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エルサレム第三神殿とは何か(記事No.102)

 ウクライナ情勢に関する報道の陰で、扱いは小さかったが、エルサレムで重大な事態が発生したことが伝えられた。これまでの報道を総合すると、現地時間4月15日の早朝、黄金の丸屋根を戴く「岩のドーム」として知られる、エルサレムのアル・アクサ・モスク周辺でパレスチナ人群衆とイスラエル警察が衝突し、150人以上が負傷した模様である。イスラエル警察によれば、衝突に先立つ午前4時頃、覆面の男たち数十人がモスクの敷地内に侵入し、花火に火をつけたと言う。その後彼らは、隣接する嘆きの壁(西の壁)に投石したそうである。警察発表のとおりだとすれば、イスラム教とユダヤ教のそれぞれの聖地を冒涜する行為であり、両教徒らの対立を煽動したものと考えられる。現時点では、誰が煽動者であったのかは明らかでないが、ユダヤ人かパレスチナ人のどちらかの過激派ではないだろうか。タイミングとしては、イスラム教の断食月であるラマダンとユダヤ教の過越祭の初日が重なった日であり、どちらの側も信仰的熱情が高まっていた時を狙った、計画的な扇動であるだろう。

 アル・アクサ・モスクは、イスラム教の開祖であり、彼らが「預言者」と信じるムハマンド(マホメット)が立ち寄った地と伝えられている。また、同じく預言者とされている、イブラヒム(アブラハム)にまつわる故事の舞台とも言われる。イスラム教徒にとっては、メッカ、メディナに次ぐ、3番目に重要な聖地である。モスクが建っている場所は、かつて、ユダヤ人の第一神殿、第二神殿が建っていたと考えられており、「神殿の丘」と呼ばれる、ユダヤ教徒にとって最も重要な聖地となっている。嘆きの壁は、第二神殿(ヘロデ神殿)の外壁の残存部分とされており、かつ、ユダヤ教徒が神殿跡地に最も近づける場所であり、壁の前に立って熱心に祈る人々が絶えない。私も一度訪れたことがあるが、異教徒の私も、キッパという帽子を借りて頭に被り、神妙な面持ちで壁の前に立ったものである。各国の要人らも多く訪れており、2006年には、小泉首相(当時)が壁に手を置いて祈り、2017年には、アメリカのトランプ大統領(当時)が訪れて祈りを捧げている。2015年には、安倍首相(当時)も訪れて壁に手を触れているが、祈ってはいなかったようである。

 神殿の丘では、これまでにも、ユダヤ教徒とイスラム教徒、イスラエル警察とパレスチナ人群衆が、度々衝突を繰り返して来た。両教徒とも、教理や歴史に加えて、信仰的熱情が伴っているので、極めて根が深い対立構造である。しかも、現状でも一触即発の状態であるのに、ユダヤ教徒の側は、この地に神殿を再建することを目指している。いわゆる、「第三神殿」の建設である。イスラエルでは、ユダヤ教の研究所において、第三神殿で用いられる予定の祭具などが既に製作されており、神殿で祭儀を司る祭司らの訓練も行われていると言う。ひとたび神殿の建設が始まったなら、短期間でそれは完成し、旧約聖書の規定通りの祭儀が行われるようになるだろう。資金も含めて全ての準備は整っていると思われるが、最後に必要なことは、現在のアル・アクサ・モスクの除去である。しかし、ユダヤ教徒たちは、イスラム教徒の第3の聖地である同モスクを、どのように除去するつもりであろうか?仮に、武力を行使して物理的にイスラム教徒らを排除し、モスクを解体しようとすれば、イスラエルとイスラム諸国との間に、戦争が勃発することは避けられないであろう。かと言って、イスラム教徒側が土地買収に応じるとも思えない。そのような動きをする者がいれば、宗教指導者であっても、イスラム過激派に直ちに暗殺されること必定である。

 第三神殿が建設されると信じているのは、ユダヤ教徒だけではない。クリスチャンの中にも、神は必ずユダヤ人をして、第三神殿を再建させると信じている人々が少なくない。特に、福音派やペンテコステ派(聖霊派)と区分される、保守的な教理を有する教会に属する人々の大半は、そのように信じていると思われる。彼らは、神の不思議な業により、アル・アクサ・モスクは取り除かれると考えている。中には、大きな地震が起こって、モスクが倒壊すると想像している人もいるようだ。モスクの建物が倒壊したとしても、それだけでは、イスラム教徒らが同地を明け渡すとは思えないのだが…。どんなことが同モスクに起こるのかはさておき、多くのクリスチャンにとって、第三神殿の建設が重要な意味を持っている理由は、それが世の終わりと密接に関連しているからである。すなわち、そのことが起こると、イエス・キリストの再臨が間近に迫っていることになるとの考えである。イエスは、弟子たちの質問に答える形で、自身の再臨の前兆として、こう言われた。
「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」(マタイによる福音書 24:15-16 口語訳)


 第三神殿が建設されることを信じるクリスチャンたちは、ここでイエスが言われた「聖なる場所」とは、エルサレムの神殿を指すと解釈する。イエスの時代にあった第二神殿は、紀元70年にローマ軍により破壊されたので、世の終わりの時代に、同じ場所に、第三神殿が建設されることになるという考えである。私も、20歳くらいの時に再臨信仰を持って以来、何年もそのように考えていた。ところが、あることをきっかけに、その点についての疑問を抱くようになった。確か、1994年だったと思うが、京都府下でペンテコステ派のセミナーが開催され、私も参加する機会を得た。そのセミナーの講師の1人が、オーストラリア人の牧師であり聖書学者であった、ケビン・カナー師であった。ある日本人参加者の、「第三神殿はいつ建設されると思うか?」との質問に対して、カナー師は、直接的な回答の代わりにこう答えた。「主は、もはや手で造られた神殿には住まわれない。私たち自身が、神の神殿であるからだ」
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(コリント人への第一の手紙 3:16-17 口語訳)


 カナー師は、「The Tabernacle of David(ダビデの幕屋)」(1976年刊、邦訳版の有無は不詳)という本を著し、その中で、旧約聖書に記録された幕屋が、いかに新約聖書の教えとリンクしているかを、聖書の言葉から詳細に解き明かしている。同書には、こう記されている。「神は常に、彼の、贖われた人々のただ中に住むことを願われて来た。旧約聖書の典型的な(神の)住まいは、この贖いについて漸進的な啓示を現している」また、こうも記されている。「完全な啓示は、神の幕屋また神殿が人となられた、主イエス・キリストの内にある」今日、神が住まわれるのは、イエスの十字架の血潮で罪が潔められ、贖われた、クリスチャンの霊の内にである。神の霊は、クリスチャンの内に、また、彼らの霊的共同体である神の教会の内に住まわれる。物質的な建物としての教会には、神は住まわれず、仮に将来第三神殿が建てられたとしても、それは同様である。ユダヤ教徒らが、第三神殿と称される建物を建設したとして、それは宗教的な聖所とはなり得ても、もはや霊的な神の聖所とはなり得ない。果たしてそれは、聖書に預言された、「聖なる場所」としての神の宮だろうか?本ブログ記事を読まれた皆さんも、このことに関心を持たれているなら、どうか考えてみていただきたい。そして、祈りつつ、聖書の言葉を素直に読んでみていただきたい。この地上における聖なる場所とは、私たち自身と神の教会である。