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公文書の改竄は歴史への冒涜(記事No.146)

 このところ、高市早苗経済安全保障担当大臣が渦中の人となっている。言うまでもなく、国会審議で立憲民主党の小西洋之参院議員から追及を受けたところの、総務省の行政文書に記録されていることが明らかになった、放送法の運用を巡る政治的介入疑惑である。高市氏は、国会審議では、当該行政文書に記録された自身の発言について、捏造であると否定した。「捏造でなかった場合、議員辞職するか?」と、国会審議で小西議員から問われた際は、「結構ですよ。」と啖呵を切ってもいる。だが、問題となっている行政文書が作成されたのは、高市氏が総務大臣を務めていた当時のことである。もし、文書が捏造であれば、高市氏の監督責任が問われるであろうし、捏造した官僚らは、公文書偽造で懲戒免職の上、刑事告発されるべき事案である。どちらに転んでも高市氏は責任を免れ得ず、また彼女は、公文書が持つ重みを十分理解していないという一点のみでも、公職者の、まして国会議員や国務大臣の資格は無いと言えるであろう。

 しかし、政治家や官僚が公文書を軽視しているのは、高市氏に始まったことではなく、日本における官公庁のお家芸とも言える悪癖であろう。近くは、いわゆる森友問題において、議事録の改竄を指示された、財務省近畿財務局職員の赤木俊夫氏が自殺した事件が記憶に新しい。この事件では、公的補助金を詐取したとされた、籠池泰典・諄子氏夫妻が詐欺罪で実刑判決を受け収監されることになったが、公文書偽造に関与した官僚らは誰も起訴すらされていない。日本で公文書偽造が罷り通ることになったのが、いつの頃からなのかは判然としないが、古事記・日本書紀さえも真偽ない混ぜという説があるように、古代から脈々と続く悪しき文化である。近代国家となったはずの明治以降もそれは続き、むしろ常態化したとさえ言える。今日、中国や韓国との歴史問題が燻り続ける元凶の1つは、日本政府が大東亜戦争当時の公文書の多くを破棄しているため、事実の記録に基づく検証が十分になされて来なかったことだと思う。特に、731部隊に関わる証拠隠滅に象徴されるように、戦争犯罪に関わる公文書の大半は、敗戦後直ちに軍部によって焼却されたと考えられる。古今東西、歴史は権力者や勝者によって作られると言う話があるが、公文書を改竄・破棄することへの弁解にはなり得ず、それは歴史に対する冒涜でしかない。それは、現在のみならず、未来の国家・国民に対する罪でもある。

 ところで、中国は白髪三千丈との言葉があるように、古来から誇張や捏造の文化もある。だが一方で、正確な記録を重んじる側面もあり、それを象徴するような故事を1つ紹介したい。中国大陸の春秋時代に斉という国があったが、その歴史書である「春秋左氏伝」に次のような出来事が記載されている。斉の第25代君主の壮公は臣下の崔杼の妻と密通していたところ、怒った崔杼は主君を殺してしまった。斉国の歴史記録官である太史は、この事実をありのままに記録した。太史が、「崔杼、其の君を弑す(しいす=叛逆して殺すこと)」と事実を史書に書いたので、崔杼は彼を殺した。後を継いだ太史の弟も同じことを書いたので、彼も殺された。しかし、彼らの弟も同じことを書き、ついに崔杼は事実を記録することを許した。太史兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は、「崔杼其の君を弑す」と書いた竹簡を持って駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて帰ったと言う。崔杼と太史たちの故事は、(少なくとも古代の)中国の人々は、歴史を正確に後世に残すことの重みをよく理解していたことを示している。もっとも、今日の中国共産党は違うようであるが。

 さて、それでは、キリスト教における最高の公文書でもある聖書はどうなのか?クリスチャンの中でも、聖書は神の霊感を受けて書かれた誤りの無い神の言葉とする逐語霊感説に立つ人々と、聖書の言葉の無謬性を認めない新正統派学的霊感説を受け入れる人々がいる。また、それぞれに近似や亜種の諸説があり、福音主義と自由主義という神学の違いからも、聖書に対する捉え方が大きく異なる。ちなみに私自身は、逐語霊感説であり、人間の知識の視点で聖書を研究しようとする、高等批評と呼ばれる考え方を受け入れない。自由主義神学や高等批評は、悪魔が聖書の権威を失墜させ、信仰の本質を骨抜きにするために造り出した偽物であるとさえ思う。聖書の著者や写本の書写者たちは、神の言葉を正確に記録するために全身全霊を傾注し、文字の点1つさえも間違えることが無いように慎重に作業を進め、記事の真実性を守った。それゆえ、聖書には、書かれた当時の権力者や霊的指導者らに不都合な事実も、そのまま記録されている。戦争の敗北、愚王による国の乱れ、偶像崇拝、不信仰、殺人、不倫、偽証、裏切り等々である。聖書の言葉は、それをどう扱うかにより諸刃の剣にもなる。付け加えてはならず、削除してもいけない。解釈や適用は様々あっても、神の言葉そのものは変わることが無く、変えられることも無い。それを信じるか信じないかは、私たち自身の問題である。

「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」(ヨハネの黙示録 22:18-19 口語訳)