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受けるよりも与える方が幸い(記事No.104)

 今月半ば以降、他の人々のためのボランティア的な作業に相次いで取り組んだこともあり、ついブログ記事の更新間隔が開いてしまった。時間を要したことの1つは、奨学生応募者のためのサポートであった。ある国際的な奉仕団体が募集している、大学院レベルの海外派遣奨学生プログラムの応募者の推薦人となるために、求められた手続きを進めていた。その中で、推薦人もいくつかのオンライン講座を受講しなければならないとの、降って湧いたような話があり、仕事の合間に受講したのである。全て英語版の各講座の最後には、合否判定テストが付いていたので、一応は通しで視聴しなければならず、忙しい中で余計な時間を取られてしまった。

 この他にも、プライバシーの問題があるので詳細は書けないが、仕事のストレスで鬱病になったと主張する社員への対応や、別れた前妻に身包み剥がされてしまったも同様な友人への支援など、ここ半月ほど、問題を抱えた人々等との関わりが続いた。さすがに、短期間で集中的に、他人のために、自分の時間、労力、金銭を消費すると、少し疲れも覚えてしまった。専門職が仕事として関わるなら、それで報酬を得る訳であるし、当然のことではあろう。しかし、自社の社員の問題以外は、全くの奉仕であり、選択出来たならば、避けたかったのが本音である。このような時はいつも、イエスの言われた言葉を思い起こして、自分の励みとしている。

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」(使徒行伝 20:35 口語訳)


 多くの人は、誰かに善意を示す機会があれば、そうしたいと願っていると思う。なぜなら、自分の善意が誰かの助けになり、その人から感謝される時、自分自身も嬉しくなり、助けることが出来て良かったと思うからだ。ケースバイケースではあるが、時間的、経済的負担がそれほど大きくなければ、対価はもちろん実費も求めることもしないであろう。その場合、相手からの感謝が何よりの報酬である。同時に、天にいくばくかの宝を積むことも出来るかも知れないが、そのあたりは計算するような話ではない。しかし、誰かを助けることが、時間的、経済的、精神的に少なくない負担を伴う場合は、果たしてどうであろうか?時には、そのような状況に直面する場合も起こり得る。

 人々のために自分の全てを捧げられた、イエスの生涯から学ぶべきではあろう。だが、時には、イエスは神だから可能であったのだ、自分は弱い人間に過ぎない、と思えてしまうことがあるかも知れない。他の人の重荷を共に背負うことは、多少なりとも自己犠牲的な精神が無ければ出来ないが、私たちは常にそうすべきとも思えない。自分の方が倒れてしまったり、共倒れということも無いとは言えない。何だか自分自身に言い聞かせているようでもあるが、私たちは、自分の力の範囲で他の人々に善意を示すことが良いのであって、義務感で自分を追い込むべきでは無い。まして、他の人に義務感を押し付けることは、もっての他である。(特定の人々や団体等を指して言っている訳では無い。)

 私の場合は、他の人々に善意を行動で示すことに、少し疲れを覚えた時には、「受けるよりは与える方が幸い」とのイエスの言葉を、繰り返し唱えることにしている。そして、神からの知恵を求める祈りをする。私たちは、悪意のある人々に付け入られるようなお人好しであってはならないが、かと言って、他の人々に愛を示すことを惜しんではならない。与えられたものの中から分かち与えることで、それらは減るのでは無く、倍加して行くという、神の法則を体験することが出来る。与えない人は、与えられることも無い。与える人は、また自分も与えられる。私たちは、人々に、良いものを多く与える者となりたい。そうすれば、神から多くの良いものを与えられるであろう。

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカによる福音書 6:38 口語訳)