず、かつての敵国であるアメリカにも渡り、キリストの福音を伝える伝道者として残りの生涯を捧げた。伝道者としての淵田氏は、日米両国で多くの人々に自分の体験談を通して福音を語った。日本では、敵国の宗教を伝えるのは許せないという一部の元海軍軍人らからの批判も受け、アメリカでは、「リメンバー・パールハーバー」の憎悪の声を浴びせられることもあった。しかし、彼は終始、憎しみの連鎖を断つことを訴え続け、互いに赦し合うことが必要であると聖書の教えを説いた。1976(昭和51)年5月30日、かつて真珠湾攻撃の英雄であり、その後、キリストの伝道者として新たな人生を歩んだ淵田氏は天の故郷に帰った。今では、先に天に召されたコベル夫妻や、後に天に帰ったデシェーザー氏らと共に、神の元で安らいでいる。
さて、私が中学・高校に在学していた時、学校の礼拝メッセージの中で、コベル氏のことを聞いたことがある。メッセージを語った教師は、真剣な眼差しで私たち生徒に、「本学院の礎は、彼らのような宣教師の犠牲の上に据えられた」と教えた。私が、高校在学中にキリストを信じることが出来たのは、彼らがその生涯を捧げ、命を捧げて神に仕えた、その献身と労苦と犠牲の賜物である。そして、このキリストを通して私は、コベル氏とも、淵田氏とも細い糸で繋がっている。神に栄光があるように!