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クリスチャンにとっての軍隊(記事No.134)

 前回のブログ記事で、「クリスチャンにとっての戦争」をテーマに取り上げたが、今回は、それとも関連して、「クリスチャンにとっての軍隊」について書いてみたい。日本を除くほとんどの国では、軍隊の存在は当たり前のこととして受け入れられていると思うが、そのあり方については議論も多々あり、また、個人レベルでも多様な考え方はあると思う。聖書においては、軍隊そのものをはっきりと認めない教えは、私が理解している限りでは無く、考え方の違いは、聖句の解釈の違いに加え、それぞれの思想的立ち位置から生じるものだと思う。

 日本においては、軍国主義の末路が悲惨な敗戦であったことと、日本国憲法に規定されている戦力不保持など平和主義の国是があることで、クリスチャンの中でも、軍隊には否定的な考え方を持つ人が少なくないと思う。これに対して、諸外国では、軍隊の保持は独立国として当然との考えが一般的であり、多くの国で、軍人は人々の尊敬の対象である。一例を挙げるなら、アメリカでは、軍人は尊敬される職業であり、空港での搭乗順位もハンディキャプがある人や乳幼児連れの人などの次は現役軍人である。アメリカが関与する戦争には反対の人々でも、ほとんどの場合、軍人に対する敬意は持っていることが多い。

 世界のキリスト教会の中でも、メノナイト派など聖書的平和主義の立場から兵役を否定する教派があるが、大きな流れとしては、軍隊や兵役には肯定的な立場が多数である。それゆえ、共産主義国やイスラム教国などを除き、ほとんどの国の軍隊には、従軍牧師や従軍司祭が配属されており、将兵に対する精神面での支援や軍内の宗教的活動を司っている。私の友人の中にも、神学校を卒業した後、教会での副牧師の働きを経て、アメリカ陸軍の従軍牧師となった人物がいるが、士官の階級を与えられた、れっきとした軍人である。そう言えば、30年くらい前に、日本でもアメリカ系の宣教団体と提携してか、軍人宣教会のような団体が立ち上げられ、自衛官らに対する牧会・伝道(彼らは、「軍牧」と称していた。)を進めるとしていたが、どうも、その後活動を休止したか解散したようである。これとは別に、「コルネリオ会」という現・元自衛官らを中心とした宣教団体があるが、こちらの方は、現在も活動中である。

 さて、人間の歴史において、戦争が無かった期間よりも、圧倒的に戦争が行われていた期間の方が長かったと言われている。軍隊があるから戦争があるのだと言う人もいるが、それでは、仮に軍隊を無くせば戦争も起きないのかと言えば、決してそうではないと思う。何故なら、アダムを通して人類に罪が入って以来、人間の魂には闘争心(闘争本能と言うのは正確でないと思う。)が生じる性質があり、それが高じれば物理的な争いに至ることは必然であるからだ。そのような人の世界にあって、軍隊を持たないことは、国を守るオプションを1つ放棄することであり、賢明な選択とは言えないのではないだろうか。永世中立国であるスイスも、他国の侵略を拒絶するに足る軍隊を保有しており、国民皆兵体制であることはよく知られている。私の知人のスイス人牧師も兵役経験があり、退役後も確か42歳くらいまでは予備役兵として、毎年の軍事訓練に応召していたと聞いた。1815年のウィーン会議で、ヨーロッパ諸国から永世中立を承認されたスイスであるが、自国領土を他国の軍隊に利用させない保証の1つとしても、彼らは軍隊を保有しているのだ。

 それでは、私自身の軍隊についての考えであるが、率直に言えば、自国防衛のために必要な範囲において軍隊を保有することが、独立国としては必要であるとの立場である。目指すべきは、スイスのような武装中立であると思うが、一方的に中立を宣言さえすれば、中立国として国際的に認められると言うことではない。少なくとも、周辺諸国の承認がなければ、中立国にもなれないのである。そうなると、現在の日米安保体制を、段階的に米軍常駐無き安保体制へと移行し、緩やかな同盟関係を維持しながらも、対米従属からの脱却を図るプロセスが必要であると思う。身もふたもない言い方であるが、日本政府に、そのようなダイナミックな外交交渉が出来るとは思えない。仮に、世の終わりの日に至るまで、アメリカの属国状態が続くとすれば悲しく悔しいが、どこかで国内外の状況に歴史的な変化が生じないとも言い切れない。そして、キリスト再臨の暁には、軍隊をめぐる様々な論争や闘争にも終止符が打たれる。その時には、世界中の軍隊は、その役割を終えるからである。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書 2:4 新共同訳)