さて、読者の皆さんの多くは、出エジプト記は何度も読んでいると思う。ざっと言えば、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民が、神が彼らの上にたてた指導者モーセの導きにより、彼の地から脱出する話である。その際、超自然的な神の奇蹟が繰り返し現され、イスラエルとエジプト双方の人々に対して、神の言葉が真実であることを証明した。中でも、エジプトの軍勢に追われたイスラエルの民の前に、紅海が2つに割れて、彼らが無事対岸に渡ることが出来た奇蹟は、「十戒」などの映画にも描かれた、非常に有名な出来事である。この出エジプト記は、また、私たちに、聖書の世界観を明確に教えている。
出エジプト記が教える聖書的世界観の1つは、この世界には、霊的に2つの異なる種類の国々が存在すると言うことである。それは、同書でエジプトに象徴される「この世」と、約束の地として語られる「神の国」である。一般的に定義される「国(国家)」とは、国民、領土、主権の3つを備えていることが必要となる。これらのどれか1つでも欠けているなら、それは少なくとも主権国家とは見做されない。日本政府が承認していない、北朝鮮や台湾も、国家の3要素を全て備えているので、それぞれ堂々とした国である、チベットは、インド領内に亡命政府を維持しており、一応はその統治権に服する国民がいるが、領土は中共の支配下にあるので、国際社会では国家とは見做されていない。このような定義に照らせば、「この世」も「神の国」も、共に霊的な主権国家である。
民主制国家とは異なり、「この世」の主権者は人々ではなく、悪魔であり、統治者も同様である。それは、新約聖書エペソ人への手紙2章2節において、「空中の権を持つ者」」と指し示されている存在である。「この世」に属している人々は、悪魔の支配下に置かれている。本来この世界の全ては、創造主である神が、人間に管理を委ねられたものであり、悪魔のものでは無い。しかし、それは(奴はと書きたいところだが。)、支配下に置いた人々を用いて、この世界を簒奪しようと動き、自分の領土であると主張する。「この世」では、人々はエジプトにおけるイスラエルの民の如く奴隷であり、神が意図される本来の祝福された人生を奪われ続けるのである。イスラエルの民をエジプトから去らせようとしない王パロは、もちろん悪魔を表している。
これに対して、「神の国」では、主権者、また統治者はキリストである。国民は、イエス・キリストを救い主として受け入れ、新しい霊を与えられた人々、すなわちクリスチャンである。単にクリスチャンと名乗っているからではなく、地上の組織としてのキリスト教会に所属しているからでもない。神によって、霊的に新しく生まれ変わった人々のことである。そして、クリスチャンが存在している所は、世界が本来そのように創造されたように、どこでも「神の国」の領土である。「この世」と「神の国」に同時に属することは出来ない。霊の世界においては、二重国籍は認められていない。イエスの霊が内住するクリスチャンは全て、「神の国」だけに属している。
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』」(ルカによる福音書 17:20−21 口語訳)
出エジプト記において、イスラエルの指導者モーセはキリストの象徴であり、また、クリスチャンの特に霊的リーダーの型でもある。モーセに従ってエジプトを出た人々は、「この世」から出て「神の国」に入った、クリスチャンの象徴である。しかし、荒野の旅路で早々に不信仰に陥り、エジプトでの生活を懐かしんだり、金の子牛象を作って偶像崇拝に堕ちた人々は、一体誰を表しているのか?霊は救われているが、魂と行いにおいて信仰から外れた人々とも考えられるし、外形だけで新しい命を持っていない人々のことかも知れない。この辺りの解釈は、人それぞれであろう。1つ挙げておきたいことは、人が「神の国」に入るのは、それ自体奇蹟であり、モーセを通して神の奇蹟の数々が現されたように、神はクリスチャンを通して奇蹟の業をなされることである。それは、「神の国」が確かにそこにあることの証明であるからである。
「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイによる福音書 12:28 口語訳)