TRANSLATE

GlobalNavi

AD | all

失望の中で希望に目を向ける(記事No.136)

 ここ2ヶ月弱ほど色々と手が掛かる用件が続いたこともあり、ブログ更新を休む結果になってしまった。この間、本ブログにアクセスしてくださった方々には、本当に申し訳なく思う。実は、それ以外にも、筆が進まなかった理由がある。これまで、国内外の状況を注視し、考察した一部をブログ記事に書いて来た訳だが、日本と世界の今後について、自分なりの確信を深めることとなった。それは、決して楽観的な未来ではなく、逆に悲観的なものである。それゆえ、自分が推測する日本と世界の未来像ゆえに、心が苦しくなり、文章化して公開することに気が進まなかったのである。

 これは、決して預言ではなく、また、予言でもない。現時点での、私個人の分析結果であり、未来予測である。はっきり書こう。神の介入が無ければ、この世界は後10年持つことさえ怪しいと思う。つまり、このままでは、2030年以前に、7年間の患難時代に突入する可能性が高いと思われる。2022年は、世界が破滅へと向かうのか、あるいは再生の機会を得るのかの分水嶺の年となったと思う。結果は、前者となり、これから、個別の国や個々の局面での明るいニュースはあるだろうが、世界全体としては、ヨハネの黙示録に示されている世の終わりの時代を迎えることとなる。

 新型コロナ・ウイルスを用いた、「造られた」パンデミックの発生以来、世界は実質的な第3次世界大戦が進行中である。表面上は前2回の世界大戦と異なり、今回は国同士の戦争ではなく、悪魔崇拝のグローバリスト集団と、世界の民衆との戦いである。2020年のアメリカ大統領選挙の不正は、その前哨戦であったとも言えるであろう。現在進行中の戦争は、「世界支配戦争」である。武器は、(人造)コロナ・ウイルスであり、また、コロナ・ワクチンである。各国で行われている不正選挙の、不正集計プログラムもそうである。もちろん、ウクライナなどでは兵器も使用されている。その他にも、心理戦の戦場には、地球温暖化やLGBTQ+などの欺瞞や撹乱戦術も投入されており、人間の全人格と世界のあらゆる有形無形の領域に対して、激しい攻撃が行われている。

 これまでのところは、戦況は民衆の方に不利な状況であるが、一部には押し戻す局面もある。コロナ・ワクチンについては、今年10月11日にEU議会で行われた公聴会で、ファイザーの役員が宣誓証言を行い、市場投入前に感染防止効果の有無についての試験を行っていなかった事を認めた。製薬会社や各国政府が唱えていた、ワクチンの感染防止効果は虚偽あるいは誇大宣伝であったと、彼ら自身が認めたのである。日本でも、コロナ・ワクチンの「副反応」で家族を失った遺族らが、国家賠償訴訟を起こす動きもあり、少数残っている良心的な医師や学者なども声を挙げ始めている。ワウチン非接種者に対する入国制限も、今も継続中なのは、アメリカ、インドネシア、シンガポールなどを残すのみとなり、ロックダウンを繰り返していたヨーロッパ各国でも、既に制限が撤廃されている。もっとも、敵が諦めた訳ではなく、次の人工パンデミックを着々と準備中であると思われる。

 混沌としている世界の状況であるが、日本はどこに向かっているのだろうか?結論を言えば、亡国である。先日暴漢に襲撃された社会学者の宮台真司氏(同氏は、10数年前にカトリック信徒になったそうである。)曰く、日本は国も、共同体も、もちろん学校も会社も腐敗しているのであり、自ら変わることが出来ないのだ。イエスに追い出された悪霊に取り憑かれた豚の群れが集団で崖から雪崩落ちたように、ひたすら滅亡へと突進しているのが日本の現状であろう。このまま進んで行けば、やがては、恐らくは中国の、一部はロシアの、勢力圏に組み込まれると思う。あるいは、その前に、アメリカの軍産複合体の手駒として、台湾共々中国と戦争させられるのかも知れない。中共の覇権拡大を食い止める必要はあっても、日本や台湾が捨て石になることは無いのだが。

 どうやら日本は、世界統一政府が樹立される前に、国ぐるみ彼らの人身御供にされそうである。もはや、国の将来に希望は無く、売国・反国民の既得権益集団が激しく国民を搾取しながら、滅亡への一方通行道を爆進中である。多少なりとも日本人としての誇りを持つ身としては、悔しく、情けない思いで一杯だ。日本は、第2次世界大戦敗戦のどん底から経済的には復興し、外形的には民主的な社会を築いて来た。しかし、それも所詮は、彼らの掌の上で踊らされているだけであった。「パンとサーカス」の戦略は、近代国家群の中で、日本において最も成功したと言えるのではないか。ことここに及んでは、個々の、そして思想や信仰を同じくする者同士の助け合いによる、サバイバルへの備えが重要である。また、特に若い世代であれば、日本を出ても堂々と生きて行けるよう、語学や教養と専門知識・技能を習得することが、いずれ人生の明暗を分けることにもなるだろう。

 ここまで、日本と世界の将来について、悲観的な考えを書き連ねて来た。もはや、万策尽きたのであろうか?そうとも言えるし、そうで無いとも言える。もし、私たちが、人間の知識や能力を用いることだけで、この状況を通り抜けようとするのであれば、それは極めて困難であろう。何故なら、敵の、少なくとも指導的な者たちは、私たち民衆よりも頭脳は格段に優秀であり、何よりも世の権力と莫大な富を持っている。民衆が覚醒すれば数において圧倒的に有利であるが、敵は完全な敗北よりは核戦争による世界の破滅を選択するだろう。私たちが勝利への希望を持つことが出来るとすれば、それにはただ1つの選択しかない。それは、真の神を信じ、その愛の内に留まり続けることである。神の愛は、私たちを失望の泥沼に捨てては置かない。それは、永遠の命の確かな希望に添えて、この地上の人生における希望をも与える。世の終わりが近づく今こそ、私たちは永遠に至る希望の源である、イエスに目を向けて、この困難な時代を生き抜こうではないか。

「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」(ローマ人への手紙 5:5 口語訳)
read more…

ハロウィンは呪いを招く(記事No.135)

 去る10月29日の夜、韓国ソウル市内の繁華街梨泰院(イテウォン)で、ハロウィンの仮装パレードに繰り出していた人々が、狭い道路に密集していたところ将棋倒しとなり、これまでに154人の死亡が確認されたとの報道である。死者の大半が圧死ともされるが、中には、立ったまま押し潰された人もいたとのことで、あまりにも悲惨な事故となった。SNSの投稿映像などを見ると、群衆が狭い道路にすし詰め状態のまま塊となって動いており、これでは危険を察知したとしても、脱出は困難であったと思う。

 いつの頃からか、日本でもハロウィンのイベントが行われるようになり、仮装パレードなどに参加する人々もいる。2018年には、渋谷でハロウィンの仮装パレードに集まった人々の一部が騒動を起こし、車をひっくり返したりの器物損壊や、暴力行為や痴漢などの犯罪に及んだ者たちなど、逮捕者が出たことは記憶に新しい。テーマパークなどのイベントならまだしも、公共の場で仮装パレードを行うことはいかがなものか。現に、コロナ前には毎年ハロウィンの仮装パレードが行われていた、首都圏にある大都市の商店街組合の人々に直接聞いたところでは、参加者はコンビニなどは利用しても、商店街の店はほとんど利用せず、その日は常連客が敬遠して売り上げも下がり、騒音やゴミの問題もあって、むしろ迷惑だと言う。

 社会的な存在意義や治安維持という観点からすると、ハロウィンのイベントは、少なくとも公共の場所で不特定多数が参加できる形では行うべきはないと思う。どうしても、ハロウィンを楽しみたい人は、彼らだけで貸切の場所にでも集まって、全く私的なイベントとして行うべきであろう。それはさておき、ハロウィンとは、その起源においても、現代における実情においても、私たちにとっては、本来決して関わってはいけないものである。何故なら、その本質は、悪霊共らと一緒になって、悪魔を崇拝するイベントであるからだ。そのルーツは、古代ケルト人らが信仰していたドルイド教のサウィン祭であり、それは、悪霊を召喚して悪魔に人身御供を捧げる儀式である。ハロウィンのシンボル的な、人の顔を模してくり抜かれたカボチャは、ジャック・オー・ランタンと称されるが、その由来は、生贄の人を差し出した家の前に置かれた、人肉が詰められたカボチャである。ドルイド祭司らは、「トリック・オア・トリート」と叫びながら、生贄を求めて家々を訪れたと言う。生贄とされた人々は、悪魔に捧げる犠牲の供え物として、生きたまま焼き殺されたのである。

 ハロウィンは「クリスマス」と同じく、キリスト教の行事であると思っている人も多いと思うが、もちろん、これは誤解である。カトリック教会では、毎年11月1日を「諸聖人の日」と定めているが、一部のプロテスタント教会では、この日を「万聖節」として死者を記念する日としている。もちろん、そのような教えは聖書には無いが、キリスト教化される前のヨーロッパで広く普及していた、死者を祭る日をキリスト教的な装いに変えたのが始まりである。言わば、ヨーロッパ版の「お盆」のような行事であり、その本来の考え方は、死者の霊を呼び戻すことを禁じている聖書の教えとは矛盾している。万聖節の前日の異教由来のイベントに、キリスト教的な化粧を施したとしても、その本質が一新されている訳ではなく、霊的意味合いは変わらないと思う。すなわち、ハロウィンは、悪魔崇拝と密接に関係しており、クリスチャンはもちろんのこと、誰も関わるべきではない。まして、例え意味が分からずとも、祝うなどはもってのほかである。

「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(申命記 18:10-11 新共同訳)

 かつてそうであったように、今日でも、ハロウィンは悪霊共の祭典であることに変わりは無い。遊びのつもりで、気軽に楽しむようなイベントではないのである。知らずにであっても、関われば、悪霊共の呪いに対して接点を持つことにもなってしまう。恐らくは、この時期には世界の至る所で、生贄として殺される人々、特に子供たちがいると思う。今般のソウル市イテウォンの事故も、悪魔崇拝者たちが人々に呪いをかけたことにより、悪霊の仕業を呼び起こした可能性が高い。彼らの祭典には、悪魔に捧げる血の犠牲を必要とするからである。「イテウォンの悲劇」をきっかけに、ハロウィンの真実について自分で調べ、その悪魔性と危険性に気づく人が少しでも増えると良いのだが…。
read more…

クリスチャンにとっての軍隊(記事No.134)

 前回のブログ記事で、「クリスチャンにとっての戦争」をテーマに取り上げたが、今回は、それとも関連して、「クリスチャンにとっての軍隊」について書いてみたい。日本を除くほとんどの国では、軍隊の存在は当たり前のこととして受け入れられていると思うが、そのあり方については議論も多々あり、また、個人レベルでも多様な考え方はあると思う。聖書においては、軍隊そのものをはっきりと認めない教えは、私が理解している限りでは無く、考え方の違いは、聖句の解釈の違いに加え、それぞれの思想的立ち位置から生じるものだと思う。

 日本においては、軍国主義の末路が悲惨な敗戦であったことと、日本国憲法に規定されている戦力不保持など平和主義の国是があることで、クリスチャンの中でも、軍隊には否定的な考え方を持つ人が少なくないと思う。これに対して、諸外国では、軍隊の保持は独立国として当然との考えが一般的であり、多くの国で、軍人は人々の尊敬の対象である。一例を挙げるなら、アメリカでは、軍人は尊敬される職業であり、空港での搭乗順位もハンディキャプがある人や乳幼児連れの人などの次は現役軍人である。アメリカが関与する戦争には反対の人々でも、ほとんどの場合、軍人に対する敬意は持っていることが多い。

 世界のキリスト教会の中でも、メノナイト派など聖書的平和主義の立場から兵役を否定する教派があるが、大きな流れとしては、軍隊や兵役には肯定的な立場が多数である。それゆえ、共産主義国やイスラム教国などを除き、ほとんどの国の軍隊には、従軍牧師や従軍司祭が配属されており、将兵に対する精神面での支援や軍内の宗教的活動を司っている。私の友人の中にも、神学校を卒業した後、教会での副牧師の働きを経て、アメリカ陸軍の従軍牧師となった人物がいるが、士官の階級を与えられた、れっきとした軍人である。そう言えば、30年くらい前に、日本でもアメリカ系の宣教団体と提携してか、軍人宣教会のような団体が立ち上げられ、自衛官らに対する牧会・伝道(彼らは、「軍牧」と称していた。)を進めるとしていたが、どうも、その後活動を休止したか解散したようである。これとは別に、「コルネリオ会」という現・元自衛官らを中心とした宣教団体があるが、こちらの方は、現在も活動中である。

 さて、人間の歴史において、戦争が無かった期間よりも、圧倒的に戦争が行われていた期間の方が長かったと言われている。軍隊があるから戦争があるのだと言う人もいるが、それでは、仮に軍隊を無くせば戦争も起きないのかと言えば、決してそうではないと思う。何故なら、アダムを通して人類に罪が入って以来、人間の魂には闘争心(闘争本能と言うのは正確でないと思う。)が生じる性質があり、それが高じれば物理的な争いに至ることは必然であるからだ。そのような人の世界にあって、軍隊を持たないことは、国を守るオプションを1つ放棄することであり、賢明な選択とは言えないのではないだろうか。永世中立国であるスイスも、他国の侵略を拒絶するに足る軍隊を保有しており、国民皆兵体制であることはよく知られている。私の知人のスイス人牧師も兵役経験があり、退役後も確か42歳くらいまでは予備役兵として、毎年の軍事訓練に応召していたと聞いた。1815年のウィーン会議で、ヨーロッパ諸国から永世中立を承認されたスイスであるが、自国領土を他国の軍隊に利用させない保証の1つとしても、彼らは軍隊を保有しているのだ。

 それでは、私自身の軍隊についての考えであるが、率直に言えば、自国防衛のために必要な範囲において軍隊を保有することが、独立国としては必要であるとの立場である。目指すべきは、スイスのような武装中立であると思うが、一方的に中立を宣言さえすれば、中立国として国際的に認められると言うことではない。少なくとも、周辺諸国の承認がなければ、中立国にもなれないのである。そうなると、現在の日米安保体制を、段階的に米軍常駐無き安保体制へと移行し、緩やかな同盟関係を維持しながらも、対米従属からの脱却を図るプロセスが必要であると思う。身もふたもない言い方であるが、日本政府に、そのようなダイナミックな外交交渉が出来るとは思えない。仮に、世の終わりの日に至るまで、アメリカの属国状態が続くとすれば悲しく悔しいが、どこかで国内外の状況に歴史的な変化が生じないとも言い切れない。そして、キリスト再臨の暁には、軍隊をめぐる様々な論争や闘争にも終止符が打たれる。その時には、世界中の軍隊は、その役割を終えるからである。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書 2:4 新共同訳)
read more…

クリスチャンにとっての戦争(記事No.133)

 ウクライナにおける戦争は、米英を中心としたNATO諸国が継続を強く望み、ゼレンスキー政権を後押し(督戦)していることで、中々終わりが見えない。ロシアが核兵器を使用するのではないかという予測もされているが、それを期待しているのは、むしろ米英の方であろう。ロシアが核兵器を使用するとしたら、彼らが国家存亡の危機に立たされたと判断する状況に至った場合であり、その時は、限定的な小型核兵器の投入ではなく、米英の戦略目標や在外米軍基地に対する核兵器の全面使用ではないだろうか。何故なら、反撃の余地を与えれば、ロシアも大打撃を受けることは必至だからである。そうなれば、その言葉の用法が聖書的に正確かどうかは別として、ハルマゲドンの戦いとなることは明白である。来る第3次世界大戦においては、多くの米軍基地を有する日本もロシアの攻撃目標となり、都市部でも甚大な被害が生じるだろう。いずれにせよ、日本と世界の民衆にとっては、戦争は何一つ良いことが無い。

 政治的な立ち位置に関わらず、現在進行中のウクライナ戦争は、日本人にとっても、戦争とは何かを、改めて考えさせられる契機になっていると思う。とりわけ、私たちクリスチャンにとっては、聖書が戦争についてどう教えているかという観点からも、一人一人が深く考えるべきことであろう。戦争そのものは、決して正義の発現ではなく、人間の罪の結果である。旧約聖書には、聖戦の概念があるが、イスラエルの民は、約束の地であるカナンに入るために、神の命令に従って先住民らと戦い、彼らを駆逐した。日本語新改訳聖書では、「聖絶」と訳出されているが、先住民との戦いにおいては、神は、彼らを一人残らず根絶するようにも命じられた。その理由は諸説ある中で、これら先住民らの中には、堕天使と人間の混血であるネフィリムの血統に属する者たちが存在していたからとの説は、私にとっては腑に落ちるものである。旧約聖書時代においては、時には戦争は、神によって是認されていたと言えるだろう。

 それでは、イエス・キリストが地上に来られてから今日に至る、新約聖書時代においてはどうだろうか?もちろん、旧約聖書に記されている神の教えは、何一つ廃棄されたものではなく、それらは、新約聖書の啓示によって、言わば上書きされたようなものである。それゆえ、旧新約聖書の教えは互いに打ち消しあっているものではないが、クリスチャンの間でも、受け止め方や解釈の違いが大きな部分もある。戦争について、また軍隊についての考え方もその1つである。これらのテーマにおいて、ほとんど全てのクリスチャンに共通した認識は、先に触れたように、戦争そのものは悪であり、人間の罪の結果起こるものということであろう。だが、そこから先は、神学は勿論のこと、文化的背景や政治的思想によっても考え方は様々であり、自分の考えは絶対に正しく、異なる考え方は絶対に間違っていると決めつけることは出来ない。大切なことは、それぞれが自分自身の考えを持ち、良心に従って行動することであると思う。

 今般のロシアとウクライナの戦争において、それぞれの当事国でキリスト教会は、兵士たちのための祈りと併せて、戦争の早期終結と平和の回復を祈っているであろうが、それだけではなく、祖国の勝利のためにも祈っていると思う。世界には、生きた信仰を持っていない形だけのクリスチャンも多いことはさておき、同じ神を信じる者同士であっても、敵対する双方の国で、全く正反対の結果となるよう祈っているのである。この状況を神は深く悲しんでおられることは疑いないが、反対に、悪魔と悪霊どもは哄笑しながら、国家指導者らや国際金融資本家らを用いて戦争を煽っているのである。中世のヨーロッパにおいて、いわゆるキリスト教国同士が度々戦火を交えた歴史から、正戦論という、キリスト教的戦争論が編み出されたのだが、非戦闘員に対する人道的扱いなどの基準が作られる土台となったことは評価されるべきであろうが、これをもって戦争そのものを正当化することまでは出来ないと思う。

 これまでの人間の歴史の中で、外敵の侵略に対して、戦わなければ、あるいは戦いに勝利しなければ、捕虜や民衆は虐殺され民族浄化されるという実例は無数にある。日本でも、2度にわたる元寇において、元軍(その主力は、元軍に加えて、元の属国の高麗軍や南宋軍であった。)を鎌倉武士たちが撃退しなければ、日本は確実に元(モンゴル)の属国になっていた。その場合、日本の歴史は全く違っていたであろう。もし、徹底的な非戦論を貫徹するのであれば、侵略を受けた時には、征服者らのなすがままに身を委ねるということを意味する。今日でも、中共に併合されたチベットやウイグルの現実を見るならば、外国に武力征服されることは、国自体が消滅するだけでなく、しばしば文化や宗教、さらには言語でさえも蹂躙されることが分かる。それでも、侵略に対して、ただ座して死を待つのみで良いのだろうか?

 残念なことではあるが、世界には、自分たちの利益のために、戦争が起こることを望み、それどころか、戦争を起こしてきた者たちがいることは歴然たる事実である。今日では、軍産複合体やディープステイトなどと称される者たちであるが、彼らの本尊は悪魔であり、パシリの小物たちはいざ知らず、中核的な者たちは全て悪魔崇拝者であろう。そうなると、物理的、実際的な戦争とは、究極的には霊的な対立と戦いであることが分かる。ならば、やがてキリストが再臨され、神の最後の審判を経て、悪魔と悪霊どもを永遠の地獄に投げ入れられる時までは、この地上から戦争の種は無くならない。私たちは、平和のために祈ることが不可欠であるが、それぞれ地上での祖国も与えられている訳であるから、どうしたら戦争の発生を防げるのか、また、万が一外国の侵略を受けた場合には、どのように国を守ることが出来るのかを考えなければならないと思う。戦争についてよく考察し、特に導かれた場合には、それについて専門的に学ぶことは、戦争を肯定することとは異なる。神を認めない「英知」は弱く、戦争を防ぐ力は無いに等しいが、神からの「知恵」には力があり、平和を実現するためには得ることが不可欠である。結局のところ、そこに帰結することが必要であろう。

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書 5:9 口語訳)
read more…

超自然的な神の導きの話(記事No.132)

 ここしばらく、本ブログの更新が滞っていた。弁解ではあるが、世の中を観察していると、あまりにも憤りや危機感を覚えることが多く、書くと必然的に批判的な、あるいは、深刻な論調になってしまうことから、自分でも、もう少し希望の持てる話題にせねばと悩んでいたからである。そこで今回は、時事問題や終末の話などは置いて、私自身の体験談を1つ書きたい。クリスチャン用語で、「証し(証詞)」というものである。これまでのブログ記事の多くとは異なり、読みながら気が滅入ることは無いと思う。

 ところで、皆さんの中で車を運転する人は、初めて行く目的地に向かう時には、カーナビをセットすると思う。カーナビが登場する以前は、ほとんどの車には、道路地図が積まれていたのではないだろうか。私は、少年時代にボーイスカウトに入っていたこともあり、地図を見る(「読む」と言っていたが。)のは得意な方ではあった。それでも、目的地付近の詳細な地図が無かったり、道に迷うこともあって、そのような時には、通行人に道を尋ねるのが普通であった。通行人も見当たらなければ、交番を探して聞くか、いずれにせよ、目的地に到着するのに一苦労することもあった。

 さて、ここからは、30年以上前の、私のアメリカ留学時代の話である。当時、大学本科に直接入るには英語力が足りなかった私は、まず付属の外国人向け英語学校(ESL)で数ヶ月学ばねばならなかった。そのため、渡米したのは、中途半端な10月であった。入国した空港から出迎えの車で数時間ドライブし、大学の寮に到着したのは、金曜日の夕方であった。次の日の朝、私は、翌日に訪ねようと思っていた教会の場所と礼拝時間を確認しようと、英語力に自信がなかったので、アメリカ人の学生に代わりに電話をかけてもらった。教会の名称、住所、電話番号は、日本でアメリカ人宣教師から教えてもらっていた。一応、知りたかった情報は得たが、果たして無事翌朝の礼拝に出席できるだろうか?一抹の不安と、神に信頼していれば大丈夫だという思いが交差し、あまり落ち着かずに一日を過ごしたように思う。

 翌日の朝となり、11時から始まる日曜礼拝に間に合うように、大分余裕を持って寮を出た。寮から教会までは、徒歩でせいぜい20分くらいのはずである。ところが、歩き出して数分もしない内に、住宅街の中で道に迷ってしまった。きれいに区画整理された、映画に出てくるような典型的なアメリカの住宅街であり、目標物になるような物が無いのである。私は、渡米3週間前に受けた聖霊のバプテスマ(聖霊により満たされ、「異言」と呼ばれる未知の言葉で祈り始めることが伴う。)以来実践していた、異言での祈りも用いて、神に導きを祈りながら、30分かそれ以上も歩きまわっていた。11時5分前くらいになった時、歩いていた私のすぐ横の家から、若い女性が1人出てきた。年齢は20代前半か半ばくらいの、少しヒスパニック系も入っているような感じの、美しい白人女性であり、手には本のような物を持っていた。

 私が、その家の真ん前に差しかかったのと、その女性が歩道に出ようとしたのが、ほぼ同時のタイミングであり、とっさに私は、彼女に教会への道を尋ねた。次の瞬間彼女がとった行動は、驚くべきことであった。彼女は、家の前に停めてあった車の助手席を開けると、「どうぞ、乗って!」と言ったのである。車に乗った私は、この状況で何を話して良いか分からず、無言で助手席に座っているだけであった。走ること、3、4分だったか、彼女はある建物の前で車を停めて言った。「ここが、あなたの教会よ。」そして、はす向かいの建物を指差し、「こちらは、私の教会よ。」私は、驚きのあまり、彼女の名前を聞くのも忘れ、ただ御礼を言って車を降りた。彼女も、聖書を手にして車を降りたと思う。教会に着いたのは、11時丁度であった。

 読者の皆さんは、私の体験談が、アメリカでは通常起こり得ないことであったことが理解できると思う。若い白人女性(若くなくても、また、白人女性でなくても。)が、見ず知らずの東洋人男性(東洋人男性でなくても。)を単独で車に乗せることなど、普通はあり得ない。それが例え、教会への道を尋ねた人であったとしても、普通は道を教えるだけで十分親切である。私は、私を車で教会まで送ってくれた女性は、瞬間的に聖霊の促しを受けたか、あるいは、白人女性の姿をとった神の御使(天使)であったか、そのどちらかであったと信じている。真相は、いつの日にか、天の御国(天国)に入った時に知ることが出来るだろう。

 アメリカに着いてから3日目の不思議な体験を皮切りに、私はその後、数々の超自然的な神の導きを経験するようになる。今では、スマホに地図アプリも入っており、車にはカーナビが着いているが、これらのツールを使って目的地に行こうとするときは、当たり前かも知れないが、神の超自然的な導きは感じられない。超自然的なものは、人造物の代替物ではないし、それらを補完するものでもない。もし私たちが、何かの時の保険として、神の超自然的な導きを期待するなら、恐らくそれは、願ったようには与えられないであろう。だが、私たちが、それが場所であれ物事であれ、自分の知識や経験ではどうすべきか分からない時、自分の手にある方法ではどうにもならない時、ただ神の超自然的な導きを信じて願い求めるのであれば、それは必ず与えられる。私が思うに、聖霊は、わたしたちに超自然的な導きを与えることを喜び、楽しまれているのではないか。私たちは、神の超自然的な助けを、いつでもどこでも、どんなことにでも、大いに期待して良いのである。

「更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」(ヘブライ人への手紙 2:4 新共同訳)
read more…

なぜ日本だけが?(記事No.131)

 多くの国民の反対の声も黙殺され、安倍元首相の「国葬」が挙行された。書くのも虚しいが、安倍氏は彼の熱烈な支持者たちが言うような愛国者でも保守政治家でもなく、自民党内で希少となった良識ある議員の1人である村上誠一郎衆議院議員が喝破したように、「国賊」そのものであったと思う。2012年12月の第2次安倍政権発足から首相退任までの約7年9ヶ月の間に、日本は社会の劣化と国力の衰退が大きく進んだことは事実である。一例を挙げるなら、日本の1人あたりの国内総生産(GDP)は、1995年時点で世界第3位であったが、2012年には世界第13位に低下し、2021年時点で世界第24位にまで凋落している。この間、2015年には、勤労者の平均賃金が韓国に抜かれている。また、国内の経済格差は拡大の一途であり、子供食堂は6,000箇所を超えている。もとより、国力は経済力のみで表されるものではなく、政治的影響力や軍事力も重要な要素であり、また文化的影響力など数値化し難い領域もある。そのことを勘案してもなお、日本が成長や成熟ではなく、衰退しつつあることは歴然としていると思う。

 2020年1月に新型コロナ・ウイルスのパンデミック騒動が始まって(起こされて)以来、私は、海外には行っていないが、その前の数年間に訪問した国々のことを思い返すと、中国、韓国、台湾などの東アジア諸国は、少なくとも都市部は、どこも活気に溢れていた。どの国にも光と闇の部分があるが、社会全体として見ると、いずれも活力が感じられた。街往く人々も、暗い顔をした人はほとんどおらず、特に中国と台湾は、明るい顔つきの人の方が多かったように思う。どこの国にも、スマホでゲームやSNSに夢中の若者が多かったのは、日本と同じであったが。しかし、いつも日本に帰った途端、通りを歩く人々の顔つきに明るさはほとんど見られず、社会全体に何かどんよりとした空気が流れているように感じられた。あえて一言で言い表すなら、閉塞感に覆われている状況である。恐らくは、数十年か、それ以上の前から、その閉塞感は存在したのだろう。しかし、特に、21世紀に入ってから、それが重みを増したように思える。安倍首相の治世において、それはさらにブーストされたと言えるのではないか。

 なぜ、日本だけがこのような状況に陥ってしまったのか?様々な理由があり、その1つ1つにもっともな根拠があると思う。ならば、それらには根本的な原因があるのではないだろうか?勿体ぶらずに私の見立てを書くが、日本の衰退と劣化の根底には、霊的理由が存在すると思う。それは、日本と日本人が、神から与えられた使命を遂行し、神の祝福を受けることを妨げている、霊的覆いであり、呪いである。では、いつ、どのような形で、それが日本にもたらされたのか?大東亜戦争と称された、一連の戦争からか?あるいは、統一教会などが日本を卑しめる根拠とする日韓併合からか?それとも、明治維新と呼ばれる、武力クーデターと、その後の国家神道の創出からであろうか?それらの出来事が、いずれも日本に苦難を招いたことは事実であるが、私は、さらに歴史を400年ほど遡った時代に、現代にまで至る霊的覆いと呪いの根本原因があったと考える。

 その根本原因とは、キリスト教禁教と鎖国である。教科書的には、日本にキリスト教が初めてもたらされたのは、1549年に、カトリック宣教師のフランシスコ・ザビエルによってである。しかし、原始教会と呼ばれる初期の教会は、熱烈に世界宣教を進め、しるしと不思議の伴う彼らの宣教活動は、エルサレムから始まり、瞬く間に世界中に拡がって行った。今日では、遅くとも紀元70年頃までには、オイクメーネとして認識される、人々の居住地域のほとんどに福音が宣教されていたとの見方もある。当然のことながら、日本にも、その頃、原始教会の宣教師たちが到来していたはずである。その後、時代は下り、3世紀から7世紀頃にかけて、ネストリウス派キリスト教(景教)を信奉していた秦氏が、数万人かそれ以上の規模で波状的に大挙して渡来している。ザビエル渡来以前のキリスト教は、神道や仏教とも次第に融合し、その本質を失っていったものの、それは国家的に明確に拒絶された結果と言うよりも、文化的に習合されたことが大きな理由であったと思う。記録が残っている限りでは、1587年に豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布したのが、日本が国家的にキリスト教を拒絶した最初である。秀吉は次いで1597年2月5日に、外国人宣教師6人と日本人信徒20人の計26人のクリスチャンを処刑し、以後明治初期に至るまで、日本の大地に夥しい義人らの血が注がれることになったのである。それは播かれた福音の種であったが、同時に、秀吉の暴虐は、悪魔が日本に呪いをもたらす扉を開けてしまったのだ。

 豊臣秀吉によるキリスト教禁教は、江戸幕府を開いた徳川家康が1614年に発布した禁教令によって強化され、およそ270年に及ぶ徹底的な弾圧が続けられた。同時に、鎖国政策が採用され、海外との貿易は厳しくコントロールされ、限定的な規模でのみ続けられた。鎖国以前、日本からは、主として貿易のため、また、修道士や神学生らは、キリスト教神学の学びのため、多くの日本人が東南アジアを中心に海外に雄飛していた。御朱印船による貿易の最盛期には、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイなどに、それぞれ数千人規模の居留民が定住する日本人町が形成されていた。この頃、タイ国王に将軍として仕えた、山田長政の話は有名である。当時、大半の日本人は農民として、生まれ育った土地あるいはその周辺から離れることなく生涯を過ごしたであろうが、それでも、16世紀末頃からの約1世紀の間に、延べ10万人以上の日本人が海外に渡航したと言われている。当時も、日本人の特性の中には、いわゆる島国根性があったのかも知れないが、一方では、開明的な思考と未知の世界に飛び込む勇気と冒険心を持った日本人も多かったのである。鎖国政策は、日本人の思考と行動様式を徹底的に内向きなものに変え、出る杭は打たれる同調圧力の高い日本社会へと変貌させた。

 なお、豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教禁教に踏み切った理由の1つとして、キリシタン大名による日本人奴隷50万人の海外輸出に激怒したためという説があるが、この説は、同志社大学の前身である同志社英学校に在学中に洗礼を受け、後に信仰を捨てて背教者となった(初めから、霊において新しく生まれ変わってはいなかった。)、明治から昭和にかけてのジャーナリスト徳富蘇峰が最初に唱え、後に作家鬼塚英昭が50万人説を書いた、歴史の捏造である。戦国時代に、不幸にして海外に売られた数百か数千の人々はいたのであろうが、支配者にとって都合の悪いことは、全て少数派や被迫害者に責を押し付けることは、どこの国の歴史でも見られたことである。歴史にイフは無いと言うが、仮に秀吉や家康がキリスト教との融和策を採っていたならば、日本は400年前に、アジア初のキリスト教国となっていたのかも知れない。だが、それならそれで、古代より続く悪魔崇拝者らによる世界制覇計画の前に敢然と立ちはだかることになり、非白人国家である日本は彼らの重点攻撃目標となって、遅かれ早かれ地上から抹殺されていたのかも知れない。神の歴史の大経綸の中では、禁教や鎖国の歴史も、日本人にとって益へと変えられるのであろうか。

 今回の記事で、特にキリスト教禁教、すなわち、創造主たる神を信じることを禁ずることは、神に対する国家的叛逆であり、その国と民とを神の祝福から遠ざけ、呪いを招くことを書いた。だが、これは何も日本に限った話ではない、かつて自他共にキリスト教国とされていた国々であっても同じ法則の下にある。悪魔崇拝者らが国家指導者層に浸透している欧米諸国の中には、キリスト教宣教に対して、巧妙に制約を加えようとしている国々もあるが、それは国家的祝福の喪失につながるであろう。また、旧ソ連や中国など、神を認めない共産主義国家も同じである。今は強力に躍進し覇権国となっている中国も、キリスト教弾圧を止めなければ、いずれソ連のように体制が崩壊する日が来るのは必定である。一方で、神に叛いていた国が悔い改めて、神に立ち返るのであれば、国の罪は赦され、イエスの血潮の力で呪いは打ち砕かれる。具体的には、国家指導者を含めた国民の多くが神を信じ、その教えを守り行おうとするならば、神は、その国に平和と繁栄を回復してくださる。堕落と衰退の途にある日本であるが、まだ回復と再生のチャンスは残されていると信じたい。

「いつまで 浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち 不遜な者は不遜であることを好み愚か者は知ることをいとうのか。 立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ わたしの言葉を示そう」(箴言 1:22-23 新共同訳)
read more…

これから日本と世界に起こること(記事No.130)

 現在進行中の日本と世界の状況を観察していると、それぞれ異なる様々な動きが、1つのゴールに向けて進んでいるように思える。日本では、安倍元首相の国葬が、国民多数の反対を無視して強行されようとしている。国会の決議も無しに、法令の拡大解釈を根拠に行われる訳で、国民の意見などには耳を傾けないと言う、独裁国家さながらの乱暴な政治姿勢である。カルトに支援された自公政権の本質が、如実に現されていると言えよう。その一方で、第2次安倍政権以来加速した円安政策の「成果」により、日本円は対米ドル以外にも各国通貨に対しても軒並み円安が進み、資源や食料品などの輸入価格高騰により、じわじわと物価上昇が続き、国民生活は苦しくなって来ている。日本の為政者たちが、日本と日本人とを愛さず、外国の利益ばかりを優先する「売国者」であることは非常に残念であり、憤りを禁じ得ない。

 旧約聖書に記録されたイスラエル民族の歴史を見ると、王が創造主である神を畏れつつ政を行うとき、国は栄え安定し、民は幸福を享受している。だが、王が神を畏れず、偶像を崇拝して暴政を行うとき、国は不安定になり、民は苦しみ、やがて敵国に蹂躙される。翻って、現代の諸国はどうであろうか?日本だけでなく、歴史的にキリスト教の影響を強く受けて来た、欧米諸国においても、神に叛逆する為政者たちが多く存在する。国々に、神の裁きが下されるのは必然であろう。日本の場合は、そう遠くない将来、震災級の地震や噴火が起こると予想する。その時、再び原発事故が起これば、規模によっては、日本列島が広範囲に汚染され、多くの人々が故郷を失うことにもなるだろう。また、来年以降、食糧危機が起こる可能性がある。1994年に起きた米不足の再来であるが、今度は小麦など他の農作物にも及ぶであろう。米は精米だけでなく玄米でも備蓄し、塩、味噌、醤油なども十分蓄えておく必要がある。

 海外に目を転じるなら、ウクライナ戦争と新型コロナ・パンデミックという大きな要素が、世界中に影響を及ぼしている。ロシア軍は、侵攻以来終始ウクライナ軍を圧倒しており、小規模な戦闘でウクライナ側が勝利することはあっても、大勢は既に決している。NATO諸国の武器・弾薬供与がストップした時が戦争が終わる時でもあるが、彼らはウクライナ人がどれほど犠牲になっても、戦争を止めさせるつもりは、今のところ無いようである。侵攻を理由とした対ロシア制裁では、ダメージを受けているのは、制裁対象のロシアではなく、西側諸国、特に西ヨーロッパ諸国の方である。ロシアからの天然ガス禁輸により、それらの国々では、電気・ガス料金が急激に上昇しており、ロシア産天然ガスへの依存度が高かったドイツなどでは、規模の大小を問わず操業停止した工場が増加しつつあり、小規模店舗などは電気料金の高騰に耐えられず、閉店するところが続出していると聞く。ドイツで施行された新・省エネ規制では、企業や公共施設における冬期の室内暖房温度は19℃までとされた。スイスでは、一般家庭を含めた暖房温度規制が導入され、同じく19℃以下の制限が課せられることになり、違反者は罰金または最長3年の懲役刑に処せられると言う。自由主義の優等生であった諸国が、急速に全体主義的な色彩を帯びるように変貌しつつある。ショック・ドクトリンの、分かりやすい事例ではあるが。

 ウクライナ戦争を起こした者たちの意図は、ロシアの国力を消耗させるだけでなく、それ以上に、西側諸国を弱体化させることにあると思われる。そして、第3次世界大戦へと世界を導こうとしている。9月15日、ロシア外務省のザハロワ報道官は、「アメリカ政府がウクライナへの長距離ミサイル供給を決定すれば、レッドラインを超え、紛争の直接の当事者になる」と語ったが、これは射程300キロの短距離弾道弾ATACMSのことを指し、ウクライナ領内からロシアを直接攻撃可能である。アメリカの出方次第では、米露核戦争、すなわち、第3次世界大戦勃発の危機が再び高まるだろう。この他にも、イランの核開発に対して、1981年6月にイラクで建設中の原子炉を爆撃したように、イスラエルが空爆で阻止を図る可能性もあり、仮に実行されれば、中東発の第3次世界大戦となる可能性が高い。

 もう1つ、世界中に大きな影響を与えて来たのが、新型コロナ・パンデミックである。コロナ・ウイルスなど本当は存在しないと言う説もあるが、人工的なウイルスである可能性の方が高いと考えられる。少なくとも、中国・武漢のコウモリ由来のウイルスというのは、今となっては極めて怪しげな話である。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が9月14日に発表したところでは、新型コロナ・ウイルスのパンデミックは、終息が視野に入ったとのことである。WHOは、2019年時点でアメリカが最大(15.9%)の資金拠出国であるが、2番目は、ビル&メリンダ・ゲイツ財団(9.4%)であり、ビッグ・ファーマーと呼ばれる大手製薬企業の影響力が強い組織である。新型コロナ・ワクチンで人々の命と健康を踏み台に、巨額の利益を得て来たこれら製薬会社であるが、コロナ・パンデミックの化けの皮が次第に剥がれつつあることで、サル痘か天然痘かは未だ分からないが、次のパンデミックへ移行する布石としての、今回のテドロス氏の発言であろう。

 さて、本記事の冒頭に、「1つのゴール」と書いたが、これは、世界統一政府の樹立のことである。これまで、本ブログでも度々書いて来たように、世界各国で指導的地位に就いている者たちや、多国籍企業を支配下に置く超富裕層らを中心とした、世界制覇を目的とする集団があることは、決して陰謀論ではなく、陰謀そのものが存在していると言うことである。彼らの中には、クリスチャンやユダヤ教徒を装っている者たちもいるが、実際は、ことごとく悪魔崇拝者たちである。神によって創造された人間は、自然の成り行きで罪を犯し堕落したのでは無い。最初の人アダムと彼の妻エバは、悪魔に誘惑されて神に叛く罪を犯した。悪魔は天使長の1人として神に仕えていたが、自分が神になろうとして、天から追放され地に投げ落とされた、3分の1の天使が、悪魔となったかつての天使長に従って、同様に天から追放された。時系列的には、その後も、人間の女性の美しさに欲情し、彼女らを妻とした堕落天使たちがいたことが、創世記第6章に記述されている。このことは、大洪水による世界の裁きの原因ともなった。

 今日の日本と世界の状況を見るとき、ノアの箱舟の物語としても知られる、大洪水の前の世界に似ているのではないかと思わされる。実在の生物(堕天使と人間の女のハイブリッド)としてのネフィリム(巨人)こそいないものの、人間社会の堕落した状況は同様ではないだろうか。そうなると、待ち構えているのは神の裁きであり、世界の破局である。私は、クリスチャンは世界に訪れる大患難の7年間を地上で守られる(患難末期または患難後携挙説)との聖書理解であるが、クリスチャンは大患難の直前に天に携挙される(患難前軽挙説)と考える人も多い。仮に患難前携挙説が正しければ、この世界は、いつ携挙が起こってもおかしくはない段階に来ていると思う。どちらの説が正しいにせよ、世界はもう、そこまで到達してしまっているのだ。神に立ち返り、その庇護のもとに入ることが、命を守るための最も確実かつ唯一の方法である。それは、イエスを救い主として信じることである。私は、日本に、世界に、再生と回復の機会が与えられることを祈っているが、世の終わりの時を定めるのは、父なる神の主権である。再臨のイエスは、もう門口まで来られているのかも知れない。

「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」(マタイによる福音書 24:37-39 口語訳)
read more…

安倍氏「国葬」の愚かしさ(記事No.129)

 故安倍元首相の国葬が9月27日に実施される予定であるが、世論調査でも軒並み反対論が賛成論を上回っている。国葬を実施するための法的根拠があやふやであったり、数十億円かそれ以上にもなると予想される開催費用など問題は多々あるが、それらは各種メディアによって取り上げられていることから、本ブログでは掘り下げない。私としては、霊的見地から、安倍氏「国葬」について書くことにしたい。

 さて、読者の皆さんは既にお分かりのように、故安倍元首相は、彼の支持者らが主張するような保守政治家ではなかった。彼の本質は、統一教会という反日団体と親密な関係を有する似非保守政治家であった。また、アメリカへの従属関係を深化させたという点においても、決して愛国的な人物ではなかった。それに加えて、小泉政権以来、いや、中曽根政権以来の新自由主義的政策を継承し、国民を貧しくし、国力の弱体化を進めた、「売国政治家」でもあった。この期に及んでも安倍氏を真の保守政治家と誉めそやす人々は、ポジショントークで語っているか、あるいは、本質から目を背けているかのどちらかであろう。

 これまでの自公政権の政治姿勢からすると、どんなに国民多数の反対があったとしても、国葬実施は既定路線として、見直す考えは無いのであろう。そうなると、9月27日には「国葬」が実施される。それは日本にとって何を意味し、どんな結果をもたらすのか?およそ国葬とは、被葬者を国家の英傑と見做して顕彰また追悼し、その遺徳を全ての国民の記憶に留める効果が期待されるのだと思う。今回の「国葬」により、安倍氏による都合が悪い行跡については、今後政府による記憶及び記録の編集が行われることになるだろう。これまでもそうであったが、以後は、「偽りの霊」が日本国家に、より強力に巣食うことになる。

 また、ここでも、安倍氏と統一教会の密接な繋がりがキーポイントとなる。反日カルト団体の統一教会の背後には、彼らを動かす悪霊たちが存在している。仮に、それらを総称して「統一教会の諸霊」と言おうか。安倍氏の「国葬」は、その「統一教会の諸霊」の悪しき働きを、国家的に追認することにもなる。単に統一教会の数々の悪行が免責されるだけでなく、それらに承認を与えることになるのだ。これは、決して深読み過ぎということでは無いと思う。何故なら、人と人との間でも、組織と組織の間でも、親密な関係が存在するなら、少なくとも、そこには信頼や友好が伴う。逆の場合には、不信や敵対がある。安倍氏の場合には、たとえ当人が意識していなかったとしても、「統一教会の諸霊」と親密な関係が存在していたはずである。

 このままでは、安倍氏「国葬」を契機に、日本に働く悪霊共の働きがより活発になるだろう。それらは、安倍氏が十分には成し遂げられなかった、日本弱体化の旗振り役を誰かに受け継がせ、この国をさらに下降させ堕落させるだろう。「国葬」は、悪霊共がそのための足場を固める契機になるだろう。国民多数の反対の声を聞かずに、「国葬」をごり押ししようとする、岸田首相を始めとする政権幹部らの罪は重い。結局のところ、彼らもまた、悪霊共の強い影響下にあるのだろう。やはり、統一教会と創価学会というカルトの支援を受けているだけのことはある。安倍氏は、日本を衰退させた政治家であったが、「国葬」には、その政治姿勢や政策が後継者たちに受け継がれるという、宣言の意味もあると思われる。

「あなたの目も心も不当な利益を追い求め 無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。 それゆえ、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムについて 主はこう言われる。だれひとり、『ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹』と言って彼の死を悼み 『ああ、主よ、ああ陛下よ』と言って、悼む者はない」(エレミヤ書 22:17-18 新共同訳)


 現時点では、ほとんど実施が不可避となったような「国葬」であるが、土壇場で中止となる可能性が全く無い訳ではない。その場合は、神の超自然的な介入により政権に恐れが生じるケースと、大地震などの大規模な自然災害が起きるケースとが考えられる。後者の場合は、神の裁きと言うよりも、警告と国家的悔い改めの促しのため、あえてそれが許されるということであろう。私としては、岸田首相ら国家指導者たちが、これ以上愚かな選択を続けないように祈りたい。
read more…

1つの世界に2つの国(記事No.128)

 前回の記事をアップして以来、次の記事のテーマを決めかねていた。書くネタは多くあるのだが、タイムリーな記事となると、どうしてもネガティブなテーマを思い浮かべてしまい、書きあぐねていた。少し例を挙げると、統一教会などのカルトによる日本汚染、新型コロナ・パンデミックの欺瞞とワクチンを用いた人口削減の企み、第3次世界大戦を起こそうとする計画など、邪悪な勢力による人類に対する、また日本に対する、現在進行中の侵略のこと等々である。どちらかと言えば、夢も希望もあるテーマについて書きたいのだが…。そこで今回は、あえて時事ネタを取り上げることはせず、聖書の世界観を1つ書くことにしたい。テーマは、表題の通りであるが、これは、今家庭礼拝で出エジプト記を学んでいるので、その書から学べることでもある。

 さて、読者の皆さんの多くは、出エジプト記は何度も読んでいると思う。ざっと言えば、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民が、神が彼らの上にたてた指導者モーセの導きにより、彼の地から脱出する話である。その際、超自然的な神の奇蹟が繰り返し現され、イスラエルとエジプト双方の人々に対して、神の言葉が真実であることを証明した。中でも、エジプトの軍勢に追われたイスラエルの民の前に、紅海が2つに割れて、彼らが無事対岸に渡ることが出来た奇蹟は、「十戒」などの映画にも描かれた、非常に有名な出来事である。この出エジプト記は、また、私たちに、聖書の世界観を明確に教えている。

 出エジプト記が教える聖書的世界観の1つは、この世界には、霊的に2つの異なる種類の国々が存在すると言うことである。それは、同書でエジプトに象徴される「この世」と、約束の地として語られる「神の国」である。一般的に定義される「国(国家)」とは、国民、領土、主権の3つを備えていることが必要となる。これらのどれか1つでも欠けているなら、それは少なくとも主権国家とは見做されない。日本政府が承認していない、北朝鮮や台湾も、国家の3要素を全て備えているので、それぞれ堂々とした国である、チベットは、インド領内に亡命政府を維持しており、一応はその統治権に服する国民がいるが、領土は中共の支配下にあるので、国際社会では国家とは見做されていない。このような定義に照らせば、「この世」も「神の国」も、共に霊的な主権国家である。

 民主制国家とは異なり、「この世」の主権者は人々ではなく、悪魔であり、統治者も同様である。それは、新約聖書エペソ人への手紙2章2節において、「空中の権を持つ者」」と指し示されている存在である。「この世」に属している人々は、悪魔の支配下に置かれている。本来この世界の全ては、創造主である神が、人間に管理を委ねられたものであり、悪魔のものでは無い。しかし、それは(奴はと書きたいところだが。)、支配下に置いた人々を用いて、この世界を簒奪しようと動き、自分の領土であると主張する。「この世」では、人々はエジプトにおけるイスラエルの民の如く奴隷であり、神が意図される本来の祝福された人生を奪われ続けるのである。イスラエルの民をエジプトから去らせようとしない王パロは、もちろん悪魔を表している。

 これに対して、「神の国」では、主権者、また統治者はキリストである。国民は、イエス・キリストを救い主として受け入れ、新しい霊を与えられた人々、すなわちクリスチャンである。単にクリスチャンと名乗っているからではなく、地上の組織としてのキリスト教会に所属しているからでもない。神によって、霊的に新しく生まれ変わった人々のことである。そして、クリスチャンが存在している所は、世界が本来そのように創造されたように、どこでも「神の国」の領土である。「この世」と「神の国」に同時に属することは出来ない。霊の世界においては、二重国籍は認められていない。イエスの霊が内住するクリスチャンは全て、「神の国」だけに属している。

「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』」(ルカによる福音書 17:20−21 口語訳)


 出エジプト記において、イスラエルの指導者モーセはキリストの象徴であり、また、クリスチャンの特に霊的リーダーの型でもある。モーセに従ってエジプトを出た人々は、「この世」から出て「神の国」に入った、クリスチャンの象徴である。しかし、荒野の旅路で早々に不信仰に陥り、エジプトでの生活を懐かしんだり、金の子牛象を作って偶像崇拝に堕ちた人々は、一体誰を表しているのか?霊は救われているが、魂と行いにおいて信仰から外れた人々とも考えられるし、外形だけで新しい命を持っていない人々のことかも知れない。この辺りの解釈は、人それぞれであろう。1つ挙げておきたいことは、人が「神の国」に入るのは、それ自体奇蹟であり、モーセを通して神の奇蹟の数々が現されたように、神はクリスチャンを通して奇蹟の業をなされることである。それは、「神の国」が確かにそこにあることの証明であるからである。

「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイによる福音書 12:28 口語訳)
read more…

偽善者たちの靖国(記事No.127)

 例年のように、今年も8月は、日本人の多くが戦争を想起する時期である。そのこと自体には、別にケチをつけるつもりは無い。しかし、とりわけ、一部政治家たちの偽善的な行動には、毎年嫌悪感を抱いてしまう。それは、靖国神社参拝のことである。あらかじめ明らかにしておきたいが、私は、閣僚であれ国会議員であれ、個人の信条に基づいて靖国神社を参拝することは、それぞれの自由だと考えている。その際に、公用車を使用するのも、警備上の必要性があれば構わないし、公職名で記帳するのも、それだけで、政教分離に反するとは思わない。玉串料などはポケットマネーで出すべきであるが、参拝自体は信教の自由に属することである。閣僚など高位公職者であっても、個人がその信条に基づいて参拝する限り、中国や韓国に批判される謂れは無いだろう。私が嫌悪感を抱く理由の1つは、彼らの少なくとも一部は、保守派を装いながら、その実、反日政治家であるからだ。

 今年の場合、閣僚級では8月13日に、西村康稔経済産業大臣が靖国参拝を行ったのを皮切りに、8月15日午前中迄に、高市早苗経済安全保障担当大臣と秋葉賢也復興大臣が参拝した。終戦記念日前後の靖国参拝は、保守派や愛国者のイメージを支持者らに与える効果があることは明らかだ。彼らが言行一致であれば、参拝の是非は別として、政治家として筋は通っている。だが、先に挙げた3人の現職閣僚の内、少なくとも高市氏は、統一教会と浅からぬ関係を有していた。彼女が大臣就任後の記者会見で自ら明らかにしたところによれば、2001年に統一教会系新聞社の世界日報社が発行する月刊誌「ビューポイント」に、政治評論家らとの対談記事が掲載されたことがあると言う。高市氏は、世界日報社が統一教会と関係があるとは知らなかったと語ったが、国会議員でそんなことも知らなかっとは、嘘をつくならもう少しもっともらしいストーリーを作るべきであったと思う。仮に、本当に知らなかったとすれば、その程度の頭で経済安全保障を司るとは、身の程知らずと言うべきであろう。高市氏は、同じく統一教会系である「天宙平和連合」の行事に祝電を送ったことも判明しており、もはや「知らなかった」では済まないであろう。

 高市氏のケースは、彼女が絵に描いたような言行不一致であり、とても政治家としての資格が無いことを示している。何故なら、統一教会は、韓国をアダム国家として、彼らがエバ国家とみなす日本を従属させることを、教理的に正当化している、反日団体であるからである。また、彼らが霊感商法や合同結婚式などの手法を駆使して、多くの日本人の財産を収奪し、人生を破壊して来た事実に照らしても、反日団体と位置付けるに相応しいだろう。その反日団体と関係を有していた閣僚が、保守派を演じて靖国参拝を行うとは、精神分裂でなければ、全ては計算尽くの行動と言うことである。保守派を装いながら、反日団体統一教会と親密な関係を有していた安倍元首相と同様、彼女も、権力の高みに登るためには嘘を平気でつける、信用出来ない人物と言えよう。口先なら何とでも言えるが、行いは、特に公職者の場合には、その人物像を判断する決め手であろう。

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(マタイによる福音書 12:33 新共同訳)


 さて、私が、自称保守派政治家で、靖国参拝を行っている人々の一部に対して嫌悪感を抱くのは、彼らの言行不一致の故だけではない。もっと大きな理由は、彼らが本当に戦没者たちを悼む心を持っているか疑わしいからである。ここで1つ、戦没者との関わりを持って来た、ある夫妻の話を紹介したい。週刊新潮電子版である、デイリー新潮2022年8月13日付記事に、10年以上個人的に、沖縄戦の戦没者遺骨収集を続けている浜田夫妻の話が紹介された。ご主人の浜田哲二氏は元朝日新聞カメラマン、奥様の律子氏は元読売新聞記者とのこと。以下は、記事の一部抜粋である。「6月23日は沖縄県の『慰霊の日』だ。戦争末期、日米合わせて20万人以上が犠牲となった凄絶な戦闘。その激戦の跡地で、戦没者の遺骨や遺留品を掘り続ける元新聞記者同士の夫婦がいる。(中略)約30年間勤めた朝日新聞社を2010年に退職して以来、毎年1月中旬から3月中旬までの2カ月間、妻と二人で県内にアパートを借り、本島の中南部にある洞窟壕やジャングルなどに埋もれた戦禍の犠牲者と向き合ってきた。朝日新聞で写真記者(カメラマン)だった頃から、社内でも一風変わった存在と見られていた。ブラック企業の先駆け的な組織で、取りにくい休暇を使って沖縄へ通い、出張の際にも空き時間を利用して、簡単な道具と素手で地面を掘り続けた。リベラルな社風として知られる会社で、右翼的な取り組みと揶揄される遺骨収集を記事にしたり、自ら発掘作業にあたったりしたのも、変人と呼ばれたゆえんだろう。(中略)国の硬直した官僚主義を批判する新聞社が、それ以上の悪しき官僚的な組織だと気付いた頃から、早期退職を意識した。そんな時に出会ったのが遺骨収集。雇われ記者時代を含め、活動歴は足掛け20年に及ぶ」

 ここで引用した記事中には、浜田氏夫妻の遺骨収集費用については書かれていなかったので、ネット検索してみた。すると、彼らは、「みらいを紡ぐボランティア」(代表浜田哲二氏)という団体名で、2019年1月にクラウドファンディングで170万円を集めていた。プロジェクトの概要としては、次のように記されている。「はじめまして。プロジェクトを立ち上げたボランティア事務局の浜田哲二です。この活動は、沖縄守備隊の歩兵32連隊・伊東孝一大隊長の元へ終戦直後に届いた、部下の遺族からの手紙356通を『世に伝えてほしい』との依頼で始まりました。70数年間、誰にも存在を知らさなかった色褪せた書簡です。内容を紐解くと、我が子を亡くしても軍国の父母としての矜持を崩さない悲しき虚勢や、もう帰ってこない夫を想う妻の切実な心情が綴られています。沖縄での戦没者の多くは、家族の元に遺骨や遺留品が返っていません。(中略)学生たちと地を這うような探索を続け、40軒近く返しましたがまだ300通以上残っています。すべての遺族に手紙を返還するのが私たちの目的。来年は、この部隊が戦った洞窟で遺骨収集も実施する予定です。」彼らは、クラウドファンディングでの資金集めを手掛けるまでは、私財を投じて戦没者遺骨収集を続け、ボランティアの学生たちも、アルバイトで資金を稼いで、沖縄に渡っていたのだ。また、浜田夫妻の職歴が、それぞれ朝日新聞と読売新聞という、方やリベラル系と目され、もう一方は保守系と見なされている新聞社というのも、ある意味ではユニークではある。彼らの地道な活動が、政治的な思想信条とは別の動機に基づいている証左であろう。

 ちょうど1年前、本ブログで「死して屍拾う者なし(記事No.27)」と題した記事を書いた。そこでも触れたように、第2次世界大戦における日本の戦没者総数約310万人の内、未収容の遺骨が約113万柱である。その内、海没者約30万人を除くと、陸上戦没者の未収容遺骨は約83万柱である。本記事で紹介した浜田夫妻のような、民間有志の遺骨収集活動は尊い働きである。しかし、本来は、全て国の予算で、政府が公の戦後処理事業として行うべきものである。確かに、厚生労働省の事業として、遺骨収集活動が続けられてはいるものの、最初から、残置遺骨を全て収容することは念頭に置いていないと疑わざるを得ない。もし、国政に責任と権限を有している政治家たちが、戦没者を真に悼み、そして彼らを敬う気持ちを持っているのであれば、このような状況が続くことを、決して放置できないのではないだろうか?だから私は、毎年終戦記念日やその前後に、カメラの砲列の前に、これ見よがしに靖国参拝する政治家たちに対して、その真意を疑うのである。そして、こう思う、「何が靖国だ。」と。
read more…

もう一つの日本汚染(記事No.126)

 アメリカのペロシ下院議長が台湾を訪問したことに反発した中国は、案の定、台湾周辺海域などで、実弾演習を含む軍事的威圧行動に出た。中国が発射した弾道ミサイルの一部は、日本近海にも着弾した。沖縄タイムス電子版2022年8月6日付記事は、次のように伝えている。「ペロシ米下院議長の台湾訪問への対抗措置として、中国軍が台湾周辺で大規模な軍事演習を始めた影響で、沖縄県の与那国町漁協(嵩西茂則組合長、組合員105人)は5日、周辺海域への出漁自粛を決めた。島から60~80キロの距離に弾道ミサイルが相次いで落下し、危害が及ぶ恐れがあると判断した」

 これまでの日本政府による具体的対応は、8月4日に、森事務次官が駐日中国大使に電話で抗議し、軍事演習の即刻中止を求めたことである。日本領土から数十キロ先の、しかも、史上初めて、日本の排他的経済水域(EEZ)内に着弾したにも関わらず、外務次官が電話で抗議しただけである。数年前に北朝鮮が、弾道ミサイルを日本周辺海域に向け発射した時とは違い、あまりにも対応が及び腰ではないだろうか。2016年5月30日付ロイター通信電子版日本語記事は、以下のように伝えている。「中谷元防衛相は北朝鮮が弾道ミサイルを発射する兆候があるとして、自衛隊に対し迎撃態勢を取るよう命じる破壊措置命令を出した。政府関係者が30日、明らかにした。命令を受け、自衛隊は東京・市ヶ谷の防衛省敷地内に地対空ミサイル『PAC3』を展開した。北朝鮮は今年に入って弾道ミサイル発射や核実験を行うなど、挑発行為を繰り返していたが、36年ぶりの労働党大会が終了した今月上旬以降は沈静化していた。日本政府は11日に破壊措置命令を解除していた」

 また、2017年8月29日と9月15日に北朝鮮が、大気圏外にせよ日本上空を通過し太平洋に着弾するミサイルを発射した際には、日本政府は、いずれも全国瞬時警報システム「Jアラート」を発令させ、関東以北の東日本に警報が伝達された。早朝にスマホや携帯の緊急速報や、防災無線の「ミサイル発射〜頑丈な建物や地下に避難してください。」との放送に、驚きや恐怖を感じた人も少なくなかったと思う。内閣官房国民保護ポータルサイトによれば、Jアラートが発令基準は次のとおりである。「全国瞬時警報システム(Jアラート)は、弾道ミサイルが日本の領土・領海に落下する可能性又は領土・領海を通過する可能性がある場合に使用します。逆に、日本の領土・領海に落下する可能性又は領土・領海を通過する可能性がないと判断した場合は、Jアラートは使用しません。なお、領海外の日本の周辺海域(排他的経済水域(EEZ)等)にミサイルが落下する可能性がある場合は、Jアラートは使用しませんが、船舶、航空機に対して迅速に警報を発します」

 このように、過去の北朝鮮による弾道ミサイル発射の際には、日本政府は自衛隊に迎撃命令を出したり、国民に向けてJアラートを発令したりと、実効性に乏しいパフォーマンスとは言え、一応警戒する素振りは見せていた。今回は、海上保安庁が船舶向けの航行警報は出したものの、表向きは政府として特別な警戒行動には出ていない。2017年の場合は、同年10月22日投票の総選挙を控えていた故の、安倍政権(当時)の国民向けパフォーマンスではなかったのかと思える。ちなみに、その時の選挙結果は、与党圧勝であった。今回の中国による、台湾及び日本周辺海域へのミサイル発射への日本政府の対応は、過去の事例と比べても危機感に乏しい対応である。それだけでなく、ロシアによるウクライナ侵攻を受けての、制裁行動と比べても、中国への対応は、あまりにも控え目な内容である。

 なぜ、そうなるのか?私の見立てでは、理由は2つある。1つは、日本経済の中国依存度が高いため、制裁の応酬になれば、傷が深くなるのは日本の方だからである。ちょうど、対ロシア制裁でより大きな打撃を受けているのは、対象国のロシアではなく、西ヨーロッパ諸国の方であるのと同じである。もう1つは、日本の与党政治家や官僚の中に、中国と特別な関係を有している者たちがいるからである。よく言われていたことは、旧民主党系や社民党の政治家の中には、中国と親密な者たちが多いと言うことであった。しかし、現在では、野党系よりも与党の方に、中国と近い政治家が多いと思われる。ここで言う特別な関係や、親密の意味とは、しばしばマネートラップやハニートラップにかかったことと、ほぼ同義である。例えば、20数年前に発覚した事案であるが、故橋本龍太郎首相は長い間、中国人女性通訳と親密な関係にあった。彼女は、北京市公安局の情報員であったことが後に判明しているが、恐らくは、対外情報活動を担当する、中国共産党中央統一戦線工作部の要員でもあったと思われる。一国の首相にまでなった人物でさえも籠絡されたわけであるから、他は推して知るべしであろう。

 中国の、日本を含む西側諸国への浸透工作は、マネトラ、ハニトラだけではない。教育や文化活動を装った工作もある。有名なところでは、「孔子学院」がある。読売新聞電子版2021年5月31日付記事は、次のように伝えている。「政府は、中国政府が出資し、日本国内の大学に開設している『孔子学院』の透明性確保に乗り出す。孔子学院を巡っては、中国の対外世論工作を担っているとの懸念があり、政府は各大学に情報公開を促し、動向を注視する考えだ。孔子学院は、中国政府が中国語や中国文化の普及を目的に2004年から世界各国に開設し始めた。19年末時点で世界162の国・地域の550か所に上るとされる。日本では、立命館大や早大など14の私立大に設置されている。」人によっては、これは単なる文化普及活動の一環であると思うかも知れない。だが、この読売新聞記事の続きにはこうある。「日本政府が対応を強化するのは、欧米諸国が孔子学院を中国のプロパガンダ機関とみなし、規制を厳しくしていることが背景にある。米国では、議会上院の国土安全保障・政府問題委員会が19年2月、『孔子学院の教員は中国の国益を擁護するよう誓約している』などと指摘する報告書をまとめた。トランプ前政権は昨年8月、米国内の本部機能を持つ『孔子学院米国センター』(ワシントン)に対し、大使館などと同様に、所有資産などの報告を義務付けると発表した。全米学者協会によると、米国内の孔子学院は昨年8月の67か所から、今月18日時点で47か所に減った。カナダ、フランス、ドイツなどでも閉鎖が相次いでいる」

 現在日本では、安倍元首相暗殺を機に、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)による政界への浸透に注目が集まっている。統一教会は、反日的な教義を有する(似非)宗教団体であるが、つながりを持つ政治家の多くは自民党に所属している。自称保守の政治家たちが、実は反日的組織と親密であったと言う皮肉である。中国共産党(中共)もまた、反日組織と見做して良いだろうが、これまた、彼らと関係が深い日本の政治家の多くは、いわゆる保守系である。旧社会党系の流れを汲む政治家が、中国や北朝鮮と親密だったのは公知の事実であるが、自民党や公明党の中にも、同様の政治家たちが少なくなかったのだ。都道府県知事の中にも、中国企業に便宜をはかったとの疑念を持たれている者たちがいる。これはもう、中共により日本が汚染されていると言うレベルであろう。中国が、台湾を軍事侵略する構えを見せている現在、日本の政府や公党に獅子身中の虫たちがいるようなていらくで、果たして国を守れるのだろうか?宮潔めならぬ、政府潔め、政界潔めの必要性を切実に感じる。手遅れにならないうちに、日本に神の介入があれば良いのだが。
「それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった」(マルコによる福音書  11:15-16. 口語訳)
read more…

東アジアに戦争の危機(記事No.125)

 国内外の報道によれば、アジア歴訪中のアメリカのナンシー・ペロシ下院議長は、8月2日夜に台湾を訪問し、翌3日には同国の蔡英文総統と会談する予定と言う。ペロシ氏訪台自体は、本来は他国がとやかく言う筋合いでは無いはずである。しかし、台湾を自国領土の一部とみなす中国政府は、この動きに激しく反発しており、軍事的行動も辞さずとの態度である。アメリカは、日本と同様、現在台湾(中華民国)とは国交を結んではいないが、同時に台湾関係法により、台湾防衛への支援を提供することを定めている。中国に対しては、1つの中国という彼ら(中共)の主張を認識し理解するという姿勢であり、アメリカが台湾を中国領土の一部とみなしているという意味では無い。日本政府も、明確には言わないが、アメリカと同様の立場である。ここ数年、日台の関係がより緊密になっていることは、公平に言って、先月暗殺された安倍元首相の、外交における数少ない功績の1つであろう。

 読者の皆さんもご承知のとおり、台湾(中華民国)は、一度も中共の統治下に置かれたことは無い、れっきとした独立国であり、主権、領土、国民という、国家としての全ての要件を備えている。しかも、国家元首である総統を、国民の直接選挙で選任するなど、現在のアジアにおいて、最も民主的な国家である。しかし、同時に、中共が国連における代表権を簒奪して以来、日米欧など西側諸国の大半は、次々と台湾との外交関係を断絶し、中国と国交を結んで来た。現在では、台湾と正式な外交関係にある国は、14ヵ国にまで減少しており、バチカン市国を除けば、大半が中南米諸国や太平洋の島嶼国である。これは、中国外交の成果と言うよりも、中共の援助や投資を餌にした、バラマキ外交の結果である。多くの国々が国交を結ぶ中国は、建国以来共産党独裁体制が敷かれている。国民が国家指導者を公然と批判しても、台湾では平和的手段を逸脱しない限りは逮捕されることは無いが、中国では直ちに公安に拘束されること必至である。

 このような台湾であるが、中共による絶え間ない恫喝と軍事的脅威にさらされている。政治的、軍事的には対立関係にある両国であるが、経済的には相互依存の側面もあることは事実である。台湾のメーカーなどが大陸側に投資し、現地に設立した工場で、台湾企業向けの部品製造を行うなどの事業活動が行われている。しかし、昨年11月に中国政府が、台湾与党・民主進歩党への大口献金企業である台湾企業の現地法人に対して、環境や安全上の瑕疵を口実に、約16億円相当の巨額の罰金を課して以来、台湾経済界は、対中投資にはより慎重になっている。中共の台湾統一に向けた戦略の1つには、経済的に台湾の中国依存度を高めさせることがあると思われるが、衣の下の鎧が見えたような出来事であった。習近平国家主席は、2013年3月に就任以来、任期中の台湾統一に強い意欲を示して来た。習氏は2027年に3任期目を終えるが、同年は中国人民解放軍創設100周年の節目でもある。中共が、2027年迄に台湾に侵攻する計画を策定している可能性は高い。
 
 とは言え、台湾はアメリカと正式な同盟関係は無いものの、断交以降も、軍事的な協力関係を維持して来た。これは、日中戦争当時にアメリカが、蒋介石を支援する義勇空軍部隊を送り込んで以来の、今なお続く(準)軍事同盟関係である。公式には、米台断交により駐留アメリカ軍は全て撤退したことになっていたが、実際には、訓練支援や連絡調整のため、非公式に少数の要員が派遣されていた。2021年10月には、蔡英文総統がCNNの取材に対して、台湾に小規模な米軍部隊が駐留していることを公に認めている。今回のペロシ氏訪台においては、中国軍に対する牽制のため、アメリカは空母機動部隊を周辺海域に派遣しているが、中国も虎の子の空母2隻を出航させたと言われている。8月2日日本時間21時時点で、中国では福建省や上海市など沿岸部を中心に、民間航空路線が軒並み欠航となっており、中国空軍が臨戦体制に入ったとの観測もなされている。台湾側は今の所、民間航空機も通常飛行するなど平静を保っているが、海空軍を中心に警戒レベルを上げていることは想像に難くない。

 台湾海峡がにわかに波高くなって来たような状況であるが、ここで気になるのは、7月下旬に、アメリカのビクトリア・ヌーランド国務次官が来日していることである。ヌーランド氏が、エマニュエル駐日アメリカ大使と会談したことは公表されているが、恐らくは、在日米軍高官らとも協議を行ったと思われる。主要なテーマは、中国が台湾に対して軍事行動を起こした場合の、アメリカおよび日本の対応ではなかったかと推測する。この場合、アメリカは主体的に行動するのはもちろんだが、日本はアメリカからの指示を受けて行動することになる。ちなみに、ヌーランド氏は、父方の祖父がロシアから移住したユダヤ系ウクライナ人であったが、オバマ政権時代に国務次官補に任命され、自身も外交官としてウクライナに深く関与している。当時の彼女の任務は、親ロシア派であったウクライナのヤヌコビッチ大統領を失脚させ、同国に親米政権を樹立することであったと言われるが、見事任務を果たしている。その「成果」は、今年2月にロシアによる侵攻を呼び込んだことにつながっている。言うならば、ヌーランド氏は、戦争屋またはその手先である上級工作員である。

 こうなると、今回のペロシ氏台湾訪問は、単なる米台友好関係の促進だけでは無いことが伺えよう。少なくとも、中国に対する台湾防衛意思の表明であり、最悪の場合は、中国対台湾・日本・アメリカの戦争準備行動の一環である。中国が台湾に対して武力行使の暴挙に出た場合、自国防衛のために台湾軍が戦うのは当然であるが、東シナ海方面では日本が支援の前面に出ることになる。アメリカ軍が、中国軍との直接交戦に踏み切るかは分からない。現在のウクライナを見れば、沖縄やグアムの米軍基地を攻撃でもされない限りは、アメリカ軍は後方支援に徹し、戦うのは台湾軍と自衛隊になる可能性がある。日本が中国に対する防衛体制を整備するのは当然であるが、軍備だけでは国は守れない。中国を警戒しつつも、敵視して対立を深めるのは得策ではない。本来なら、硬軟併せ持つしたたかな外交を打ち出せれば良いのだが、悲しいかな、宗主国アメリカの意向には逆らえない。アメリカが対中強硬姿勢を取るならば、日本も右に倣えである。最後の最後に梯子を外されて、東アジアで戦争が勃発した際に、日本が戦場にならなければ良いが。

 ウクライナ戦争が勃発して以来、この戦争を起こした者たち、アメリカとロシアの戦争を起こそうとしている者たち、第3次世界大戦を起こそうとしている者たち、彼らの邪悪な野望が打ち砕かれるよう祈って来た。今、それらに加えて、日本・台湾と中国の戦争が起こされないよう、悪き者たちの計画が打ち砕かれるようにと祈っている。地道な平和への努力は尊いが、国家が、あるいは国家を超えたグローバリスト集団が開戦を決意するなら、それら善意の行動は、いとも簡単に踏み躙られるのが現実である。となると、平和を実現するための最大の武器は、神に対する祈りしかない。これこそが、地上で最も強力な武器である。今こそ、平和のために、その武器を用いる時である。
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書 5:9 口語訳)
read more…

プロパガンダとしての事件、報道(記事No.124)

 東京・秋葉原で2008年6月、通り魔事件を起こし7人を殺害、10人に重軽傷を負わせ死刑判決が確定していた、加藤智大死刑囚が7月26日に処刑された。以前に本ブログでも書いたが、私は、刑事犯罪においては死刑を廃止すべきと考えており、死刑は戦争犯罪に限るべきとの立場である。しかし、死刑制度を維持している日本の現行刑法に基づく裁判の結果としては、今般の死刑執行も当然のことではあろう。その意味において、死刑判決確定以来、加藤氏の命は、死刑執行命令権者の胸先三寸にあったのである。加藤氏処刑の報道に接して、すぐに頭に浮かんだことは、2018年7月6日に、オウム真理教事件の死刑囚7人が処刑されたことと、その前日に、死刑執行命令権者の上川陽子法務大臣や、安倍晋三総理大臣(いずれも当時)などが参加して開かれた、「赤坂自民亭」と称された議員パーティーのことである。

 死刑執行の下命が職務とは言え、自身の命令により7人が死刑に処せられる前夜に、酒盛りに参加して楽しむとは、一体どのような人生を送れば、そのような人間になれるのか?彼女は、カトリック信徒とも聞くが、本当だろうか?率直に言えば、下劣な人間性の持ち主としか思えない。死刑制度を運用する立場であったとしても、執行前夜には、一人黙想して心を鎮めるか、断食祈祷でもして事件の被害者の冥福を祈るのが、正常な神経を有する人の振る舞いであろう。これは、上川氏から、翌日に処刑が行われるとの報告を受けていたに違い無い、安倍氏についても同様である。加えて、パーティー当日の夜は、ちょうどその時、西日本で豪雨被害が発生し始めていたのである。「こんな人たち」が、国民の生殺与奪の権を握っているのである。

 この死刑執行のタイミングは、朝日新聞が2017年2月9日付朝刊で報じた、森友学園に対する国有土地払い下げに関わる問題が、国会で追求されたものの、疑惑が晴れたとは言えない状況が続いていた時であった。2017年7月に補助金搾取の疑いで逮捕されていた森友学園理事長籠池氏夫妻は、2018年5月に釈放されたが、同月捜査対象となっていた官僚ら38名は、全員不起訴となった。同年6月に国会が閉会し、翌7月には、国会で森友問題への政治家の関与を否定し、森友学園との土地取引は適正であったと答弁した、財務省理財局佐川局長が国税庁長官に任命された。だが、森友学園に関わる問題は、もし事実であれば、単なる小役人による便宜提供のレベルでは無く、一国の首相も関与した疑獄であり、国会で厳しく指弾され解明されるべきものであった。当然、マスコミ各社も、連日特集記事・番組で報道すべき問題であったことは言うまでも無い。

 だが、オウム真理教の松本智津夫ら元幹部7名の処刑により、マスコミの報道は森友よりもオウム中心へと、一時的にせよ変わり、疑念が晴れたとは言えないまま、多くの人々の関心レベルは、次第に低下していったと言えよう。この一連の流れは、果たして偶然の結果であろうか?日本の死刑制度では、法律で定められた判決確定後6ヶ月以内の執行というルールは、法務省の遵守義務ではないと解され、執行時期は、法務大臣が、と言うよりも政府が任意で決められるのが実情である。今般の加藤死刑囚の場合も、安倍氏暗殺を契機にパンドラの箱が開いたように、自民党と統一教会との親密な関係が、改めて露呈することになったタイミングである。加藤氏処刑後も、統一教会を巡る話題は収まる兆しが無いことから、近いうちに再度、話題性のある死刑囚の処刑が行われるかも知れない。ワイドショーが派手に取り上げそうな死刑囚と言えば、和歌山カレー殺人事件や光市母子殺害事件で死刑判決が確定した面々などが思い浮かぶが、前者は一貫して無実を主張し続けていることも事実ではある。

 今回、死刑執行と、そのプロパガンダ効果について取り上げたが、場合によっては、「事件」そのものが作られることがあるだろう。これは、日本に限らず、諸外国でも同様である。スケールが大きく、記憶に新しいところでは、2001年9月11日に発生した、アメリカにおける同時多発テロ事件などが、その疑いが濃厚な「事件」であろう。ここでは、いわゆる偽旗事件であることの詳細な根拠は書かないが、あの「テロ事件」を契機に、アメリカと有志連合軍によるアフガニスタン侵攻が開始され、続いてイラクと、20年間に及ぶ泥沼の戦争が始まったのである。マスコミも、「テロ事件」については、アメリカ政府の主張に寄り添った報道を繰り広げ、対テロ戦争を正当化するのに一役買った。結果として、莫大な利益を得たのが、米欧の軍産複合体であり、逆に夥しい損失を被ったのが、軍人、民間人いずれにせよ、戦争当事国の庶民たちである。

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイの福音書 10:16 新改訳)


 こと左様に、政府の行動や、あるいは世間を騒がせる事件と言うものは、しばしば、物事の隠蔽や世論の誘導にも使われることがある。イエスが言われたように、この世界は、人々を食い尽くそうと、虎視眈々と狙いながら徘徊している、悪魔の手先どもが実在している。しかも、彼らは、世の中で指導的な地位にも就いているのである。であるから、私たちは、正直な者であるべきだが、馬鹿正直ではいけない。卑怯者であってはならないが、進んで損な役回りを演じることは無い。政府の行動によく注意を払い、マスコミの報道は鵜呑みにせず吟味し、怪しげな人々や面倒臭い人々を近づけないことである。狼どもは強いようにも見えるが、小羊であるイエスは彼らを圧倒する強さを持っている。それゆえ、イエスを信じる羊は、狼よりも強い者である。そして、私たちは、蛇のように聡く、鳩のように素直に生きるべきである。
read more…

祇園祭から見えるもの(記事No.123)

 去る7月17日、3年ぶりに祇園祭の山鉾巡行が行われ、10数万人とも20万人以上ともされる人々が沿道で見物した。新型コロナが「第7波」の流行状態とされる中、不特定多数が密集する場所に出向く人々の心理状態は面白い。私自身は、普通に生活している限りは、感染する可能性は極めて低いと考えているが、わざわざ多数の人々が密集して滞留する場所には出向かない。どこかのテレビ・ニュースでは、仕込みかどうかは分からないが、見物に来たとされる中年の女性が、「ワクチンを接種しているから重症化しないから大丈夫だと思って。」とインタビューに応じていたようである。新型コロナ・ワクチン接種キャンペーン開始当初は、打てば感染しないとされていたが、いつの間にか、打てば重症化しないに変わり、現在では、接種回数を重ねるほど、感染も重症化もし易くなるという事実が、次第に知られるようになった。それはともかく、祇園祭は、京都に生まれ育った人々にとっては、単なる夏の風物詩以上の、欠かせない年中行事のようである。もっとも、祇園祭の御稚児に選ばれる男児の選考基準は、公表されている「長刀鉾町に住んでいる8歳~10歳の男の子。ただし、1年間身内に不幸がない家庭」とは別に、総額2,000万円とされる諸費用を支払える家の子供という「条件」があると聞くと、少し白けてもしまう。それは当事者間の問題であるからさておき、祇園祭の由来と歴史は、京都新聞のホームページに掲載されている、「祇園祭の歴史」によれば次のとおりである。

 「平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、八坂神社の神輿を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。応仁の乱(1467~77年)で山鉾巡行は途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興された。 以後、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたタペストリーなどを各山鉾に飾るようになった。 これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれる。 江戸時代にも火災に見舞われたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけで、神幸祭に先立つ「 前祭さきまつり」と還幸祭の「後祭あとまつり」がある。 高度成長期以来、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭の合同巡行が続いていたが、 祭り本来の形を取り戻そうと分離が決定。2014年、約半世紀ぶりに後祭の山鉾巡行が復活した。」

 このように、祇園祭が始まったのは、平安時代に遡るのだが、当時京都が平安京と呼ばれていた時代である。平安京は、渡来人であった秦氏が建設したことが知られている。京都市歴史資料館が開設している「フィールド・ミュージアム京都」というホームページにも、この事実が掲載されている。「…古代に朝鮮半島から渡来した氏族。『日本書紀』応神天皇条に,秦始皇帝(しんのしこうてい)子孫という伝承をもつ弓月君(ゆづきのきみ)が多数の民を率いて渡来したのに始まるとしますが,「はた」は古代朝鮮語で海の意であり,実際は5世紀中頃に新羅から渡来した氏族集団と考えられます。山城国葛野郡(かどのぐん)太秦(うずまさ)あたりを本拠とし,近畿一帯に強い地盤を築きました。(中略)秦氏は,高度な技術力と豊富な経済力をもっていたため,桂川に灌漑用の大堰を作って嵯峨野(さがの)一帯を開墾し,養蚕や機織などの新しい技法を伝えました。(中略)長岡京は10年で廃され,同じ山背に平安京が造られますが,そこでも新都建設に秦氏が尽力し,秦氏の本拠地であった桂川一帯は,建設に必要とする材木の陸揚げ基地となりました。長岡京は,都としてどこまで整備されていたか疑問視されていましたが,近年の発掘調査で都城形体がかなり整っていたことがわかっています。再度平安京へ遷都するのにはかなりの困難が伴ったはずです。それをやり遂げた桓武天皇の背後には,山背地域を本拠として高度な技術力と財力をもっていた秦氏がいたからできたことだといわれています。」

 平安京を建設した秦氏一族は、秦始皇帝の子孫ともされ、中国大陸から朝鮮半島を経由して、民族大移動で日本に渡来した人々であった。秦始皇帝は、ユダヤ系であったとの説もあるが、日本に渡来した時点での秦氏は、景教と呼ばれた宗教を信奉していた。景教とは、原始キリスト教をルーツとする東方キリスト教会の一派である、ネストリウス派のキリスト教のことであり、すなわち秦氏は、恐らくはユダヤ系の、クリスチャンの集団であったのである。ユダヤ教の宗教指導者であるラビとして、日本に長く住んだ経験を持つ、マーヴィン・トケイヤー氏も、秦氏がユダヤ人景教徒であったとの説を支持している。彼は、日本の伝統的神道と古代イスラエル祭儀とが酷似していることなどに着目し、秦氏はユダヤ系であり、日本人の祖先の一部は、シルクロードから中国、朝鮮半島を経て渡来した、イスラエルの「失われた十支族(部族)」の末裔であると唱えている。「日猶同祖論」とも通じる説であるが、ラビとして古代イスラエルの宗教に精通し、長い滞日経験もあるトケイヤー氏の説には説得力がある。

 さて、仮に秦氏がユダヤ系景教徒であり、平安京の建設など、今日に至る京都の歴史の礎を築いたとなると、通説とは違う祇園祭のルーツが見えて来るのである。先ほど挙げた、「フィールド・ミュージアム京都」によれば、祇園祭の祭礼期間は約1ヶ月であるが、中でも多数の見物客が集まるのは、7月16日の宵山と、クライマックスである翌17日の山鉾巡行(四条烏丸―四条通―河原町通―御池通)である。この7月17日とは、かつて世界を覆い尽くした大洪水の後、ノアの箱舟がアララト山上に止まった日である(創世記8:4)。祇園祭の山鉾数は前祭23基、後祭11基、休山1基の合計35基であるが、山鉾の種類の1つに、神功皇后の説話により鉾全体を船型にしたのが由来とされる、船鉾(ふねぼこ)がある。これらは、ノアの箱舟を連想させられる。山鉾巡業は、「エンヤラヤー」の掛け声を合図に始められるが、この言葉は、ヘブライ語がルーツではないかとの説がある。すなわち、ヘブライ語の「アニ・アレルヤ=私は神を讃える」という言葉が訛り、「エンヤラヤー」になったとの説である。あるいは、別の解釈では、ヘブライ語「アニヤラ・ヤー=私は行く!神よ!」が変化したものであると言う。どちらにせよ、民が神を讃えつつ、進んで行く時に発せられる言葉である。

 今回取り上げた祇園祭だけでなく、京都には秦氏の痕跡が、太秦の広隆寺など、いくつも存在している。景教徒であった秦氏の信仰は、次第に仏教やアミニズムとも融合し、今日では祇園祭がそうであるように、その痕跡が日本文化や風習の中に見られるだけである。16世紀になって、フランシスコ・ザビエルを皮切りに、カトリック教会の宣教師たちが来日し神の福音を説いた時、短期間で日本のほぼ全土に多数の改心者が起こされたのは、古代日本に渡来した景教徒や原始キリスト教徒ら、先祖の信仰への立ち返り(リバイバル)だったという見方も出来よう。もしそうであるなら、日本人の霊的DNAには、天地を創られた唯一の神に対する憧憬が受け継がれているのではないか。祇園祭だけでなく、全国各地に古代から伝わる祭りがあるが、それらが元来は創造神を讃えるものであったなら、祭りにかける人々の情熱のルーツは、聖書の神に対する信仰的熱情であったと言えるであろう。祇園祭を見物に来る人々の圧倒的多数は、そこまで想いを馳せる訳ではないことは分かっている。だが、祇園祭に参加する人々が身に付ける護符に書かれている、「蘇民将来之子孫也」にもあるように、日本人が霊的に覚醒し、再生されることを願う。このままでは、日本は滅亡するという危機感を強く覚えながら、その前に再生のチャンスが与えられるようにと、祈らずにはおられない。

「主は私に言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 主なる神はこれらの骨にこう言われる。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。 私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。』」(エゼキエル書 37:4-6 新共同訳)
read more…

カルト重汚染国家(記事No.122)

 7月8日に安倍元首相が暗殺されて以来、早くも2週間近くが経過した。この間の日本社会の動向を見ていると、改めて思わされることの1つに、日本はカルトに激しく汚染されているということがある。安倍氏の衝撃的な死は、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と自民党との密接な関係を全国民の前に明らかにした。ある意味では、同氏の怪我の功名でもあろう。本ブログでも何度か書いて来たが、統一教会の最初の日本支部は岸信介邸の隣地に置かれたが、それは偶然では無かった。統一教会教祖の文鮮明と岸信介は、親密な関係であったことが知られている。その関係を最初の足がかりとして、日本進出当初から今日に至るまで、統一教会は自民党とは密接な関係を構築して来た。それはまた、統一教会と韓国中央情報部(KCIA=現国家情報院)による、静かな日本侵略であったとも言えよう。彼らの対日工作、また、彼らの上部機関とも言える、アメリカ中央情報局(CIA)による日本コントロールについては、多くの優れた検証や分析がネット上でも存在する。関心のある方は、吟味しつつ読んでみると良いだろう。安倍氏暗殺事件を誰が画策したかを推察する上でも、統一教会と米韓情報機関との関係は無視出来ない。

 Wikipediaによるカルトの説明とは、次のようなものである。「カルト(仏: secte、英: cult)は、新宗教団体を含む非科学的(ニセ科学)主張をしている集団や組織を指して使用される。(中略)虚偽に基づいた非科学的主張を信じていないことへの恐怖心を煽り、親団体の組織名を隠した強制的又は詐欺的な入信勧誘・多額の寄付金強要による経済的搾取や性搾取を含む人権侵害など様々な反社会的活動のため、世界各国で社会問題になっている。」この定義は、特に前半部分は明らかなミスリードであり、これを書いた人々の知性と誠実さが疑われる。これに対して、キリスト教宣教団体である、GotQuestions.org ミニストリーによるカルトの説明は、次の通りである。「『カルト』ということばを聞くと、しばしば悪魔礼拝をしているとか、動物をいけにえにしているとか、邪悪で異様で異教的な儀式をしているグループのように考えがちです。しかしながら、ほとんどのカルトはもっとずっと無邪気に見えます。特にキリスト教から見たカルトの定義は、ひとつ以上の聖書的真理の原理を否定する宗教グループのこと。もっと簡単に言えば、カルトは、それを信じたら救われないような何かを教えるグループのことです。宗教とは違って、カルトはその宗教の一部であると主張しますが、それでいてその宗教の基本的な真理を否定します。キリスト教のカルトは、クリスチャンであると主張しながら、キリスト教の真理の原理を否定するグループです。」ほぼ正しいカルト理解と思うが、ほとんどのカルトは無邪気に見えるというのは、いささか甘いと言わざるを得ない。

 私のカルトについての個人的理解は、次のようなものである。「カルトとは、人々に教祖とその教えに対する絶対的忠誠を要求し、一旦その集団に帰属させた人に対しては、恐怖と洗脳によるマインドコントロールを施し、教祖また組織に人格と生活を従属させ、人間関係を破壊し、財産、労力、時間を搾取する集団のこと。その教祖と指導者たちは、しばしば悪霊に取り憑かれており、人々を真の神とその教えから遠ざけ、社会と家庭に対する精神的破壊活動を行う邪悪な集団である。」世の中に、無邪気なカルトなど無い。数多くの宗教団体がある中で、信者たちに教祖やその教えに対する盲従を強いており、かつ金銭的要求を行うものは、ほとんど全てカルトに類別されると見て良いだろう。統一教会系に限らずとも、創価学会などは、実質的にはカルトに当たる組織ではないだろうか。ちなみに、統一教会と創価学会には共通点が多々あるが、いずれも政界や司法部門を含む中央官庁に広く浸透していることも1つである。また、両者とも、朝鮮半島系の人脈を中心に組織され、運営されて来たことも共通点として挙げられよう。彼らは、日本人の財産を収奪し人生を破壊することに、何の痛痒も感じていないと思えるが、「日帝36年の植民地支配」の償いをさせているという意識が根底にあるのだろう。統一教会は、教理上も、日本は韓国に服従すべきことを謳っている。日韓併合の身から出た錆とは言え、とんだ獅子身中の虫を許容して来たのは、政治家や官僚らの中に、彼らの側に立つものが少なくなかったからである。

 さて、統一教会は、20年くらい前までは、霊感商法や合同結婚式などで、多くの訴訟が起こされて、ある種社会問題ともなっていた。多くの日本人は、彼らが普通の宗教団体とは違う、異様な集団であり、近づかない方が良いという認識を持っていたと思う。今でも、その認識は多くの人々が持っていると思うが、いつの頃からか、マスコミで批判的に取り上げられることが少なくなっていった。彼らによる、マスコミ浸透工作が功を奏した為であろう。だが、統一教会と、その分派であるサンクチュアリ教会などの集団の本質は変わっていない。それどころか、日本社会要所への浸透がより進んだと言えるであろう。このうち、キリスト教界への浸透に関しては、「異端・カルト110番」というサイトが詳しく取り上げているので、是非参考にしていただきたい。サイト運営者の一人は、私の友人でもある韓国人牧師であるが、彼の牧会する教会も、カルトによる分断工作のターゲットにされたことがあり、戦いは現実に起きているのである。同サイトには、他にも「新天地」や「全能神教会」など、韓国系や中国系のカルトに関する情報も掲載されており、大いに参考になる。

 安倍氏暗殺は、現在の日本が、カルトにより激しく汚染されていることを世に知らしめた。警察やマスコミは、今回の事件を山上某の個人的犯行に矮小化しようとしているが、彼の手製銃から発射されたと言われる弾は、安倍氏に致命傷を与えることはおろか、周囲の人々を含め、人体にはかすりもしなかったと思われる。状況は、大きな組織が動いた可能性が極めて高いことを示している。安倍氏は、恐らくは、知り過ぎたのであろうし、背後の勢力にとって独断専行が過ぎたのであろう。彼は、統一教会のようなカルトと親密に関わると、ろくな事は無いという事実を、身を持って示すこととなった。安倍氏の「犠牲」を無駄にしたくないのであれば、統一教会が切望する内容での改憲を進めるのではなく、日本から彼らの影響力を除去し、国政を正常化することが必要である。そうすれば、社会は明るさと活力を取り戻し、日本に再生の芽が出て来ると思う。そのためにも、私たち一人一人が、カルトに対する警戒感を持ち、彼らの策略を見破る知恵と知識を得ることが不可欠であろう。神の言葉である聖書と、神の霊である聖霊とが、私たちに、その優れた知恵と知識とを与えてくださる。

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない」(マタイによる福音書 7:15-18 口語訳)
read more…

安倍氏暗殺に思う(記事No.121)

 昨日は、安倍元首相が銃撃され死亡したというニュースが、日本中を駆け巡った。テレビ番組などは、関連報道一色だったようである。早速、ネット上では、事件に関する不自然な点などを指摘するものを含めて、解説や分析の記事が次々とアップされた。中でも、最も大胆な説としては、事件は、いわゆる偽旗であり、実際には、安倍氏は殺されていなかったというものがある。その説によれば、安倍氏を悲劇のヒーローに仕立て上げることで、支配者集団にとって都合の良い状況を作り上げようとしたと言うことである。海外では、これまでに政治的指導者の死が偽装された事例がいくつもあったとは思う。例えば、第2次世界大戦末期に、ヒトラーがベルリンの防空壕で拳銃自殺したとされているケースがある。ヒトラーの死体は顔の判別がつかない程に焼かれていたので、歯科治療の跡が一致したとされているのが、物的証拠らしきものとして挙げられている。だが、実は、軍用機でベルリンを脱出して占領下のノルウェーに跳び、そこから潜水艦で南米または南極に脱出したという説もあり、目撃証言とされるものもある。ヒトラーの死の真相は藪の中ではあるが、安倍氏の場合は、一応は平時のことであって、暗殺死を偽装するのは、政府や自民党にとってリスクが大き過ぎる。やはり、実際に暗殺されたとみて間違い無いと思う。

 しかし、報道されているように、現行犯逮捕された41歳の男が放った銃弾が、本当に致命傷であったのかは大いに疑問である。逮捕された山上某であるが、逮捕されて数時間もしない内に、元海上自衛官であることや、犯行の動機や準備に関わる情報が次々出たことには早過ぎる感が否めない。どうしても、ケネディ大統領暗殺犯とされた、オズワルドのことを連想してしまう。あるいは、要人暗殺では無いが、9.11同時多発テロ事件の犯人とされた者たちの場合も、アメリカ国内での飛行訓練の様子など、事件後に次々と、いかにもな状況証拠が出て来たことを思い出す。はっきり言えば、特殊部隊経験者でもない元海上自衛官が、手製の「銃」と「銃弾」で至近距離から2発撃ったところ、ターゲットの心臓に大穴を開けたなど、あまりにも出来過ぎた話である。私自身も、アメリカ留学中に、趣味で通算数千発の小銃射撃を経験したが、どうしたら素人が手製の簡易的な銃と弾で、周囲の人々には一切被弾させずに、正確にターゲットの人物だけに致命傷を与えられるのか、合理的な説明が思いつかない。もっとも、これは、犯人にとっての好条件が偶然にも重なったのだと説明されるのであろう。山上某が現場で発砲したのは事実であろうが、致命傷を与えたのは、別に存在したプロの狙撃手であった可能性が高いと考える。

 暗殺事件の真相がどうであれ、安倍氏が殺されたことで、誰が得をしたのだろうか?そう考えるのは、政治家の暗殺の場合、単独犯の犯行とされたとしても、必ず教唆した者や支援を与えた者または組織が存在すると見るべきだからである。2002年10月25日に刺殺された、石井紘基衆議院議員の場合は、刺殺犯の自称右翼伊藤某は、石井議員との間に生じた金銭トラブルを恨みに思ったのが動機であると、個人的犯行を主張し、裁判でも真の動機は解明されなかった。しかし、2010年10月にテレビ朝日で放送された、当該事件に関するドキュメンタリー番組によると、同テレビ局の記者が獄中の伊藤某と面会して聞き出したところでは、「実は頼まれてやった。」との告白を得たと言う。その後、伊藤某は記者との面会を拒否するようになり、告白の内容が事実であったのかは謎のままである。なお、石井議員は暗殺される前に、国会で特別会計に関する追及を始めており、殺害されたのは、決定的な国会質問をする予定の前日であったとも言われている。同議員の暗殺に組織的背景があったのか、その証拠は判明していないが、確かなことは、石井議員の死により、利益を得た者たち、個人や組織・集団があったことは、紛れもない事実である。安倍氏の場合は、森友問題などの疑惑の最重要当事者が消えたことや、アベノミクスの失敗責任を安倍氏一身に負わせることが出来るようになったことで、日本の支配層にとっては、臭い物に蓋をすることが出来たとも考えられよう。あるいは、パペットはコントロールが効かなくなると、ハンドラーによって処分されるということかも知れない。安倍氏暗殺のタイミングが、参議院議員選挙投票日の2日前であったことは、これで同情票が大幅に積み上がるとも思えないが、仮に選挙不正が行われた場合には、与党大勝利の理由の1つに使われるのではないだろうか。

 ところで、個人的に私は、これまで安倍氏の政策の多くには反対であったし、保身のためには末端の官僚を死に追いやっても省みない、彼の人間性には嫌悪感さえ覚えることもあった。しかし、同氏がこのような形で世を去ることは望んでいなかった。彼は、数々の疑獄に関して法的責任を追求されるべきであったし、アベノミクスや消費税増税などの失政により、日本に経済的惨状をもたらした政治的責任を取るべきであった。その他にも、ロシアとの外交交渉の失敗や、海外への累計数十兆円(あるいは1桁上かも知れないが。)のバラ撒きなど、彼の責に帰せられるべきことは多くあったと思う。国家の最高指導者として、時に政治責任を追求されることに堪えられないのであれば、最初から宰相の座を狙うべきでは無かったが、権力欲は人一倍旺盛であったのだろう。対米従属の深化を含め、安倍氏が日本に与えた傷は深く、彼が残したツケは、今後も日本国民が払わされるのである。日本人の多くは、死んだらみんな仏になると考えているともされるが、公職者はたとえ仏(と呼ばれる存在)になっても、在職中の行為については、公的にも私的にも、検証され評価される必要があると考える。その意味において、決して安倍氏を美化してはならず、まして、神格化する人がいるとしたら、とんでもない勘違いと言うべきである。今、安倍氏は陰府で、世の終わりの時の、神の最後の審判を待つ身となった。私たちが、神の審判の結果を想像することには、ほとんど意味が無い。それは、全く神の専権事項であって、神と、その人との問題である。私は、安倍氏のために涙を流さなかったが、しかし、彼の死を喜ばない。彼が暗殺されたことを、残念に、また気の毒に思う。彼もまた、イエスの救いを受けなければならなかった。世の終わりの時には、神が、彼を公正に扱われるであろう。

「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。 主がそういうあなたを見て不快とされるなら 彼への怒りを翻されるであろう。 悪事を働く者に怒りを覚えたり 主に逆らう者のことに心を燃やすことはない。 悪者には未来はない。主に逆らう者の灯は消える」(箴言 24:17-20 新共同訳)
read more…

自由への闘い(記事No.121)

 昨日、Netflixで「ミラダ 自由への闘い 」という映画を観た。2017年に製作された、アメリカとチェコの合作である。この映画は、ミラダ・ホラーコヴァというチェコスロバキアの法律家であり、政治家であった、実在の女性の半生を描いたものである。映画を観るまでは、恥ずかしながら、ミラダ氏のことは知らなかった。1901年12月25日にプラハで生まれた彼女は、大学で法律学を学び、その後は女性の地位向上運動に携わった。第2次世界大戦中は、チェコスロバキアを占領したドイツ軍に対するレジスタンスに加わったが、1940年に夫と共にナチス当局により逮捕され、1945年4月にアメリカ軍によって解放されるまで服役する。戦後は、1946年に国民社会党から国会に立候補し当選、民主的な国家建設のために働いた。しかし、1948年2月に共産党がクーデターを起こすと、彼女はこれに抗議して議員を辞任した。彼女の政治的同志らは、西側への亡命を勧めたが、ミラダ氏は祖国に留まることを選び、プラハで政治的活動を続けた。

 1949年9月27日、彼女は共産主義政権を転覆させる計画のリーダーであるとして、仲間の活動家らと共に逮捕された。公判が開かれるまでの間、ミラダ氏と他の被告たちは、肉体的・精神的拷問を受け、罪を認めるよう強要された。彼女らにかけられた容疑は、アメリカなど西側諸国に協力し政府を転覆しようとした反逆罪と、スパイ行為の共謀罪であった。ミラダ氏と彼女の12名の同志らに対する裁判は、共産主義者らの常で、見せしめを目的としていた。彼女らは、共産党指導部によって扇動された市民らの憎悪の対象となり、新聞、ラジオなどは、大々的に糾弾キャンペーンを展開した。裁判は共産主義政権の筋書きに沿って進められ、1950年6月24日に最高裁判所で、ミラダ氏を含めた4人の良心の囚人に対する死刑判決が確定した。世界各国の多くの人々から、彼女らに対する死刑回避の嘆願がチェコスロバキア政府に寄せられた。その中には、アルバート・アインシュタイン、エレノア・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルなど、米英の著名人も含まれていた。しかしながら、当時のチェコスロバキア首相のアントニーン・ザーポトッキと、共産党議長のクレメント・ゴットワルドは、それらの嘆願書を一顧だにしなかった。

 国際社会からの嘆願も虚しく、1950年6月27日の夜明け、プラハのパンクラック刑務所の裏庭で4人の囚人に対して死刑が執行されることになった。前日の夜、死刑囚らは短時間それぞれの家族と面会することが許された、ミラダ氏のもとを訪れたのは、彼女の娘のヤナ、妹とその夫の3人であった。記録によると、ミラダ氏は4人の内で最後に絞首台に送られ、全ての処刑は午前5時43分に終わったと言う。ミラダ氏の最後の言葉は、次のようであったと記録されている。「私は、この戦いには敗れました。しかし、誇りを持って世を去ります。私は、この国と国民とを愛しています。彼らの幸福のために働いて来ました。私は、あなたたちを憎んではいません。私は、あなたたちが…。(最後の言葉が終わる前に、絞首台の床板が開いたと思われる。)」彼女の遺体は荼毘に付されたが、その遺灰は遺族には返還されず、遺棄された場所は知られていない。彼女の夫ボフスラス氏は、逮捕を寸前で逃れて国外脱出に成功し、後年アメリカで娘のヤナと再会を果たした。1968年6月の「プラハの春」の時、ミラダ氏の判決は無効と宣言された。共産主義体制崩壊後の1991年になって、彼女には勲章が授与され、正式に国家のための犠牲者と認定された。現在チェコでは、ミラダ氏が処刑された6月27日は、「共産主義体制の犠牲者のための記念日」として定められている。

 映画の中でも、ミラダ氏ら自由主義者に対する共産主義者らの憎悪が描かれていたが、これは、共産化した国々では普遍的に見られたことであった。ソ連が構築した巨大な収容所システム、自国民を千万人単位で殺害した中国の文化大革命、カンボジアでは子供たちに親や教師を殺させた等々、彼らが行った粛清は、単に政敵を排除するという合理的な動機ではなく、人々に血を流させることを狙ったと言えるであろう。彼らの思想のルーツは悪魔であり、彼らの行動は悪霊どもに導かれていたからである。日本では幸い、共産革命は成就しなかったが、もしそれが実現していたなら、皇室を筆頭に、旧体制派と見做された人々は、ことごとく処刑されるか収容所送りになっていたことだろう。もっとも、危険で邪悪な思想は共産主義に限らず、あらゆる全体主義がそうであり、ナチズムや、日本でもかつての国家神道体制下での軍国主義も該当するだろう。今日では、新型コロナ・パンデミックを作り出し、ワン・ワールドを実現しようとしている者たちの思想は、共産主義やナチズムと根底では同一である。彼らが、自由を愛する人々を激しく憎悪するのは、彼らの霊的、思想的マスターが誰であるかを如実に示している。

「悪い者を正しいとすることも 正しい人を悪いとすることも ともに、主のいとわれることである」(箴言 17:15 新共同訳)


 ミラダ氏は、彼女の政治活動の中で、ナチスと共産主義体制という2つの勢力と対決した。彼女は自由な社会を守り、国民を幸せにしようとの強固な意志と信念を持っていた。多くの同志たちが逮捕、投獄され、ある者らは転向し、他の者たちは国外に逃れる中、祖国に留まることを選択し、最後まで自分の信念を捨てなかった。彼女を、そのように保ったのは、神に対する信仰であった。彼女は若き時、夫のボフスラフ氏の家族から信仰的感化を受け、イエス・キリストを受け入れ、チェコ福音ブラザレン教会の信徒として忠実に神に仕えた。彼女が獄中から義母に宛てて出した手紙には、詩篇23編の言葉は全く真実であると書かれていた。彼女が処刑の数時間前に家族宛に記した手紙には、自分自身を慎んで神の最高の審判に委ねるとあった。この地上では不正義の犠牲となったミラダ氏であったが、正義の神は彼女に天で最高の栄誉を与えられた。この地上においても、1989年にビロード革命でチェコスロバキアの共産主義体制は崩壊し、1993年には国はチェコとスロバキアに分離した。その後、ミラダ氏を告発した検察官らの最後の生き残りが、司法殺人の容疑で起訴され、80代の彼女は有罪となり刑務所に送られた。ミラダ氏の名誉は回復され、彼女はチェコの人々の良心と正義の象徴となった。それだけでなく、彼女の生涯は、世界中で今なお自由を守るために闘い続ける人々にとって、先駆者の一人として輝いている。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(詩篇 23編1-6節 新共同訳)
read more…

響き合う被造物たち(記事No.120)

 3週間ほど前のことであるが、農家で米作りをしているクリスチャンの友人より、今年の田植えが無事終わったとの連絡があった。友人曰く、「お米さん達に、元気に育ってください。ありがとうね。と言葉をかけておきました。」とのことである。本ブログの読者の皆さんであれば、何もおかしな話ではないと思われるだろう。植物に肯定的な言葉をかけるのと、否定的な言葉をかけるのとでは、前者が元気によく育つのに対して、後者は元気が無く育ちも悪いことは、様々な実験などで確かめられている。1例を挙げると、数年前に家具のIKEAが公開した、いじめ撲滅のプロモーション・ビデオで、興味深い実証実験の結果が見られる。興味のある方は、"Bully A Plant"、"IKEA"でネット検索すると、その動画を見ることが出来る。

 IKEAはアラブ首長国連邦で、いじめ撲滅を訴えるための、ユニークな啓発プロモーションを実施した。「お互いの接し方によって幸せは伝播すると信じている」というIKEAは、これを実証するためにUAE国内の小学校で、生徒たちの協力により実証実験を行った。学校に設置されたのが、それぞれ観葉植物のようなものが植えられた二つの植木鉢である。そのうちの1つに対しては、事前に録音された「お前のことは誰も気づかない」などのネガティブな言葉(音声)をループ再生して聞かせた。もう1つには、「あなたは美しい」などポジティブな言葉を同じくループ再生して聞かせた。それぞれの言葉は、生徒たちにも協力してもらいバリエーションを増やして、2鉢の植物に繰り返し聞かせた。その状態を30日続けた結果、植物の成長度合いは対照的な結果となった。ネガティブな言葉を受け続けた植物は枯れてしまい、ポジティブな言葉を受け続けた植物は順調に育ったのである。

 同じような検証は、植物だけでなく、水などでも行われて来た。例えば、クラシック音楽を聴かせた水と、ヘビーメタルを聴かせた水とでは、結晶の美しさがまるで違う結果となることもそうである。これらのことから明らかなのは、私たちの言葉や音楽には伝える力があり、他の被造物は、私たちの言葉や音楽が与えるメッセージを理解出来ることである。このことは、犬や猫を飼ったことのある人にとっては、普通のことであると思う。私自身は、子供の頃、鳥類を飼ったことがあるだけで、犬猫は飼ったことは無い。だが、大学生の時に、2匹の犬の飼い主である初老の夫妻の旅行中に、住み込みでペットの犬の世話をしたことがあった。シェパードと犬種は忘れたが中型犬であったが、彼らに初めて会った時には警戒されて吠え続けられた。しかし、飼い主の夫妻が旅行に発つと、餌や散歩の世話をしてくれる私に逆らっては損だと思ったのか、次第に懐くようになった。お世話初日の夜から、私が割り当てられた寝室に入ると、もっと遊んでくれとばかりに、しばらく部屋の扉をカリカリ掻くのであった。飼い主たちが戻る頃には、私たちは、すっかり友達になっていたのである。

 さて、人間は被造物の中で、天使たちを除けば唯一、霊が与えられている存在である。すなわち、霊、魂、体から成る人格的存在として創造されたのが人である。他の被造物には、霊は無く、魂と体が与えられている。先に植物の例を挙げたように、魂は、そう呼ぶのが相応しいかは別として、動物などの狭義の生き物だけでなく、木や草にも与えられている。また、水がそうであるように、およそ自然界を構成する物質には、被造物同士でコミュケーションを取ることが出来る性質が与えられている。全ての被造物は、互いに交流するように造られている。人は霊で創造主である神と交流し、魂で他の被造物と交流するのである。それは、人が全ての被造物を治めることを、神から委ねられていることとも通じる。これは、「文化命令」とも言われ、天地創造の時に神が人に命じられたことである。

「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記 1:28 口語訳)


 神が文化命令の中で、「地を従わせよ」、「全ての生き物とを治めよ」と言われたことは、人が自然や生き物に対して好き放題振る舞えるという意味では無い。そうではなく、唯一霊を与えられた被造物の中のリーダー役として、神の意思をこの世界に実現する責務と権威を与えられたということである。であるから、私たちは、自分たちの考えを他の被造物に押し付けるのではなく、神の考えを探り、その創造の計画に沿った被造物管理を行わなければならない。この原則に立つならば、自然環境に長期にわたり悪影響を与えること、例えば原子力発電などは廃止すべきであることは言うまでも無い。穀物や野菜などの遺伝子組み換えも、自然の性質を人工的に改変する手法としては、行き過ぎたものであろう。この世界を正しく管理するためには、私たち自身が、神に似せて造られた存在として、神を信じ、その創造の秩序の内に歩む必要がある。全ての被造物は、そのような私たちの到来を待ち望んでいる。

「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ローマ人への手紙 8:19 口語訳)


 私たちを含めて、全ての被造物は孤立して存在し得るものでは無い。相互に依存し、作用し合っている。私たちは、他の被造物に良い影響も悪い影響も与えることが出来る。そして、人を含めた全ての被造物には、イエス・キリストにより与えられる新しい命が必要である。人がイエスにより罪が贖われて新しい命を得る時、他の被造物に、その波動、あるいはエネルギーが伝わり、彼らもまた、神の命の喜びや平安を得る。実に全ての被造物は、互いに響き合っているのだ。世界を苦しみから解放することが出来るのか否かは、私たちの選択にかかっている。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙 8:22 口語訳)
read more…

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(記事No.119)

 今回は最初に、程度の低いエピソードを1つ紹介したい。先日、妻が次男のクラスメートの母親たちのランチ会に参加した。子供同士仲が良い母親4人が、その内の1人の発案とコーディネートで初めて集まることになった。幹事役が設定した会場は、京都駅からタクシーで数分のところにあるホテルで、玄関に到着すると支配人ら3人が出迎えたので驚いたと言う。場所から何から幹事役にお任せだったこともあり、会費が6,000円とは随分高いと思ったが、会場が決まってから伝えられたので、断れなかったと言う。最初から内容が分かっていたら、ノコノコ行かなかったのだろう。ホテルで通されたVIPルームでは、コースの食事が出たとのことである。何でも、幹事役が同系列のホテルの支配人と知り合いで、そのルートで手配してもらったらしい。妻は少しおしゃれ気味の普段着で出かけたのだが、幹事役は芸能人のようないでたちで現れ、いかにもセレブ風に見せていたそうである。帰り際には、ホテルから、お菓子のお土産までもらったとのことであった。

 長男が中高生の時に、母親同士の気軽なランチ会に妻も時折参加していたが、今回の幹事役は、初めて接したタイプの人であったという。これまでも、マウントを取りたがる人々には随分と会って来たが、これほど強烈にセレブ臭を発散させていたのは、今回が初めてであったとのこと。もしかしたら、その幹事役にとっては、普段通りのランチ会であったのかも知れない。それ自体は個人の生活スタイルであるが、問題は、中学生の母親のランチ会で、しかも、初対面同士が集まるのに、あえてシティ・ホテルを会場に、6,000円の会費で設定する感覚であろう。私も、仕事などを通して知り合った人々の中には、世間的には金持ちに該当する人々もいる。しかし、多少なりとも個人的に付き合いのある人々の中では、金持ちであることを、殊更ひけらかすような人はいない。くだんの幹事役は、自分がセレブ(?)であることを見せつけたかったのだと思う。

 帰宅した私に、一部始終を話した妻は、もう二度と同じメンバーでのランチ会は御免だと言う。自慢話をあれこれ聞かされる訳であるから、それも当然であろう。別に不思議なことでもないが、世の中には、何かと自慢することが好きな人たちも存在する。持ち物の自慢などは、その人の幼児性が現れているようで、ニコニコ笑いながら聞き流せば良い程度のものである。自慢レベルが少し高くなると、職業や社会的地位、年収などを何かとひけらかしたいのが伝わる。自慢したがる人は男女問わずいるが、偏見かも知れないが、配偶者の学歴や職業、子供の学校や成績自慢などは、どちらかと言えば、女性の方に多く見受けられる。自慢あるいはマウントは、嫉妬心の裏返しでもあるが、男性の方が、それを表に出さないように、抑えようとする傾向があるのかも知れない。この辺りは、アダムを誘惑したのがエバであったことや、イスラエル王を堕落させたのが、王妃イゼベルであったことなどからも、男女の霊的な、正確には魂の性質の違いかも知れない。

 人は誰でも、他人から認められたいという欲求(承認欲求)を有している。それ自体は、悪いこととは言えず、魂の自然な性質の一部である。私が思うに、自慢とは、歪んだ承認欲求の現れではないだろうか。意識の深部に、人としての存在価値を十分認めてもらっていないとの思いが強くある程、自慢への渇望度も高くなるのだと思う。そのような人にとっては、何か他人よりも優越感を得られることがあれば、それは自慢の種となり、あの手この手でひけらかすのである。そこには、人の虚栄心、あるいは、劣等感や嫉妬心を刺激して、自慢を引き起こさせる悪霊の働きもある。生活の質を高めたいという願いは、私も持っているし、多くのクリスチャンも同じであろう。進んで清貧に生きようとすることは、霊的賜物の1つでもあるだろうし、誰もが出来る訳ではない。だが、何でも他人に対する自慢をしようとすれば、それは自らの品性を卑しめることになり、無限ループのように続く競争心の発露により、魂の安息を得られることは決して無い。

「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」(コヘレトの言葉 4:4 新共同訳)


 聖書には、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」は、神から出るものではなく、世から出るものとある。この場合の世とは、神を認めない価値観に立つ世界のことであり、その支配者は悪魔である。そうなると、自慢のルーツは悪魔であり、そこには悪霊が働いていることが分かる。それゆえ、私たちは、自慢することが自分の性質の一部とならないように、十分気をつける必要がある。そうでないと、知らず知らずのうちに、私たちの価値観が、世の価値観と同様になって行き、世が与えるものより優れた、神からの知恵や力を得ようとしなくなるかも知れない。私たちは、誰かから自慢された時、その対象が自分が持っていないものであったとしても、劣等感や敗北感を抱く必要は全く無い。そんなつまらない事に、あるいは、あえて言うが、程度が低い人に、悩まされるより、神の御心を求め、それを行うことが重要である。私たちが真摯に追い求めるべきものは、遅かれ早かれ過ぎ去る世のものではなく、永遠に残る実であるべきだ。

「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(ヨハネの手紙第一 2:16-17 新改訳)
read more…

やがてアジアの最貧国に(記事No.118)

 本ブログ読者の皆さんは、情報リテラシーも高く、社会の動きにも敏感であると思うので、今回書くことは、別に驚くには値しないことであろう。京都新聞2022年6月19日付朝刊1面トップに、「"安い" 日本 世界に遅れ」との見出しで、中華圏の外国人投資家などが、京都の不動産を買い漁っているとの記事が掲載されていた。記事の中に、「地元の若者がローンを組んでも手を出せない住宅や企業が手放した高額物件を、海外勢が買って行くー。こんな京都の姿から見えてくるのは、約30年にわたって物価や賃金が伸び悩み続ける、日本という国の"安さ"だろう。」とあった。

 同記事には、日本の物価や賃金の伸び悩みの原因について、大学教授の解説があったが、紙幅の都合もあってか、表層的な分析が書かれるにとどまっていた。だが、専門家による分析に頼らずとも、物事には原因と結果の法則があることを踏まえて、誰でもその原因を導き出すことが出来るだろう。単純かつ控えめに言えば、誰かが日本を豊かにしようとしなかったからである。誰が?直接的には、日本の政治家たちがである。さらに突き詰めるなら、そのような政治家たちを選んで来た選挙民、日本の国民自身である。もちろん、健康上などの理由が無いのに投票を放棄した人々は、白紙委任であるので同罪である。だが、最大の「犯人」は、事実上の宗主国のアメリカであることは論を待たない。日本を利用しようとする中国や韓国の動きは、どちらかと言えば、アメリカに便乗したコバンザメ戦略であろう。

 飛ばし記事が珍しくない産経新聞の報道だったので真偽は不明であるが、アメリカのローレンス・サマーズ元国務長官は、東日本大震災が発生した直後の2011年3月23日に、「誠に残念ですが、日本は貧しくなるでしょう。」と発言したらしい。仮に、この発言が事実であれば、「彼ら」の予想ではなく計画を告知したものであったのだろう。事実でなかったとしても、「彼ら」なら言いかねない本音であろう。これまでも本ブログで書いて来たように、「彼ら」とは、一般のアメリカ国民ではなく、アメリカという国家に寄生している悪魔崇拝のグローバリストらのことである。「彼ら」は、第2次世界大戦の戦利品である日本を、骨の髄までしゃぶりつくし、とことん利用する意思を持っていると断じて差し支えないであろう。

 日本は敗戦後今日に至るまで、アメリカのくびきに加え、獅子身中の虫たちに食い荒らされて来た。売国の政治家、国民に対して冷酷な官僚、金儲けになれば独裁国家にも尻尾を振る財界人、体制の宣伝機関マスコミの似非ジャーナリスト、科学よりも金の御用学者等々である。考えようによっては、足を引っ張る存在がこんなに蠢いているのに、よくも一応は経済大国、先進国として、ここまでやって来れたものである。国民の勤勉さに加え、人口増加、いわゆる人口ボーナスの恩恵が大きかったと思う。しかし、それも既に終わり、人口減少、すなわち人口オーナスが今後も続いて行く。小手先の対策では、没落国家になるしか無いのである。

 7年以上前のインタビューでの発言であるが、PRESIDENTオンライン版2015年1月12日付記事にあった、高名なアメリカ人投資家であるジム・ロジャース氏の、日本に対する警鐘が現実となっている。同氏曰く、「安倍晋三首相は最後に放った矢が自分の背中に突き刺さって命取りとなり、日本を破綻させた人物として歴史に名を残すことになるでしょう。自国通貨の価値を下げるなんて、狂気の沙汰としか思えません。円はここ数年で45~50%も下落していますが、これは先進国の通貨の動きとしては異常です。このようなことが起きると国家は崩壊し、時には戦争に発展します。」とある。この記事が出た当日の円ドルレートは、1ドル119.87円であったが、第2次安倍政権が発足した2012年12月26日時点では、1ドル85.35円であった、それから9年半後の現時点で、1ドル134.円近辺である。何と、約58パーセントも下落している。外国から見れば、日本はバーゲンセール中であって、冒頭に紹介した京都新聞記事のようになるのが必然であろう。

 ジム・ロジャース氏は「予言」し、異常な円安政策の行き着くところは、日本国家の崩壊と、あるいは戦争の勃発であると言う。それでは、現在の日本はどうであろうか?安定した国家であり、戦争が起こる可能性は極めて低いのだろうか?私は、現在の日本は、社会が不安定化しており、国力が下降の一途であって、口先だけは愛国者の、似非保守の狂人らは戦争を指向しているとの見方である。このまま進めば、戦争勃発が無かったとしても、やがてはアジア最貧国の1つに転落すること必至である。これまでは考えられもしなかったことだが、北朝鮮でさえ、その豊富な鉱物資源と発展途上の労働力を活かし、最小限中国並みの改革・開放が進むなら、国民一人あたりでは、日本よりも豊かになる潜在力を有していると思う。来月には参議院選挙が行われるが、私たちは、もっと日本の現状に危機感を抱き、1つ1つの選挙にも真剣に1票を投じる必要があるだろう。

 以上の記事では触れなかったが、日本が着実に貧しくなって来ている種々の要因の背後には、霊的な動きが存在する。「偽りの霊」、「高慢の霊」、「貧困の霊」、「恐れの霊」など、この国に対して働く悪霊どもが、国内外の人々を用いて、日本を貶めてきた。対抗するには、イエス・キリストによる神の力と知恵を受けるほか無い。日本の政治的、経済的問題は、実は霊的問題でもあるのだ。このことについては、これからも取り上げて行きたいと思う。前途多難な日本であるが、使徒パウロを通して語られた聖書の教えを1つ挙げておきたい。日本社会が今後どのような状況になったとしても、神を信じ、このお方に頼る人には、不思議な力と知恵が与えられ、その人生は神の恵みによって導かれるのである。

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ人への手紙 4:12 口語訳)
read more…

5年ぶりの再会(記事No.117)

 先週、都内で5年ぶりに、クリスチャンの友人夫妻と彼らのお嬢さんと再会した。友人夫妻は、日本に帰化した中国人であるが、7、8年前に、事業を立ち上げるために中国に一旦戻っていた。最後に会ったのは、2017年3月に子供たちを連れて訪れた、上海でのことである。今回は、ご主人のビザ更新もあり、何年かぶりに一時帰国した機会に会うことになり、私たち夫婦と次男で出向いたのである。友人夫妻の子供たちは既に就職しており、それぞれ別々に住んでいるが、今回はお嬢さんが一緒であった。

 私たち夫婦が彼らに出会ったのは、今を遡ること20年以上前、東京都内の教会に通っていた時のことである。その教会は、礼拝は英語の同時通訳付きで行われており、ビジネスマンや留学生、外交官などの、多国籍の外国人も集っていた。友人夫妻の母語は中国語であるが、留学生出身で日本語が堪能なことで、礼拝説教を聞くことや、日本人の教会員とのコミュニケーションを取ることには不自由なかった。私たちは、お互い気が合い、年齢も数歳違いと近いこともあり、出会って数ヶ月くらいで友人同士となった。その10年後くらいに、私たちは都下での教会開拓のため独立し、彼らも中国に渡ったので、1、2年に1回くらい日本か中国で会う様な繋がりとなった。

 現在彼らは、中国でそれぞれ別々の分野で事業を展開している。新型コロナ流行が始まって以降は、特にご主人の方は、リモート・ミーティングなども多用し、今では中国各地に顧客を有している。奥様の方は、今は講演活動に力を入れているところである。彼らの尊敬すべき点は多々あるが、何といっても、その人柄と、クリスチャンとして信仰深いことが素晴らしい。時々、信仰熱心な人の中には、ある種浮世離れしているかのような人もいるが、彼らは、それぞれの仕事にも熱心で、かつ実を結んでいるのである。また、彼らの二人の子供たちも優秀であり、それぞれ、外資系IT企業で働いている。

 彼らは、一見、絵に描いたような立派な家族であるが、もちろん最初からそうだった訳ではない。ご主人の方は、日本留学中に母国で天安門事件が発生したが、中国政府に対する抗議活動に参加したため、帰国すると身に危険が及ぶ可能性が生じ、卒業後は日本に留まり就職した。その後、日本に帰化している。奥様の方も、中国の高名な一族の出身であるにもかかわらず、ご主人と共に日本国籍を取得している。私たちが彼らと出会った当時、彼らの長女が小学生、長男は2歳くらいであった。特に、長男の方は愛くるしく、教会の中でアイドル的な存在であった。だが、彼らは、それぞれ中学生になった頃から、中国系ということで、愛や知性に欠如したクラスメートらから、からかわれるなどの嫌がらせを受けるようになった。そのため、どちらも、両親の母語である中国語を学ぶことを拒絶し、中国系日本人であることに、負い目を感じるようになった。

 その頃、友人夫妻は、それぞれ転職を重ねた後、相次いで独立し、最初に会社を設立した奥様は貿易を、ご主人の方は、少し遅れてコンサルティング会社を設立した。だが、ご主人の会社は、やがて経営困難となり、休業することになった。一時は、奥様の方は、離婚も真剣に考えたそうである。その当時、第2次安倍政権で、いわゆる有事法制が成立したが、高校に入学した彼らの長男は、これに危機感を持った。彼は、もし将来徴兵制が導入されれば、中国系である自分は、危険な場所に配置されるのではないかと考えたのだ。外国系であると言うだけで差別する、心の狭い人々が少なくない日本であるから、彼の抱いた危機感も当然のことであったと思う。彼は迅速に行動し、高校を中退して、カナダに渡り、現地の高校に編入した。そこで彼は、中国人を含めた様々な国の出身者たちと出会い、人として大きく成長することになった。カナダの大学に進学後彼は、中国のトップクラスの大学の奨学留学生試験に合格し、卒業後は日本に戻り、台湾系IT企業の日本法人に就職した。今では、母語の日本語のほか、英語、中国語に堪能な国際人材として活躍している。

 彼らの長女の方も、決して順風満帆な人生を送って来た訳ではない。小さい頃から俊敏で、中学に入ってからは運動部でも活躍していた彼女は、高校3年生の時、脳腫瘍になり、命の危機に瀕する試練に会った。しかし、両親の必死の祈りに神は応えてくださり、彼女は癒され、無事大学に進学することが出来た。大学生となってから、病気が再発したのだが、その過程で彼女の信仰も練られ、再び神の癒しが現された。以後、現在に至る迄病気の再発はせず、健康が守られている。高校生の頃までは嫌っていた中国語の勉強も、中国の大学に1年間留学するなど、自ら進んで取り組むようになった。現在は、外資系IT会社で働いている。

 友人家族の歩んで来た道を見ると、どのような時でも、例え人の考えでは最悪の状況においても、常に神の守りがあったことを思わされる。現在も、奥様の方は、闘病中のなのだが、今回の帰国前に入院した中国の病院では、入院患者や病院職員らに対して積極的にイエスを証しし、何人かが信仰を持つに至ったと言う。このため、共産党からの叱責を恐れた病院幹部の思惑があってか、予定より早く退院するよう懇願されてしまったと言う。以前から伝道熱心であったが、子供たちの反抗、ご主人の事業の挫折、自身の病気など、数々の試練を通り抜け、多くの涙を流して来たであろうが、その年月の中で、神の恵みを多く体験したことで、その証はより力強いものとなった。

 5年ぶりに彼らと会った翌日、ご主人から私にメッセージが送られて来た。そこには、「神様の豊かな愛が、どのくらいの時間会わなくとも、どのくらいの距離が離れていたとしても、私たちの心と愛を繋いでいると思います。」と書かれていた。彼らは、キリストに在る兄弟姉妹であり、私たち夫婦の大切な親友である。彼らと知り合わせてくださった神に感謝し、私たちも、彼らの愛と熱心な信仰に倣う者となりたいと願う。

「友の振りをする友もあり 兄弟よりも愛し、親密になる人もある」(箴言 18:24 新共同訳)
read more…

深く静かに浸透せよ(記事No.116)

 今回の記事も、登場人物は実在の人々であり、実際の出来事に関して書く。しかし、内容には現時点で未確認かつ繊細な事項が含まれており、そのため、かなりデフォルメして書くことをご理解いただきたい。決して、勿体ぶっている訳ではないのだが、そこまでして書こうと思ったのは、クリスチャンの兄弟姉妹に対する注意喚起にもなると考えたためである。

 さて、日本には、キリスト教主義を掲げる学校が多く存在する。歴史の古い学校は、明治初期に創設されたものもある。カトリック学校の場合は、修道会が設立母体となっているものも多い。私の通っていた小学校も、そのような修道会立の学校であった。当時は、修道会のシスターが校長以下何人も教鞭を取っており、厳しくも愛のある教師たちであった。プロテスタント学校の場合も、外国の宣教団が設立したものが多く存在する。また、使命感に燃えた日本人伝道者や教育者が設立した学校もある。私が通っていた中学・高校は、アメリカのバプテスト宣教団によって設立されたものであった。

 近代日本の学校教育において、キリスト教主義学校が結んで来た実は多大である。それらの学校の中には、名門校として知られるものも少なくない。特に、歴史が古い学校ほど、創立者をはじめ、代々の教職員たちの労苦と、幾多の卒業生たちの足跡により、名門校としての今日があると言えよう。決して、現在の教職員らの功績ではなく、今後の活躍が未知数の生徒たちのゆえでもない。であるから、キリスト教主義学校の経営陣と教職員らは、最初に据えられた土台の上に、時代に即した変化をしながらも、先人たちの教えに忠実に、キリスト教教育の精神を受け継いで行く責務を有している。

 しかし、残念なことに、多くのキリスト教主義学校において、信仰を有する教職員は少数派になって久しく、それゆえ、生徒らに対して信仰的感化を与えることも、容易では無い実情がある。それでも、ほとんど全てのキリスト教主義学校では、学年礼拝や全校礼拝など、学校生活の中で、礼拝の時間が設けられている。かろうじて、聖書の教えが語られていることで、キリスト教主義の面目を保っているとも言えよう。

 ここからは、ある実在する、関西地方にあるキリスト教主義学校の話である。その学校は、幼稚園から大学までを有する大規模な学校法人に属する、男女共学の中学校である。関西地方では、いわゆる名門校として知られている。もちろん、カリキュラムには聖書の授業もあり、専任の宗教教師も置かれている。ところが、2年前に日本でも新型コロナ騒動が始まって以来、何と、この学校では感染防止を理由に、学年礼拝を止めてしまったのだ。過去2年間、この学校の「礼拝」は、各教室での昼食時に放送で流される、「祈り、讃美歌、メッセージ」を聞くことなのである。1学年が丸ごと入れる規模の立派な礼拝堂は、この2年余り、本来の目的に使われることは無かった。

 当然のことながら、在校生の保護者の中で少数いるクリスチャンの父兄は、このような状況を憂い、それぞれに祈り続けて来ただろう。ある保護者は、学校幹部に手紙を書き、参加人数を分散させるなど、感染防止の工夫をしながら、礼拝を再開して欲しいと訴えた。返信はあったが、「キリスト教についての考え方はそれぞれだと思います。」との、木で鼻をくくったような、愛も熱意も無いような内容であった。私も、その学校が、最初に据えられた、キリスト教信仰の土台の上に再生されるよう、祈り続けて来た。そして、愛も信仰もやる気も無い教師たちは去るように、と何人かの教師たちの名前を挙げて祈って来た。礼拝を蔑ろにするのは、愛や信仰の欠如が一番の問題であると思っていたからである。

 ところが、つい昨日のこと、これまでは、全く想像もしていなかったことが思い浮かんだ。それは、教師たちの中で、礼拝を含む学校のスケジュールを仕切っているキーパーソンが、少なくとも2人いるのだが、彼らは、ある目的を持って礼拝を止めているという疑いである。彼らの内の1人は、クリスチャンと自称しているようである。彼は、保護者からの礼拝再開を訴える手紙に返信した幹部教師である。礼拝を止めた彼らの目的は、生徒たちの新型コロナ感染防止のためではなく、キリスト教主義学校を内部から骨抜きにすることだったのではないか!?仮にそうだとすると、彼らは、ある組織から送り込まれた、エージェントである可能性も浮上する。その組織とは、恐らくは統一教会ではないだろうか。

 統一教会は数十年前から、日本でも中央官庁や政界に浸透を続けているのは、もはや公知の事実であると思う。その最初の日本支部設立を支援したのは、岸信介元首相であったが、その孫にあたる安倍晋三元首相も、統一教会の式典に祝辞を贈るなど、自民党との親密な関係は知られている。彼らはまた、キリスト教会にも、知る限りではプロテスタント教会のみであるが、浸透を試みて来た。最初は常識もある信徒を装って教会に入り込み、やがて執事など役員に選任されると、教会をコントロールしようと動き、牧師が反対すると追放を図るのが典型的な手口である。彼らのターゲットには、キリスト教主義学校も含まれているのではないだろうか?なぜ、こんなことに今まで気づかなかったのか。私の預言的賜物も、まだまだ開発途上であると言うことか。

 以上書いたことは、現時点では確信を持つに至った訳ではなく、濃厚な疑いの段階である。私も、その学校のために祈り続けているが、いずれ神が彼らを取り扱われるであろう。このような学校の実態を、創立者が草葉の陰で嘆いているとは言うまい。彼は、神の御国で永遠の安息の内にあり、もはや悲しみや憂い、嘆きとは無縁である。だが、神の霊である聖霊は悲しんでいるだろう。イエス・キリストを信じる信仰者が、聖書の教えを土台として創設した学校が、その教えから、また、キリストに対する愛から離れてしまったのだから。このような悪魔の計略については、イエスご自身が預言され、警鐘を鳴らされている。

「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている」(使徒行伝 20:29 口語訳)


 考えてみれば、何も不思議な話では無い。古今東西の国々で、国家指導者クラスが外国のエージェントであった事例もある。同様に、キリスト教会の指導者たちの中で、神に対する信仰を持っていないどころか、自覚的な悪魔のエージェントも存在して来た。キリスト教主義学校も、決して例外では無いだろう。学校をコントロールするためには、校長、副校長、事務長、宗教主任などの要職に就くのが、彼らとしてはやり易い。役職に就いていない教職員では、全体に対する影響力も弱い。であるから、どのような職業でも同様であるが、私たちは、人を肩書きや職位だけで判断するべきではない。私たちは、敬虔な信仰者や紳士淑女の仮面を被った、悪魔のエージェントもいるということに、もっと警戒感を持つべきであろう。

「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから」(コリント人への第二の手紙 11:14. 口語訳)
read more…

世界的経済クラッシュにおける日本(記事No.115)

 最近、円安の進行が止まらない。6月13日には、24年ぶりの安値となる、1ドル135円台前半まで下落した。岸田首相は、「外国から観光客が来れば円安は追い風」と語るなど、少なくとも表向きは、日本政府に危機感は無いようである。安倍首相(当時)以来、日本政府の見解では、円安は輸出にとってはプラスであり、輸出企業の業績が伸びれば関連産業にも波及し、日本全体にもプラスの効果をもたらすということである。もしそうなら、これから日本経済は上向いて来るはずであるが、本当にそうであろうか?円安となると、輸入品のコストが上昇するので、燃料価格などへの波及もあり、国産品を含めて物価は上昇する。現に、エネルギーや食品など、日常生活に直結する物品・サービスを含め、物価の上昇が続いている。

 同時並行的に、株価も下がっており、これは米欧でも同様である。一般論として、金利が上昇すれば株価は下がるが、6月15日にアメリカ連邦準備制度理事会が約30年ぶりの上げ幅となる、政策金利の0.75%利上げを発表したことで、ニューヨーク・ダウは大幅に下落している。その影響で、東京市場でも、株価は大幅下落を続けており、投資家たちは気が気でないだろう。日本では、国政選挙の前には、政府の意向を受けて年金積立金などから公的資金が投入され、株価を維持しようとするので、参議院選挙終了までは暴落は無いと思えるが、果たしてどうなるであろうか。なお、年金資金を運用するのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)であるが、第2次安倍政権における「アベノミクス」の一環で、2014年に株式投資の割合が、従前の24パーセントから50パーセントに拡大されている。言うまでもなく、年金積立金は国民の財産であるので、株価が下落すれば、その分年金原資が毀損することとなり、私たちにとって、他人事では無いのである。

 さて、現在日本がそうであるように、世界的にも資源や食糧、原材料などの価格上昇が進行中である。日本を含めた西側政府の説明では、これはウクライナ紛争が原因であり、従って、悪いのはロシアということである。だが、ロシア産の天然ガスなどの資源や、農作物や肥料の輸入を、制裁と称して制限しているのは、当の西側諸国である。つまり、自分達の対ロシア制裁で、自国の経済を痛め付け、自国民を苦しめて、その責任を一方的にロシアに転嫁しているのが実態である。当然、そうなると分かってやっているのである。目的は、「彼ら」が直接コントロールしているグローバル企業以外の事業者を淘汰し、市場の寡占化を進めることで莫大な利益を上げることが1つである。また、世界経済を混乱させることで、各国の経済力を削ぎ、社会を不安定化させて、世界統一政府樹立に向けての地ならしを進めることも目的であろう。

 そうなると、仮に今後ウクライナ紛争で一旦停戦が成立したとしても、対ロシア制裁は継続され、世界経済の混乱は収まらない。行き着くところは、世界的規模での経済クラッシュではないだろうか。その時期としては、来年の3月から5月頃ではないかと予想する。あるいは、早ければ今年の12月頃かも知れない。楽観的な見方かも知れないが、恐らく年内は、各国の資源や食糧の備蓄と企業の在庫も含め、何とか必要最小限の資源、食糧、原材料などの流通は維持されると思うのだが。いずれ到来する世界的経済クラッシュのその時、石油や天然ガスなどの資源の大半と、食糧のカロリーベースで6割以上を輸入に依存している日本は、果たして無事乗り切れるであろうか?今でさえ日本は、需要が拡大していないのに物価が上がる、実質的なスタグフレーションの状態である。このままでは、遠からず本物のインフレになり、さらにハイパーインフレが起きる可能性が高い。こうなると、生活の質を下げるどころか、どうしたら生きて行けるか、サバイバルの領域となる。当然のことながら、犯罪や自殺も増加し、ますます世相は暗くなるであろう。

 過去を振り返れば、世界のほとんど全ての国は、戦争や自然災害などによる経済クラッシュを経験して来た歴史がある。だから、賢い国は、自国の食料自給率を下げるような政策は採らない。農林水産省発表のデータによれば、集計年度は前後するが、日本の食料自給率が37パーセントであるのに、アメリカは132パーセント、カナダは実に266パーセントである。ロシアは、穀物自給率という区分であるが、124パーセントとなっている。中国の場合は、不透明な部分があるが、それでも約80パーセントと言われている。不作の場合はもちろんのこと、世界規模での経済クラッシュが起これば、どこも自国優先で食糧を確保するので、日本は現在の価格の数倍の代金を払って輸入するか、あるいは、最悪の場合は、食糧輸入の多くが途絶することになる。農家や家庭菜園を持っている人々は食糧難への耐性も強いだろうが、肥料の確保も困難になるので、自然農法で作物を栽培していない限りは、いずれ行き詰まることになる。

 現在の日本では、戦中戦後の食糧難や、敗戦による社会の混乱を経験して来た世代は、次々と世を去り、彼らの記憶が十分に継承されているとも言い難い。だが、いずれ、今生きている老若男女の世代が、彼らと似た経験をする可能性が高い。そうであれば、私たちは、過去の歴史から学び、今から来るべき時のため備える必要がある。明治時代における優れた思想家の一人であった岡倉天心は、「我々は、我々の歴史の中に、我々の未来の秘密が横たわっているということを本能的に知る。」と記したが、その通りであろう。困難な時代の中、人としての尊厳を保ちながら生き抜くには、何が必要か。お金が第一との答えは不正解である。何故なら、ハイパーインフレが起きると、お金の価値は急降下して、文字通り「紙切れ」にも等しくなるからである。食糧や生活必需品を備蓄することは、災害対策を含め、もはや常識であり、それぞれの状況に応じて可能な備蓄数量が変わるだけのことである。

 それでは、私たちは、常識的かつ実際的備えの他に、どのような備えをするべきであろうか?本ブログ読者の皆さんの大半は、既にその答えを持っていると思う。全能の神を信じ、このお方に寄り頼むことである。もし、未だ神に対する信仰を持っていないのであれば、是非聖書を読んで、その示す神が信じるに値する存在か、虚心坦懐に黙想してみていただきたい。全能の神とは、唯一の神であり、神々の中の一人ではない。私たちを創られた神が、私たちを、世界的な試練の中でも守ってくださるのだ。本ブログ記事で書いた、世界的経済クラッシュの起きる時期については、私の個人的予想であり、絶対的な確信があるとまでは言わない。しかし、神の守りについては、絶対的な確信を持っている。これまでの人生の中で、超自然的な神の守りを、自覚しただけでも何度も体験したからである。世の終わりが着実に近づいている今、神の守りを受けるのと受けないのでは、行き着くところが、文字通り天と地ほども違って来るであろう。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」(コリント人への第一の手紙 10:13-14. 口語訳)
read more…

騙してナンボに騙されない(記事No.114)

 今週報道されたニュースの中で、あまりにもセコイ話で、第三者が真剣に取り上げるほどの価値はないものの、日本人の劣化と日本社会の様相をよく現しているものがあった。皆さんも報道を目にされたと思うが、グルメサイト「食べログ」が評価を不当に操作したことで損害を受けたとして、焼肉店チェーンが訴えていた裁判で、同サイトの運営会社「カカクコム」が敗訴したというニュースである。詳細は詳しく報道されているので省くが、東京地方裁判所の判決は、評価ルールの変更は、チェーン店には不利益となると認定し、独占禁止法違反に当たると結論付け、評価が下がったことによる営業損失について、カカクコム側に3,840万円の支払いを命じた。判決を受け、双方共に控訴する方針と言う。

 私も、「食べログ」や「ぐるなび」などの飲食店情報サイトはよく見ることがあるが、便利であることには違いない。だが、「PR」などの表示が明確になされている店が、検索結果上位に表示されるのは理解できるとしても、評価基準を店の運営形態によって区別していることには釈然としない。今回の判決を不服として「カカクコム」が控訴することからも、同社の経営陣の本音は、広告料も払わない店をタダで宣伝しているのだから、細かいことでガタガタ言うな、と言うものと推察する。ユーザーに対しても、情報をタダ見しているのだから、ありがたく思えと言ったところか。ま、この種のグルメ情報サイトは、参考までに見るのが良いのであって、そこに掲載されていることを全て鵜呑みにすることは危険(地雷を踏む可能性もある。)である。

 この種の、詐欺とまでは言えないが、狡い手法のビジネスモデルを聞くと、随分前に故人となった叔父の言葉を思い出す。その叔父は、長年会社を経営していたのだが、いろいろな話をしてくれた時よく、「日本人って狡いなぁ。」と嘆息するように言っていた。ちなみに、叔父自身も私も、家系を遡れる限りでは純日本人である。日本人が抱く一般的なイメージでは、狡い性質を有するのは、日本人ではなく一部の外国人であろう。確かに、それも傾向としては間違い無いのかも知れないが、実は日本人にも、そのような性質を有する人々が少なくなかったのである。つまり、本質的には人種や民族の問題ではなく、むしろ個人の人間性の問題である。社会における狡い人の割合については、様々な見方はあるであろうが。

 欧米など、キリスト教文化を基盤に社会が築かれた国々では、聖書の教えが、人を欺くことや強欲な商売手法を戒めていることを人々は知っていた。また、「黄金律」と呼ばれる行動原則もよく知られていた。シェークスピアの戯曲、「ベニスの商人」で、強欲な商人シャイロックの描かれ方は、人々が、利己主義的な商売手法を正しくないと思っていたことの現れでもあるだろう。日本でも、近江商人の「三方よし」の経営哲学はよく知られている。「買い手よし、売り手よし、世間よし」との教えである。自分さえ良ければ式の考え方で商売をする人々は、いつの世にも、どこの国にもいたであろう。その意味では、何も今に始まった話では無い。しかし、いつの頃からか、大企業など名の通った企業の中でも、強欲で倫理観が欠如したような商売手法を採るところも増えて来た。ちなみに、今般敗訴した「カカクコム」も、れっきとした東京証券取引所プライム市場(旧東証1部)上場会社である。

 そもそも、私たちは、政府の奴隷でないのと同様に、企業の金ズルではない。「消費者」という言葉が一般的に使われているが、私たちは、物やサービスを消費するための存在ではない。「消費者」と言う言葉自体、提供者の視点からのものである。主として企業である、提供者らは、「もっと買え、もっと使え、もっと食べろ、もっと捨てろ(そしてまた買え)」との本音を隠しながら、私たち「消費者」に、いかにもっとお金を払わせるか、日々アイデアを捻り出し、せっせと商品やサービスのマーケティングに励んでいるのである。彼らは、あるいは彼らの依り頼むマーケティング専門家らは、「消費者」は理性的な購買行動よりも、むしろ感情や感覚によって動くことを熟知しているのである。これは、経済行動だけでなく、政治行動にも共通した行動原理であり、大衆を手玉に取るのは、彼らにとっては容易いことであるのだろう。

「未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする」(箴言 14:15 新共同訳)


 それでは、私たちが、企業にも、政府にも、その他どのような組織や人々にも、騙されないで生きるためには、どのようにすれば良いのだろう?もちろん、どんなことでも、わずかでも違和感を感じた時には特に、話を鵜呑みにせず、自分の頭で考えることは大事なことである。考える過程で、様々な情報を得ようとするであろうが、知り得た情報を的確に判断するには、知識もある程度必要となる。しかし、必要なことは、それだけではない。騙されないために最も必要なことは、知恵であり、また、見分ける力である。世の中には、様々な知恵の源泉があり、それらを得る方法がある訳だが、本ブログ記事でお薦めするのは、もちろん聖書の教えにある通りのことである。まずは、私たち自身には、知恵が欠けていることを認めることが必要である。そして、全ての良き知恵の源である、神に対して、知恵を与えて下さるよう、願い求めることである。そうすれば、私たちに、誰にも騙されないための、優れた知恵が与えられるであろう。

「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(ヤコブの手紙 1:5 新共同訳)
read more…

誰が優先なのか(記事No.113)

 最近、京都の街中や京都駅で、修学旅行の中高生を見かけることが多くなった。顔馴染みになったタクシードライバーの話では、コロナ前は、毎年ゴールデンウイーク明けからの2ヶ月間ほどが、年間で最も修学旅行客が多いシーズンであったとのことである。一般観光客が少ない時期に修学旅行客を呼び込むことで、観光関連業界の需給バランスを調整していたのだと言う。一応は日本有数の国際的な観光都市であるから、国内外からの観光客が押し寄せていたのは当然であろう。だが、観光関連業界以外の京都市民にとっては、迷惑を受けることが多くあったと聞く。渋滞でバスが遅れるのは日常的であったであろうし、満員バスに乗れたはいいが、大型スーツケースを持った外国人乗客に阻まれて、降りたい停留所で乗降口に移動出来ず、そのまま発車してしまったケースも多々あったと言う。その他、ゴミや騒音に悩まされていた人々も多かった。私も、2019年11月に、研修旅行で京都に滞在したが、行くところどこでも、中華系や韓国系の観光客でごった返しており、やや辟易したものである。

 このような、一部に観光公害のような現象が起きるほどに観光客が押し寄せたのは、インバウンド誘致を強力に推進した安倍政権と、それに与した門川市政がもたらしたものである。2015年に約3万室であった京都市内の宿泊施設客室数は、門川市長が掲げた誘致目標4万室をはるかに超え、2020年3月末時点では約5万6,000室となった。ホテルの建設ラッシュのほか、ゲストハウスなどの簡易宿泊施設も雨後の筍のように次々と開設された。ホテル建設計画の中には、世界遺産の仁和寺の山門前や、二条城の北側などに高級ホテルを建設する計画も含まれている。外国人観光客を誘致するために、観光スポット周辺の景観や環境を破壊するという、本末転倒を絵に描いたような事態も起こっているのだ。ホテルなどの民間事業者が進出を計画するのは当然であろうが、環境や景観、あるいは社会インフラなどとの調和を図るために、規制や各種基準を定めるのが行政の役割であろう。市民の平穏な生活環境を維持・向上させることよりも、外国人観光客へのサービスを優先させるかのような門川市長は、自治体の長として明らかに間違った動きをしている。

 京都市の事例を挙げたが、優先順位が間違った実態は、日本中で見られることである。いや、国全体がそのような状態と言っても良いだろう。厚生労働省の人口動態統計によれば、日本における2021年の出生数は、前年比約2万9千人減少の、約81万人であったと言う。これまでの政府の推計では、出生数が81万人台前半まで減るのは2027年であり、6年も早まったことになる。日本では、約30年前より様々な少子化対策が打ち出されて来た。しかし、どれも根本的な解決策となっていないことは、結果が証明している。既に、日本は人口減少社会に突入しているのだが、言うまでもなく、それは多くの問題を引き起こす。市場規模の縮小による経済衰退、社会保険の担い手が減少することで、年金や健康保険の制度の改悪も進む。およそ、現在の人口規模を前提に制度設計されているものは全て、抜本的見直しを迫られるか、それが上手く出来なければ破綻する。

 誰が考えても、このまま手をこまねいていては、悲惨な未来が日本に訪れるだろう。もちろん、巨大災害や戦争などのリスクは別としてである。国民多数が納得するなら、現在のような一応の福祉国家を維持することを諦め、何とか最低限生きて行けるならば、それで良しとする選択肢もあるだろう。しかし、年金や健康保険、介護保険などの制度を維持したいのであれば、人口減少のスピードを、国民の福祉を保てる程度の緩やかなペースにしなければならない。そうであれば、出生数の減少を食い止める、実効性のある政策が必要となる。普通なら、誰が考えても、同様の結論に至るはずである。ところが、世の中には、日本人の子供を増やす(減らさない)のではなく、外国人の移民を増やせば良いと考える人々もいる。そのような考え方の人々は、日本人の労働力が足りない3K職種などでは、労働者の待遇を改善して人材を確保するよりも、外国から技能実習生という名の安価な労働力を導入することの方が良いと考えて、それを実現させて来た。

 長々と書いてしまったが、先進諸国とされる国々の中で、日本だけが、過去30年間で実質的には貧しくなっており、人口減少も加速する一方であることには、明確な理由があったと言うことである。ひとことで言うならば、国全体が、誰を優先するべきかを誤って来たことの結果が、今日の日本の姿である。京都市のように、市民生活よりも外国人観光客を優先するような誤った政策が、国の様々な領域で進められて来た、その結果である。それは例えば、日本人労働者の待遇改善よりも、賃金水準が相対的に低い外国人労働者を導入することである。また、日本人学生の給付型奨学金制度を大規模に拡充することよりも、岸田首相が明言したように、「国の宝」とされているらしい、外国人留学生への返済不要奨学金などの支援策の重視である。もちろん、小泉政権以来推進されて来た、日本人社員の雇用よりも、株主である外国の機関投資家を優先するような政策も、同様に間違っている。正社員を減らし、現在のように、被雇用者の約4割が派遣社員やパートなどの非正規雇用となるに至ったのも、その「成果」である。

 さて、この世の全ての疑問に対して、答えを見出すことが出来る聖書には、優先順位についての指針も含まれている。私たちが、何よりも優先すべきものは、創造主である神である。忙しい日常生活の中で、余力があれば神を求めるのではなく、あるいは、助けが必要な問題が生じたときだけ、神に寄り頼むのでもない。私たちが生きて行く上で、最優先にすべきことが、神を求めることである。聖書は、そうすれば、全ての必要は与えられると約束している。個人レベルだけでなく、集団レベル、国家レベルにおいても、神を第一にすることが、組織や国が守られ繁栄するには必要である。それは、国家としてキリスト教を戴いたり、国教化するという意味ではなく、指導者らが神を畏れ、その教えに従った行動や政策を進めるということである。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書 6:33 口語訳)

 
 それでは、神の次に優先されるべきものは何であろうか。それは、個人レベルでは家族であり、国家レベルでは国民である。もちろん、自治体レベルでは住民である。時々、クリスチャンの中にも勘違いする人々がいるが、神に従うために家族を捨てると言うことではない。ただし、イエスに対する信仰ゆえに、家族の方から距離を置かれる場合は、祈りつつ甘受する選択もあり得るだろう。だが、神に仕えることを理由に、しばしばそれは、教会活動であったりするのだが、クリスチャンの方から、自分の家族を蔑ろにするような態度は間違っている。自分と家族が幸せであれば、他の人々のことは無関心というのも愛が無い態度であるが、他の人々を助けることを、家族を支えることよりも優先することは、もっと間違っている。

「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」(テモテへの第一の手紙 5:8 口語訳)


 優先順位の第3位以降は、それぞれの価値観や置かれている環境、直面している状況によっても異なる。仕事、教会奉仕、友人など、それぞれが重要であり、人生において重みを持っている。常にどれかを優先させる考えもあるだろうが、むしろ、必要なのはバランス感覚であろう。その中でも、多くの人にとって、仕事は優先度が高いと思う。何と言っても、生活の糧を得る手段は重要である。しかし、ブラック企業のように、他の全てが犠牲となり、健康も損なう様では、そこから離れる選択が賢明である。神に信頼して寄り頼むならば、一時的に仕事を失ったとしても、もっと良い仕事が与えられるに違いない。私たちは、優先順位が間違っていることが多々ある社会に住んでいるが、私たち自身もそうならないように気をつける必要がある。人生の安寧は、まずは神を信じ、この方を第一とすることから始まる。日本社会は、今後ますます厳しい状況になるだろうが、神に信頼する人々は守られ、打ち捨てられることは決して無い。

「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない」(詩篇 37:25 口語訳)
read more…

魂の渇きを癒すもの(記事No.112)

 先週、仕事関係の懇親会に1つ出席した。2年数ヶ月ぶりに開催された、その懇親会には、20数名が出席した。酒を飲まなかったのは私を含めて数名だけで、ほとんどがビールの乾杯に始まり、日本酒、焼酎、ワインと気持ちよく飲んでいた。セルフコントロールが出来る限り、酒を飲むのもそれぞれの自由ではある。酒が入ると陽気になり、場が盛り上がるのも理解出来る。私自身は、酒を旨いとは思わないが、以前、いずれも人から勧められて、最高級のワインや日本酒を飲んでみた時には、率直に美味しいと感じた。その種の高品質な酒であれば、私でも少々飲めるが、安酒は匂いも嫌なものである。

 それはそうと、なぜ多くの人々が、友人や仲間たちと酒を飲みたがるのか?酒を飲まなくても、集まって食事を共にするだけではダメなのか?今さら書くまでもないが、それは、酒を飲み交わすと、より楽しさが増すからである。なぜ、楽しさか増すのか、それは、心が少しでも開放的になるからであろう。開放的になると同時に、解放的に過ぎると、酒の席での様々な過ちの元にもなる。もっとも、今日では、セクハラや暴言などは、酒の席を理由に許されることでは無くなった。楽しく飲むなら良いというのは優等生的意見であるが、酒が無ければ人生を存分に楽しめないとすれば、それは気の毒なことではあろう。

「酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが 後になると、それは蛇のようにかみ 蝮の毒のように広がる。 目は異様なものを見 心に暴言をはき始める 海の真ん中に横たわっているかのように 綱の端にぶら下がっているかのようになる。『打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。』 」(箴言 23:31-35 新共同訳)


 まあ、実際問題、他人がどれだけ酒を飲もうと、他の人々に絡んだり、隣でとぐろを巻いたりしない限り、別にどうでもよいことである。それよりも気になることは、酒の席での、周囲の人々の会話である。仕事の話に加えて、人現関係や家族の話をする人々もいる。ある程度セーブしながらも、ストレスや悩みの一端を愚痴という形で吐き出す人もいる。多くの場合は、自分の心の内にある何かを話すことで、少しスッキリするようである。だが、他人に話すことで解決する悩みや問題であれば良いが、しばしば、一時的な気分転換は出来ても、根本的な解決を得られる訳ではない。

 今回、特に酒について触れたが、それは、喉を潤したり、一時的なストレス発散には役立ったとしても、私たちの人生の諸課題に対して、何の解決策にもつながらない。また、単なる楽しみとしても、ほんのひと時の享楽に過ぎず、それどころか、過剰に飲めば確実に心身の健康を蝕むであろう。このような一時の、表面的な楽しみや現実逃避をもたらすものは、何も酒だけではない。あらゆる娯楽や芸術、学問や宗教もそうであろう。もちろん、それらの中には、私たちにとって表面上は良いものも多くある。私たちが、この地上で楽しく生きること自体は罪ではない。また、芸術や文学に親しみ、スポーツに汗を流すことも良いだろう。私たちが心に留めるべきことは、いかに良いものであっても、それらは、私たちの魂の奥底を潤し、心を満たすことは出来ないということである。

 現代社会では、誰でも、生きているだけで、強度のストレスを受ける可能性がある世界となっている。だから、物質的には満たされているように見える、大金持ちや有名人でも、精神を病む人もいれば、中には自殺する人もいる。一時的なストレス解消という意味では、酒も麻薬も似たようなものかも知れない。喉が渇いているからと言って海水を飲むならば、もっと乾きが強まるようなものである。私たちの心には、身体がそうであるように、潤いが必要であるが、それは正しいリソースから得る必要がある。そうでないと、いくら潤いの素を求めても、決して渇きは癒やされない。私たちの魂を潤してくださる方、イエス・キリストを求めるならば、その愛と力は、私たちの心の渇きを癒すのに十分である。
 
「わたしはた疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(エレミヤ署 31:25 新共同訳)
read more…

世界は欺瞞で満ちている(記事No.111)

 先月来日本でも連日報道されていた、ウクライナ南東部の港湾都市マリウポリの、アゾフスターリ製鉄所における攻防であるが、ついに地下に立てこもっていたウクライナ軍兵士らがロシア軍に投降した。マスコミ報道では当初、負傷兵らが「退避」を開始したとのことであったが、結局は誤魔化し切れず、「投降」との表現に変わった。BBCなどによる、ロシア占領地域への「移送」との報道も、捕虜になって「連行」されたと認めるに至った。「撤退」を「転進」と呼び替えて発表していた、かつての日本軍大本営発表は、ウクライナ政府によっても繰り返されている。今後、ネオナチのアゾフ部隊員など、民間人を虐殺した者らは、捕虜交換の対象とはならず、ロシアの軍事裁判で処断されることになるだろう。一部で囁かれている、捕虜の中にいたとされる、米英仏加などのNATO軍人については、ロシアの交渉カードであるから、公表されることになるかは未だ分からない。

 今年2月24日にロシア軍がウクライナ侵攻を開始して以来、日本を含む西側メディアの論調は、ロシアは一方的な侵略者の悪玉であり、ウクライナは果敢に抵抗している善玉という位置付けである。民間人の犠牲者は、ウクライナ政府の主張そのままに、全てロシア軍の攻撃や虐殺により生じたものとされている。それでも、世界の決して少なくない人々が、SNSや独立系メディアによって発信される情報によって、より真実に近い実態を知るに至っている。ロシアを戦争に引きずり込んだのは米英を中心とするNATO諸国であり、その手先となってロシア系住民を暴力的に迫害するなど、自国民を殺害して来たのがウクライナ政府やネオナチ勢力であることは、白日の元に晒されつつあると言えよう。今回のブログ記事は、この戦争を起こした者たちと、米露戦争や第3次世界大戦を引き起こそうとしている者たちの欺瞞について、改めて書こうと思い資料を読み込んだりしていた。

 ところが、別のテーマでインターネット検索をしていた時、もっと大きな、時代を超えたスケールの欺瞞について取り上げている動画を見つけた。聖書を信じるクリスチャンが制作していることが明らかなその動画は、「Eden Media」という名のYouTubeチャンネルであり、チャンネル登録者数 は8.94万人と中々の認知度である。あるいは、本ブログ読者の皆さんの中にも、既に観たことがある人もいるかも知れない。そこで、ウクライナについての話は、状況を見極めながら改めて書くとして、今回は、その大きな欺瞞について少し書いてみたい。なお、Eden Mediaには、今回紹介するテーマ以外にも、世の中の様々な事象を聖書から解き明かしている動画が多くあるので、興味のある方はアクセスしてみると良いと思う。ただし、本ブログ自体を含めてであるが、そこにある全てを鵜呑みにするのではなく、それぞれに吟味しながら視聴する(読む)ことが必要であろう。

 さて、その時代を超えたスケールの欺瞞とは、「木」に関することである。もちろん、木のことだけではなく、地球の過去の姿についての欺瞞であるが、代表例の1つとして、木をのことが挙げられると言うことである。現存する木の高さは、最高でも110数メートルである。しかし、ノアの箱舟で有名な、大洪水の前の地球には、想像を遥かに超える高さの木が生えていた。このことは、私も以前から聞いていた。大洪水前の地球環境は、今とは大きく異なり、生物の成長や生存に最適な環境が整っていた。アダムとエバが罪を犯したことにより、地上に呪いがもたらされてしまったが、それでも、地球環境は神の恵みにより守られていた。であるから、私も、高さ数百メートル級の木が生い茂っていたと思っていた。しかし、今回観た動画によれば、それどころではない、山々を越えるような高さの木が存在していたと言う。

「見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり 丈は高く、梢は雲間にとどいた」(エゼキエル書 31:3 新共同訳)


 それでは、その想像を絶するような巨木の痕跡は、どこに消えてしまったのか?それは、世界各地の山や岩のなかに見られるのだと言う。例えば、アメリカのワイオミング州北東部に、デビルスタワーという名の岩山がある。デビルスタワーは、1906年にアメリカ初のナショナル・モニュメントにも指定されている、奇怪な形状の岩山である。その生成の過程は、定説では、地下から噴出したマグマが冷えて固まり、長年の侵食によって現在の形になったとされる。標高は1,558mだが、麓からの高さは386m程である。頂上は、5,000平方メートル程の広さがあり、ほぼ平坦である。その形は、切り株にも似ているが、何と、巨木の切り株そのものであると言う。もしそうだとすれば、他にも世界各地に存在する、切り株状の岩山は、太古の巨木の化石なのだろうか?実は、その動画を見て思い出したのだが、私も、アメリカ留学中に、コロラド州にある3,000メートル程の山に登ったことがあり、言われてみると、巨木の切り株にそっくりな形状であり、その頂上は平坦な草地であった。皆さんの中にも、そうとは知らずに、かつて巨木であった山に登ったことがある方がいるかも知れない。

 今回、太古に地球上に存在していたであろう、巨木のことを少し紹介したが、これは隠された「真実」の一端である。他にも、私たちの常識を覆すような、幾多の真実が覆い隠され、もっともらしい説明付きで他のものに置き換えられている。誰が、何のために、真実を隠し、欺瞞によって人々に誤った知識を植え付けて来たのか。誰がとは、言うまでもなく、悪魔崇拝の地上の支配者たちによってであり、ラスボスは悪魔自体である。何のためにかは、神の創造の偉大さを人々が知ることがないようにであり、悪霊となった堕天使たちが、いかに人間に働きかけて、人類を欺いて来たかを悟らせないためである。欺瞞に満ちたこの世界であるが、真実を知る第一歩は、真の神、天地万物を創造された神を知ることである。そして、神からの天的な知恵と知識を求めることである。それでも、わたしたちは、この地上に生きている間に全てを悟ることは出来ないが、終わりの時代を生き抜くに必要な全ての知恵と知識とは与えられると思う。

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(マタイによる福音書 10:26 新共同訳)
read more…

スペルト小麦パンと玄米ご飯(記事No.110)

 先日、いつも利用している会員制自然食品通販サイトで注文していた、スペルト小麦で作られたパンを食べてみた。初めて注文した商品であったが、以前に古代小麦と同じ種類であるとの説明文を読んで、是非一度食べてみようと思っていたのである。今回食べたスペルト小麦パンは、バッケットタイプ1本約110gで税込480円(送料別)であったので、一般的な同種のパンの2倍前後の価格と少し高い。工場で大量生産されたパンと比較するのが間違っていることは分かるが、やはり良いものはそれなりの出費にはなる。

 今回のパンは冷凍で配送されたので、冷蔵庫で1日解凍してから、オーブントースターで温めて食べた。1口食べて、今までに食べて来たパンとは性質が違うと分かり、あまりの美味しさに感動した。最初は、夕食時に妻と次男と3人で食べたのだが、翌日は妻と2人で昼食にチーズをおかずに食べ、少し次男に残すつもりが、結局全部食べてしまった。帰宅した次男に聞くと、食べたかったと残念がっていたので、早速再発注したのは言うまでもない。ところで、今まで気に留めたことがなかったのだが、スペルト小麦のことは、旧約聖書にも何箇所かに記されている。

「地のおもてを平らにしたならば、いのんどをまき、クミンをまき、小麦をうねに植え、大麦を定めた所に植え、スペルト麦をその境に植えないだろうか」(イザヤ書 28:25 口語訳)


「小麦と裸麦は壊滅を免れた。穂の出る時期が遅いからである」(出エジプト記 9:32 新共同訳)


 聖書でスペルト小麦を指す語には、新共同訳や新改訳では、「裸麦」との訳語が当てられている。旧約聖書では他にも、エゼキエル書にも登場する。今回の記事では、その霊的意味合いについては、あえて踏み込まない。品質としては、小麦よりも劣るとされているのだが、痩せた土地でも栽培が可能である。旧約聖書が記された頃の古代世界では、地中海沿岸やヨーロッパ大陸で広く栽培されていた品種であった。現代において、スペルト小麦は少ない肥料で栽培できることもあり、有機栽培に適しているとして、その商品価値が見直されている。

 スペルト小麦の素晴らしい点として、栄養が豊富なことが挙げられる。また、食物繊維が豊富に含まれている。また、タンパク質であるグルテンの量が、小麦と比べて少ないと言う。古代からほとんど品種改良(改変)されていない品種のため、小麦アレルギーが発症しにくいという利点もある。小麦の場合、農薬や化学肥料を投入しての大量生産向けに品種改良が繰り返されて来たが、スペルト小麦は単位面積あたりの収穫量が小麦の半分ほどであり、大量生産向きではない。スペルト小麦の皮穀が厚く、害虫被害に対して強い特性があるため、農薬はごく少量の使用で十分である。概して、小麦に比して、自然そのままの味わいや栄養価を有し、自然農法に適した品種がスペルト小麦である。

 小麦とスペルト小麦の対比は、白米と玄米のそれとも似ている面がある。米の場合は、精米するかしないかの違いであり、品種の違いを指している訳ではない。白米は見た目が良く、食べやすく、様々な料理に用い易いと言う利点がある。これに対して玄米は、一般的には、その逆である。しかし、栄養価となると、白米よりも豊富であり、食味も慣れてくると、白米よりも美味しく感じる。私も、良質の天然塩と梅干しを使った玄米おにぎりなどは、白米のおにぎりよりも好きである。また、免疫力を高めるには、白米よりも玄米中心の食事の方が良いとも言われる。精米しないことから、玄米で食べることを前提とした米作りの場合、必然的に低農薬農法など、極力化学物質を使わない栽培方法が望ましい。

 さて、あれこれ書いたのは、スペルト小麦パンと玄米ご飯は、いずれも、人間にとって理想的な食物であることを言いたかったためである。もちろん、極力農薬や化学肥料を使用しないという前提の上であるが。そのことは、聖書に記されている、神が天地創造の時に、人間のために定められた食物を見ても明らかである。決して肉など動物性タンパク質の食物を食べてはいけないと言う意味ではなく、私自身も肉食系ではあるが、人間にとって必要な栄養素は、全て穀物、野菜、果物から摂れると言うことである。

「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。』」(創世記 1:29 新共同訳)


 現代の食料品の多くは、農薬や化学肥料、保存料などに由来する化学物質まみれである。物質的な人間の体は、食事と水によって作られ維持されることを考えると、病気や精神的問題の原因の多くは、食生活にあるとも言えるのではないだろうか。外食なども含めて、特に都市部では、化学物質と全く無縁の食生活を送ることは困難であるが、せめて家庭では、可能な限り、自然の性質が残っている食物を摂ることを心がけた方が良いと思う。私もプチ・グルメを自負しているので偉そうなことは言えないが、やがて到来する全世界的な食糧不足に備える意味においても、スペルト小麦パンや玄米ご飯など、多量でなくとも、シンプルかつ健康的な食生活にも慣れておいた方が賢明かも知れない。
read more…

ポン友と会う(記事No.109)

 数日前、中高生時代からの友人と夕食を共にした。40年以上の付き合いになる親友ではあるが、むしろ、俗な言い方ではあるものの、ポン友(40代以下の人たちは、あまり使わないのかも。)と称するべきか。ちなみに、ポン友とは、中国語の朋友(ポンヨウ)に由来する外来語で、戦前から使われていると聞く。そうなると、その友人の場合は、中国語の老朋友(ラオポンヨウ)と言ったところか。30代の10年間ほどは、彼とはあまり会っていなかったが、この10数年は直近2年間を除き、毎年数回会って積もる話に花を咲かせて来た。今回は、そろそろ過剰な新型コロナ感染予防対策から脱し、久しぶりに会おうということになったのである。

 彼は、ある化学品メーカーの先代社長に嘱望され、10数年前に、その会社の社員から抜擢されて後を襲った。10代、20代の頃には、大きな試練を通ったこともあったが、その経験も、今の彼を形造るためには有益であったのだろう。お互い業種は違えど、中小企業の経営に携わっているということも、話が弾む理由の1つであろう。それに加えて、彼とは、世の中の動きについて、大まかなところでは、お互いの考えが近い。今回も、ウクライナを支配しているのはネオナチであること、新型コロナ・ワクチン接種率が高い国ほど感染者が増えていること等々、世界の動きについての認識が一致した。また、以前から語り合って来たことであるが、先進諸国の中で、日本だけが唯一貧しくなっていることは、政府が国民を搾取する政策を推し進めていることが主因であることも、改めて意見が一致した。

 あえて詳しくは書かないが、東日本大震災の時、彼は合弁会社のある韓国から丁度羽田空港に到着したところだったが、ある有名政治家の夫人と幼い子供たちが、国際線ターミナルに到着したのを目撃した。当時の民主党政権の閣僚であった、その政治家は、彼と同じ出身大学ということで、夫人と共に雑誌に載っていた写真が印象に残っており、黒塗りの車で到着した夫人の顔を識別出来たそうである。地震の結果発生した、福島原発事故の影響を懸念した政官のエリートたちの一部は、国民には真実を伏せながら、自分達の家族は急遽国外に避難させていたのである。このような体験もあって、彼は、青年時代から持っていた反骨精神を深化させ、日本のエスタブリッシュメントらに対しては、厳しい視線を有している。

 このようなポン友であるが、1つ残念な点がある。それは、彼は未だ、イエスを個人的な救い主としては受け入れていないのだ。決して、無神論者ではなく、神の存在は信じているであろうし、また仏教徒という訳でも無い。実は、高校生の頃彼は、自分は無教会派のクリスチャンであると言っていたこともあった。それなのに、その頃に、彼がイエスを明確に受け入れることをしなかったのは、私を含めたクリスチャンにも責任があった。ある時、話の中で彼は、先述の無教会派クリスチャンという話を出したのだが、信仰を持って間もなかった私は、無教会派はどこで洗礼を受けるのかと、愛も知恵も無い応答をしてしまい、話は尻切れトンボに終わってしまった。クリスチャンになることは、地上の組織としての教会に所属することとイコールではなく、イエス・キリストを救い主と信じ、イエスと個人的に繋がることであるという真理について、当時の私は、まるで浅い認識しか持っていなかったのである。

 彼はまた、不思議な体験について話してくれたことがあった。今もそうだと思うが、当時は、キリスト教の異端である、モルモン教の若い白人宣教師が2人1組で、街行く日本人学生などに声をかけ、彼らの教会での無料英会話教室に勧誘することがあった。その友人も、ある時彼らに声をかけられ、時間が無かったのでモルモン教会へはついて行かなかったものの、モルモン経という経典を受け取ったのだと言う。彼は、当時からモルモン教には全く興味は無く、英会話教室であっても通いたいとは思っていなかった。普通なら、押し付けられたような経典など捨てれば良いが、律儀なところがある彼は、返そうと思って後日訪ねようとした。最寄りの駅から歩いて、そのモルモン教会に向かう途中、彼は不思議な光が少し先にあるのを認め、その動きについて行ったのだと言う。その光は、ある建物の前で消えたが、見るとそこは、行こうとしていたモルモン教会ではなく、プロテスタントの教会であった。

 もしかしたら、神の導きかも知れないと思った彼は、呼び鈴を押すと、牧師か牧師夫人らしき女性が出てきた。そこで、今さっきの不思議な体験談を話し、キリスト教系高校の生徒であることも話した。ところが、その女性からの反応は、キリスト教主義の学校に通っているのなら、その学校の関係教会に行った方がいいとのアドバイスであった。自分の不思議な体験を、まともに取り合ってもらえなかったと感じたのだろう。彼は、それ以来、組織として、また、宗教としての教会には足が向かないのだ。その話を聞いた時の私は、先に書いたように、形式を重視する未熟な信仰者であり、神の奇蹟には目が開かれていなかった。彼が不思議な光に導かれて辿り着いた教会の姉妹も、彼の身近な友人であった私も、イエスを紹介する絶好の機会を、みすみす逃してしまったのだ。

 残念なことに、それ以来これまで、彼にイエスを伝える絶妙の機会を作って来れなかった。彼と夫人の間には一男一女がいるが、2人とも小学校からカトリック系の学校に入れている。青年時代に神を求めたことが、魂の記憶として今もなお、彼を神に近づけようとしているのだと思う。今度、彼にイエスを紹介する機会が訪れた時には、自分の考えを押し付ける失敗は繰り返すまい。神は、一人一人をユニークな方法で導いてくださる。不思議な光で導かれる人は少ないのかも知れないが、誰の人生にも、雲の柱や火の柱のような、道標を置いてくださるのだと思う。それに気がつく人、それに目を留めることが出来る人は幸いである。先にイエスと出会った私たちは、神からの知恵をいただいて、良きガイドの役割を果たしたいものである。

「あなたは大いなるかあわれみをもって彼らを荒野に見捨てられず、昼は雲の柱を彼らの上から離さないで道々彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らの行くべき道を照されました」(ネヘミヤ記 9:19 口語訳)
read more…

消えた11兆円(記事No.108)

 ゴールデンウィークも今日が最終日であり、明日からまた、普段通りの生活が始まる人が多いと思う。今年は、飛び石を含めて10日間であったが、この間も様々なニュースが報道された。大きく取り上げられたものとしては、国内関係では、知床半島沖遊覧船沈没事故と、それに次いで、山梨県道志村での女児行方不明事件と人骨の発見に関するニュースであった。海外関係では、断トツで、ウクライナにおける戦争に関するニュースであったことは言うまでもない。そのような中、あるニュースについての後追いや深掘りがほとんどなかったのが気になった。

 気になったそのニュースとは、日本経済新聞が2022年4月23日朝刊1面で報道した、新型コロナ予備費約12兆円の内9割の使途追えずというものであった。これまで国会に報告された、約12兆3,000億円の同予備費の内、使途が特定可能なのは約8,000億円のみであり、残り約11兆5,000億円については、使途不明であると言う。国の予算支出であるから、何かしらに使われているはずであるが、納税者である国民はそれを知ることができないと言うことだ。一応は民主国家である日本で、白昼堂々こんなふざけた話が罷り通って良いはずが無い。本来ならば、日経新聞だけでなく、新聞、テレビ、ラジオ、インターネットメディアなど、マスコミ総動員で連日取り上げるべきテーマであろう。あるいは、日経新聞の飛ばし記事だったのか?

 遊覧船の沈没事故や女児行方不明事件は、命に関わる事案であり、犠牲者の遺族や行方不明者の家族にとっては、人生を左右する重大問題であるが、国民全体に関わるスケールの問題とは次元を異にする。それなのに、片や微に入り細に入り報道されているが、もう一方は、なるべくなら報道したくないような取り扱い方である。なぜ、そうなるのかは、官民癒着構造を含めて、独自に追求しようとしている人々もいるので、ここでは深くは立ち入らない。しかし、日本という国は、国も地方も、公金を政官業などの利権集団が貪り尽くす構造が確立されていることは、今回の消えた11兆円の事案でも明らかであろう。

「あなたのつかさたちはそむいて、盗びとの仲間となり、みな、まいないを好み、贈り物を追い求め、みなしごを正しく守らず、寡婦の訴えは彼らに届かない」(イザヤ書1:23 口語訳)


 ゴールデンウィーク期間中に報道されたニュースで、気になった1つがあった。京都新聞が2022年5月7日朝刊1面に掲載した、「京都5私大学生仕送り752円/日」というニュースである。京都私立大学教職員組合が集計したアンケートは、同志社、立命館、龍谷、京都先端科学、京都橘の各大学に在籍する学生の、保護者7,276人から回答を得たものである。それら5大学に2021年度に入学した下宿生は、家賃を除くと、平均で1日当たり752円の仕送りで生活をやり繰りしていると言う。仮に、1人年間100万円の給付型公的奨学金を100万人の学生に支給するとしたら、年間合計1兆円である。今般明らかになった使途不明の国家予算は、その11倍以上である。それだけの公金が、新型コロナ(対策)で苦境に陥った国民を救うために正しく使われていたら、どれほど多くの人々が助けられたことだろう。やはり、日本は滅ぶのだろうかと思わざるを得なかった、最近の2つのニュースであった。
read more…

ディズニーの真実(記事No.107)

 皆さんの中にも、ディズニーランドに行ったことがある人がいると思う。好きな人は、年間パスポートを購入して、毎月のように通うのだろう。私の姪の1人は、小さい時からディズニーランドが大好きで、学校の休みの度に両親と泊まりがけで行っていた。宿泊費も含めると、土産代は別としても、3人で軽く1回10数万円以上は使っていたはずである。ヘビーユーザーとなれば、毎年100万円以上使う人もいるのではないだろうか。私自身は、ロサンゼルス近郊のディズニーランドには2回ほど行ったことがあるが、自分で望んでというより、団体旅行などの機会で行ったものであった。興味のある無しは人それぞれだが、私の場合は全く無いに等しかった。ちなみに、私の子供たちは、一度も行ったことが無いが、親の影響からか、興味も無いようではある。

 以前より、ディズニーランドについては、良くない話も耳にすることがあったが、最近も、そのようなニュースがあった。ロイター通信電子版2022年4月22日付記事によれば、アメリカ・フロリダ州のデサンティス知事(共和党)は4月22日、ウォルト・ディズニーが同州内のテーマパーク「ディズニーワールド」を自治区のように運営できる権利を廃止する法案に署名した。デサンティス氏が特別地区の権利廃止を議会に要請し、法案が可決されていた。同社がLGBTQを巡る州政府の政策に反対したことを受け、知事が報復した格好とのことである。これまでディズニーは、特別地区制度により、過去50年にわたり、消防や水道といった公共サービスを提供し、郡政府のように機能してきた。代わりに税制上の優遇措置を受けられる債券を発行し、施設整備に充てることが可能だった。今般のフロリダ州知事と議会の行動を受けて、ディズニーは、州内の学校教育でLGBTQに関する話題を取り上げることを禁じた新法に反対し、フロリダ州への政治献金を停止する方針を表明した。デイサンティス氏は、これまで移民や中絶、LGBTQの権利などで保守的な立場を表明しており、今回の対応も保守層へのアピールとも受け取られているとのことである。

 ディズニーランドがLTBTQに対して好意的に行動していることは、日本でも次第に知られて来ている。東京ディズニーランドは、ウォルト・ディズニー・カンパニーとライセンス契約を締結している、オリエンタルランドが運営しているが、昨年3月から、場内の英語案内放送で、性別を含む表現をジェンダーフリー的なものに変更したと聞く。具体的には、「レディース・アンド・ジェントルメン」、「ボーイズ・アンド・ガールズ」を「ハロー・エブリワン」などの表現に変更したとのこと。ちなみに、ウォルト・ディズニー・ジャパンの公式ホームページには、次のように謳われている。「ウォルト・ディズニー・カンパニーは、毎年、プライドと私たちのプライド・コレクションを記念して、LGBTQ+コミュニティを支援する世界中の団体に寄付をしてきました。(中略)2022年のプライド・コレクションでは、さらに支援を深めていきます。その詳細は日本での取り組みと併せて、6月のプライド月間に公表します。」なお、プライド月間とは、LGBTQ+の権利を啓発する月間のことである。

 近年、ディズニーの映画作品では、LGBTQ擁護のメッセージが公然と盛り込まれるようになった。例えば、同社製作の映画「美女と野獣」(2017年)では、ゲイのキャラクターが登場した。また、ディズニー映画には、サブミナル効果を狙ったものか、性的シンボルなどが巧妙に隠されているともされ、それらを検証するインターネット・サイトなどもある。創業者のウォルト・ディズニーはゲイでは無かったと言われるが、ご多分に洩れずフリーメーソン会員ではあった。LGBTQ(最近では、LGBTQIA+とまた長くなった。)を積極的に擁護するディズニーの真意が、顧客層をより広げようとの商業的動機なのか、それとも、道徳的退廃を図ろうとする広義の宗教的動機なのかは、明確に決めつけられないのかも知れない。しかし、確実に言えることは、彼らの顧客、特に子供たちに対して、聖書的には性的倒錯であることを、あたかも自然的な個性として受け入れさせる効果は十分あるということだ。

 私たちは、LGBTQと自認する人々に対して、そのことゆえに差別的な扱いをしてはならないが、かといって、聖書の正しい教えを曲げることがあってはならない。もし、彼らが、真摯に神を求めて教会に来るならば、受け入れることも必要である。しかし、神の定めた創造の秩序に反することは、決して容認すべきではない。LGBTQの人々に本当に必要なことは、魂の深い部分における癒しと解放であり、それは神の力でしか実現出来ないと思う。聖書の教えを信じるクリスチャンの中でも、ディズニーのファンはいるだろうが、ファンタジーの向こう側にある、その真実は知っておくべきであろう。

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています」(ローマ人への手紙 1:26-27 新改訳)
read more…

戦争被害者に神の愛を実践する人々(記事No.106)

 今日は、10年来交流がある、名古屋在住のクリスチャンの友人夫妻と会い、昼食を共にしながら歓談の時を持った。京都で働かれているご子息に会いに来られたのを機に、京都駅近くのホテル・レストランを会場に、約2時間も話が弾んだ。ご主人のT兄は、国際的ネットワークを有するキリスト教系NGOの役員を務めており、その活動で最近ポーランドを訪問したとのことで、現地の状況も聞くことが出来た。

 今年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻以来、ウクライナから国外に逃れた難民は、既に500万人を越えているとされ、その約半数をポーランドが受け入れているそうである。T兄は、3月下旬から4月上旬まで、他のスタッフ2名を率いて、ワルシャワからウクライナ国境のメディカに至るまで、いくつかの都市を訪問し、今後の食糧支援など人道支援活動に向けた事前調査と、現地団体などとの調整作業に従事したそうである。

 これまで本ブログでも、ウクライナ情勢に関する記事を何本か掲載しているが、実際に国境地帯まで足を運んで、難民の状況をつぶさに見てきた人の話を聞くことは、大きな収穫であった。戦争の原因を作り出した者たち、特に首謀者らに近い者たちは、皆戦火の及ばない場所にいるのであろう。露宇双方に掲げる大義があるが、前線で血を流す者たちは、動員された兵士たちである。民間人の中にも、戦火に巻き込まれて悲惨な運命に遭う人々がいるが、中でも最大の被害者は、子供たちではないかと思う。

 現在ウクライナでは、18歳から60歳までの男性は、兵役に就くために国内に留まらなければならず、家族で国境検問所に辿り着いても、隣国に脱出出来るのは母親と子供たちだけで、父親とは離れ離れにされてしまうそうである。避難所を訪問したT兄らは、こうした子供たちと、サッカーやバスケットボールなどで一緒に遊んだとのこと。本来なら、父親たちが子供たちの遊び相手になってあげられるのに、可哀想なことである。ウクライナをロシアとの戦争に誘導した者たちが誰であれ、どう控えめに言っても、子供たちを苦しめる権利は誰にも無い。

 日本でも、第2次世界大戦最末期にソ連軍が満州に侵攻した際、関東軍主力は在留邦人を守ろうとせず、多数の民間人が犠牲となり、中国残留孤児の悲劇を生んだ歴史がある。また、日本本土でも、空襲や従軍で両親を亡くし、敗戦後は戦災孤児として、この世の地獄を見た子供たちがいた。しかし、そのような悲惨な状況の中でも、彼らに愛を示した人々がいたことは事実である。今般、T兄らの団体が、ウクライナ難民支援に乗り出したのも、彼らに愛を示すためであり、それにより、難民たちに少しでも実際的な助けをするためである。

 戦争は自然災害とは異なり、意思を持ってそれを起こす者たちがいるゆえに発生する。そのことに注意を払い、それぞれに探求することも、欺かれないためには重要である。しかし、最も緊急に重要なことは、戦争によって被害を受けた人々を助けることであり、特に、戦争に何の責任も有していない子供たちを救うことは、神と人々との前に尊い働きである。それは、命を守り、命を生かす、神の愛を実践する行動である。ウクライナの地に平和が訪れることを、また、戦争が拡大しないことを、共に祈り続けたい。

「命は慈善の道にある。この道を踏む人に死はない」(箴言 12:28 新共同訳)
read more…

破局は突然始まる(記事No.105)

 今年2月下旬、本ブログ記事No.92「核戦争の危機は当面回避」を掲載したが、その直後、ロシア軍のウクライナ侵攻が始まった。ロシアによる「特別軍事作戦」は、西側政府の見解やマスコミの報道とは逆に、民間人の犠牲を最小にしながら作戦目的を達成するために、抑制され統制の効いた行動であると考えられる。繰り返し報道される、ロシア軍の仕業とされる残虐行為の数々は、よくも臆面無くと言えるほど、フェイク画像・映像が多用されているが、それらを解析する記事は次々と削除されている。

 これまでの展開を見る限り、ロシアは、アメリカやNATO諸国との直接軍事対決を望んでいないことは明らかである。これに対して、米欧諸国は、ロシアの忍耐力を試すような行動、ウクライナへの軍事支援や対露経済制裁等を続けている。米欧のロシアに対する政策を決定しているのは、それら諸国の獅子身中の虫である、悪魔崇拝のグローバリスト集団である。プーチン大統領はじめロシア指導部は、当然そのことを熟知しており、挑発に乗るような真似はしていない。しかし、一方で、プーチン氏は、ロシア国民に対するメッセージの中で、「ロシアの無い世界など必要無い。」とも発言しており、最悪の場合には、核戦争も辞さじとの意思表示と受け止められている。

 ロシアとは異なり、米欧諸国政府は、それぞれの国民の意思と正反対に、第3次世界大戦を欲している。その主要なイベントは、米露核戦争であり、ロシアの西側諸国に対する核攻撃である。彼らは、これまでのウクライナに対する兵器や軍用装備品の支援に加えて、東ヨーロッパへの大規模な正規軍派遣に踏み切ろうとしている。4月29日にイギリス国防省が発表したところでは、今年夏までに東ヨーロッパ各地で計画されている多国間合同軍事演習に、イギリス陸軍の部隊約8000人を派遣するとのことである。これは、東西冷戦が終結してから最大の規模となり、フィンランドや北マケドニアなどには戦車等の機甲部隊も配備するという。同軍事演習には、NATO諸国のほか、加盟を検討しているフィンランドやスウェーデンなども参加を予定している。ロシアの立場からすれば、西側諸国からの軍事的圧力以外の何物でもない。

 なぜ、そこまで、第3次世界大戦や米露核戦争を引き起こしたい勢力が存在するのか。本ブログでも、これまで書いて来たが、この世界には陰謀論などではなく、現実に世界統一政府樹立を目指している者たちがいる。その中核は、悪魔崇拝の偽ユダヤ人らである。彼らの存在は、ヨハネの黙示録第2、3章に明記されている。彼らの最終目的は、世界の国家と宗教を統合し、この世界において、悪魔が神の地位を簒奪することである。彼らが共産主義やファシズムを作り出し、宗教の中に反キリスト的な教義を浸透させて来た。また、政治や教育、芸術などを通して、反聖書的な思想や文化を拡散させて来た。彼らの世界統一の邪悪な野望実現に向けた総仕上げが、やがて起こされる第3次世界大戦である。

 残念ながら、それは、いずれ起こされるだろう。西側諸国からの全面的な挑発を受け続けているロシアであるが、彼らも、これ以上は忍耐出来ないという限界線を設定している。それが、どこであるかは分からないが、これまで中立国であった、フィンランドやスウェーデンのNATO加盟だけでは無いように思える。ロシア包囲網の一部として、日本周辺の東アジア(ロシアからすれば極東)でも、軍事的圧力が生成されるのではないだろうか。ロシアが、忍耐出来る限界線を、西側に越えられたと判断したならば、彼らは躊躇することなく、先制核攻撃を加えると思う。その第1撃は、米欧の主要軍事基地や全ての核ミサイル施設であろう。恐らくは、その時、日本国内の米軍基地や主要自衛隊基地も標的となり、悉く壊滅させられるだろう。無差別攻撃が行われるとは思えないが、強力な破壊力を有する核兵器による攻撃であるから、標的周辺の市街地にも甚大な被害が生じるだろう。

 去る4月7日、大阪市が市内の地下鉄駅舎99カ所を、弾道ミサイル落下時の避難施設に指定したと発表された。大阪市では、今回の避難施設指定により、市内の避難施設は607ヶ所、対人口比135パーセントになったとのこと。各避難施設が、放射能除去エア・フィルターや防爆気密扉などの、フォールアウト・シェルター仕様になっているとは考えられず、大阪維新得意の、やってます感を出したに過ぎないと思う。本気で避難施設を整備するなら、それもいいが、今日本が安全を確保するために最も必要なことは、ロシアとの軍事的緊張関係を、自ら作り出さないことではないだろうか。軍拡競争では、核兵器大国のロシアには絶対に対抗出来ず、国土の特性も考慮すれば、仮にロシアとの本格的な軍事衝突が起これば、敗北するのは間違いなく日本の方であろう。危機を喧伝する人々は、そこまで覚悟しているのであろうか?

 今年中か、来年なのか、それとも、それ以降になるのかは分からないが、ロシアと西側諸国との核戦争は、いずれ必ず起こると考えていた方が良い。現実問題として、自衛隊では守り切れず、米軍も頼りにならない。ロシアは、地上軍で日本全土を制圧する必要もない。スイスやイスラエル並みの国民皆兵とした上で、日米安保条約を破棄して中立を宣言するなら、ロシアも日本に手出しはしないだろうが、今すぐ方向転換は非現実的であろう。となると、日本も、米露核戦争の時には、ほぼ確実に巻き込まれるだろう。極めて局地的な軍事目標に対する攻撃で無い限り、核攻撃の事前予告などあり得ない。ロシアであれ、アメリカであれ、核攻撃を行う場合には、先制攻撃を行わなければ、座して死を待つに等しい。それは、ある日突然起こる。その時、私たちは、どのように身を守ることが出来るであろうか?もし、その答えを既に持っているのであれば、私たちは怯える必要はないであろう。

「突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅に おびえてはならない。 主があなたの傍らにいまし 足が罠にかからないように守ってくださる」(箴言 3:25-26 新共同訳)
read more…

受けるよりも与える方が幸い(記事No.104)

 今月半ば以降、他の人々のためのボランティア的な作業に相次いで取り組んだこともあり、ついブログ記事の更新間隔が開いてしまった。時間を要したことの1つは、奨学生応募者のためのサポートであった。ある国際的な奉仕団体が募集している、大学院レベルの海外派遣奨学生プログラムの応募者の推薦人となるために、求められた手続きを進めていた。その中で、推薦人もいくつかのオンライン講座を受講しなければならないとの、降って湧いたような話があり、仕事の合間に受講したのである。全て英語版の各講座の最後には、合否判定テストが付いていたので、一応は通しで視聴しなければならず、忙しい中で余計な時間を取られてしまった。

 この他にも、プライバシーの問題があるので詳細は書けないが、仕事のストレスで鬱病になったと主張する社員への対応や、別れた前妻に身包み剥がされてしまったも同様な友人への支援など、ここ半月ほど、問題を抱えた人々等との関わりが続いた。さすがに、短期間で集中的に、他人のために、自分の時間、労力、金銭を消費すると、少し疲れも覚えてしまった。専門職が仕事として関わるなら、それで報酬を得る訳であるし、当然のことではあろう。しかし、自社の社員の問題以外は、全くの奉仕であり、選択出来たならば、避けたかったのが本音である。このような時はいつも、イエスの言われた言葉を思い起こして、自分の励みとしている。

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」(使徒行伝 20:35 口語訳)


 多くの人は、誰かに善意を示す機会があれば、そうしたいと願っていると思う。なぜなら、自分の善意が誰かの助けになり、その人から感謝される時、自分自身も嬉しくなり、助けることが出来て良かったと思うからだ。ケースバイケースではあるが、時間的、経済的負担がそれほど大きくなければ、対価はもちろん実費も求めることもしないであろう。その場合、相手からの感謝が何よりの報酬である。同時に、天にいくばくかの宝を積むことも出来るかも知れないが、そのあたりは計算するような話ではない。しかし、誰かを助けることが、時間的、経済的、精神的に少なくない負担を伴う場合は、果たしてどうであろうか?時には、そのような状況に直面する場合も起こり得る。

 人々のために自分の全てを捧げられた、イエスの生涯から学ぶべきではあろう。だが、時には、イエスは神だから可能であったのだ、自分は弱い人間に過ぎない、と思えてしまうことがあるかも知れない。他の人の重荷を共に背負うことは、多少なりとも自己犠牲的な精神が無ければ出来ないが、私たちは常にそうすべきとも思えない。自分の方が倒れてしまったり、共倒れということも無いとは言えない。何だか自分自身に言い聞かせているようでもあるが、私たちは、自分の力の範囲で他の人々に善意を示すことが良いのであって、義務感で自分を追い込むべきでは無い。まして、他の人に義務感を押し付けることは、もっての他である。(特定の人々や団体等を指して言っている訳では無い。)

 私の場合は、他の人々に善意を行動で示すことに、少し疲れを覚えた時には、「受けるよりは与える方が幸い」とのイエスの言葉を、繰り返し唱えることにしている。そして、神からの知恵を求める祈りをする。私たちは、悪意のある人々に付け入られるようなお人好しであってはならないが、かと言って、他の人々に愛を示すことを惜しんではならない。与えられたものの中から分かち与えることで、それらは減るのでは無く、倍加して行くという、神の法則を体験することが出来る。与えない人は、与えられることも無い。与える人は、また自分も与えられる。私たちは、人々に、良いものを多く与える者となりたい。そうすれば、神から多くの良いものを与えられるであろう。

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカによる福音書 6:38 口語訳)
read more…

戦争への道を進む日本(記事No.103)

 昨年末以来、本ブログでもウクライナ情勢に関わるテーマを多く取り上げて来た。私も、明るい話題の記事を多く書きたいと常々思っているのだが、現在進行形で、危機的な状況が続いている以上、目を背ける訳にもいかず、必然的に重いテーマが多くなってしまう。そのうち、時々は京都のグルメ記事なども書くかも知れないが、暫くは今のようなテーマが中心になるだろう。

 さて、またも、日本の将来が危ぶまれるニュースが報道されている。岸防衛大臣は、4月19日の記者会見で、ウクライナに対して、新たに監視用ドローンと化学兵器対応用の防護マスクと防護衣を提供すると発表した。提供されるドローンは、防衛省が保有する民生品であり、搭載しているカメラで、状況監視の目的に使用されるという。監視と言っても、防災やインフラ保守管理の為ではなく、軍事目的に使用されるのは自明の理であろう。日本が提供したドローンが、例えば、ウクライナ軍が砲撃目標を探索するために使用されたなら、どのような意味を持つことになるのか。それは、日本が戦争当事者であるウクライナを軍事的に支援したことになり、ロシアは自国防衛のために、日本を攻撃する正当な権利を持つことになる。具体的には、日本がウクライナに提供した各種装備品の工場、貯蔵施設、輸送手段などに対して、ロシアは攻撃する権利を持つと言うことである。

 自公政権(公明党が平和の党というのは、ブラックジョークである。)が、国外の戦争へ関与することに対するハードルが低いのは、別に今に始まったことではないが、今般のロシア・ウクライナ戦争では、これまでに無く日本自体を危険に晒す行動が続いている。日本が国際社会の一員として、本来やるべきことは、双方への停戦の呼びかけであり、一方に加担して戦争継続を支援することではないはずだ。特に、日本自体の安全が脅かされる台湾有事の場合とは異なり、ヨーロッパの一角における局地戦争であって、中立的な立場を採ろうと思えば採れるはずである。もっとも、アメリカの属国である以上は、宗主国の命令には逆らえないのであろうが、お得意の決められない政治を駆使して、直接関与から逃げ回っていた方が良かったと思う。ところで、今日の箴言(箴言は31章あるので、毎日1章づつ読んでいる。)には、今の日本を言い表しているような、タイムリーな聖句があった。

「争いにかかわらないのは立派なことだ。無知な者は皆、争いを引き起こす」(箴言 20:3 新共同訳)


 私は、ウクライナは遅かれ早かれ、実質的な降伏に近い形で、ロシアと停戦に合意することになると考えている。しかし、米欧諸国に巣食うグローバリストらは、第3次世界大戦の火種としてのウクライナを、決して諦めないだろう。もちろん、ウクライナの主権や国民を守るためでなく、戦争から利益を得続けるためと、何よりも、米露核戦争を引き起こすためである。日本の為政者や官僚たちが、グローバリストらと心中覚悟でいるのは、彼らだけで自己完結するなら勝手であるが、国民を巻き添えにする以上、とんでもない権力犯罪である。日本政府のウクライナ軍事支援を支持している国民は、ロシアとの戦争を覚悟しているのであろうか?大変残念であるが、いずれ米露戦争が勃発する可能性は高く、その時日本は、ロシアによる核兵器を含めた攻撃のターゲットになるだろう。

 このような日本と世界の危機に直面して、私たちが出来ることは限られているが、少なくとも、平和のために祈ることが大切である。祈りは、世界を変える最も強力な手段であり、武器である。また、実際的な備えとしては、今後の食糧危機を見据えて、食料品や水などの備蓄を増やすことや、将来的に難民となる場合も想定して、パスポートの取得・更新も欠かせない。もちろん、外国語の勉強も有益であろう。ウクライナの人々は、米英などの外国と通謀して自国を戦争へと導いた、邪悪な国家指導者の暴政により、苦難の道を歩んでいるが、それが将来の日本人の姿とならないことを願う。戦争への道を進む日本であるが、こんなはずでは無かったと、後悔しても遅い日が来る可能性が高いと思う。神を信じて、その庇護のもとに自分と家族を置くことが、命を守るためには決定的に必要である。

「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(詩篇 121:4−8 新共同訳)
read more…

エルサレム第三神殿とは何か(記事No.102)

 ウクライナ情勢に関する報道の陰で、扱いは小さかったが、エルサレムで重大な事態が発生したことが伝えられた。これまでの報道を総合すると、現地時間4月15日の早朝、黄金の丸屋根を戴く「岩のドーム」として知られる、エルサレムのアル・アクサ・モスク周辺でパレスチナ人群衆とイスラエル警察が衝突し、150人以上が負傷した模様である。イスラエル警察によれば、衝突に先立つ午前4時頃、覆面の男たち数十人がモスクの敷地内に侵入し、花火に火をつけたと言う。その後彼らは、隣接する嘆きの壁(西の壁)に投石したそうである。警察発表のとおりだとすれば、イスラム教とユダヤ教のそれぞれの聖地を冒涜する行為であり、両教徒らの対立を煽動したものと考えられる。現時点では、誰が煽動者であったのかは明らかでないが、ユダヤ人かパレスチナ人のどちらかの過激派ではないだろうか。タイミングとしては、イスラム教の断食月であるラマダンとユダヤ教の過越祭の初日が重なった日であり、どちらの側も信仰的熱情が高まっていた時を狙った、計画的な扇動であるだろう。

 アル・アクサ・モスクは、イスラム教の開祖であり、彼らが「預言者」と信じるムハマンド(マホメット)が立ち寄った地と伝えられている。また、同じく預言者とされている、イブラヒム(アブラハム)にまつわる故事の舞台とも言われる。イスラム教徒にとっては、メッカ、メディナに次ぐ、3番目に重要な聖地である。モスクが建っている場所は、かつて、ユダヤ人の第一神殿、第二神殿が建っていたと考えられており、「神殿の丘」と呼ばれる、ユダヤ教徒にとって最も重要な聖地となっている。嘆きの壁は、第二神殿(ヘロデ神殿)の外壁の残存部分とされており、かつ、ユダヤ教徒が神殿跡地に最も近づける場所であり、壁の前に立って熱心に祈る人々が絶えない。私も一度訪れたことがあるが、異教徒の私も、キッパという帽子を借りて頭に被り、神妙な面持ちで壁の前に立ったものである。各国の要人らも多く訪れており、2006年には、小泉首相(当時)が壁に手を置いて祈り、2017年には、アメリカのトランプ大統領(当時)が訪れて祈りを捧げている。2015年には、安倍首相(当時)も訪れて壁に手を触れているが、祈ってはいなかったようである。

 神殿の丘では、これまでにも、ユダヤ教徒とイスラム教徒、イスラエル警察とパレスチナ人群衆が、度々衝突を繰り返して来た。両教徒とも、教理や歴史に加えて、信仰的熱情が伴っているので、極めて根が深い対立構造である。しかも、現状でも一触即発の状態であるのに、ユダヤ教徒の側は、この地に神殿を再建することを目指している。いわゆる、「第三神殿」の建設である。イスラエルでは、ユダヤ教の研究所において、第三神殿で用いられる予定の祭具などが既に製作されており、神殿で祭儀を司る祭司らの訓練も行われていると言う。ひとたび神殿の建設が始まったなら、短期間でそれは完成し、旧約聖書の規定通りの祭儀が行われるようになるだろう。資金も含めて全ての準備は整っていると思われるが、最後に必要なことは、現在のアル・アクサ・モスクの除去である。しかし、ユダヤ教徒たちは、イスラム教徒の第3の聖地である同モスクを、どのように除去するつもりであろうか?仮に、武力を行使して物理的にイスラム教徒らを排除し、モスクを解体しようとすれば、イスラエルとイスラム諸国との間に、戦争が勃発することは避けられないであろう。かと言って、イスラム教徒側が土地買収に応じるとも思えない。そのような動きをする者がいれば、宗教指導者であっても、イスラム過激派に直ちに暗殺されること必定である。

 第三神殿が建設されると信じているのは、ユダヤ教徒だけではない。クリスチャンの中にも、神は必ずユダヤ人をして、第三神殿を再建させると信じている人々が少なくない。特に、福音派やペンテコステ派(聖霊派)と区分される、保守的な教理を有する教会に属する人々の大半は、そのように信じていると思われる。彼らは、神の不思議な業により、アル・アクサ・モスクは取り除かれると考えている。中には、大きな地震が起こって、モスクが倒壊すると想像している人もいるようだ。モスクの建物が倒壊したとしても、それだけでは、イスラム教徒らが同地を明け渡すとは思えないのだが…。どんなことが同モスクに起こるのかはさておき、多くのクリスチャンにとって、第三神殿の建設が重要な意味を持っている理由は、それが世の終わりと密接に関連しているからである。すなわち、そのことが起こると、イエス・キリストの再臨が間近に迫っていることになるとの考えである。イエスは、弟子たちの質問に答える形で、自身の再臨の前兆として、こう言われた。
「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」(マタイによる福音書 24:15-16 口語訳)


 第三神殿が建設されることを信じるクリスチャンたちは、ここでイエスが言われた「聖なる場所」とは、エルサレムの神殿を指すと解釈する。イエスの時代にあった第二神殿は、紀元70年にローマ軍により破壊されたので、世の終わりの時代に、同じ場所に、第三神殿が建設されることになるという考えである。私も、20歳くらいの時に再臨信仰を持って以来、何年もそのように考えていた。ところが、あることをきっかけに、その点についての疑問を抱くようになった。確か、1994年だったと思うが、京都府下でペンテコステ派のセミナーが開催され、私も参加する機会を得た。そのセミナーの講師の1人が、オーストラリア人の牧師であり聖書学者であった、ケビン・カナー師であった。ある日本人参加者の、「第三神殿はいつ建設されると思うか?」との質問に対して、カナー師は、直接的な回答の代わりにこう答えた。「主は、もはや手で造られた神殿には住まわれない。私たち自身が、神の神殿であるからだ」
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(コリント人への第一の手紙 3:16-17 口語訳)


 カナー師は、「The Tabernacle of David(ダビデの幕屋)」(1976年刊、邦訳版の有無は不詳)という本を著し、その中で、旧約聖書に記録された幕屋が、いかに新約聖書の教えとリンクしているかを、聖書の言葉から詳細に解き明かしている。同書には、こう記されている。「神は常に、彼の、贖われた人々のただ中に住むことを願われて来た。旧約聖書の典型的な(神の)住まいは、この贖いについて漸進的な啓示を現している」また、こうも記されている。「完全な啓示は、神の幕屋また神殿が人となられた、主イエス・キリストの内にある」今日、神が住まわれるのは、イエスの十字架の血潮で罪が潔められ、贖われた、クリスチャンの霊の内にである。神の霊は、クリスチャンの内に、また、彼らの霊的共同体である神の教会の内に住まわれる。物質的な建物としての教会には、神は住まわれず、仮に将来第三神殿が建てられたとしても、それは同様である。ユダヤ教徒らが、第三神殿と称される建物を建設したとして、それは宗教的な聖所とはなり得ても、もはや霊的な神の聖所とはなり得ない。果たしてそれは、聖書に預言された、「聖なる場所」としての神の宮だろうか?本ブログ記事を読まれた皆さんも、このことに関心を持たれているなら、どうか考えてみていただきたい。そして、祈りつつ、聖書の言葉を素直に読んでみていただきたい。この地上における聖なる場所とは、私たち自身と神の教会である。
read more…

嘘も「真実」になる(記事No.101)

 数日前の朝のTBSラジオで、パーソナリテイが鈴木宗男参議院議員のブログ記事を取り上げ、ウクライナ紛争の報道に関する同議員の疑問を批判的に紹介していた。早速、私も鈴木議員のオフィシャルブログを読んでみたが、ラジオ番組内で批判されていたのは、以下の記事である。「テレビから、ロシア側、ウクライナ側の主張、映像が知らされるが、なにが真実で、なにが正しいのか、受け止めに躊躇してしまう。情報化の時代、それぞれ都合の良い頭づくりで作られてしまう危険性をつくづく感じながら、同時にメディアの使い方、発信の仕方によって全く違う価値観が出てくることに恐ろしい限りである。(中略)今回も直感で目に入るメディアによる時には印象操作とも思える場面場面に、何とも言いようのない虚しさが去来した」その後は、こう続く。「私の願いはただ一点、早く停戦し尊い命が亡くならないことだ。一般の人に武器を持たせては犠牲者が増えるだけである。兎にも角にも話し合いで、停戦してほしいと祈るしかない」

 いったい、鈴木議員のブログ記事のどこがおかしいのか、一読するだけでは分かり難いかも知れない。キーワードは、「印象操作」であろう。この記事を取り上げたラジオ・パーソナリティにとって、ロシアが侵略者であり、悪であることは自明の理であって、所与の事実であると言うことだ。日本のみならず、欧米のマスコミの大半は、同様の観点に立って、ウクライナ紛争を報道していると考えられる。当然のことながら、それら諸国の政府も、侵略者ロシアを厳しく非難し、果敢に立ち向かうウクライナを支援するという姿勢である。日本のテレビや新聞、インターネット・メディアのほとんども、ロシアによるウクライナの一般市民に対する残虐行為の数々が、連日これでもかと言うほど報道されている。今回の鈴木議員のブログ記事は、そのような一方向に集中する報道や情報の流れに対して、一石を投じたものとも言えるであろう。

 最近、ロシア軍の蛮行として報道された中で、特に注目されたのは、首都キエフの北西約24キロにある町、ブチャでの犠牲者400人以上の住民虐殺とされる事案であろう。4月4日に、ニューヨーク・タイムズ紙が、アメリカ・マクサー社の衛星写真を入手したとして報道し、BBCも、これが3月19日撮影の写真であると確認したと報じた。ロシア軍は、2月24日のウクライナ侵攻開始後間もなくブチャを制圧し、その後3月30日に同地を撤収するまで支配していた。もし、その衛星写真が3月19日に撮影されたものであり、そこに写っていた遺体の数々がロシア軍撤収後に発見されたものと同じであれば、虐殺はロシア軍の凶行となる。ところが、報道されたその衛星写真を見た専門家らが解析したところ、影の位置などから、当該写真は、4月1日のグリニッジ標準時11時57分に撮影されたものであることが判明した。もし本当にロシア軍の仕業であるなら、衛星写真の撮影日を、ロシア占領下の日と偽る必要は全く無い。ウクライナ側の案内で現地を取材したロイター通信は、ロシア軍の虐殺を証言する現地住民や行政当局者らの話を伝えているが、その記事は、「死亡した住民を誰が殺害したのか、独自に確認することは出来なかった。」との注釈付きで報道された。SNSなどでは、各地で住民を攻撃しているのは、ウクライナ軍や(ネオナチの)アゾフ連隊であるとの避難民の証言も多く出ているが、何故か、そのような記事は次々と削除されている。

 日本を含む西側メディアでは、これまでほとんど報道されず、各国政府も問題視して来なかったが、ウクライナにおける住民虐殺を行って来たのは、アゾフ連隊(以前は大隊)などのネオナチ勢力と、彼らの影響下に置かれたウクライナ軍である。特に、東部のドネツク州やルガンスク州など、ロシア系住民が多数を占める地域では、2014年から今年2月のロシア軍侵攻までの約8年間に、14,000人ともされる一般住民が虐殺されて来た。ウクライナ政府とネオナチ武装勢力による、このような蛮行に対して、国際社会は厳しい非難と制裁を行うことなく黙殺し続け、ロシアによる軍事侵攻への道筋を作って来たのである。もとより、他国へ軍事侵攻することは許されることでは無いが、このような事態に至った原因について言えば、ロシアの側に道理があると思う。

 さて、これまで書いたような、米欧諸国などの政府や報道機関によるロシア非難であるが、事実と嘘をない混ぜにして、いかにも真実であるかのような情報を流す手法自体は、今に始まったことではない。近代史上最も知られている前例としては、ナチス・ドイツの宣伝手法が挙げられるであろう。ナチス政権の宣伝大臣であった、ゲッペルスが語ったとされる、「嘘も100回繰り返せば真実となる。」という言葉がある。この手法は、第2次世界大戦後も、ソ連や中国のような全体主義国家のみならず、自由主義国とされている国々でも用いられて来た。今回、ウクライナと米欧諸国の政府が、報道機関なども巻き込んで、ロシア軍による戦争犯罪行為の数々について情報発信しているが、これらも同じ手法と言えるだろう。さすが、ネオナチに支配されたウクライナ政府と、ナチスの思想や人脈を密かに受け継いだアメリカ政府(正確には、政府内部のグローバリスト集団)の合作(もちろん、首謀者はアメリカ側)ではある。

「偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者は滅びる」(箴言 19:9 口語訳)


 歴史を顧みると、偽りの思想や歴史観の上に築かれた国家や体制は、いかに強大な国力や覇権を誇ってはいても、結局は例外無く崩壊している。近くは、ソ連、大日本帝国、ナチス・ドイツなどがそうであった。今は権勢を誇る中国共産党支配体制も、いずれ崩壊する日が来るだろう。今般のウクライナ紛争において、世界に嘘を撒き散らしている、アメリカやヨーロッパ諸国、それに追従国日本はどうなるだろうか?ロシアには、日本に対しても牽制する動きが見られるが、その中には、左派政党とされる、「公正ロシア」のミロノフ党首による、「ロシアは北海道に全ての権利を有している」という発言もあった。今のところは、一政治家による単なる恫喝発言であろうが、そのような暴言を引き出してしまったのには、日本のロシアに対する一方的な圧力にも原因がある。日本も独立国家である以上、自国を侵略しようとする者には、断固たる態度をとる必要はある。しかしながら、国際協調の美名のもと、自ら隣国との緊張を高める行動をとるのは、いささか知恵に欠けているとは言えないか。せめて私たちは、政府や報道機関の言うことを無批判に受け入れるのではなく、自ら吟味し考える習性を身につけておくことが、今の時代には大切であろう。

「あなたがたのなすべき事はこれである。あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない」(ゼカリヤ書 8:16 口語訳)
read more…

日本の最後の希望(記事No.100)

 一昨日、高速道路のサービスエリアにあるガソリンスタンドで給油したのだが、ハイオクで何と1リッター198円であった。2週間くらい前に街中のスタンドで給油した時には、リッター185円であり、随分と値上がりしたと思ったのだが、あっという間に200円の大台に乗りそうな勢いである。次に給油した時には、本当にそうなっているかも知れない。世界のどこかで戦争が起きたり、あるいは、情勢がきな臭くなるだけでも、資源価格は敏感に反応し、日本でも末端小売価格が上昇することになる。当然のことながら、燃料価格が上昇すると、電気・ガス料金や物流コストも増加し、結果的に広範囲な物価上昇となる。いわゆる、コストプシュ型インフレであり、需要の増加による物価上昇とは異なり、勤労者の給料が上がる訳ではない。99パーセントの生活は、苦しくなる一方である。

 エネルギーだけでなく、食品も次々と値上げされている。今年6月から、各社のインスタントラーメンが値上げされることは知られているが、既に多くの食品が値上げモードに入っており、特に、小麦を使用した加工食品は顕著である。ウクライナ紛争に伴い、欧米諸国を中心に対ロシア禁輸を含めた制裁を実施しているが、世界第3位の小麦生産国であり、同第1位の輸出国のロシアとしては、他の諸国に輸出を振り向ければ良いだけであり、最もダメージを受けるのは、制裁実施国の大衆である。食料自給率がカロリーベースで37パーセントの日本は、世界的な食料価格上昇の影響をまともに受けることになり、今後も食品インフレが進むであろう。それだけでなく、輸入依存度が高い品目では、やがて入手自体が困難になる可能性が高い。

 ところで、日本は失われた30年と言われるように、先進国とされる諸国の中で、経済的に最も低成長の国である。国内総生産(GDP)は、1991年の492兆円が30年後の2021年で553兆円である。30年間でわずか12パーセントの成長であるが、ドル建てで比較すると諸外国と比べて悲惨な結果となっている。細かい統計数字は挙げないが、30年間で日本のGDPは1.39倍となったが、同じ期間でアメリカは3.72倍、中国は40.82倍にGDPが増加している。購買力平価GDPという指標で見ると、日本の1人あたりGDPは、既に2019年に韓国にも抜かれている。日本は第2次大戦敗戦後これまで、直接戦争を経験していないにも関わらず、この30年間年々着実に貧しくなっている、世界でも稀な国である。聖書は、「人はパンだけで生きるのではない」と教えるが、一方で、イエスは、その教えを聞きに来た大群衆が空腹であるのを見て、「5つのパンと2匹の魚」として知られる奇蹟により、彼ら全員を満腹させられた。「衣食足りて礼節を知る」との諺にもあるように、あまりに生活が苦しいと、人心が荒むのも当然であるが、閉塞感漂う現代日本がまさにそうであろう。

 なぜ、このような惨めな国に堕してしまったのか。多様な原因があるであろうが、最大の原因は政治が間違ったからであろう。政治が間違った理由は、日本と日本人とを愛していない人々が政治家の多数を占めて来たからである。そして、彼らを選んだのは、国民自身である。特に、組織的に政治への影響力行使を続けて来た、統一教会と創価学会の罪は極めて重い。政権与党が彼らの強い影響下にあることは、日本人にとっての不幸であろう。何故なら、彼らの政治的影響力が日本をより良くするためには作用して来なかったことは、結果が証明しているからである。また、政治家の影に隠れて政策を取り仕切っている、官僚たちの罪も重い。書きたいことは山ほどあるが、この辺にしておく。なお、私は酒は飲まない生活なので、酔ってくだを巻くことは無いが、この種の話題は相手を選ばなければ話せず、たまに意見の合う人と話すと饒舌になってしまう。

 日本の現状と行く末を思うとき、憤りや怒りだけでなく、哀しみと憂いを抱く。同時に、微かに起ころうとする諦観の念に対して、拒否することをしている。日本は外圧でしか変わることが出来ないとは、よく言われることである。確かに、鎖国下の幕藩体制から、開国して一応の近代国家になったのは、米欧諸国の圧力を契機としてであった。帝政と軍国主義から民主制と平和主義への転換も、敗戦を通らなければならなかった。戦後も、主としてアメリカからの度重なる外圧により、良かれ悪しかれ、各種制度改革を行って来た。こうして見ると、日本は、主体的に国家レベルでの改革をすることが出来ない国なのだと思う。ほとんどの選挙で、投票率がしばしば半分以下という状況は、単なる諦めだけでなく、棄権という白紙委任の方が、自ら考えて投票行動することよりも楽だからであろう。そのような状況が長年続き、現在の日本社会に至った訳である。

 今後日本には、さらなる不況だけでなく、数年以内には、大地震や火山の噴火などの自然災害が発生し、国力の低下と国民貧困化が加速すると思われる。これらの災害に加えて、再び原発の重大事故が発生するなら、今度こそ日本終了のゴングが鳴るだろう。さらに、自らロシアの「非友好国」の道を選択したことで、米露戦争が起きた暁には、日本も核攻撃のターゲットになることがほぼ確定したと言えよう。その場合は、最低でも米軍基地と海空自衛隊基地は、初期の段階で壊滅させられる。ロシアとしては、敵国の攻撃力を早期に除去しなければ、自分たちがやられるのだから、彼らの立場では当然の行動である。これらの厄災以外にも、急激に進む少子化、科学技術力の相対的低下などもあり、日本の未来には、残念ながら、もうほとんど希望は残っていないと感じる。

 人間の考えでは、わずかの希望しか無い日本であるが、もはや絶望して諦めるべきであろうか。あるいは、敗戦後に坂口安吾が書いた「堕落論」のように、ある種開き直った方が良い結果をもたらすのだろうか。私は、人間の努力だけでは、日本が再生することは困難であると思う。個人や集団レベルでの、ミクロの再生は可能であっても、国家レベルでの、マクロの再生は望めないだろう。その意味では、日本にはもう希望はほとんど残っていない。しかし、最後に残った希望がある。それは、創造主たる神による希望である。先ほど、日本が堕落した最大の原因は、政治が間違ったからであると書いた。その通りだと思うのだが、しかし、それは外形的、表面的なことでもある。その深部には、霊的な間違いが存在する。それは、日本が、日本人の多くが、真の神に背を向けて歩んで来たということである。本来、神の占めるべき位置にあったのは、有限の存在でしか無い、自己であった。日本人一人一人の自己中心的な歩みが集合体となり、日本という国の独善的な歩みとして現れて来た。しかし、神は憐れみ深く、罪を赦してくださる方である。日本人の多くが神の前に自らの罪を悔い改めるならば、日本は必ず癒やされ再生し、世の終わりが近づく困難な時代の中でも、平和と繁栄が回復されるであろう。神の言葉である聖書が、それを約束している。

「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。 そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。 わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」(エレミヤ書 33:6−8 新共同訳)
read more…