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祇園祭から見えるもの(記事No.123)

 去る7月17日、3年ぶりに祇園祭の山鉾巡行が行われ、10数万人とも20万人以上ともされる人々が沿道で見物した。新型コロナが「第7波」の流行状態とされる中、不特定多数が密集する場所に出向く人々の心理状態は面白い。私自身は、普通に生活している限りは、感染する可能性は極めて低いと考えているが、わざわざ多数の人々が密集して滞留する場所には出向かない。どこかのテレビ・ニュースでは、仕込みかどうかは分からないが、見物に来たとされる中年の女性が、「ワクチンを接種しているから重症化しないから大丈夫だと思って。」とインタビューに応じていたようである。新型コロナ・ワクチン接種キャンペーン開始当初は、打てば感染しないとされていたが、いつの間にか、打てば重症化しないに変わり、現在では、接種回数を重ねるほど、感染も重症化もし易くなるという事実が、次第に知られるようになった。それはともかく、祇園祭は、京都に生まれ育った人々にとっては、単なる夏の風物詩以上の、欠かせない年中行事のようである。もっとも、祇園祭の御稚児に選ばれる男児の選考基準は、公表されている「長刀鉾町に住んでいる8歳~10歳の男の子。ただし、1年間身内に不幸がない家庭」とは別に、総額2,000万円とされる諸費用を支払える家の子供という「条件」があると聞くと、少し白けてもしまう。それは当事者間の問題であるからさておき、祇園祭の由来と歴史は、京都新聞のホームページに掲載されている、「祇園祭の歴史」によれば次のとおりである。

 「平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、八坂神社の神輿を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。応仁の乱(1467~77年)で山鉾巡行は途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興された。 以後、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたタペストリーなどを各山鉾に飾るようになった。 これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれる。 江戸時代にも火災に見舞われたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけで、神幸祭に先立つ「 前祭さきまつり」と還幸祭の「後祭あとまつり」がある。 高度成長期以来、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭の合同巡行が続いていたが、 祭り本来の形を取り戻そうと分離が決定。2014年、約半世紀ぶりに後祭の山鉾巡行が復活した。」

 このように、祇園祭が始まったのは、平安時代に遡るのだが、当時京都が平安京と呼ばれていた時代である。平安京は、渡来人であった秦氏が建設したことが知られている。京都市歴史資料館が開設している「フィールド・ミュージアム京都」というホームページにも、この事実が掲載されている。「…古代に朝鮮半島から渡来した氏族。『日本書紀』応神天皇条に,秦始皇帝(しんのしこうてい)子孫という伝承をもつ弓月君(ゆづきのきみ)が多数の民を率いて渡来したのに始まるとしますが,「はた」は古代朝鮮語で海の意であり,実際は5世紀中頃に新羅から渡来した氏族集団と考えられます。山城国葛野郡(かどのぐん)太秦(うずまさ)あたりを本拠とし,近畿一帯に強い地盤を築きました。(中略)秦氏は,高度な技術力と豊富な経済力をもっていたため,桂川に灌漑用の大堰を作って嵯峨野(さがの)一帯を開墾し,養蚕や機織などの新しい技法を伝えました。(中略)長岡京は10年で廃され,同じ山背に平安京が造られますが,そこでも新都建設に秦氏が尽力し,秦氏の本拠地であった桂川一帯は,建設に必要とする材木の陸揚げ基地となりました。長岡京は,都としてどこまで整備されていたか疑問視されていましたが,近年の発掘調査で都城形体がかなり整っていたことがわかっています。再度平安京へ遷都するのにはかなりの困難が伴ったはずです。それをやり遂げた桓武天皇の背後には,山背地域を本拠として高度な技術力と財力をもっていた秦氏がいたからできたことだといわれています。」

 平安京を建設した秦氏一族は、秦始皇帝の子孫ともされ、中国大陸から朝鮮半島を経由して、民族大移動で日本に渡来した人々であった。秦始皇帝は、ユダヤ系であったとの説もあるが、日本に渡来した時点での秦氏は、景教と呼ばれた宗教を信奉していた。景教とは、原始キリスト教をルーツとする東方キリスト教会の一派である、ネストリウス派のキリスト教のことであり、すなわち秦氏は、恐らくはユダヤ系の、クリスチャンの集団であったのである。ユダヤ教の宗教指導者であるラビとして、日本に長く住んだ経験を持つ、マーヴィン・トケイヤー氏も、秦氏がユダヤ人景教徒であったとの説を支持している。彼は、日本の伝統的神道と古代イスラエル祭儀とが酷似していることなどに着目し、秦氏はユダヤ系であり、日本人の祖先の一部は、シルクロードから中国、朝鮮半島を経て渡来した、イスラエルの「失われた十支族(部族)」の末裔であると唱えている。「日猶同祖論」とも通じる説であるが、ラビとして古代イスラエルの宗教に精通し、長い滞日経験もあるトケイヤー氏の説には説得力がある。

 さて、仮に秦氏がユダヤ系景教徒であり、平安京の建設など、今日に至る京都の歴史の礎を築いたとなると、通説とは違う祇園祭のルーツが見えて来るのである。先ほど挙げた、「フィールド・ミュージアム京都」によれば、祇園祭の祭礼期間は約1ヶ月であるが、中でも多数の見物客が集まるのは、7月16日の宵山と、クライマックスである翌17日の山鉾巡行(四条烏丸―四条通―河原町通―御池通)である。この7月17日とは、かつて世界を覆い尽くした大洪水の後、ノアの箱舟がアララト山上に止まった日である(創世記8:4)。祇園祭の山鉾数は前祭23基、後祭11基、休山1基の合計35基であるが、山鉾の種類の1つに、神功皇后の説話により鉾全体を船型にしたのが由来とされる、船鉾(ふねぼこ)がある。これらは、ノアの箱舟を連想させられる。山鉾巡業は、「エンヤラヤー」の掛け声を合図に始められるが、この言葉は、ヘブライ語がルーツではないかとの説がある。すなわち、ヘブライ語の「アニ・アレルヤ=私は神を讃える」という言葉が訛り、「エンヤラヤー」になったとの説である。あるいは、別の解釈では、ヘブライ語「アニヤラ・ヤー=私は行く!神よ!」が変化したものであると言う。どちらにせよ、民が神を讃えつつ、進んで行く時に発せられる言葉である。

 今回取り上げた祇園祭だけでなく、京都には秦氏の痕跡が、太秦の広隆寺など、いくつも存在している。景教徒であった秦氏の信仰は、次第に仏教やアミニズムとも融合し、今日では祇園祭がそうであるように、その痕跡が日本文化や風習の中に見られるだけである。16世紀になって、フランシスコ・ザビエルを皮切りに、カトリック教会の宣教師たちが来日し神の福音を説いた時、短期間で日本のほぼ全土に多数の改心者が起こされたのは、古代日本に渡来した景教徒や原始キリスト教徒ら、先祖の信仰への立ち返り(リバイバル)だったという見方も出来よう。もしそうであるなら、日本人の霊的DNAには、天地を創られた唯一の神に対する憧憬が受け継がれているのではないか。祇園祭だけでなく、全国各地に古代から伝わる祭りがあるが、それらが元来は創造神を讃えるものであったなら、祭りにかける人々の情熱のルーツは、聖書の神に対する信仰的熱情であったと言えるであろう。祇園祭を見物に来る人々の圧倒的多数は、そこまで想いを馳せる訳ではないことは分かっている。だが、祇園祭に参加する人々が身に付ける護符に書かれている、「蘇民将来之子孫也」にもあるように、日本人が霊的に覚醒し、再生されることを願う。このままでは、日本は滅亡するという危機感を強く覚えながら、その前に再生のチャンスが与えられるようにと、祈らずにはおられない。

「主は私に言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 主なる神はこれらの骨にこう言われる。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。 私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。』」(エゼキエル書 37:4-6 新共同訳)