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超自然的な神の導きの話(記事No.132)

 ここしばらく、本ブログの更新が滞っていた。弁解ではあるが、世の中を観察していると、あまりにも憤りや危機感を覚えることが多く、書くと必然的に批判的な、あるいは、深刻な論調になってしまうことから、自分でも、もう少し希望の持てる話題にせねばと悩んでいたからである。そこで今回は、時事問題や終末の話などは置いて、私自身の体験談を1つ書きたい。クリスチャン用語で、「証し(証詞)」というものである。これまでのブログ記事の多くとは異なり、読みながら気が滅入ることは無いと思う。

 ところで、皆さんの中で車を運転する人は、初めて行く目的地に向かう時には、カーナビをセットすると思う。カーナビが登場する以前は、ほとんどの車には、道路地図が積まれていたのではないだろうか。私は、少年時代にボーイスカウトに入っていたこともあり、地図を見る(「読む」と言っていたが。)のは得意な方ではあった。それでも、目的地付近の詳細な地図が無かったり、道に迷うこともあって、そのような時には、通行人に道を尋ねるのが普通であった。通行人も見当たらなければ、交番を探して聞くか、いずれにせよ、目的地に到着するのに一苦労することもあった。

 さて、ここからは、30年以上前の、私のアメリカ留学時代の話である。当時、大学本科に直接入るには英語力が足りなかった私は、まず付属の外国人向け英語学校(ESL)で数ヶ月学ばねばならなかった。そのため、渡米したのは、中途半端な10月であった。入国した空港から出迎えの車で数時間ドライブし、大学の寮に到着したのは、金曜日の夕方であった。次の日の朝、私は、翌日に訪ねようと思っていた教会の場所と礼拝時間を確認しようと、英語力に自信がなかったので、アメリカ人の学生に代わりに電話をかけてもらった。教会の名称、住所、電話番号は、日本でアメリカ人宣教師から教えてもらっていた。一応、知りたかった情報は得たが、果たして無事翌朝の礼拝に出席できるだろうか?一抹の不安と、神に信頼していれば大丈夫だという思いが交差し、あまり落ち着かずに一日を過ごしたように思う。

 翌日の朝となり、11時から始まる日曜礼拝に間に合うように、大分余裕を持って寮を出た。寮から教会までは、徒歩でせいぜい20分くらいのはずである。ところが、歩き出して数分もしない内に、住宅街の中で道に迷ってしまった。きれいに区画整理された、映画に出てくるような典型的なアメリカの住宅街であり、目標物になるような物が無いのである。私は、渡米3週間前に受けた聖霊のバプテスマ(聖霊により満たされ、「異言」と呼ばれる未知の言葉で祈り始めることが伴う。)以来実践していた、異言での祈りも用いて、神に導きを祈りながら、30分かそれ以上も歩きまわっていた。11時5分前くらいになった時、歩いていた私のすぐ横の家から、若い女性が1人出てきた。年齢は20代前半か半ばくらいの、少しヒスパニック系も入っているような感じの、美しい白人女性であり、手には本のような物を持っていた。

 私が、その家の真ん前に差しかかったのと、その女性が歩道に出ようとしたのが、ほぼ同時のタイミングであり、とっさに私は、彼女に教会への道を尋ねた。次の瞬間彼女がとった行動は、驚くべきことであった。彼女は、家の前に停めてあった車の助手席を開けると、「どうぞ、乗って!」と言ったのである。車に乗った私は、この状況で何を話して良いか分からず、無言で助手席に座っているだけであった。走ること、3、4分だったか、彼女はある建物の前で車を停めて言った。「ここが、あなたの教会よ。」そして、はす向かいの建物を指差し、「こちらは、私の教会よ。」私は、驚きのあまり、彼女の名前を聞くのも忘れ、ただ御礼を言って車を降りた。彼女も、聖書を手にして車を降りたと思う。教会に着いたのは、11時丁度であった。

 読者の皆さんは、私の体験談が、アメリカでは通常起こり得ないことであったことが理解できると思う。若い白人女性(若くなくても、また、白人女性でなくても。)が、見ず知らずの東洋人男性(東洋人男性でなくても。)を単独で車に乗せることなど、普通はあり得ない。それが例え、教会への道を尋ねた人であったとしても、普通は道を教えるだけで十分親切である。私は、私を車で教会まで送ってくれた女性は、瞬間的に聖霊の促しを受けたか、あるいは、白人女性の姿をとった神の御使(天使)であったか、そのどちらかであったと信じている。真相は、いつの日にか、天の御国(天国)に入った時に知ることが出来るだろう。

 アメリカに着いてから3日目の不思議な体験を皮切りに、私はその後、数々の超自然的な神の導きを経験するようになる。今では、スマホに地図アプリも入っており、車にはカーナビが着いているが、これらのツールを使って目的地に行こうとするときは、当たり前かも知れないが、神の超自然的な導きは感じられない。超自然的なものは、人造物の代替物ではないし、それらを補完するものでもない。もし私たちが、何かの時の保険として、神の超自然的な導きを期待するなら、恐らくそれは、願ったようには与えられないであろう。だが、私たちが、それが場所であれ物事であれ、自分の知識や経験ではどうすべきか分からない時、自分の手にある方法ではどうにもならない時、ただ神の超自然的な導きを信じて願い求めるのであれば、それは必ず与えられる。私が思うに、聖霊は、わたしたちに超自然的な導きを与えることを喜び、楽しまれているのではないか。私たちは、神の超自然的な助けを、いつでもどこでも、どんなことにでも、大いに期待して良いのである。

「更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」(ヘブライ人への手紙 2:4 新共同訳)