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イスラエル発世界の危機(記事No.159)

 かつて世界の火薬庫とも言われた中東で、ついにまた本格的な戦端が開かれた。10月7日、パレスチナ抵抗組織ハマスは、ガザ地区より5,000発以上とされるロケット弾や砲弾をイスラエル領内に向け発射した。これまでの同種の攻撃と異なり、今回は同時に地上や一部は海空からも戦闘員がイスラエル側に侵入し、民間人を含む多数を殺害または拉致した模様である。これに対して、イスラエル軍は翌8日にガザ地区に大規模な空爆を実施し、数百人が死亡したと言う。イスラエルのネタニヤフ政権は、事態を戦闘の域を超えた戦争状態と宣言し、ガザ地区に対する地上侵攻の構えを見せている。

イスラエル政府の公式発表や報道で伝えられている通りであれば、ハマスによる大規模な奇襲攻撃が敢行され、イスラエルは虚をつかれた形である。しかし、世界有数の実力を有する情報機関を持つイスラエルが、ハマスによる大規模攻撃の準備を察知出来なかったはずは無いと思う。ハマス内部にもイスラエルのスパイや協力者が浸透しているのは当然であり、高位の幹部にもイスラエルのスパイがいる可能性が高い。となると、イスラエルは、ハマスの計画を知っていながら、あえて先に手を出させたのであろう。その目的は、これを機にハマスを完膚なままに叩き潰してパレスチナ人の抵抗意思を挫くことか、あるいは、ハマスを支援する「宿敵」イランとの緊張をエスカレートさせ、同国との戦争の道筋を付けることか.。様々な意図が考えられるが、イスラエル政府とその背後のグローバリスト集団が戦争を望んでいたのは確実であろう。

 なぜ、彼らは戦争を望んでいるのか?理由の1つは言うまでもなく、戦争が莫大な金儲けの絶好の機会であるからだ。ウクライナ戦争などは、分かりやすい実例であろう。今般の戦争で最も潤っているのは、米英を中心とした西側諸国の軍需産業であり、エネルギー産業なども同様である。もう1つの大きな理由としては、権力者ら、特にグローバリスト集団にとって、自分たちの支配を強め拡大するために利用出来るからである。一国単位の独裁者は別として、彼らの最終ゴールは、世界の支配を確立し、世界統一国家を樹立することである。その暁には、全ての宗教は廃止され、悪魔崇拝が唯一の宗教となる。悪魔崇拝者のグローバリストらが目指しているのは、そのような世界であり、その目的達成のために彼らは過去2回の世界大戦を起こして来た。彼らが3回目の世界大戦を起こそうとしているのは、もはや明白であろう。

 間違えてはならないが、戦争を渇望するのは、多くの場合、それにより利益を得る権力者や大資本家のような人々であり、一般大衆では無い。だが、現状にあまりにも希望が持てない状況が長く続く場合、あるいは、他国に対する憎悪を抱くように洗脳された場合には、一般大衆も戦争を望むことがある。イスラエルとパレスチナの双方の大衆にも、戦争を望んでいた人々も少なからずいたであろうが、戦争は起きて欲しくなかったというのが、多くの人々の本心であったと推察する。なぜなら、兵士として動員されるのも、空爆で被害を受けるのも、権力者ではなく一般大衆であるからだ。

 ハマスによるイスラエル攻撃自体は、民間人も攻撃し、拉致したりと、戦争犯罪に該当する。アラブ諸国を除く国際社会が、今回の侵攻を非難するのは当然である。だが、彼らに存在理由を与え、「育成」して来たのは、イスラエルの側である。すなわち、イスラエル政府のパレスチナ人に対する、長年の差別的、抑圧的な政策が、彼らに民衆の支持を与え、イランやアラブ諸国からの支援を得させる理由を与えて来たのだ、私自身は、基本的に親イスラエルの立場ではあるが、それでも、彼らの政府によるパレスチナ人抑圧政策は間違っていると思う。イスラエル人が本当に平和な社会に暮らしたいのであれば、パレスチナ人に対する迫害を止め、共存政策へと大転換するしか道はないと思う。歴史的に幾多の迫害や差別を経験して来たユダヤ人は、虐げられる者たちの痛みを知っているはずであるが、パレスチナ人に対しては心を鬼にできるのはなぜか?恐らくは、長年そのように洗脳され誘導されて来たためであろう。
「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである」(マタイによる福音書 24:6−8 口語訳)

本記事の最後に、聖書の預言を信じるクリスチャンとして、どうしても挙げておきたいことを書く。プロテスタント福音派など保守的な神学に立脚するクリスチャンの多くは、現在のイスラエルを聖書が預言している終末時代に再興されるユダヤ人国家と同一視している。だが、それはかなりウルトラC的な聖書解釈に基づいていると言えよう。私は、現イスラエル国家は人造国家であり、それを造り出したのはロスチャイルドであったと考える。現在においても、イスラエル政府の背後にいるのは悪魔崇拝者らを中心とするグローバリスト集団ではないだろうか。彼らにとっては、イスラエルは重要な駒であり、第3次世界大戦を引き起こす上での役回りを演じさせたいのであろう。長年の対パレスチナ政策や今般のハマスによる侵攻も、その文脈で捉えると合目的性がある。クリスチャンとしては、無自覚の内に彼らの目的遂行に協力してしまうことがないよう、神からの知恵を求める必要があるだろう。特に、エルサレム「第3神殿」の建立などには、間違っても支持を表明してはならない。仮に、建物としての神殿が「再建」されたとしても、それは聖書の教える神の神殿では無い。私たちは、「惑わしの霊」に欺かれないよう、知恵と分別を持って、この時代を生き抜いて行こうではないか。
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霊の父の召天(記事No.158)

アメリカ時間の去る9月19日、私の霊の父であるイリエ・コロアマ師召天の報に接した。イリエ師は、本ブログの開設挨拶で触れた、私の霊的カバーであるルーマニア系クリスチャンである。同師は、第2次世界大戦中の1940年2月29日にルーマニアで生まれ、その後共産主義国家となった中で信仰者として生きた。命が狙われることを含め数々の迫害を通ったが、1974年10月9日、ルーマニアから出るようにとの神の声を聞き、光に導かれて奇蹟的に国を脱出した。その後、家族も無事国外に脱出して合流し、共にアメリカに移り住んだ。共産主義体制崩壊後のルーマニアでは、孤児院を設立し、多くの孤児たちを育て上げた。幼い頃から、日本への重荷を与えられ、不信仰な大人たちは嘲ったが、神の時にビジョンは実現し、数十年に渡り日本のためにも働いて来られた。

 イリエ師の働きは、本拠地としたアメリカや母国ルーマニアに留まらず、ヨーロッパ諸国やイスラエルにも及び、日本を含めた各国に多くの弟子たちや霊の子供たちを産んだ。私たち夫婦も、彼の霊の子供の一人である。彼を通して、私は、フィリップというクリスチャン・ネームを与えられた。ちなみに、妻に与えられたクリスチャン・ネームはヨハンナである。イリエ師と個人的に親しくなったのは10数年前からであったが、以後は来日するたびに、当時の東京都下での私たちの小さな開拓教会でも奉仕をいただき、また、2度ほど、私たち家族4人と一緒に1泊の箱根旅行を楽しんでいただいた。私の唯一の霊の父であり、子供たちにとっては、霊の祖父であった。

 私が最後にイリエ師と会ったのは、2018年10月に、同師のアメリカにおける本拠地であったミズーリー州で開催された聖会でのことであった。前年に心臓病で死の淵にあった私だったが、イリエ師によって与えられた預言によって奇蹟的な癒しを体験し、その約1年後には1人で渡米出来るまでに健康が回復していた。その証詞も含めて、聖会に参加したのだが、聖会の後にはイリエ師の自宅にも泊めていただき、良い時を過ごすことが出来た。その後、2020年初頭からの人造パンデミックにより、同年の聖会は中止となり、2021年からは再開されたものの、アメリカ政府の誤ったワクチン入国規制により訪米が叶わず、今年11月の聖会に高校生の次男と共に参加すべく、航空券を購入したところであった。今更ながら、私たちを含めて、世界中の多くの人々の自由で安全な往来を妨害して来た、悪魔の手先どもの邪悪さには憤りを禁じ得ず、彼らに神の裁きが下されることを切に願う。

 それはそうと、イリエ師が幼い頃より日本への重荷が与えられ、日本のために祈って来られ、また、過去30年以上に渡り日本の教会のために奉仕されて来たこと、それは実に偉大なことであった。日本の教会、日本人のクリスチャンたちは、彼の働きを通して、どれほど大きな恵みに与って来たことか。イリエ師が活躍の場を置かれた新約教会の流れは、教勢の面では決して大きな集団ではなく、まして、プロテスタント主流派からは存在さえも知られていないようなグループである。私たちの流れは、ペンテコステ・カリスマ派に分類される多くのグループの1つでしかない。だが、そこには、豊かな神の霊の臨在と、何よりも神の愛の現れがあった。イリエ師のような預言者や使徒たちの働きも素晴らしかったが、現象よりも、溢れ出る神の愛が集う人々を惹きつけて来たのだと思う。私などは、あえて卑下せずとも、末端の働き人の1人でしかなかったが、それでも、この流れに加えられたゆえに、神に感謝している。

さて、イリエという名前は、ルーマニア語でエリヤのことである。まさに、名は体を表すの諺通りであったが、神がエリヤの後継者としてエリシャを召されたように、イリエ師の後継者となる預言者も既に備えられていると思う。それは日本人で無いことは確かだが、イリエ師の子供の1人かアメリカ人の同労者の中の1人なのかも知れない。世の終わりが迫り来るなか、いずれは、日本人の使徒、預言者も起こされるとは思うが。
「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(ヨハネの第一の手紙 1:7    口語訳)
 この地上で再びイリエ師と会えないことは悲しく寂しいが、彼が私たちに対して願っていることは、彼の死をただ嘆き悲しむことではなく、彼の生涯がそうであったように、光の中を歩み続けることである。今、私が思うことは、いつの日か天の御国で再会するその日まで、偉大な霊の父に恥じないように生きたいということである。
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常識は疑ってみるもの(記事No.157)

 本ブログを約3ヶ月も休載してしまい、読者の皆さんには申し訳なく思う。ほとんど忘れ去られてしまったと思いつつも、どうにか再開することにしたい。この間、記事をアップしなかった最大の理由は、何か書けば悲観的な内容の記事になってしまうことで、せっかく読んで下さる方々に対して、希望を閉ざすようなメッセージを送ることが嫌だったからである。つまり、世の中の動きに目を向けるなら、それほど末期的な酷い状況が展開されているということになる。そのような中にあって、私が今どうしても発信したいメッセージを、最近のエピソードを交えて書くことにする。

 さて、去る7月下旬のこと、旧知の牧師に頼まれ、京都を訪れたクリスチャンのオーストラリア人夫妻を一日車で案内した。彼らは、イスラエルの失われた10部族(支族)の研究者であり、オーストラリアとインドに宣教拠点を持ちながら、諸国を訪問して10部族の痕跡を探していると言う。今回の来日では、京都に次いで東京を訪れるとのこと。私たちは、彼らを秦氏ゆかりの広隆寺や三柱鳥居で知られる蚕ノ社などに案内した。当日は、酷暑であり、ガイド役の牧師は80歳くらい、オーストラリア人夫妻は70歳前後ということもあり、午後3時頃には見学を切り上げた。ご主人の方と牧師はそれぞれ次の用事があるとのことで京都駅まで送ったのだが、夫人の方はまだ少し時間があるので残ると言う。さて困った、話が合うかなと思ったが、取り敢えず涼を取ることを兼ねてカフェに入った。案ずるより生むが易しとは言ったもので、何と話が大いに盛り上がり、久しぶりに知的好奇心が刺激され、良い時を持つことが出来たのである。

 ブログで名前を公開する許可を得た訳ではないので、仮にM姉妹と書いておきたい。M姉との会話は、失われた10部族の話を皮切りに、聖書の話から国際情勢の話まで多方面に及び、ほとんどのテーマで認識が共通する点があったのも驚きであった。M姉の母国であるオーストラリアは 本ブログ2021年12月6日付記事「風前の灯となったオーストラリア(記事No.70)」でも書いたように、新型コロナ流行対策の名目で、政府が国民に対して強権的にワクチン接種を進めるなど、民主主義の衣の下に全体主義の鎧が見えたような国である。ロックダウン期間中は、特にワクチン非接種者に対しては厳しい行動制限が課され、規制に違反すると逮捕され投獄や高額な罰金を科せられるなど、人権無視の過酷な状況であった。このことに関して聞くと、彼女はワクチン接種やロックダウンが進められていた期間、子供たち家族を呼んで、ほとんどの時間共に自宅に篭り、ワクチン接種も拒否したそうである。食料などは大量に備蓄しながら、抵抗の意思を同じくする近隣の人々と融通し合って凌いだとのこと。クリスチャンも、サバイバルのための実際的な備えが必要不可欠であることを、改めて思わされた。

 M姉との1時間半ほどの充実した会話の中で、世の終わりとも密接に関係するテーマについても話が弾んだ。その内の1つを、ここに紹介したい。終わりの時に回復されるイスラエルと、現在あるイスラエル国家のことである。聖書には、世の終わりの時に、世界中に散らされたユダヤ人が再びイスラエルの地に集められるという預言がある。ユダヤ教では、超正統派とされる人々を除き、1948年に建国されたイスラエルを旧約聖書預言の再生ユダヤ人国家(あるいは回復されたイスラエル全家)と同一視してる。クリスチャンの中でも、プロテスタント福音派や保守派(多くの場合は重なる)と位置付けられる人々は、同様の認識である。彼らは現イスラエル国家の誕生を、旧約聖書の預言者たちの預言や、新約聖書のイエスの預言の成就であると考えている。これについては、世界の終末に関わる非常に重要な事柄でもあるので、私は、この点についての自分の理解をM姉に話し、彼女の見解を問うてみた。私の理解とは、現イスラエル国家は人造国家であり、聖書で預言された終末の時に神によって再生されるイスラエル全家とは違うというものである。日本でも、多くの著名な牧師たちが現イスラエル国家は聖書預言の成就であると教えているため、私のような者が異論を唱えても相手にされないし、聖書解釈が誤っていると言われるのが関の山である。

 私の質問に対するM姉の回答は、驚くべきことに、全く同じ理解であると言うものであった。ユダヤ教超正統派の人々が、メシア来臨(ああ、彼は2,000年前に既に来られているのに!)が無ければユダヤ人国家の再建はあり得ないと信じているように、M姉も私も、終末時代に起こるとされるユダヤ人の民族的回心がイスラエル全家再生の必要条件であるとの見解で一致していたのである。その時、イスラエルの全12部族が再び1つにされ、彼らは皆、メシアであるイエスを信じる者たちとされ、同じくイエスを信じる異邦人らと共に、天の御国の相続人となる。これが、M姉と私の共通認識であった。これに対して、現イスラエル国家(世俗国家)を聖書預言の成就と理解する人々は、1948年の同国の成立は、2段階で進むユダヤ人国家の再建の第1段階であると考える。すなわち、最初は、メシアへの回心無き国家再建であり、それは神の憐れみにより許される。そして、国家再建後に、ユダヤ人の回心が漸進的に進み、やがては全てのユダヤ人がメシアを受け入れ、ここに第2段階として、名実ともにユダヤ人国家の再建が成し遂げられる。国家としてのイスラエルの再生は、2段階のステップを踏むと言うのだが、似たような話があると思われないだろうか?そう、世の終わりの時に起こると預言されている、キリスト再臨と信者たちの携挙である。携挙が起こることは間違い無く聖書預言であるが、その時期については諸説がある。前述の福音派あるいは保守派の人々の多くが、患難期前携挙説という解釈に立っており、それは再臨と携挙は患難期直前と患難期直後の2段階で現されるというものである。この説も、現イスラエル国家が聖書預言の成就であるという理解と同様に、多くの牧師たちが確信的に教えていることであり、広くキリスト教界に受け入れられている考えである。
「わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる」(エゼキエル書 36:24 口語訳)

 実は、患難期前携挙説というのは、比較的新しい教えである。知られているところでは、1830年頃にイギリス人の牧師・神学者であった、ジョン・ネルスン・ダービ(1800年- 1882年)が提唱したとされる。患難期前携挙説は、初代教会の指導者(教父とも呼ばれる。)たちも信じていたと主張する人々もいるが、教父らがキリスト再臨が切迫していると信じていたことが、イコール2段階の再臨及び携挙を信じていたことを意味するものではない。キリストの再臨が2段階あるというのは、聖書の言葉そのものではなく、聖書解釈の1つであり、19世紀に登場した教えである。現イスラエル国家の成立が聖書預言の成就であるとの教えに至っては、当然ながら、1948年に初めて世に出た新しい教えである。なお、その註解付聖書により患難期前携挙説を世に広めることに「貢献」した、アメリカ人牧師サイラス・インガスン・スコフィールド(1843年 - 1921年)は、シオニストらからの資金援助を受けていたと言われるが、彼の教理的流れに属する人々は、しばしばクリスチャン・シオニストとも称され、現イスラエル国家を聖書預言の成就と見做す教理を有している。つまりは、本記事で挙げた2段階のプロセスがあるとする2種の教えは、同根と言っても過言ではないと思う。それらに共通していることは、明瞭な聖書の言葉そのものではなく、聖書の解釈によって導き出された教えということである。果たして、それらは、真理と断じて良いものだろうか?少なくとも、各自で再考してみる必要があるとは思う。
「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(テモテへの第二の手紙 4:3-4 口語訳)

 私たちは、子供の頃から様々な「常識」を身に付けながら人生を歩んで来た。それら数え切れない「常識」の中には、マナーや礼儀など、文化的差異はあれども、それぞれが属する社会を生きる上で当然に備えるべきものもある。いわゆる常識人であることは、周囲の人々と良好な人間関係を築くために、また、他者との不要な摩擦を避けるためにも望ましいとは思う。だが、「常識」を全て無批判に受け入れることには問題がある。なぜなら、「常識」が常に正しいとは限らないからだ。前述のイスラエル国家や携挙の話も、たとえ著名な牧師や神学者の教えであっても、「本当だろうか?」と疑問を抱いてみることが必要ではないだろうか。もちろん、私のブログ記事の内容についても同様である。ただし、ここでは、あまり常識的なことは書いていないとは思うが。
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サミット、そして戦争(記事No.156)

 広島でG7サミット(主要7ヶ国首脳会議)が開催されたが、バイデン米大統領ら各国首脳に加え、ウクライナのゼレンスキー大統領の参加も話題を呼んだ。マスコミ各社の論調は、ゼレンスキー氏の参加も含めサミットの結果を評価するものがほとんどである。その文脈の中で、核被爆都市である広島でのサミット開催は、核兵器廃絶を目指す上での重要なステップになったとしている。だが、今回のサミットの本質とは、ウクライナの対ロシア戦争への支援継続の確認であり、ゼレンスキー氏に対する督戦ではなかったか。中国に対しては、西側諸国として当然の懸念を示しただけであり、東アジアの緊張を殊更高めるような具体的施策が打ち出されなかったのは幸いであったと言えよう。

 それにしても、2016年5月のオバマ大統領の広島訪問と同様、今回のバイデン大統領の訪問も舐められたものである。現職のアメリカ大統領が戦争犯罪としての原爆投下を謝罪するはずもなく、にもかかわらず広島訪問を歓迎することは、アメリカの原爆投下について、日本も国際法的に合法な戦闘行為であったとして認めていることを意味する。敗戦国の悲哀であるが、前回の安倍首相も今回の岸田首相も、日本人としての矜持が無かったことは証明された。それだけでなく、G7首脳が改めてウクライナ支援を誓い合った訳で、ロシアに対する決起大会の様相を呈していたのが実態であろう。日本を交えてそこまであからさまに話し合ったかは分からないが、あるいは、ロシアとの核戦争も辞さずくらいは話題に上ったかも知れない。いずれにせよ、本来は決して広島で開催すべきで無かった、対ロシア戦争推進サミットであったと思う。

 これまでも度々本ブログで書いてきたように、ロシアと米英を中心としたNATO諸国との対立は、最終的に核戦争へと発展する可能性がある。現在のウクライナによる代理戦争が直接対決に移行した場合、緒戦でNATO軍は大敗すると考えられる。テレビに登場するようなコメンテーターや軍事専門家らは、ウクライナ優勢でほぼ一致しているが、私の見立ては逆である。彼らは、これまでロシアが、空軍の本格的な投入をして来なかったことを、軍用機の稼働率や搭乗員の練度が低下しているなどと説明しているが、噴飯物の解説である。私は、ロシアが空軍主力を投入していない本当の理由は、彼らが来るべきNATO軍との直接対決に備えて空軍戦力を温存しているからだと見ている。実際は、今でもロシアは世界で最も強力な空軍力を有している。陸軍と核戦力も同様であり、アメリカが優位なのは海軍力と輸送能力(戦力投射能力)だけである。西側諸国の政府発表や報道だけを判断材料にするなら、ロシアの軍事国家としての真の実力を見誤ってしまい、気づいた時には既に手遅れとなるだろう。

 ここで、2022年3月27日付本ブログ記事「ネオナチ勢力に味方する愚(記事No.98)」で書いた内容を、引用聖句を含めて一部再掲したい。

「獅子がうなり、熊が襲いかかる。神に逆らう者が弱い民を支配する」(箴言 28:15 新共同訳)

 「これは、この聖書箇所の一般的な解釈そのものではなく、また、現時点では預言的示しでもなく、私の個人的な超意訳に過ぎない。歴史的に、獅子とは中国のことを指す。(中略)熊は、伝統的にロシアを表す動物である。(中略)現在、欧米諸国と歩調を合わせて、ロシアに対する敵対行為スレスレの行動に出ている日本の近未来を思い巡らしていた時、この聖句が思い浮かんだ。そして、中国が日本を威圧し、ロシアが限定的であったとしても、軍事的に日本に攻撃を加え、弱小国日本は、衰退途上であるアメリカの助けも得られずに、彼らの勢力下に組み入れられてしまうことを想像した。これが、単に私の空想が飛躍したに過ぎないことを願いたい。世の中には、ロシアとウクライナとの紛争が早期に終結することを願わない人々がいる。ネオナチをもコントロールしている彼らは、米露核戦争と第3次世界大戦を引き起こそうとしている、人間性を喪失した、悪魔崇拝のグローバロストらである。実際的な戦争の背後には、霊的な戦争があるのだから、日本人は霊的に目覚めないと、このままでは悲劇的な未来が待っているだろう」

 ウクライナ戦争の行き着く先は、ロシアとNATO諸国との間の核戦争であり、第3次世界大戦である。それが勃発するなら、日本国内の米軍基地や主要自衛隊基地も確実に攻撃目標になる。ロシアは、ソ連時代より、ヨーロッパと東アジアの同時2正面戦争を戦う準備をしており、遅くとも1975年にはその能力を確立している。ヨーロッパでの核戦争が起これば、同時に東アジアにおいても核戦争が起こることは必然である。何故、こんな状況にまで至ってしまったのか?これも、繰り返し本ブログでも書いてきたように、この世界には、戦争と殺戮を切望する者たちが存在する。彼らは諸国において、権力の座にあったり、巨万の富を有して、各方面に強い影響力を有している。今日において、イルミナティ、カバール、ディープステートなどと呼ばれる連中であり、グローバリストの悪魔崇拝者集団である。彼らは、世界支配を完成させるためには、人口の大幅削減と大衆管理の強化が不可欠であると信じており、戦争もそのための有力な手段に過ぎない。どうせ死ぬのは、彼らから見たら家畜と同様の大衆=下層民だけであり、彼らはむしろ焼け太るのだ。

 日本は今、1945年の敗戦以来最大の、滅亡の危機に瀕していると言えるだろう。株価に一喜一憂しているような場合では無く、まして、芸能ネタで盛り上がっている場合では無い。例えば、故ジャニー喜多川がゲイの性犯罪者であったことを今更大きく取り上げることは、政府にとって国民に知られたくないことへの煙幕に過ぎないと思う。日本人は、今目覚めなければ、次に目覚めるのは陰府(黄泉)の中ということにもなってしまう。戦争以外にも、日本滅亡のトリガーとなり得るものとして、巨大地震、原発事故、経済崩壊などが考えられ、どれが最初に起こるかは現時点では分からない。だが、2、3年以内に、戦争か、あるいは、これらいずれかの事態が発生する可能性が非常に高いと思う。日本人の一人として、自分の母国が滅亡することは悔しく残念でならないが、これも国家的、民族的な霊的覚醒の前に通らなければならない道なのだろうか。今回の「戦争推進サミット」により、改めて日本が危機的状況にあることを認識させられた。読者の皆さんは、この状況をどう思われているだろうか?
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京都の真実(記事No.155)

 私は、これまで本ブログでも書いてきたように、世界が終末へと向かっていることを日々実感しており、いつもそのことを考えてしまう。家族にも、日常的にその種の話をするので、高校生の次男などは、私が話し始めると、その先何を話すか分かっているという顔をする。自分でも、世界のことや日本のことなど考えずに暮らせれば、少しは気が楽なのかと思うが、それが出来ない自分を受け入れるしか無い。今回の記事では、国際情勢や社会問題などに直接関係する話ではなく、今住んでいる京都について、社会的、また霊的状況について、その真実を少し書いてみたい。

 まず、社会的な状況であるが、言わずと知れた古都であり、国際的観光都市としての京都の実相である。多くの日本人は京都に対して、どちらかと言えば肯定的なイメージを抱いていると推察する。先月、文化庁が京都に移転して来たが、古くから豊かな文化が培われて来た都市というイメージがあるとは思う。国内外からの観光客も多く、最近では、いわゆる旅割、全国旅行支援制度が開始されて以来、特に昨年11月くらいから、国内観光客数が急激に回復している。また同様に、新型コロナ対策入国規制の緩和と大幅な円安により、外国人観光客が激増しており、京都駅のタクシー乗り場などは彼らで長蛇の列になることも珍しくない。京都人の中には、京都が魅力あふれる都市であるから、国内外の観光客を惹きつけると思っている人も多いのであろうが。確かに、観光客として、少し多めの小遣いを持って遊びに来るなら、観光名所巡り、グルメ、買い物と楽しく過ごせること請け合いである。

 しかし、これまで3年間、実際に住んで来た者として、率直な感想を言えば、京都は、その歴史ゆえに観光名所の多い、地方大都市の一つというのが実相であると思う。民度も、日本の他の諸都市と同レベルであろう。あえて具体的には書かないが、利権構造があるのも、スケールの違いは置いても同様である。生まれてから一度も京都を出たことの無い人々の多くは、京都が一番素晴らしい街だと思っているのかも知れないが、考え方は自由ではあるものの、「井の中の蛙」という諺を思い浮かべてしまう。実際には、約144万人(2023年4月京都市推計)の人口の内、15万人ほどが大学生と言われるなど、若い世代を中心に市外からの転入者も多いので、先祖代々からの生粋の京都人は、いずれマジョリティの座を降りることになるかも知れない。有名な寺社も多く、茶道や華道、美術や工芸なども盛んであり、豊かな文化があることは確かである。だが、その実態は、伝統行事を含め、結局は「金目でしょ。」の世界ではないだろうか。京都を特にディスっているのではなく、金が価値の最上位にあるのは、現代日本の他の諸都市と同じという意味である。まあ、これらを踏まえた上で住むのであれば、そこそこの環境の都市ではあろう。ただし、間違っても、誰もが憧れるような、万人にとって快適な都市ではないとは言えるが。

 次に、霊的な状況であるが、これは、社会的状況以上に、奥が深い事柄である。数ヶ月前に、京都で20年近く牧会している牧師と会った時、何か霊的覆いがあるように感じるとの話を聞いた。私も、現在の京都は、霊的には、雲で覆われているような状況ではないかと思う。ただし、これも多くの日本の都市に共通している状況であり、国全体としてもそうであると思う。私の聞く限り、京都の有名寺社の多くは(ほとんど全てか?)、宗教活動よりも観光収入(拝観料等)で財政を維持しているようである。個々の寺社や信仰者の中には、天台宗の千日回峰行に象徴されるように、熱心に信心している人々もいるだろうが、総体的には、伝統的な仏教や神道の中に、宗教的情熱がどれほど残っているのか、疑わしいところである。そうは言っても、およそ宗教と名のつくところには、何らかの霊が働いていることも事実であり、京都の霊的状況としては、決して多くの人々を幸福にするような結果をもたらしてはいない。前述のように、これは京都に限った状況ではなく、日本全体に共通した状況であり、宗教のみならず、社会のあらゆる領域に、悪霊の働きが程度の差こそあれ存在している。例えて言えば、厚い雲が太陽を覆い隠すように、悪霊の働きが、人々の魂に覆い被さり、真の神の姿を人々が知り得ない状況ではないかと思う。

 だが、京都は、初めから今のような霊的状態であったのではない。今でもその残滓が残っているように、元来は開明的な国際都市であったのが京都である。本ブログ記事No.154「熊本バンドの精神は何処に」でも、明治初期に新島襄が京都の地に同志社英学校を開いたことに触れたが、それを受け入れる精神的土壌があったからこそである。また、徳川幕府がキリスト教禁教令を出す前は、京都ではキリスト教宣教が活発に展開されており、市街中心部には南蛮寺と呼ばれたキリスト教会が建設され、市中には多くのクリスチャンが所在していた。1597年に豊臣秀吉の命により26人のクリスチャン(日本人信徒20名、外国人宣教師6名)が長崎・西坂で処刑された時、その内の24名は京都で捕縛されている。さらに遡れば、平安京の時代から、京都は、日本列島東西の交通の結節点であり、人々、物資、情報、文化、宗教などが交わる所でもあった。特に平安時代前期には、海外から多くの渡来人が集まり、国際都市の様相を呈していたようである。

「多くの牧者たちはわたしのぶどう畑を滅ぼし、わたしの地を踏み荒した。わたしの麗しい地を荒れた野にした」(エレミヤ書 12:10 口語訳)


 現在の京都の霊的状況とは、最深部の岩盤の上に、時代の流れの中で、幾層もの地層が折り重なり、当初とは全く異なる風景が現れているようなものであろう。都市とは人為的に築かれたものであるから、建物に例えるならば、最初に据えられた土台の上に、設計通りの建物が造られたが、やがて増改築が重ねられるに従い、建築士の設計図とは似ても似つかぬ建物に変わってしまったようなものである。今となっては、建築当初の記憶は忘れ去られ、異なる物語によって建物の歴史が語られているようなものだ。それでは、京都の街の起こりは、どのようなものだったのか?そこに、本来の京都の霊的姿があったはずである。

 本ブログ読者の皆さんの中には、既に答えを知っておられる人も少なくないと思われるので、勿体ぶらずに結論を書きたい。794年に後に京都と呼ばれる平安京が造られた時、桓武天皇の命を受け都を造営したのは、渡来人集団の秦氏(はたし、はたうじ)であった。秦氏は、景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)であり、数万人かそれ以上の規模で朝鮮半島から波状的に渡来したが、現在の朝鮮民族(韓民族)とは異なり、そのルーツは古代イスラエル人との説が有力である。彼らは、建築、土木、冶金、機織、言語、芸術など多方面に渡り高度な技術や知見を有していた。豊富な財力をも有していた彼らは、一族が集住していた山城国(山背国)の地に新たな都を建設した時、単に物質的な新都市を建設したのではなく、その地に霊的な土台をも据えたのである。その証拠に、唐の都・長安を模したと言われる碁盤の目の都市デザインは、その実、十字架の形に造られたのである。すなわち、街区は長方形のブロックと正方形のブロックとから形成されているが、長方形のブロックだけを抽出すると、そこにはT字形の十字架が現れるのだ。十字架の頭に相当する位置には、天皇の住居である大内裏が置かれていたが、そこはかつて秦河勝の住居があった所である。イエス・キリストの十字架で、罪状書が掲げられていた位置に相当する所には、「元稲荷」神社が置かれたが、「稲荷」とは、『INRI」すなわち、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(Iesus Nazarenus Rex Iudeorum)のラテン語の頭文字に由来する言葉である。これについては、聖書解説者の久保有政氏が、その著作やYouTube動画などで詳しく解説されているので、興味がある方は是非調べていただきたい。なお、現在の京都の碁盤の目部分は、豊臣秀吉が大幅に都市改造を行った時に造営されたもので、平安京とは場所自体も異なっている。

「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである」(コリント人への第一の手紙 3:11 口語訳)


 聖書の原則では、何か物事が最初に始められた時、それは霊的にも土台が据えられたことを意味している。前述のように、京都は秦氏が平安京を造った時、その霊的土台が据えられたが、それは誰も動かすことが出来ないのである。平安京という名称自体にも、その事が表されている。平安京とは、読んで字の如く、平安の都=平和の都である。同じ意味の名称を持つ都市が、古代より現在に至るまでに西方にもある。それは、イスラエルの地にあるエルサレムである。「エル」はヘブライ語で「神」を表し、「サレム」は「シャローム」即ち「平和」の意味である。秦氏は、平安京を東のエルサレムとすべく造営したのではないだろうか。そして、その土台は、イエス・キリストへの信仰であった。そうなると、戦国時代から江戸時代初期にかけて、京都に多くのクリスチャンが起こされたのは、実に歴史の必然であった。彼らは、祖先の信仰に立ち帰った人々であったのである。このように、京都の真の霊的土台に目を向けると、この都市の本来あるべき姿が見えて来る。キリスト再臨の日の前に、もう一度、いにしえの真実の京都が回復されることを願う。もし、それが実現するならば、その時、この地は再び神の平和の都として、人々が救われ癒され幸いを得る地となるだろう。

「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。 そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。 わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」(エレミヤ書 33:6-8 新共同訳)
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熊本バンドの精神は何処に(記事No.154)

 2023年4月11日付京都新聞夕刊1面トップに、「同志社ゆかりの洋館 復興」とのトピックで、2016年4月の熊本地震で全壊した、「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」が復興されたとの記事が掲載されていた。同邸は1871(明治4)年に建設された、熊本洋学校のアメリカ人教師の住居として使用されていた建物と言う。地震で全壊したことを知った同志社校友会の役員らが募金活動に奔走し、同会の国内外78支部の会員らが2年間に1,500万円を集めて、再建資金として熊本市に寄付したとのことである。

 なぜ、同志社が熊本洋学校とゆかりがあるのか、記事はこう書いている。「この洋学校は、後に京都で同志社の礎を築く『熊本バンド』と呼ばれるキリスト教徒の青年たちを輩出したことで知られる」熊本バンドとは、明治初期に各地で青年たちの間でキリスト教に入信する者たちが起こされた時、特に顕著な動きがあった三大バンドの1つである。ちなみに、他の2つは、札幌と横浜であり、前者は「青年よ大志を抱け」の言葉で知られる、ウイリアム・スミス・クラーク博士が教えた、札幌農学校の第1期生全員がクリスチャンとしての信仰を告白したことが始まりであり、内村鑑三や新渡戸稲造などの人物を輩出したことで知られる。後者の方は、1872年に日本最初のプロテスタント・キリスト教会である、「日本基督公会」の成立として結実した運動である。

 記事を読んだことを機に、改めて熊本バンドと同志社の関わりを少し調べてみた。同志社大学キリスト教文化センターの資料によれば、そこには以下のような史実があった。「同志社は三つの柱によって築き上げられたと言われています。それは新島襄、アメリカン・ボード、そして熊本バンドです。この三つの源流を力に言い換えても、過言ではないと思います。新島襄の創業力、アメリカン・ボードの経済力、そして熊本バンドの人材力、この三つの力が同志社を立てた。このどれ一つを欠いても今の同志社はなかったと思うのです。(中略)(熊本洋学校は)アメリカ軍人L・L・ジェーンズ(リロイ・ランシング・ジェーンズ)大尉を教師に迎え、英語、数学、地理、歴史、化学、生物などの授業をすべて英語で教えていました。授業の質は高く熊本洋学校からは多くの優秀な人材が輩出されます。キリスト教徒であったジェーンズは、希望する生徒に自宅で聖書を教えていました。キリスト教の教えに感銘を受けた生徒たちは洗礼を受け信者となります。1876年には、生徒35人が熊本の西方にある花岡山に登り、キリスト教による人心革新を唱え奉教結盟を行いますが、彼らの行動が知られるようになると反対派勢力による弾圧が始まります。明治政府は1873年にキリスト教禁教令を廃止しますが、一般的にはまだキリスト教は邪教であり迫害の対象となっていたのです。この花岡山事件によってジェーンズは解雇となり、熊本洋学校は廃校になります。ジェーンズは行き場を失った生徒の受け入れを新島襄に依頼します。襄はジェーンズの依頼を快く引き受け熊本洋学校から20名を超える生徒(小崎弘道、金森通倫、伊勢時雄(横井時雄)、海老名弾正、吉田作弥、浮田和民、不破唯次郎など)が同志社英学校に転入してくるのです」

 同志社英学校には、熊本バンドの青年たち、すなわち、廃校となった熊本洋学校のクリスチャン学生らが転入して、草創期の柱となったと言う。彼らは、キリスト教禁制の影響が強く残る明治初期の日本において、文字通り命をかけてキリストに従った信仰者たちであった。彼らを受け入れた新島襄もまた、キリスト教信仰を土台とした教育を通して、日本において、神と国のために働くことが出来る有為な青年を育成し世に送り出すことに心血を注いだ。彼らの信仰的熱情と勇敢な行動とが、今日に至る同志社の礎を築いたことは疑いない。それでは、同志社には今も、その源流の1つである熊本バンドの精神が脈々と受け継がれているのであろうか?残念ながら、私が思うに、その答えは「否」である。

 もちろん、今なお同志社には、活きたキリスト教信仰を持つクリスチャンの教職員が一部にはいると思う。そのことは決して否定するつもりはないし、彼らはキリスト教教育の素晴らしい実践者であろう。だが、私が現時点で知る得る限り、現在の同志社には、熊本バンドの精神に象徴されるような、キリストに対する信仰的熱情は一般に見られない。特に堕落しているのが、ブランド学校と化した小中学校であろう。一例を挙げるなら、ある系列中学校では、クリスチャンを自称する副校長が実権を握っているのだが、過去3年間、新型コロナ・ウイルス感染予防を口実に、学年礼拝を一度も行わなかった。私は、彼と直接話したこともあるのだが、率直に言えば、彼をキリストに在る兄弟とは思えなかった。もっと言えば、彼は、異なる霊に動かされているようにも思えた。彼に、異端などの組織的背景があるのか、あるいは、本人も無自覚な内に、悪霊の影響を受けているのかは、その時は確信を持って判別出来なかったが。

 今回、熊本バンドの青年信徒らを輩出した、熊本洋学校の旧教師館再建の新聞記事を読んだことから、キリスト教学校としての同志社の現況について取り上げた。だが、このような状況は、何も同志社に限ったことではない。非常に残念なことであるが、日本の多くのキリスト教主義学校において、程度の差こそあれ同様の問題があると思う。学校教育法など教育関連法規の範囲での宗教教育などは、いろいろと難しい状況もあるとは思う。だが、キリスト教信仰に基づく教育を実践しないのであれば、いっそのこと、キリスト教主義の看板を下すべきであろう。羊頭狗肉では、神を悲しませるだけでなく、少数派であったとしても、志を持って入学した生徒たちと保護者らに対する裏切りであるからだ。キリスト教主義の高校に在学中に、宗教主任や同級生らに感化されたのも、信仰を持つに至った大きな理由の1つであった私としては、これも終末が近い中では必然かと思いつつも、寂しさと憤りがない混ぜになった複雑な想いを禁じ得ない。

「しかし、民の間には偽預言者も現れました。同じように、あなたがたの間にも偽教師が現れることでしょう。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定して、自らの身に速やかな滅びを招いています。 しかも、多くの人が彼らの放縦を見倣い、そのために真理の道がそしりを受けるのです。 彼らは欲に駆られ、噓偽りであなたがたを食い物にします。この者たちに対する裁きは、昔から滞りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません」(ペトロの手紙二 2:1-3 聖書協会共同訳)
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律法主義の見本(記事N0.153)

 去る3月29日、1つの衝撃的ニュースが全国を駆け巡った。なんと、愛媛県新居浜市の市立保育園で、60代の女性調理員が、1年間に渡り給食の米飯を自分の昼食用に勝手に食べていたと言う。事実が発覚したことを受け、市当局は当該調理員を減給処分とし、当人は依願退職した。あまりにもお粗末な話であり、衝撃的ニュースとして取り上げるのはおかしいと思われるであろう。その通りであり、私が衝撃的と書いたのは、こんなことが全国的ニュースとして報道されたことと、件の調理員がこの程度の話で懲戒処分に付された上、依願退職に追い込まれたことである。

 この「事件」の当事者である給食調理員は、各種報道によると、規則では、余剰米は廃棄することが定められているにもかかわらず、余ったご飯を捨てずに残しておき、自分が持参したおかずと一緒に食べたようである。読売新聞オンライン版2023年3月30日付記事によれば、「2021年12月〜22年12月、園児の給食として炊いたご飯のうち、余った1食分(150グラム)を236回にわたって取り置き、業務終了後に昼食として食べていた。」と言う。また、地元のテレビ愛媛の報道によれば、「園児の給食ため(原文ママ)調理した米飯をあらかじめ取り置き、自分の昼食で食べていました。保育園の職員はおかずは代金を支払って園児と同じものを食べ、米飯は自分で用意する決まりになっているということです。」と、余った分ではなく、あらかじめ取り置いたとされ、少しニュアンスが異なる。テレビ愛媛のホームページ掲載記事は、こう続く。「女性調理員は『弁解のしようもない。深く反省している』と話しているということです。市は『公務員の信用を失墜させた』として、女性調理員を29日付けで給料の10分の1、1カ月の減給処分に。女性職員は依願退職しました。市は、保育園長や関係部局の管理職に文書や口頭で訓告をしていて、今後全職員に対し綱紀粛正を通知することにしています」

 皆さんは、このニュースを聞いて、どう思われれるだろうか?仮に、調理員が、園児の給食の分量を減らして自分の昼食用に取り分けたなら問題であり、クビになるのも当然であろう。しかし、彼女は、余ったご飯を捨てずに取って置き、自分の昼食として食べただけである。この事が、全国に報道されるほどの事案であろうか?また、懲戒処分を受け、職を失うほどの不祥事だろうか?第一、食べたのは236回というのは、上司か同僚が密かに監視していたのか、それとも、当人が事情聴取で認めた回数なのだろうか?彼女の行為と、それに対する社会的制裁があまりにアンバランス過ぎはしないか?いや、むしろ、事業所系の廃棄食材は、産廃業者に処分費を支払って引き取ってもらうことを考えると、怪我の功名とは言え、ゴミの容量を減らして処分費用(新居浜市民の税金である。)の低減に努めたことは、評価しても良いのでは無いだろうか?

 このようなニュースが流れると、必ず、規則に違反したのだから処分は当然とする意見が出て来る。だが、規則自体が理不尽である可能性も考えなければ、一度規則が作られたなら、規則を遵守すること自体が目的となってしまうことがある。いわゆるブラック校則なども、この類であろう。頭髪は黒色に限ると言う校則のゆえに、地毛が茶色い生徒が髪の毛を黒に染めさせられたとか、はっきり言ってバカである。下着の色は白に限るという校則に至っては、悪趣味な上、人権侵害であろう。幼い頃から、このような理不尽な規則の数々に縛られながら疑問も持たずに成長すると、今般の事案で処分を決めた新居浜市の人事権者のような、程度の低い大人になってしまうのだと思う。

「彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と」(イザヤ書 28:10 新改訳)


 この社会には、律法主義が至る所に見られるが、今般の「給食ご飯取り置き事件」は、その格好の見本と考え、あえて低レベルの話題を取り上げた。およそ全ての規則は、人々にとって有益な効果を期待して、作られ維持されるべきである。規則が人々のためにあるのであり、その逆では無い。不合理な規則に人々を縛り付けようとする社会は、人々を幸せに出来るような社会ではないと思う。マスコミ各社も、末端の一契約公務員である給食調理員の「不祥事」を大々的に取り上げる暇があれば、政治家や官僚の不正を追求したらどうだろうか。取り急ぎ、これまでに支出された莫大な新型コロナ対策国家予算の内、使途不明となっている約11兆円の行方を徹底的に調べたら良いと思う。
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値上げの季節(記事No.152)

 4月1日から、食品をはじめ多くの物品やサービスが値上げされた。NHKの報道などによれば、食品だけでも5,100以上の品目が値上げとなるそうである。その他、宅配便などサービス料金の改定もあり、値上げの総計は1万数千品目に及ぶようである。大企業などでは、次々ベースアップに踏み切っているが、中小・零細企業ではその余力が無いところも多く、生活がますます苦しくなる人々が少なくないであろう。このような状況においても、自公政権が頑なに減税を拒否しているのは、彼らがどちらを向いて政治を行なっているかがよく分かる現象ではある。私自身は、現時点で特定の支持政党は無いが、統一地方選挙でも、消費税減税を公約に掲げる候補者に1票を投じる積もりである。

 現在進行中の物価上昇の主要な原因として、マスコミの多くは、ウクライナ戦争により資源価格が値上がりしていることや円安を挙げている。その他、物流コストの上昇も指摘されている。例えば、食料はカロリーベースで約62パーセントが輸入であり、国際価格の上昇があれば小売価格に跳ね返るのは当然である。円安もまた、価格上昇に拍車をかけている。だが、円安は自然現象では無く、第2次安倍政権以来政策的に実現されて来たものである。長年、食料自給率の改善に取り組んで来なかったことと併せ、現在の物価上昇は自公政権の政策の当然の帰結であり、ウクライナ戦争はトリガーに過ぎなかったと思う。国民ではなくグローバリスト集団の側を向く政府を持つと、こうなるのだ。故安倍晋三氏の言葉を借りれば、「悪夢の」自公政権であろう。値上げの季節は、まだ始まったばかりだと思う。

 それでは、一国民として、どうすればこの状況を乗り越えることが出来るのか?節約術や投資術などは情報が世に溢れているが、前者は決定打とはなり得ないであろうし、後者は失敗のリスクもある。「稼ぐに追いつく貧乏なし」との諺もあるが、現代日本では、多少稼ぎを増やせたとしても、税金や社会保険料の伸び率は、大抵の場合所得の増加率を上回る。可能であれば、家庭菜園で無農薬・有機肥料で野菜などを栽培した方が良いが、都市部の住宅事情では困難な場合も多い。井戸水や湧水の利用も、同様の制約がある。そこで、私がお勧めしたいのは、世界のどこででも通用する能力や技能を習得することである。外国語の習得はもちろん有用であるが、それだけでなく、いわゆる手に職を付けるようなことが重要であろう。かつて、ソ連により約58万人の日本軍兵士らがシベリヤに抑留された時、理容や大工仕事の技能を持つ者たち、ロシア語が話せる者たちなどは、比較的良好な待遇を受けたと聞く。「芸は身を助く」という諺の通りである。
 
 今後、現在のインフレが激化し、いずれハイパーインフレになるやも知れないが、そうなると、現金の価値は大きく低下する。現物資産の場合も、それ自体で腹を満たせる訳ではない。金などは、世界共通の価値ある現物資産であるので、保有しているに越したことはないが、可搬性の無い不動産や趣味性の高い家財などは有事の備えとしては弱い。何世紀にも渡り、いつ流浪の民となるかも知れない中で生き抜いて来たユダヤ人や、母国を離れて世界各地に渡った華僑たちが、いずれも子供たちに高い教育を受けさせようと努めて来たことを見習うべきであろう。仮に戦争や迫害などで全財産を失ってしまったとしても、自身が身に付けた知識、能力、技能は、その人が生きている限り、世界のどこででも有用だからである。

「金もあり、珠玉も多い。しかし、貴いものは知識ある唇」(箴言 20:15 新共同訳)


 諸物価値上げの折、自己研鑽に多くの費用を充てるのは厳しいかも知れないが、今は多くの領域でインターネットを活用して、無料あるいは比較的低廉な価格で学習することも可能である。まずは、自分が特に関心のある分野から、能力や技能を一層磨くべく取り組むことが良いと思う。ニッチな分野ほど希少価値があるので、こんなこと学習して何になるのかという考え方は持たない方が賢明であろう。学んだ事がすぐに仕事や収入に結び付かなくとも、いざとなったら活用できる能力や技能を高めておくことは悪くない。それは、自分自身に備わった貴重な財産ともなるからである。
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戦争への覚悟は出来ていますか?(記事No.151)

 国内外の報道によれば、ロシア国防省は3月28日にSNSで、同国太平洋艦隊が日本海において、艦対艦巡航ミサイル2発の射撃演習を行なったと発表した。3月3日に実施された、同国海軍による潜水艦発射巡航ミサイルの射撃演習に続く、日本海でのミサイル演習である。日本周辺では、北朝鮮が近年頻繁に、弾道弾などミサイルの演習や実験を繰り返しているが、今般の一連のロシア海軍による演習は、ウクライナへの支援に前のめりな、日本に対する牽制と警告であることは明白であろう。

 直近では3月25日に、岸田首相がウクライナを「電撃訪問」(一部報道機関には事前にリークされていたが。)し、同国のゼレンスキー大統領と会談し、「非殺傷性装備品」など約700億円相当と言われる、一層の支援を約束している。その際には、岸田氏の選挙区がある広島県の土産として、「必勝しゃもじ」を寄贈したことは、あまりに低レベルな話とは言え、ロシアを刺激したことは間違い無いようである。その由来が、日露戦争当時に広島から出征する兵士たちが、厳島神社に必勝祈念に「しゃもじ」を奉納した(ロシアを召し取るの意味)ことであることは、無知な政治指導者のパフォーマンスとして笑える問題では無い。現在、ウクライナとロシアは戦争遂行中であり、この種のユーモア?は通じないのである。

 本ブログで繰り返し書いてきたように、私は、ウクライナ戦争は、米英を中心としたNATO側による策略の結果、ロシアとして侵攻に踏み切るほか無い状況に追い込まれ、必然的に起こったものと考えている。もちろんロシアは、どんなに遅くとも2015年2月のミンスク2合意以来、こうなることを十分想定して戦争準備を進めて来たのであろう。それは、単に軍備だけでなく、資源や金融などを含めた総力戦への準備である。戦況では既にウクライナの敗北は決定的であり、本来は、国際社会は双方に即時停戦を求め、その実現のために働きかけるべきである。だが、日本を含めた西側諸国は、ウクライナに停戦を許さず、ロシアとの代理戦争を戦わせているのである。3月27日には、ドイツが主力戦車「レオパルト2」18両のウクライナへの引き渡しを完了したと発表したが、西側諸国のロシアに対する敵対行動はエスカレートする一方である。今後、代理戦争が直接戦争に発展しないとは、どうして言えるであろうか?米英など西側諸国を操るグローバリスト集団は、むしろ、それを望んでいるのである。
「争いにかかわらないのは立派なことだ。無知な者は皆、争いを引き起こす」(箴言 20:3 新共同訳)
 日本では相変わらず、WBCだ、ガーシーだと、スポーツや芸能ネタなどでかしましいが(それが悪いと言っているのではなく、国を挙げての話題の中心になるのは変という意味である。)、国民が他人事としてウクライナ戦争を観戦している間に、日本も、いつの間にか準当事国になってしまったのだ。これも、本ブログで何度も書いて来たことだが、ロシアがNATOとの直接軍事対決を決意したならば、ほぼ同時に戦火は日本にも拡大し、米軍基地や主要海空自衛隊基地は、核弾頭を含むミサイル攻撃を受け、周辺都市を含めて灰燼に帰することになる可能性が大である。その際、日本に対してロシアは、国連憲章の敵国条項を適用したとも宣言し、国際法的に攻撃は正当化されるであろう。このように、自公政権が国民に求めている国を守る覚悟とは、アメリカの世界戦略(正確には、グローバリスト集団のであるが。)と最後まで運命を共にすることなのである。あなたはもう、戦争への覚悟は出来ているだろうか?
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「桜を見た会」(記事No.150)

 今日は岡山市に出張したことを幸いに、メインの仕事の後、社員たちと後楽園に行ってみた。過去に2回訪れたことがあるが、この季節は初めてである。後楽園では、正門前で待ち合わせすることとして、園内は1時間ほど各自で回った。欧米系などの外国人観光客も多く、平日にも関わらず、それなりの人出であった。欧米系観光客は、ほぼ全員ノーマスクであったが、日本人は逆に、ノーマスクは少数派であった。私はと言えば、散策中はマスクを外し、日光を顔中に浴びて光合成に努めた。実際、人混みや屋内以外でマスクを着ける意味は、花粉症対策くらいしか無いのではないだろうか?

 園内の一角には、桜林のような場所があり、ほぼ満開の桜の木の近くでは、多くの人が行き交い、観賞したり写真を撮ったりしていた。私も、人があまりいない所で、桜の花に顔を近づけ、深呼吸などしてひと時楽しんだ。桜の花に爽やかな気分を感じるのは、単に美しいからだけでなく、何かリフレッシュやリラックスの効果をもたらす物質が花から出ているのだろう。あるいは、プラスのエネルギーのようなものかも知れない。せっかくの桜の花を見るのに、酒の匂いや嬌声が混ざるとしたら風情も減退してしまう。そんなのは、「桜を見る会」に集う人々だけで結構である。いずれにせよ、日本人の感性にぴったり合うのが桜の花であろう。ここで、本居宣長の有名な和歌を一句。「敷島の やまと心(大和心)を 人とはば(人問はば) 朝日に匂ふ 山さくら花」

 三重県松阪市にある本居宣長記念館のホームページによれば、この歌は、「お前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい。」と言う質問があったことを想定しているのだと言う。歌に込められた意味とは、「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」とのことである。美しい自然や草花を見て感動するのは、世界のどこでも共通した人間性であろう。その中で、日本人は、特に桜に惹かれるのである。ネットで検索すると、日本人が桜を愛する理由は、大別すると次のようなものである。春の到来を告げる花であること、美しい花であること、咲いて散る潔さを感じさせること。

 日本人にとって特別な存在である桜であるが、外国にもある所にはある。中でも有名なのは、アメリカの首都ワシントンD.C.にある、ポトマック川沿いの桜並木であろう。この桜は、1912(明治45)年に、当時のアメリカのタフト大統領夫人の要望により、尾崎行雄東京市長が苗木を寄贈したものだと言う。日米友好のシンボルとして贈呈された桜は、111年の歳月に渡り大切に維持管理され、例年3月末から4月初旬にかけて、盛大に「桜祭り」が開催されている。アメリカ人でも美しい桜を見ることは好きなのであろうが、日本人の感性はまた違う。日本人としては、桜の花を見ながら、様々な思いが去来するのだ。私自身も今日、後楽園の桜の花を間近に見ながら、この地上での人生が儚いものであると思いながら、ほんの一瞬、様々な悩み事が小さな事であるかのような感覚を抱いた。私たちの地上の人生は、実に桜の花のようなものなのであろう。

「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ書 40:7-8 新改訳)
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人権後進国日本(記事No.149)

 1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した、味噌製造会社の橋本藤雄専務(当時41)一家4人が殺害された、いわゆる「袴田事件」の第2次再審請求に対して、東京高等裁判所は3月13日に再審開始を決定した。当事件については、これまでも多くのメディアが取り上げて来たし、インターネット上でも関連情報が多数あることから、あえて概略は省く。よく分からない場合は、日本弁護士連合会のホームページに分かりやすい概要が掲載されているので、参照していただきたい。

 さて、当事件で犯人とされた袴田巌氏(87)は、1980年に最高裁判所で死刑判決が確定しており、約48年もの拘禁を経て、2014年3月の静岡地方裁判所による再審開始決定で執行一時停止となり、釈放後も第1次再審請求では東京高裁による決定取消しにより、今なお戦い続ける事を余儀なくされている。当事件では、警察や検察が証拠を捏造した疑いが濃厚であることは、東京高裁の今回の決定においても指摘されている。少しでも理性的な思考が出来る人であれば、明らかに袴田氏は冤罪被害者であることが分かるであろう。真犯人として当初から噂されていたという、被害者一家の長女とその(内縁の?)夫であった暴力団関係者は既に故人であるが、長女が67歳で死亡したのは、静岡地裁の再審決定で袴田氏が保釈された翌日であり、警察は病死と発表したが自殺説もあり真偽は不明である。

 言うまでもなく、捜査機関による証拠の捏造は重大な権力犯罪であるが、袴田氏は取り調べの過程で激しい拷問を受けて自白を強要されたと言われる。事件が発生した1966年は敗戦後20年以上経っていたにも関わらず、特高警察に代表される非民主的な警察や検察のあり方は、戦前・戦中と変わっていなかったのである。ちなみに、静岡県警察本部で袴田氏の取り調べを主導したのは、「拷問王」と呼ばれた、紅林麻雄(くればやしあさお)警部であり、担当した事件において、数多くの冤罪被害者を生み出したことで知られている。

 袴田氏は、死刑確定後から34年間もの間、執行の恐怖に怯える毎日を送り、拘禁性ノイローゼとなってしまった。だが、死の恐怖に直面する中で、カトリック神父の教誨を受けるようになり、神の救いを求めて、1984年12月に獄中で洗礼を受けるに至った。これには後日談がある。1審の裁判官であった熊本典道氏(故人)が、2007年に「自分は無罪と判断したが、2人の先輩裁判官を説得出来ずに、2対1の多数決で有罪となった。」と明かし、大きな反響があった。熊本氏は、「裁判官として判決文を作成したが、悔いが残り、裁判官を辞めざるをえなかった。」と語り、誤判の当事者として心に責めを抱き続けて来たことを告白した。判決の翌年に裁判官を辞職し弁護士へ転身した熊本氏は、良心の呵責に耐え切れず酒浸りの生活を送るようになり、一時は自殺も考えたという。その後、「袴田君の気持ちを少しでも理解したい。」と聖書の教えを学ぶようになった熊本氏は、袴田氏の無実を訴え続ける中、2014年2月にカトリックの洗礼を受け、2020年11月に帰天している。

 「袴田事件」のような冤罪事件は、死刑や無期懲役の判決が確定したものだけでも複数あるが、その中には、1992年に福岡県飯塚市で発生した女児2人の殺人事件、いわゆる「飯塚事件」で死刑判決を受け、2008年10月に森英介法務大臣(当時)の命令により福岡拘置所で処刑された久間三千年氏のように、絶対に取り返しがつかないケースもある。冤罪事件は、決して日本だけの現象では無いとは言え、無実の人を処罰することは最悪の権力犯罪であり、霊的には国にとって呪いを招くものとなる。

 日本には、冤罪事件以外にも、公的機関による様々な人権無視の実態があり、早急に是正されなければならない。スリランカ人のウィシュマ氏死亡事件で広く知られるようになった、出入国在留管理局、いわゆる入管の不法滞在外国人に対する非人道的扱いもその1つである。また、代用監獄の存在も、近代民主制国家にあるまじき制度であり、被疑者に対する虐待や冤罪など悪質な人権侵害の温床ともなっている。これについては、国際人権規約委員会や国連拷問禁止委員会なども問題視しており、日本政府に繰り返し是正を求め、廃止勧告などの国連決議も採択されている。このような状態であるのに、中国や北朝鮮の人権状況について、よくも上から目線でものが言えるものである。人権状況に関しては、日本の為政者や役人も、共産主義国家と同様のメンタリティーである。

 言うまでもなく、人は誰でも過ちを犯し得る存在である。聖書は、「義人はいない、ひとりもいない。 」(ローマ人への手紙 3:10)と教えているが、神の前に誰もが罪人であり、宗教的、道徳的な罪はもちろんのこと、少し道を逸れてしまい過ちを犯す可能性もある。自分は絶対に罪を犯さないと信じているとしたら、それは人間の本質を実は理解していないと言うことを示している。であるなら、犯罪を犯してしまった人に対しては、多少非人道的な扱いをしても許されるという考え自体が異常であり、誰に対しても、人としての最低限の尊厳に配慮した扱いを捨て去ってはならないと思う。冤罪を作り出した警察官、検察官、裁判官ら、冤罪処刑に関わった政治家や法務官僚らは、故熊本氏のように罪を悔いて告白し神の赦しを受けない限り、たとえ地上では栄華栄達に浴したとしても、いずれは陰府(黄泉)で最後の審判の日を震えながら待つ身となるだろう。

「悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者はともに主に憎まれる」(箴言 17:15 口語訳)
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再び人口減少問題について(記事No.148)

 3月24日に厚生労働省より、人口動態統計速報令和5年1月分が発表された。予想通り、人口減少のスピードがさらに加速している。本ブログ記事No.145「人口急減中の日本」で、日本の年間死亡者数が今から3年後に、過去最大の死亡者数であった、敗戦の年(1945年)の214万人を超えるとの予測を書いた。また、10年以内に、日本の人口は現在の8割程度(最悪は3分の2程度)になる可能性を挙げた。読者の皆さんの中には、私が事を大袈裟に捉えていると思った人もいたかも知れない。だが、1月単月で死亡者が前年同月比17.3パーセント増加を示した最新の統計は、私の前回の予測は甘かったことを示している。このままだと、出生数がこれ以上減少しなかったとしても、3年後を待たずに過去最大の死亡者数と人口減少を記録するだろう。10年後には、現在の8割の人口を維持するのも困難であろう。人口問題に関心のある方は、厚生労働省のホームページに掲載されている人口動態統計速報を見て、電卓で計算してみていただきたい。

 ところで、テスラの創業者でありCEOのイーロン・マスク氏は、これまでインタビューや自身のSNSで、人口問題は人類にとって環境問題以上の深刻な問題であると指摘している。中でも、日本のことは、人口減少の代表例として度々言及しており、平均的な日本人以上に、危機感を持っていることが伝わる。なぜ、当の日本人の中で、人口問題を真剣に訴える有名人がほとんどいないのか?巷には、この種の問題を取り上げている本やネット記事も多数あるので、自分で調べれば良いのだが、テレビや新聞でしか情報を得なければ、事の深刻さがよく分からないとは思う。

 何度も同じようなことを書いてしまうが、現在進行中の人口急減は、国の根幹を揺るがすような重大問題であり、国民一人一人の人生にも直接間接に影響を及ぼす事柄である。時に、岸田自公政権は、防衛費の大幅増額方針を打ち出したが、守るべき国民の数が急減していることは、戦時下に等しい重大危機である。こちらの危機対応への予算は、なぜ大幅に増やさないのだろうか?(答えは、宗主国や既得権益集団への利益供与が優先されるから、と思うが。)人口減少は、現在の社会システムの維持が困難になることでもあり、年金や健康保険は破綻するか大幅に制度改悪されるほか無い。当然、各種行政サービスは維持困難となり、道路や上下水道など社会インフラは荒廃する。大都市にはスラム街が生成され、治安の悪化も必定である。政府は、人口の自然減を社会増で補おうと、移民を増加させるだろうから、文化や社会の様相も大きく変わるだろう。

 現在進行中の人口急減の原因については、本ブログ記事No.145「人口急減中の日本」で私の分析を書いたので、読まれていない方は、是非ご覧いただきたい。だが、実際的な状況の背後には、しばしば霊的な理由が存在する。単に、国家指導者らが神を信じず暴政を敷いて来たというだけなら、中国のように、共産主義政府の統治下で人口が大幅に増加した(既に過去形だが。)事例もあり、人口急減の霊的理由としては弱いと思う。トンデモ論のようではあるが、私は、日本人の多くがユダヤ人のルーツを持っていることが、その大きな理由であると考える。厳密には日猶同祖論とは違うが、日本人の祖先には、中東からシルクロードと中国、朝鮮半島を経て、また、一部は東南アジアを経て海路を渡り、日本列島に到達したユダヤ人らがいたと思う。彼らは、古代日本において、指導的な集団となり、この国を形造った。

 旧約聖書には、ユダヤ人が神に従った時、大きな祝福を受け敵対国家を退けたが、彼らが神に叛いた時、敵対国家に破れ捕囚となるなど、大きな試練に遭ったことが記されている。日本人の多くが、天地万物を創造された真の神に叛き、たとえ意識せずとも心に記されている、神の民としての律法に従って来なかったことが、人口急減という裁きを招いているのではないだろうか。また、悪魔と悪霊どもにとっては、聖書の民であるユダヤ人の子孫である日本人は、絶滅させる対象とされていると思う。過去の歴史の中で、偽ユダヤ人ではない真のユダヤ人が、迫害や虐殺の対象とされて来たのと同様である。私は、今でも日本の再生を信じ期待しているが、その前に、国家的、民族的試練を通過することになると思う。残念ながら、この国は一旦滅亡し、その後再建されることになるのではないか。ただし、再建の地が日本列島とは限らず、遠い中東の地の可能性もあるが。

「わたしはエルサレムを瓦礫の山 山犬の住みかとし ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。 知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり 通り過ぎる人もいない。 主は言われる。『それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。』」(エレミヤ書 9:10-12 新共同訳)
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インバウンド!インバウンド!(記事No.147)

 新型コロナ騒動で過去3年間低迷していた、海外からの訪日旅行客が増加している。特に、白人は目立つこともあってか、東京や京都の観光地周辺や主要駅構内、新幹線ホームなどでは、彼らの姿を多く見ない日は無い。韓国や台湾など、周辺諸国からの旅行者も多いが、これで中国からの観光客来日が本格的に再開されたら、有名観光地など局地的には、外国人の方が多い場所も出て来るのは必至であろう。ちなみに、京都の場合は、良くも悪くも門川市長のインバウンド誘致政策の成果で、海外からの観光客への経済依存が高まり、宿泊、交通、飲食、物販などのサービス産業は、外国人の来京を切望している状態である。逆に関連業界以外の市民の多くは、激しい交通渋滞やバス・鉄道・地下鉄の車内混雑、ゴミや騒音問題など、外国人観光客の増加には辟易しているのが実情である。

 外国人観光客の多くは、政府やマスコミが喧伝するように、日本に特別な魅力があるからと言うよりも、円安でお得に海外旅行が出来、比較的治安が良く食べ物も美味しいと言う理由で来日するのであろう。ちょうど、1990年代頃までの日本人が、韓国、台湾、香港などへ、グルメや買い物目当てで気軽に旅行したようなものである。今は未だ、中国からの観光客来日が本格的に再開されていないが、それが解禁されれば、各地の観光地に中国人が大挙押し寄せるであろう。私の知人で、旅行会社を経営している中国人社長の話では、中国には、日本人と同程度か、それ以上に豊かな人々が約3億人いるそうである。その人々は、手軽に海外旅行に行く先として日本に熱い視線を送っているとのこと。一時期話題になった「爆買い」も、転売益を稼ぐ目的があるにせよ、商品によっては、もはや日本の方が、品質が良いにも関わらず安価だからである。既に、日本人と中国人の購買力が逆転しているのだ。

 来日する外国人が増えているのは、何も観光客ばかりではない。事実上の移民もそうである。本ブログ記事No.145 「人口急減中の日本」で書いたように、現在進行形で人口の急減が起こっている日本であるが、本来は、人口急減の原因を早急に特定し対策を打ち出すことと、日本人の出生数を増やすこととのいずれも必要である。だが、これらの問題に対する政府のこれまでの姿勢からして、政治家や官僚たちは、日本人が減少した穴埋めに移民を増やせば良いと思っているのではないかと疑う。私は、日本人では必要数を充足出来ないような職種において、専門能力や技能を有する外国人を受け入れるのには反対でない。また、政治的、宗教的理由で迫害を受けている人々に対して、安住の地を提供することは、日本の使命の1つであると思う。問題なのは、低賃金労働者としての移民と、日本にとって有害な活動を行う工作員やその協力者である。

 ところで、出入国在留管理庁が発表した、2022年6月末現在における中長期在留者数は266万人9,267人、特別永住者数は29万2,702人で、これらを合わせた在留外国人数は296万1,962人となり、2021年末に比べ、20万1,334人、7.3パーセント以上増加した。在留外国人は、90年代末以降増加の勢いを増し、2001年末の178万人から前記の人数へと、20年少々で1.7倍近くになっている。国別では、中国が約74万人と25パーセント以上の割合である。以下、ベトナム約48万人、約16パーセント、韓国約41万人、約14パーセントと続く。中国人が全体の4分の1以上を占めているのは、留学生として来日し卒業後は日本で就職する人々が多いことと、帰化したり永住権を取得した人たちの親族が来日するケースが多いことと推察される。当然のことながら、かなりの数の中国情報機関や共産党工作組織の要員が含まれていると思われる。中には、日本政府や民間財団の奨学金を受給していた留学生が、その実、情報機関要員であったと言うケースも少なくないのではと疑う。今の日本は、実にお人好しの国である。

 多くの国民が経済的に苦しい生活を余儀なくされている現状において、低賃金の技能実習生以外の外国人を厚遇し、どちらの数も増やそうとしているのは、もちろん日本政府である。故安倍晋三首相は、2016年4月19日に開催された産業競争力会議で、新たな成長戦略について、「第4次産業革命を担う優秀な人材を海外から呼び込みたい。」と述べている。その上で、「永住権取得までの在留期間を世界最短とする。」と表明した。自公政権が保守ではなく、グローバリストの走狗であることがよく分かる発言であろう。日本の永住権取得を望んでいるのは、欧米諸国の人々よりも、中国人や韓国人が圧倒的に多いことは言うまでもない。永住権を取得した人々の中には、帰化を目指すケースも少なくない。その理由は、日本のパスポートを保有している方が、中国のそれよりも、簡便に渡航できる国々が多いなど、ビジネスや生活上のメリットが大きいためであろう。そんな彼らに、日本に対する忠誠心などあるはずも無い。いい加減日本も、アメリカのように、帰化する際には、他国に対する一切の忠誠を放棄する宣誓を必須とすべきであろう。評論家の石平氏(帰化した中国系日本人)のように、心から日本を愛してくれる中国人なら大歓迎である。

 日本人の多くが、自分と家族さえ幸せならば良いという狭窄的な考えで生きて来た間に、いつの間にか、日本の要所は、外国の強い影響下にある人々によって占められてしまった。はっきり言って、無邪気にインバウンドを呼び込んでいる場合では無い。世界史において、先住民族が武力や計略に勝る他民族に征服され、被支配民族となったり絶滅の危機に瀕した事例は枚挙にいとまが無い。このままでは、遠からず日本民族もそうなるだろう。その時になって初めて真実に気づいても、既に取り返しが付かないのである。日本人の日本は、今まさに存亡の危機にある。

「お前たちはわたしの聖所の務めを守らず、お前たちの代わりに外国人をわたしの聖所で務めを行う者にした」(エゼキエル書 44:8 新共同訳)
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公文書の改竄は歴史への冒涜(記事No.146)

 このところ、高市早苗経済安全保障担当大臣が渦中の人となっている。言うまでもなく、国会審議で立憲民主党の小西洋之参院議員から追及を受けたところの、総務省の行政文書に記録されていることが明らかになった、放送法の運用を巡る政治的介入疑惑である。高市氏は、国会審議では、当該行政文書に記録された自身の発言について、捏造であると否定した。「捏造でなかった場合、議員辞職するか?」と、国会審議で小西議員から問われた際は、「結構ですよ。」と啖呵を切ってもいる。だが、問題となっている行政文書が作成されたのは、高市氏が総務大臣を務めていた当時のことである。もし、文書が捏造であれば、高市氏の監督責任が問われるであろうし、捏造した官僚らは、公文書偽造で懲戒免職の上、刑事告発されるべき事案である。どちらに転んでも高市氏は責任を免れ得ず、また彼女は、公文書が持つ重みを十分理解していないという一点のみでも、公職者の、まして国会議員や国務大臣の資格は無いと言えるであろう。

 しかし、政治家や官僚が公文書を軽視しているのは、高市氏に始まったことではなく、日本における官公庁のお家芸とも言える悪癖であろう。近くは、いわゆる森友問題において、議事録の改竄を指示された、財務省近畿財務局職員の赤木俊夫氏が自殺した事件が記憶に新しい。この事件では、公的補助金を詐取したとされた、籠池泰典・諄子氏夫妻が詐欺罪で実刑判決を受け収監されることになったが、公文書偽造に関与した官僚らは誰も起訴すらされていない。日本で公文書偽造が罷り通ることになったのが、いつの頃からなのかは判然としないが、古事記・日本書紀さえも真偽ない混ぜという説があるように、古代から脈々と続く悪しき文化である。近代国家となったはずの明治以降もそれは続き、むしろ常態化したとさえ言える。今日、中国や韓国との歴史問題が燻り続ける元凶の1つは、日本政府が大東亜戦争当時の公文書の多くを破棄しているため、事実の記録に基づく検証が十分になされて来なかったことだと思う。特に、731部隊に関わる証拠隠滅に象徴されるように、戦争犯罪に関わる公文書の大半は、敗戦後直ちに軍部によって焼却されたと考えられる。古今東西、歴史は権力者や勝者によって作られると言う話があるが、公文書を改竄・破棄することへの弁解にはなり得ず、それは歴史に対する冒涜でしかない。それは、現在のみならず、未来の国家・国民に対する罪でもある。

 ところで、中国は白髪三千丈との言葉があるように、古来から誇張や捏造の文化もある。だが一方で、正確な記録を重んじる側面もあり、それを象徴するような故事を1つ紹介したい。中国大陸の春秋時代に斉という国があったが、その歴史書である「春秋左氏伝」に次のような出来事が記載されている。斉の第25代君主の壮公は臣下の崔杼の妻と密通していたところ、怒った崔杼は主君を殺してしまった。斉国の歴史記録官である太史は、この事実をありのままに記録した。太史が、「崔杼、其の君を弑す(しいす=叛逆して殺すこと)」と事実を史書に書いたので、崔杼は彼を殺した。後を継いだ太史の弟も同じことを書いたので、彼も殺された。しかし、彼らの弟も同じことを書き、ついに崔杼は事実を記録することを許した。太史兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は、「崔杼其の君を弑す」と書いた竹簡を持って駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて帰ったと言う。崔杼と太史たちの故事は、(少なくとも古代の)中国の人々は、歴史を正確に後世に残すことの重みをよく理解していたことを示している。もっとも、今日の中国共産党は違うようであるが。

 さて、それでは、キリスト教における最高の公文書でもある聖書はどうなのか?クリスチャンの中でも、聖書は神の霊感を受けて書かれた誤りの無い神の言葉とする逐語霊感説に立つ人々と、聖書の言葉の無謬性を認めない新正統派学的霊感説を受け入れる人々がいる。また、それぞれに近似や亜種の諸説があり、福音主義と自由主義という神学の違いからも、聖書に対する捉え方が大きく異なる。ちなみに私自身は、逐語霊感説であり、人間の知識の視点で聖書を研究しようとする、高等批評と呼ばれる考え方を受け入れない。自由主義神学や高等批評は、悪魔が聖書の権威を失墜させ、信仰の本質を骨抜きにするために造り出した偽物であるとさえ思う。聖書の著者や写本の書写者たちは、神の言葉を正確に記録するために全身全霊を傾注し、文字の点1つさえも間違えることが無いように慎重に作業を進め、記事の真実性を守った。それゆえ、聖書には、書かれた当時の権力者や霊的指導者らに不都合な事実も、そのまま記録されている。戦争の敗北、愚王による国の乱れ、偶像崇拝、不信仰、殺人、不倫、偽証、裏切り等々である。聖書の言葉は、それをどう扱うかにより諸刃の剣にもなる。付け加えてはならず、削除してもいけない。解釈や適用は様々あっても、神の言葉そのものは変わることが無く、変えられることも無い。それを信じるか信じないかは、私たち自身の問題である。

「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」(ヨハネの黙示録 22:18-19 口語訳)
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人口急減中の日本(記事No.145)

 厚生労働省は2月28日に、2022年の人口動態統計(速報)を発表した。既に、昨年1月から11月までの速報値で分かっていたことだが、日本の人口が急減していることが改めて確認された。2021年に60万9392人であった自然減は、2022年は78万2305人と急増した。新聞各紙の報道では、出生数が前年比5.1パーセント減となり、1899年以降で初めて80万人を割ったことが強調されている。当然それも重大な問題であるが、加えて恐ろしいことは、死亡数が1945年を除く過去最大を更新したことである。以下に、第2次世界大戦中の1943年より昨年までの、死亡者数の推移の概要を記す。出典は、厚生労働省の人口動態調査が基本であるが、1944年〜1946年は、戦災による資料焼失のため、総務省などの推計値である。2022年のみ、速報値の人数をそのまま記載した。

 1943年 約123万人
 1944年 推定約126万人
 1945年 推定約214万人 ※東京など各地に大空襲、広島・長崎へ原爆投下
 1946年 推定約137万人
 1950年代から70年代にかけて、毎年70万人以下
 1990年代 80万人を超え90万人台に
 2000年 約96万人
 2010年 約119万人
 2011年 約125万人 前年比約5.6万人増加 ※東日本大震災、福島第1原発事故
 2012年 約125万人 前年比約0.3万人増加
 2020年 約137万人 前年比8445人減少 ※新型コロナ・ウイルス流行始まる
 2021年 約145万人 前年比6.7万人、約4.9%増加、※コロナ・ワクチン接種開始
 2022年 158万2,033人 前年比15万8,387人、8.9%増加

 統計で明らかなように、日本における現在の死亡者数は、敗戦の年である1945年に次いで史上2番目に多い。仮にこのペースで増加が続くなら、今からわずか3年後(統計に現れるのは4年後)の2026年には、戦争末期を大きく超えて史上最大となる計算である。また、10年以内に、日本の人口は現在の8割程度に減少する。(出生数がこれ以上減少しないと仮定した最良のケースであり、出生数が今のペースで減少を続けるなど最悪のケースでは3分の2程度となり得る。)それでは、死亡者数急増の主な要因は何だろうか?政府やマスコミは、高齢者人口の増加で説明しようとする。しかし、これほどの増加率では、その理由は明らかにこじ付けである。現に、人口に占める65歳以上の(統計上の)高齢者の割合は、2020年が28.8%であったのに対して、2021年は29.1%と、増えたとは言え、1年で0.3ポイントである。それでは、新型コロナ・ウイルス感染による死亡者急増かと言えば、それも違う。日本における統計上のコロナ死者数は、2月28日時点で、約3年間の累計が約7万2,500人であり、しかも、流行が始まった2020年は、前年比で死亡者数が8千人以上減少しているのである。いわゆる巣篭もり生活で、体力が衰えた人が増加したという見方をする人もいるが、統計的に結びつけるのには無理がある。

 私は、2年前からの死亡者急増と人口の急減の主な原因として、2つあると考える。1つは、2011年3月11日の東日本大震災直後に発生した、福島第1原発事故で環境中に放出された放射能の影響である。事故から2、3年の間は、放射能汚染問題に関心を持つ人々も少なく無かった。特に東日本では、食べ物や飲み水に気をつけるなど、被曝回避行動を心がけている人々も、それなりにいたと思う。だが、政府や電力会社による世論対策が功を奏してか、年々放射能汚染に注意を払う人も減少し、その間、かなりの人々が内部被曝の蓄積により、健康被害を受けて来たのではないだろうか?公式には、福島第1原発事故が直接の原因で死んだ人はいないとされているが、遅発性の癌や循環器疾患で相当数の人々が寿命を縮めたと推測される。

 もう1つの原因として合理的に考えられることは、2021年2月より国内で接種が開始された、新型コロナ・ワクチンによる影響である。厚生労働省の発表によれば、2021年2月17日から2022年12月18日までの期間において、1,963人の新型コロナ・ワクチン副反応疑いの死亡者が報告されているとのことである。ただし、この人数は、12歳以上で、医師から副反応の疑いがあるとして報告があったケースのみであり、これまで、1人もワクチン接種による死亡と認定されてはいない。ワクチン接種と死亡との関連が不明とされたまま、補償金の対象になった死亡事例が数十件あるのみである。政府や製薬会社は、ワクチン死の存在を頑として認めず、精緻な検証もしない。また、マスコミも一部の例外を除き、重大問題として取り上げることは無い。だが、専門家の中には、少数だが声を上げる人々もいる。例えば、京都大学名誉教授(薬剤疫学)の福島雅典氏は、国に新型コロナ・ワクチンのデータ開示を求めて訴訟を起こしたが、記者会見で次のように語っている。「沢山のお金を使って、国民の手元に残ったのは何なのか。ワクチンの死亡報告は氷山の一角。それからワクチンは本当に効いているのか、重症化率、死亡率は下がったのか、これは検証しないといけない。それは国としての義務でしょう、と私は申し上げたい」

 仮に、現在進行中の日本における死亡者の急増が、前述した2つの要因のどちらか、あるいは両方だとすると、そして、その蓋然性は極めて高いと考えるが、これまでの数はまだ序の口と言えるであろう。 NHKの2023年3月6日時点での集計によれば、日本では、人口の81.3%が、少なくとも1回の新型コロナ・ワクチン接種を済ませているとのこと。以下、2回接種80.3%、3回接種68.4%と続き、3回以上のブースト接種率(現時点で3回目〜5回目の累計)は、2位の韓国の79.76%を大きく引き離し、140.51%と世界最高である。仮に、ワクチンの成分やその濃度について、国ごとに大きな違いが無いとするなら、死亡や障害などの重大な有害事象の発生率が最も高くなるのは、この日本である可能性が高い。新型コロナ・パンデミックと、それを理由としたワクチン接種の推進は、明らかに悪魔崇拝者たちの策略である。彼らの目的は、世界統一政府の樹立に向けた大衆コントロールと、彼らが管理可能と見なすレベルまでの人口削減である。このままでは、特に後者の方は、日本において、最も効果が現れることになってしまう。私の友人の中にも、ワクチン接種後の体調不良により接種を激しく後悔し、漢方薬などを用いて解毒の努力をして、徐々に効果が現れている人がいる。多くの人々が、手遅れにならないうちに新型コロナ・ワクチンの危険性に気づき、これ以上の接種を止め、解毒を図ることを願う。

 本記事の最後に、数年前より心に強く響いている聖句を挙げておきたい。本記事においては、この聖句は神から「示された」と断定的には書かないが、私としては、日本の将来に対する警告でもあると受け止めている。私の危惧していることが杞憂に終われば、どんなに良いだろうか。

「山々で、悲しみ嘆く声をあげ 荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ。そこは焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり 家畜の鳴く声も聞こえなくなる。空の鳥も家畜も、ことごとく逃れ去った。 わたしはエルサレムを瓦礫の山 山犬の住みかとし ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。 知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり 通り過ぎる人もいない。 主は言われる。『それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。』彼らは、そのかたくなな心に従い、また、先祖が彼らに教え込んだようにバアルに従って歩んだ。 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は言われる。『見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。 彼らを、彼ら自身も先祖も知らなかった国々の中に散らし、その後から剣を送って彼らを滅ぼし尽くす。』」 (エレミヤ書 9:9-15. 新共同訳)
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ウクライナ戦争1周年に想う(記事No.144)

 昨年2月24日にロシアがウクラウナに侵攻を開始してから、満1年が経った。本ブログでも、ウクライナ情勢に関連した記事を度々書いて来たが、このタイミングで現状の評価と今後の予測に少し触れておきたい。この戦争勃発当初より、私自身の見方は、ロシアが圧倒的に優勢であり、ウクライナは決して勝利出来ないというものであって、それは現在も変わっていない。アメリカを中心とするNATO諸国は、ウクライナ防衛を支援している体裁をとりながら、ロシアを追い詰め、第3次世界大戦の火蓋を切らせようとしていると考える。もちろん、それは各国の腐敗した指導者など、悪魔崇拝のグローバリストらの策略であり、いずれの国でも国民はそれを望んでいない。ロシアとしては、彼らの思惑は当初から見透かしており、対露制裁など西側の行動を逆手にとって、エネルギー供給の遮断などで、彼らの側を弱体化させる戦略であると想う。

 およそ戦争とは、ほとんどの場合、当事国のどちらかが100パーセント悪であったり、正義であったりということは無い。今回のウクライナ戦争でも、それは当てはまる。私は、ロシアが一方的に侵略国であり、ウクライナは果敢に立ち向かう正義の国であるという見方をとらない。この戦争を望み、計画したのはNATO諸国の側であって、ロシアでは無かった。その多くの証拠がある中、ここでは1つだけ面白い発言を取り上げたい。ドイツのメルケル前首相の発言である。彼女は、2022年12月7日に公開されたドイツ紙とのインタビューで、「2014年のミンスク合意はウクライナに時間を与える試みだった。」と語った。また、「2014年から15年にかけてのウクライナは今ほど(の戦力)ではなかった。」とも語り、ウクライナ軍の増強に一定の時間が必要だったとの認識を示した。これが、NATO諸国の指導者らの実態であろう。
 
 ところで、ロシアのプーチン大統領は、2月21日、議会において年次教書演説を行い、この模様は全国に中継された。ロシアの通信社スプートニックのホームページには、日本語版の全文も掲載されているが、その中で気になった箇所を以下に引用したい。

「だが彼らは戦場でロシアに勝つことは不可能だと認識しているため、我々に対してますます攻撃的に情報攻撃を仕掛けている。彼らが標的はもちろん若者たち、若い世代だ。そしてここでも彼らは終始嘘をつき、史実を歪曲し、我々の文化、ロシア正教会、我が国に昔からある、他の宗教組織への攻撃を止めようとしない。彼らが自国の民に何をしたかを見てほしい。家族、文化、国民のアイデンティティを破壊、(性的)倒錯、児童虐待、小児性愛に至るまでがノーマルなことだと宣言され、聖職者、神父は同性婚を祝福するよう強制されている。勝手にやるがいい。ここで何を言いたいか。大人は望むように生きる権利を持っている。ロシアもこのことには同じ態度をとってきたし、これからも常にそうする。誰も私生活に立ち入らないし、我々もそうするつもりはない。西側世界の何百万人もの人々が、自分たちが正真正銘の精神的破局に導かれていることに気づいている。はっきり言ってエリートたちは気が狂っており、もう手の施しようがないようだ。それでも、前に言ったようにこれは彼らの問題であり、我々がすべきことは子どもたちを退廃と退化から守ることだ」

 このプーチン氏の発言を読み、改めて感じたことは、彼はロシアを政治大国、軍事大国、文化大国、経済大国として発展させたいだけでなく、道徳大国としても世界に誇れる国としたいのだと言うことである。翻って、日本を含む西側諸国の現状はどうなのか?アメリカは確かに、政治、軍事、経済において世界トップの大国である。だが、彼らの文化は、世界に何をもたらして来たのか?道徳においては論外であり、毎年各地で、白昼公然と同性愛者のフェスティバルが開催されているような有様である。最も邪悪なことは、先進国とされる諸国で、プーチン氏が指摘しているように、児童に対する性的虐待が横行していることであろう。これは発展途上国における問題でもあるが、アメリカなどの先進諸国においても重大問題である。特に、各国の指導者や既得権益階層の人々の間において、このような悪癖が顕著に実践されている。彼らは、精神が倒錯した悪魔崇拝者たちであるか、文字通りの変態であり、後者は日本人の中にもいる。

「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ 流血をもってシオンを 不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。 頭たちは賄賂を取って裁判をし 祭司たちは代価を取って教え 預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか 災いが我々に及ぶことはない』と。 それゆえ、お前たちのゆえに シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」(ミカ書 3:9-12. 新共同訳)


 今、ウクライナ戦争を拡大させ、第3次世界大戦に導こうと画策しているのは、そのような者たちである。彼らは、プーチン氏率いるロシア人の敵であるが、同時に、世界の全ての人々の敵ではないだろうか?アメリカの属国である日本が、政治的中立を保てないのは残念であるが、国民としては、一方的な善悪二元論に立って考えてはならないと思う。これは、ウクライナだけの問題ではなく、世界の現在と近未来に関わる問題である。今後も、世界は危険な綱渡りが続くだろうが、第3次世界大戦の勃発に至ることが無いことを願い、平和のために祈る。
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良心に従って生きることの幸い(記事No.143)

 これまで報道されているように、2023年2月6日の現地時間早朝に発生した、トルコ南東部を震源とする地震は、同国とシリアの一部に甚大な人的・物的被害を与えた。発震前に、上空にバラの花のような形をした不気味な赤い雲が出現したり、大規模な青色発光現象が観察されたことなどもあり、一部には、人工地震ではなかったかとの疑念も囁かれている。本記事では、その可能性も捨て切れないとだけ書いておきたい。国際社会からの支援がトルコに偏重しているようであるが、これは西側諸国にとっては、親ロシアの立場を明確にしているシリアよりも、NATO加盟国であるトルコの方が支援の優先度が高いという、両国と世界に向けてのメッセージではないだろうか。

 さて、次々に伝えられる現地レポートの中で、特に私の関心を惹いた記事が1つあった。時事通信社電子版ニュース2023年2月13日付記事は、対照的な2つのエピソードを次のように伝えている。

「南部アダナ県では14階建ての住宅が完全に崩壊し、近隣住民らに衝撃を与えた。元アダナ市長で土木技師だったアユタチュ・ドゥラク氏は倒壊現場で取材に応じ、『柱のコンクリートと鉄筋の結合が弱く、コンクリートの材質も劣悪だった』と散乱した残骸を手に語った。ドゥラク氏によれば、業者が建設コストを低く抑えるため材質が二の次になっている。トルコ当局も安全基準を満たさない建築物について、手数料を支払って特別許可を得ることで行政処分を免除する措置を導入していた経緯がある。こうした状況で倒壊が相次いだことから、多くの市民は『人災だ。殺人行為に等しい』と政府と業者への非難を強めている。一方、今回の地震によりトルコ国内で最も深刻な被害が出ているとみられる南部ハタイ県の中でも、エルジン地区ではほとんど被害が出なかったという。同地区のエルマスオール区長は地元メディアに『私は一切の違法建築を認めず、ばか正直だと業者の怒りを買った。いま良心に従って本当に良かったと思う』と語った」

 日本と同様に、地震多発国でもあるトルコには、それなりの建築安全基準が定められているようだが、どうやら手抜き工事が横行していたと思われる。記事によれば、手数料を支払って特別許可を得る手法が採られていたそうだが、官民の癒着そのものであり、賄賂の授受も当然行われていただろう。これはトルコに限らず、日本を含めた各国の様々な許認可事業で共通する宿痾であろう。だが、一方で、いくら賄賂を積まれようとも、あるいは脅迫されようとも、自分の良心に従い続ける人々もいる。今回紹介した、同国エルジン地区のマスオール区長も、その一人であった。彼が、その職務を遂行する時に自分の良心に従ったことが、地区住民の命と財産を守る結果につながったのである。

「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(ローマの信徒への手紙 2:13-15 新共同訳)


 同様に、良心に従った日本人の首長のことを、以前に本ブログでも書いたことがある。以下に、2021年8月20日付記事「横浜の命運はいかに(記事No.30)」の一部を再掲したい。

「当時の札幌市長は、弁護士出身の上田文雄氏であった。上田氏は、震災瓦礫を受け入れることを、きっぱりと拒否したが、その決断に対しては、札幌市民からだけでなく、全国から応援と批判の声が彼の元に寄せられた。2012年4月7日の北海道新聞のインタビューで、震災瓦礫を受け入れない理由をこう語っている。『受け入れないと判断したことが、後日歴史的に誤りだったと評価されても、市民の安全は守られ、私が批判されれば済みます。受け入れて間違いだったと分かるときは、市民に被害が出ている。私にはそれは耐え難いのです』 私は、上田氏の判断は正しかったと思う。震災瓦礫を受け入れた自治体の住民にどのような健康被害が出ているのかは、政府も当該自治体もその種の調査をしていない(あるいは密かに実施していても公開しない)以上、これまでのところでは断定的なことは言えない。しかし、少なくとも、札幌市民には被害が出ていないことは断言できるであろう。ある人が、上田市長と震災瓦礫を受け入れた他の首長の判断とを対比して言った、『この世は、トップの考え方で、天国にも地獄にもなる』」

 時に、各国では、新型コロナ・ワクチン接種による夥しい数の有害事象が顕在化しつつあるが、これを推進した者たちに、果たして良心はあったのだろうか?日本では、ワクチン被害者やその遺族らの責任追及を求める声を意識してか、河野太郎元ワクチン接種推進担当大臣が、「運び屋の自分が後遺症の責任を取るなどと口にしたことはない。」「反ワクチン派によるデマだ。」と述べたそうである。同様に、散々ワクチン利権の恩恵に浴しながら、風向きを見て口を閉ざす者たちがいる。彼らは、良心に背いてまでも、自らと属する集団の利益を飽くなく希求した訳であるが、いずれ蒔いた種を刈り取ることになるだろう。日本人は、全てを統べ治める神を信じていなかったとしても、「お天道様が見ている」との意識を子供の頃から植え付けられていたはずだが、それも今は昔か。ならば一層、神を信じる者は、良心に従って生きることを心がけねばなるまい。
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貧乏人は虫を食え(記事No.142)

 2023年1月7日付京都新聞夕刊に、「昆虫食レストラン人気」という見出しの記事が掲載されていた。取材対象は京都府内ではなく、東京都内のレストランである。ここから先は、食事前の方は、食後しばらく経ってから読み進めることをお勧めする。記事に紹介されていた昆虫料理は、スズメバチの幼虫スープ、タガメのクレープ、コオロギラーメン、ハムシの幼虫のデザート等々である。記事にある食後感は、いずれも肯定的なニュアンスであったが、取材した記者も仕事とは言えご苦労なことである。ちなみに、紹介されていた昆虫食のコースは、締めて1万1千円の料金と言う。そんなに出すのなら、ステーキやしゃぶしゃぶのコースを食べたいというのが率直なところだが、それらはSDGsに反する食事メニューなのか?最近は、昆虫食を取り上げる報道も増えているようであり、実際、給食メニューに試験的に導入する学校もあるなど、日本においても、普及を進めようとする動きが見られる。

 記事の中では、さらっと書いていたが、「国連は世界の人口が80億人に達しており、2080年代に約104億人まで増えると推計している。肉や魚で供給できるタンパク質が足りなくなる『タンパク質危機』に陥る恐れがある。」と読者を脅すことも忘れてはいない。国連食料農業機構(FAO)や世界経済フォーラム(WEF)などは、2010年代半ばより、家畜や魚類などに比べて環境に負荷を与えることが少ないという理由により、それらに代わる動物性タンパク質の供給源として昆虫食を推奨している。国連の推進するSDGs自体が、巨大な欺瞞であり、本質は原子力発電の拡大などによる利権の寡占と、世界支配のための仕組み作りであろう。日本の一部地方を含めて、世界各地に昆虫食の食文化があることは事実であるが、いずれも、どちらかと言えば、自然環境が耕作には厳しい条件であるなど、貧困に苦しんできた地域に見られるものである。その他に、薬用としての昆虫食文化がある国々もある。だが、今さらこれを世界的に推し進めようとするのは、裏を返せば、一握りの支配者階層を除く、世界の民衆の大半を、貧困層に追いやろうとする計画であると思う。

 昆虫食自体には、特段の明瞭な宗教的意味は無いと思われる。聖書でも、昆虫食に関する記述が何箇所かある。例えば、新約聖書には、バプテスマのヨハネと呼ばれた預言者が、イナゴを常食としていたとの記述がある。また、旧約聖書にある食物規定には、食べても良い種類と、食べてはいけない種類の昆虫が区分されている。ちなみに、当該箇所では、昆虫の足の数は4本とされており、その他に跳ね足を含めて、合計6本という考え方であるようだ。

「羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである」(レビ記 11:20-23. 新改訳)


 聖書でも、食べられる昆虫があると教えている訳であるので、本来は、それぞれの好みや、食文化に属することであり、昆虫を食べるも食べないも、選択の自由である。私自身は、昆虫食には興味は無く、昆虫は食べない。しかし、自分たちを世界の支配者として選ばれた者たち(誰に?もちろん、神にではない。)と見なす集団にとっては、大衆の自由な選択など認めたくはないのだ。彼らは、世界を一握りの支配層と、その他の被支配層=大衆≒貧困層とに区分し、それを固定化しようとしている。食物に関して言えば、支配層は肉類や有機野菜を食べ、被支配層は代用肉や遺伝子組み換え食品、それに昆虫を食べることが、彼らの目指している世界である。FAOやWEFが、昆虫食を推進していることから、これが陰謀論などではなく、進行中の現実であることが分かる。なぜなら、それらの組織は、いずれも、彼らが目的を持って作ったものだからだ。

 昆虫食が地球温暖化対策になり、また、食糧不足を解消し、世界を救うと言うのは、欺瞞もいいところであり、悪質なデマである。牛などの家畜のゲップが、温室効果ガスであるメタンガスを発生させるので、地球環境に悪影響を与えると言われているが、百歩譲って事実が含まれているとしても、家畜のゲップや糞尿をバイオマス発電に利用する技術は既に実用化されている。世界の国々は、何も無理に昆虫食を導入しなくとも、今ある技術や、それらの改良で、十分に自然環境に配慮した循環型農業に転換して行くことが可能である。しかし、それでは、人々の食生活がより豊かで安全なものになってしまうことから、世界の支配者を自認する、悪霊に取り憑かれた者たちが、そうはさせじと、人々に誤った認識を持たせようとしているのだ。私たちは、食べ物のことについても、正邪や善悪、良いものと悪いものを見分ける必要がある時代に生きている。

「それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません」(テモテへの手紙第一 4:2-4 新改訳)
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「亡命者」としての人生(記事No.141)

 先週、高橋たか子と言う作家の「亡命者」(講談社文芸文庫)を、移動中の飛行機などで2日間かけて読み切った。底本は、1995年12月に刊行された同名の小説である。不勉強で同氏の小説は読んだことが無かったのだが、今月京都新聞で関連記事が掲載され、彼女がカトリックの洗礼を受けたクリスチャンであったと知り、早速代表作の1つである同書を買い求めて読んだのである。京都新聞は、少しでも京都にゆかりがある著名人などは、大きく取り上げるが、高橋氏は1932年京都生まれであり、結婚後の1965年に神奈川県鎌倉市に転居するまで、大部分を京都で過ごしていたと言う。

 京都大学でフランス文学を専攻した高橋氏は、結婚後はフランス語記事の翻訳などの仕事をしながら、小説を書き続けた。しかし、39歳の時、1歳年上の夫が病没し、以後、魂の安息を求めてか、内面的な世界についての考察を深めて行く。その後、43歳の時、東京・目黒に在ったカトリック修道院において、交流のあった作家・遠藤周作が臨席する中、洗礼を受け、正式にカトリック信徒となった。その少し前から、彼女は、宗教とは何か、神とは誰かを求めて、主としてフランスの、ヨーロッパ諸国を幾度となく訪れていた。クリスチャンとなった後も度々フランスを訪問し、修道院に数ヶ月間滞在するなど、魂と信仰の深みを追い求め続けた。「亡命者」は、高橋氏の魂の旅路を描きつつ、小説としても際立っている秀作である。

 「亡命者」は、「亡命者」、「小説『亡命者』」、「手記『亡命者』」の三層構造から成っている。主人公は、最初は高橋本人であろう「私」であり、次に巡礼途中に出会ったあるフランス人夫婦、そして最後はその夫の方の手記という形をとる。優れた小説の常として、読みながら、あたかも自分もその情景を見たかのように思わされ、ぐいぐいと引き込まれて行った。ここから先は、ネタバレが含まれているので、これから「亡命者」を読んでみようと言う方は注意していただきたい。

 この作品中で、私が最も印象に残ったのは、「私」と、同じ古いアパートの別室に住むフランス人老婦人との会話であった。「私」が、修道院生活を送っている修道士たちのことを話題に取り上げて、こう言う。「あの人たち、亡命者ですね」「こちらから、あちらへと、亡命したのですね」それに対して、老婦人は返す。「マドモワゼル、それは逆ですよ」「何が、逆なのです?」「わたしたち全て、人間すべて、あちらからこちらへ亡命してきているのです」何と!私たちは全て、亡命者であると言う!亡命者とは、戦争や迫害などの理由により、心ならずも祖国を離れ、異国で生活している人々のことではないのか?霊的に捉えれば、神を信じることで初めて、人は神の国の国民になるのであって、それまでは、この地上に属しているのではなかったのか?

 「私」は、「生まれて以来、何処にいても、居場所でないと感じつづけた、わけが、わかった。」と気づく。老婦人は、次のように言葉を締めくくる。「あちらへ亡命するのではなく、この亡命地からあちらへ帰っていくのです。かつて、そこに居たのですから」そうか、そのような捉え方があったのか!最初の人アダムが罪を犯し、エデンの園から追放された時、彼は、この地上への亡命者となった。その時以来、彼の子孫らもまた、亡命者として生まれたのだ。亡命者にとって、今居る国は、彼らの祖国ではない。祖国は別の所にあって、本来はそこに居るべきであったのだ。だから、亡命者は祖国へ帰還出来る日を待ち焦がれる。聖書では、神に対する信仰を持つ人々を、この地上では旅人であり寄留者であると語る。その全く同じ本質的な意味において、私たちはまた、亡命者でもあるのだ。私たちの地上の人生は、亡命者としてのそれなのである。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」(ヘブル人への手紙 11:13-14 口語訳)
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私たちの言葉に在る力(記事No.140)

 昨日は、東京都内の教会で、日曜礼拝のメッセージを語らせていただいた。その教会の牧師とは、かれこれ20年以上のお付き合いになる。もちろん、お互い家族ぐるみの友人関係である。以前から留学生らも集う教会であったが、今回は、ユース・ウィズ・ア・ミッション(YWAM)という国際的青年宣教団体のチーム7人が米国カルフォルニア州から来ており、彼らも含めて出席者の半分近くが外国人であった。日本語でメッセージを準備していたので、牧師が通訳をしてくださった。メッセージのテーマは、「言葉の力」としたが、メインの聖句は旧約聖書の箴言から取り上げた。

「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(箴言 18:20-21 新改訳)


 聖書の教えを信じるクリスチャンであれば、「神の言葉」に力があることは、少なくとも、知識としては知っている。創世記第1章には、神が、「光あれ」と言葉を発せられた時に、その通りになり、天地創造が始まったことが記されている。神は、その言葉で無から万物を創造されたのである。悪魔の巧妙にして壮大な創作である「進化論」は、創造主の実在を否定すると同時に、神の言葉の絶大にして無限の力を否定しており、人類にとっての破壊的な危険思想であることは明白である。

 さて、創世記にはまた、「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(1:27a. 新改訳)とある。もちろんそれは、姿形といった外観のみを指すのではなく、霊を有する人格的存在という形のことである。人が神の性質に似せて造られているということは、神性の一部を分与されていると言うことでもある。神の言葉に在る力も、その神性の一部である。即ち、私たちの言葉にもまた、神よりも劣ってはいるものの、創造的な力が与えられている。創世記第2章19節には、「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるか見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」とある。最初の人であったアダムが被造物に名を付けた時、それぞれの性質が決まったとも言える。それくらいの力と権威とが、人の言葉に与えられたのだ。

 約6、000年前(正確な年については諸説あるので、ここでは踏み込まない。)にアダムが創造されて以来、神と人の言葉に対する悪魔の攻撃が続いて来た。聖書の改竄の試みや、解釈を変質させることがそうであり、また、人の言葉を堕落させることも、その攻撃手法の1つである。俗語の類は、古代からどこの社会にもあったと思うが、今日ほど広範囲に使われているのは歴史上無かったのではないか。例えば、英語ではカスワード(curse word)と呼ばれる粗野な俗語が数々あるが、直接的な意味は「呪いの言葉」であり、神の名前さえも罵り言葉として使われている始末である。そのような言葉を使う時、人々は意識せずとも、神を呪っているのである。

 私たちは、神や他の人々を呪うだけでなく、自分自身をも呪ってしまうことがある。何か大きな失敗をした時、何もかもうまく行かないような時、自責の念を抱くだけでなく、自分はダメな人間だと呪ってしまうことがある。あるいは、子供の頃から、親や教師など大人から、お前はダメな奴だと言われ続けて育つと、他者からの呪いの言葉に加えて、自分自身も同様に自らを呪い続けてしまう。呪いは祝福の対極であり、呪いの言葉は祝福を遠ざけてしまう。私たちは、自分自身に失望することがあるが、その時は、神の前に自分の思いを吐き出すべきであり、自分自身に呪いの言葉を投げつけてはならない。私たちの言葉には創造的な力があり、逆に破壊的な力もある。他者や自分を建て上げることも出来るし、壊すこともできる。私たちは、自分を呪うのはもう止めよう。神から与えられた言葉の力を、自分と他者を祝福するために用いたいものである。
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年賀状やめますか、それとも人間やめますか(記事No.139)

 今年は、年賀状が昨年に比べて明らかに少なかった。毎年、少しずつ減っているが、今年は特に減ったと感じる。理由としては、例年よりも喪中の人が多かったことと、70代以上の人の中には、今回で年賀状は最後にするという人も何人かいたからである。プライベートの付き合いの方だけでなく、仕事関係でも、代表者の死去で年賀状の授受を差し控えたり、あるいは、今年限りで年賀状を廃止するという企業も複数あった。廃止の理由は、「虚礼廃止」や「SGD'Sに貢献するため」などであったが、ほとんどこじ付けであり、本音は手間が面倒であることと、経費削減であろう。個人でも、企業など法人でも、年賀状を煩わしく思っている先が増えているようではある。

 私はと言えば、年末の慌ただしい時期に年賀状を書くのは、特にそれが単なる儀礼で送る先であれば、面倒臭く感じてもいる。一方で、長い付き合いのある人々との年賀状のやり取りは、生存確認の意味も含めて、必要性があると思っており、やめる理由は見当たらない。心がけていることとして、プライベート関係でも、仕事関係でも、必ず一言は手書きで添えて書くことにしている。仕事関係では、これまでは、毎年数百枚の年賀状のほとんど全てに手書きで、相手に応じた一言メッセージを書き添えていた。しかし、今年の分からは、いつも印刷だけの文面で送ってくる先で、なおかつ、付き合いがほとんど無い所には、メッセージを書き添えるのをやめた。「受けるよりも、与える方が幸いである。」を座右の銘としている私としては、必ずしも本意ではなかったが、読んでいるかも疑わしいような先に、毎回丁寧にメッセージを書くのは虚しさも覚えていたからである。

 日本全体でも年賀状の枚数は減少しており、昨今では、全く出さずに、親しい相手にだけメールやLINEなどで新年のメッセージを送る人も増えていると思う。日本郵便によれば、年賀状が初めて発売された1949年には約1.8億枚、ピークの2003年には約44.6億枚がそれぞれ発売されていたという。その後は、一貫して減少に転じ、2021年には約19.4億枚、2022年には18.2億枚の発売枚数となったそうである。何年か後には、紙の年賀状を送る人は少数派になり、やがては、民営化された日本郵便にふさわしく、土曜配達のように廃止されるのではないだろうか。

 そのような年賀状を巡る状況であるが、中には、ここぞとばかり自慢のツールとして使う人もいるから面白い。今年、妻宛に来た年賀状の中にあった、20数年前の同僚からの1通もそうであった。それは、写真入りの年賀状であったが、お嬢さんが入学した音楽系ではトップクラスと言われている大学の、校門の大学名のプレートの前でポーズを取っている写真であった。私は、よほど嬉しくて自慢もしたかったのだろうと推察し、分かり易い行動を笑い飛ばすくらいの思いで聞いたが、妻は少し違った受け止め方をしたようで、これはマウントを取っているんだよと言う。なぜなら、妻の出身校も別の音楽系大学だからである。もちろん、相手の過去の言動に照らして、そのように受け止めたと言う。この種の自慢行為に対しては、男性よりも女性の方が敏感に受け止めるようである。実にくだらない話ではあるが、妻は、これまで何人もの知人からの自慢行為を数々経験して来たことから、私は、今回のことも含めて、いずれ本にまとめて書いたらどうかと勧めた。

 はっきり言って、年賀状を自慢のツールに使うくらいであれば、出すのをやめた方がはるかにマシである。また、明らかに毎年自慢をするような人へは、年賀状を出すのをやめた方が精神衛生上も良いと思う。どうせ、心からの親しい付き合いは出来ないのだから、そのような人間関係は整理しても良いのではないだろうか。30数年前のテレビ・コーマーシャルで、「覚醒剤やめますか、それとも、人間やめますか。」と言うものがあったと思い出したが、そのフレーズに倣えば、「(自慢のための)年賀状やめますか、それとも、(思いやりを持った)人間やめますか。」である。

 振り返ると、自分たちも以前、知らず知らずのうちに、無神経な年賀状を出していたのかも知れない。子供たちが小さい頃は、お揃いの服を着た写真入りの年賀状を作成して送っていた。親族や家族ぐるみの付き合いをしている友人なら良いが、そうでない人々の中には、もしかしたら、自慢と受け止めた人もいたかも知れない。世の中には、結婚したいのに良縁が中々無い人もいれば、結婚していても、様々な事情で子供がいない人もいる。そのような人々の中には、小さな子供の写真付き年賀状を受け取って、心がざわつく人もいると思う。他人に少しでも不愉快な思いをさせてしまう可能性があるのなら、いっそのこと年賀状など出さない方がまだ良いと思う。年賀状は、せいぜい70年くらい前からの風習であり、何がなんでも後世に受け継いでもらうべきものでも無い。限られた先に出すのは良いとして、そんなことよりも大切なのは、年賀状のやり取りをしていた相手を思いやる気持ちであろう。形式よりも、実質の方が大事なのは、ここでも真実である。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」(コリント人への手紙第一 13:4 新改訳)
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2023年を展望する(記事No.138)

 2023年の元旦は、個人的には静かに迎えた。午前中、家庭礼拝を捧げ、昼食後は妻と2時間ほど散歩をしたが、昨年の正月よりも道往く人々の数は増えていた。いい加減、ほとんどの人が行動の自主規制には辟易しているし、良く言えば、無意味な自粛はもうたくさんであり、悪く言えば、警戒心が弛緩してしまっているのかも知れない。私としては、いかに人造ウイルスであっても、変異を繰り返して弱毒化しており、インフルエンザや風邪の予防と同様の注意を払いながら、それよりも少しばかり感染防止対策を強化することで足りると考えている。ただし、不特定多数が長時間密集・滞留するような場所は、念のため避けているのは、今さら言うまでもない。感染予防と同時に、シェディング防護のためでもある。これまでに何回か、シェディング曝露と思われる状況で、急激な体調不良に見舞われたことがあり、防護には特に注意を払っている。また、解毒材料としては、良質の重曹や、にがり(マグネシウム)などを使用している。

 さて、2023年の初頭に当たり、今年1年を少し展望してみたい。世界の大きな流れとしては、このまま終末へ向かおうとする激しい動きと、同時並行的に現れる、世界を建て直そうとする動きの両面があると思われる。過去3年間は、終末への動きが激しく加速した年月であった。それは、間もなく、聖書が預言する7年間の患難時代に突入することを思わせる状況であり、現時点でそれは変わっていない。新型コロナ・パンデミックは、日本や中国などを除くほとんどの国で、事実上ほぼ終息しつつある。アメリカのワクチン入国規制や軍人などに課せられている接種義務は、今年前半には撤廃あるいは大幅緩和され、同国における感染症非常事態は終焉を迎えるであろう。中国は、ゼロコロナ政策を転換したが、共産主義体制では、一気に規制を全廃することには慎重なのであろう。どうやら、最後までコロナと付き合わされるのは、日本と言うことになりそうである。グローバル製薬会社にとっては、中国を除きアジア最大級の市場であり、とことん貪り尽くすつもりなのであろう。政府が売国・反国民である以上、大衆の一人一人が、これ以上奪われることを断固拒否するしかない。

 ウクライナでの戦争は、今も圧倒的にロシアが有利な戦況と考えられる。ロシアとすれば、いつでもウクライナ全軍を壊滅させることは可能であるのに、何故ここまで戦争を長びかせているのか?最大の理由として考えられることは、米欧に対して、対露制裁のブーメラン効果を与えることで、国力を費消させ、ロシアの優位性を高めることではないだろうか。また、ウクライナへの兵器や弾薬などの軍事支援は、NATO軍の備蓄を枯渇させているとされ、軍事力のバランスにおいても、西側に比してロシアが優勢となっていると考えられる。加えて、停戦が未だ実現しないことで、ウクライナ軍は激しく損耗しており、ロシアが侵攻当初要求していた、ウクライナの非軍事化が強制的に達成されそうな雲行きである。戦争の最大の被害者はウクライナ国民と、これまで迫害を受けてきたロシア系住民であるが、今ではヨーロッパ諸国民も、制裁ブーメランによるエネルギー不足や物価高騰の被害者である。これに対して、最大の受益者は、米欧諸国の軍需産業であり、それらを所有する超富裕層の資本家らであろう。もちろん、彼らは、文字通り人の生き血を吸う悪魔崇拝者である。だが、ウクライナ戦争を機に、米露核戦争を引き起こそうとの彼らの企ては、プーチン氏に最初から見破られており、これまでのところ回避されているのは、不幸中の幸いと言える。今年についても、アメリカがロシアへの直接攻撃を行わない限り、核戦争にまでは至らないであろう。だが、万が一、米軍がロシアを直接攻撃するようなことがあれば、その時は、核戦争を覚悟するべきであろう。その場合、日本も、主要な米軍基地や自衛隊基地がある都市は、灰塵に帰することになるだろう。いずれにせよ、ウクライナでの戦争は、ゼレンスキー氏が(米欧側に)除去されれば停戦となり、そうでなければ、今年も続くと思われる。

 今年は、日本を含む西側諸国の経済がクラッシュする可能性が高いと思う。私たちの多くは、近くはリーマンショック、30年ほど前にはバブル崩壊を経験した。だが、今年始まるであろう経済崩壊は、それらが軽微な出来事と思えるほどのものである。リーマンショックでは、不動産や金融セクターの一部は大打撃を受け、上場会社を含めて倒産した企業が続出した。また、バブル崩壊に際しては、巨額の不良債権を抱えた大手銀行が倒産するなど、2000年代初頭まで影響が及んだ。だが、次に起こる経済危機は、そのスケールにおいて、史上最大規模となる可能性が高い。その始まる時期は、今年夏から秋にかけてではないかと予測する。これまでの各国における金融緩和政策により、世界の市場には膨大なマネーが供給されており、デリバティブと称される金融派生商品の総額は実体経済をはるかに凌駕していると言われ、世界的バブル崩壊が起きる条件が整いつつある。経済崩壊のトリガーとなる出来事が何であるのかは、現時点では分からないが、それを引くのは、前記の超富裕層の資本家らであり、コントロールされた経済危機である。ちなみに、彼らの表の巣窟が、世界経済フォーラム(WEF)であり、裏のそれは、イルミナティとも呼ばれる集団であって、それらの人脈は表層部の一部を除き重複していると考えられる。状況からして、もし読者の皆さんの中に、株式投資をしている人がいれば、遅くとも3月から5月頃迄には、一旦手仕舞いして様子を見ることをお勧めしたい。もちろん、私たちは、米、缶詰など、保存に適した食料や日用品の備蓄も増やしておくことが賢明である。

 ここまで書いたように、2023年は昨年にも増して、世界の暗闇が深まるであろう。場合によっては、患難期の初年となるかも知れないが、これについては、特に慎重に見極めねばならず、これ以上の推測は言うべきでないと思う。私としては、もちろん、そうならないことを願っている。日本についても、既に再生されるという希望は失われており、ますます世相は暗くなるであろう。今年も、ひたすら国家滅亡の時に近づくだけである。こう言っては身も蓋もないが、例え4月の統一地方選挙で政権与党が議席を減らしたとしても、大きな流れが変わることは無い。だが、それでも、完全に諦めてはならないと思う。まだ、神がこの世界に、この国に、介入してくださるという希望を捨てるべきではない。なぜなら、日本でも、世界の諸国でも、多くの人々が、神の憐れみを求めて祈り続けて来たからだ。確かに神は、それらの祈りを聞いておられる。私は、既に神は、世界のこの状況に介入するため、御使(天使)の軍勢を用意されていると思う。彼らは、神の命令が下されることを今かと待っており、その時が来れば速やかに行動を開始するだろう。だから、目に見える状況とは逆であるが、あえてこう言いたい。この2023年に、これまで私たちを苦しめて来た敵は敗北する。私たちは、必ず勝利し、この世界を、日本を、再建する神の働きに加わるのだと。

「あなたを破壊した者は速やかに来たが あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚とした者はあなたを去る」(イザヤ書 49:17 新共同訳)
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2022年を振り返って(記事No.137)

 早いもので、あっという間に2022年も残すところ数時間となってしまった。毎年のことであるが、達成感や充実感とは逆に不完全燃焼感を抱いてしまうのが、正直な思いである。いつも全力疾走を続けられる人はそう多くはないのかも知れないが、毎年自分自身の歩みに満足感を抱けたことはない。まず自分を顧みなければならない者が、世の中の動きを振り返ってものを書くのは、ある種おこがましいが、あえて少しだけ取り上げてみたい。

 2022年を一言で振り返るならば、終末への扉が開いた年であった。その扉は、これまでも少しずつ開いていたのだが、今年は一気に大きく開いてしまった。これまで約3年に渡り続いて来た、グローバリストらにより造られた新型コロナ・パンデミックは、彼らの世界支配の完成に向け大きく時計の針をすすめた。以下は、本ブログの2022年1月2日付記事「2022年を展望する」(記事No.81)の一部である。

 「既に世界は、ヨハネの黙示録が預言する患難期の入り口に到達した可能性が出てくる。これについては、患難前携挙説を信じるクリスチャンは、別の受け止め方をするだろう。なお、新型コロナ・パンデミックについては、ワクチン接種キャンペーンを中止する国々では、今年半ば迄には終息し、そうでない国々は、少なくとも来年前半頃までは終息に至らないと思われる。日本は、残念ながら、後者に該当するのではないか。人々の自然免疫力を生かすのか、それとも、失わせるかの違いである。(中略)今年はまた、戦争の勃発が現実となる可能性が高い。発火点は、ウクライナと台湾海峡が最も可能性が高いが、中でも前者では、今月中にロシア軍による侵攻が起こる可能性がある」

 まあ、この程度であれば、予測するのは難しいことではないと言われるのかも知れない。新型コロナ・パンデミックについて言えば、日本では、終息に向かうどころか、人口当たりで世界最高水準の感染者数が続いている。1日あたりのコロナ死者とされる人数も、12月には過去最多を記録した。新型コロナ・ワクチンのブースト接種が感染拡大抑制にはつながらず、明らかに逆効果になっている。2021年2月以降、日本の前年同月比超過死亡者数は増加の一途を辿っていることが何を意味しているのか、賢明な読者諸氏はとうに気づいていると思う。このままでは、イーロン・マスク氏に言われずとも、日本の人口は急減すること必至である。

 日本の報道各社による2022年の10大ニュースは、国内1位が軒並み「安倍元首相の暗殺」であり、海外1位が「ロシアによるウクライナ侵攻」であった。社会に与えたインパクトとしては、その通りであったと思う。どちらの出来事も、背後には、悪魔崇拝のグローバリスト集団が暗躍していたことは共通している。暗殺犯とされた山上某は見せ球であり、安倍氏は「彼ら」にとって用済みであったから消されたと考えられる。また、ロシアは外形的には「侵略者」であるが、戦争を周到に準備し、ロシアをして自国の安全のため軍事行動に踏み切らざるを得なくさせたのは、「彼ら」である。先に触れた、新型コロナ・パンデミックもそうであるが、2022年は、「彼ら」が公然と尻尾を出した年でもあった。世界統一政府樹立に向けて計画を大きく進める上での、「彼ら」の自信と、同時に抱いている、「焦り」の両方が伺える。

 ところで、終末の様相が着実に濃くなっている世界であるが、私は、現時点では未だ、世界が7年間の患難期に入ったとは考えていない。聖書預言を信じる人々の中で、患難前携挙説の支持者が多いと思われるが、その説に立つならば、クリスチャンは地上で患難期を通過することは無い。だが、本ブログでも、2021年10月3日付記事「携挙は近いのか?」(記事No.48)でも書いたように、患難前携挙説が正しいと断定することで良いのであろうか?真のクリスチャンは患難期の前に地上から取り去られるという考え方は、希望を持つには良いのだが、「通過するはずの無い」患難期突入のサインを見逃してしまうことにもなりかねない。本ブログ読者の皆さんには、世の終わりに関する聖書の教えについて、今一度祈りつつ熟考することをお勧めしたい。

 今年は、10月頃から、世界が終末に向けて、もう後戻り出来ないとの確信が強まり、否定的な論調にしか記事を書けないとの思いから、筆が(キーボードを打つ手が)進まなくなってしまった。日本の将来にも、残念ながら希望は残っていない。だが、最後まで残っているのが、神に在る希望である。世の終わりがいつ来るのかは、全く神の主権の内に決定されることである。あるいは、神は、もう少しの猶予を与えて下さるかも知れない。それは、少しでも多くの人々が、イエス・キリストを信じることによって、神の民に加えられ、永遠の命に生きるようになるためである。暗黒の世にも、確かな希望があることを強調しつつ、2022年最後のブログ記事を締めたいと思う。

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(ペテロの第二の手紙 3:9 口語訳)
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