政治的な立ち位置に関わらず、現在進行中のウクライナ戦争は、日本人にとっても、戦争とは何かを、改めて考えさせられる契機になっていると思う。とりわけ、私たちクリスチャンにとっては、聖書が戦争についてどう教えているかという観点からも、一人一人が深く考えるべきことであろう。戦争そのものは、決して正義の発現ではなく、人間の罪の結果である。旧約聖書には、聖戦の概念があるが、イスラエルの民は、約束の地であるカナンに入るために、神の命令に従って先住民らと戦い、彼らを駆逐した。日本語新改訳聖書では、「聖絶」と訳出されているが、先住民との戦いにおいては、神は、彼らを一人残らず根絶するようにも命じられた。その理由は諸説ある中で、これら先住民らの中には、堕天使と人間の混血であるネフィリムの血統に属する者たちが存在していたからとの説は、私にとっては腑に落ちるものである。旧約聖書時代においては、時には戦争は、神によって是認されていたと言えるだろう。
それでは、イエス・キリストが地上に来られてから今日に至る、新約聖書時代においてはどうだろうか?もちろん、旧約聖書に記されている神の教えは、何一つ廃棄されたものではなく、それらは、新約聖書の啓示によって、言わば上書きされたようなものである。それゆえ、旧新約聖書の教えは互いに打ち消しあっているものではないが、クリスチャンの間でも、受け止め方や解釈の違いが大きな部分もある。戦争について、また軍隊についての考え方もその1つである。これらのテーマにおいて、ほとんど全てのクリスチャンに共通した認識は、先に触れたように、戦争そのものは悪であり、人間の罪の結果起こるものということであろう。だが、そこから先は、神学は勿論のこと、文化的背景や政治的思想によっても考え方は様々であり、自分の考えは絶対に正しく、異なる考え方は絶対に間違っていると決めつけることは出来ない。大切なことは、それぞれが自分自身の考えを持ち、良心に従って行動することであると思う。
今般のロシアとウクライナの戦争において、それぞれの当事国でキリスト教会は、兵士たちのための祈りと併せて、戦争の早期終結と平和の回復を祈っているであろうが、それだけではなく、祖国の勝利のためにも祈っていると思う。世界には、生きた信仰を持っていない形だけのクリスチャンも多いことはさておき、同じ神を信じる者同士であっても、敵対する双方の国で、全く正反対の結果となるよう祈っているのである。この状況を神は深く悲しんでおられることは疑いないが、反対に、悪魔と悪霊どもは哄笑しながら、国家指導者らや国際金融資本家らを用いて戦争を煽っているのである。中世のヨーロッパにおいて、いわゆるキリスト教国同士が度々戦火を交えた歴史から、正戦論という、キリスト教的戦争論が編み出されたのだが、非戦闘員に対する人道的扱いなどの基準が作られる土台となったことは評価されるべきであろうが、これをもって戦争そのものを正当化することまでは出来ないと思う。
これまでの人間の歴史の中で、外敵の侵略に対して、戦わなければ、あるいは戦いに勝利しなければ、捕虜や民衆は虐殺され民族浄化されるという実例は無数にある。日本でも、2度にわたる元寇において、元軍(その主力は、元軍に加えて、元の属国の高麗軍や南宋軍であった。)を鎌倉武士たちが撃退しなければ、日本は確実に元(モンゴル)の属国になっていた。その場合、日本の歴史は全く違っていたであろう。もし、徹底的な非戦論を貫徹するのであれば、侵略を受けた時には、征服者らのなすがままに身を委ねるということを意味する。今日でも、中共に併合されたチベットやウイグルの現実を見るならば、外国に武力征服されることは、国自体が消滅するだけでなく、しばしば文化や宗教、さらには言語でさえも蹂躙されることが分かる。それでも、侵略に対して、ただ座して死を待つのみで良いのだろうか?
残念なことではあるが、世界には、自分たちの利益のために、戦争が起こることを望み、それどころか、戦争を起こしてきた者たちがいることは歴然たる事実である。今日では、軍産複合体やディープステイトなどと称される者たちであるが、彼らの本尊は悪魔であり、パシリの小物たちはいざ知らず、中核的な者たちは全て悪魔崇拝者であろう。そうなると、物理的、実際的な戦争とは、究極的には霊的な対立と戦いであることが分かる。ならば、やがてキリストが再臨され、神の最後の審判を経て、悪魔と悪霊どもを永遠の地獄に投げ入れられる時までは、この地上から戦争の種は無くならない。私たちは、平和のために祈ることが不可欠であるが、それぞれ地上での祖国も与えられている訳であるから、どうしたら戦争の発生を防げるのか、また、万が一外国の侵略を受けた場合には、どのように国を守ることが出来るのかを考えなければならないと思う。戦争についてよく考察し、特に導かれた場合には、それについて専門的に学ぶことは、戦争を肯定することとは異なる。神を認めない「英知」は弱く、戦争を防ぐ力は無いに等しいが、神からの「知恵」には力があり、平和を実現するためには得ることが不可欠である。結局のところ、そこに帰結することが必要であろう。
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書 5:9 口語訳)