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人権後進国日本(記事No.149)

 1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した、味噌製造会社の橋本藤雄専務(当時41)一家4人が殺害された、いわゆる「袴田事件」の第2次再審請求に対して、東京高等裁判所は3月13日に再審開始を決定した。当事件については、これまでも多くのメディアが取り上げて来たし、インターネット上でも関連情報が多数あることから、あえて概略は省く。よく分からない場合は、日本弁護士連合会のホームページに分かりやすい概要が掲載されているので、参照していただきたい。

 さて、当事件で犯人とされた袴田巌氏(87)は、1980年に最高裁判所で死刑判決が確定しており、約48年もの拘禁を経て、2014年3月の静岡地方裁判所による再審開始決定で執行一時停止となり、釈放後も第1次再審請求では東京高裁による決定取消しにより、今なお戦い続ける事を余儀なくされている。当事件では、警察や検察が証拠を捏造した疑いが濃厚であることは、東京高裁の今回の決定においても指摘されている。少しでも理性的な思考が出来る人であれば、明らかに袴田氏は冤罪被害者であることが分かるであろう。真犯人として当初から噂されていたという、被害者一家の長女とその(内縁の?)夫であった暴力団関係者は既に故人であるが、長女が67歳で死亡したのは、静岡地裁の再審決定で袴田氏が保釈された翌日であり、警察は病死と発表したが自殺説もあり真偽は不明である。

 言うまでもなく、捜査機関による証拠の捏造は重大な権力犯罪であるが、袴田氏は取り調べの過程で激しい拷問を受けて自白を強要されたと言われる。事件が発生した1966年は敗戦後20年以上経っていたにも関わらず、特高警察に代表される非民主的な警察や検察のあり方は、戦前・戦中と変わっていなかったのである。ちなみに、静岡県警察本部で袴田氏の取り調べを主導したのは、「拷問王」と呼ばれた、紅林麻雄(くればやしあさお)警部であり、担当した事件において、数多くの冤罪被害者を生み出したことで知られている。

 袴田氏は、死刑確定後から34年間もの間、執行の恐怖に怯える毎日を送り、拘禁性ノイローゼとなってしまった。だが、死の恐怖に直面する中で、カトリック神父の教誨を受けるようになり、神の救いを求めて、1984年12月に獄中で洗礼を受けるに至った。これには後日談がある。1審の裁判官であった熊本典道氏(故人)が、2007年に「自分は無罪と判断したが、2人の先輩裁判官を説得出来ずに、2対1の多数決で有罪となった。」と明かし、大きな反響があった。熊本氏は、「裁判官として判決文を作成したが、悔いが残り、裁判官を辞めざるをえなかった。」と語り、誤判の当事者として心に責めを抱き続けて来たことを告白した。判決の翌年に裁判官を辞職し弁護士へ転身した熊本氏は、良心の呵責に耐え切れず酒浸りの生活を送るようになり、一時は自殺も考えたという。その後、「袴田君の気持ちを少しでも理解したい。」と聖書の教えを学ぶようになった熊本氏は、袴田氏の無実を訴え続ける中、2014年2月にカトリックの洗礼を受け、2020年11月に帰天している。

 「袴田事件」のような冤罪事件は、死刑や無期懲役の判決が確定したものだけでも複数あるが、その中には、1992年に福岡県飯塚市で発生した女児2人の殺人事件、いわゆる「飯塚事件」で死刑判決を受け、2008年10月に森英介法務大臣(当時)の命令により福岡拘置所で処刑された久間三千年氏のように、絶対に取り返しがつかないケースもある。冤罪事件は、決して日本だけの現象では無いとは言え、無実の人を処罰することは最悪の権力犯罪であり、霊的には国にとって呪いを招くものとなる。

 日本には、冤罪事件以外にも、公的機関による様々な人権無視の実態があり、早急に是正されなければならない。スリランカ人のウィシュマ氏死亡事件で広く知られるようになった、出入国在留管理局、いわゆる入管の不法滞在外国人に対する非人道的扱いもその1つである。また、代用監獄の存在も、近代民主制国家にあるまじき制度であり、被疑者に対する虐待や冤罪など悪質な人権侵害の温床ともなっている。これについては、国際人権規約委員会や国連拷問禁止委員会なども問題視しており、日本政府に繰り返し是正を求め、廃止勧告などの国連決議も採択されている。このような状態であるのに、中国や北朝鮮の人権状況について、よくも上から目線でものが言えるものである。人権状況に関しては、日本の為政者や役人も、共産主義国家と同様のメンタリティーである。

 言うまでもなく、人は誰でも過ちを犯し得る存在である。聖書は、「義人はいない、ひとりもいない。 」(ローマ人への手紙 3:10)と教えているが、神の前に誰もが罪人であり、宗教的、道徳的な罪はもちろんのこと、少し道を逸れてしまい過ちを犯す可能性もある。自分は絶対に罪を犯さないと信じているとしたら、それは人間の本質を実は理解していないと言うことを示している。であるなら、犯罪を犯してしまった人に対しては、多少非人道的な扱いをしても許されるという考え自体が異常であり、誰に対しても、人としての最低限の尊厳に配慮した扱いを捨て去ってはならないと思う。冤罪を作り出した警察官、検察官、裁判官ら、冤罪処刑に関わった政治家や法務官僚らは、故熊本氏のように罪を悔いて告白し神の赦しを受けない限り、たとえ地上では栄華栄達に浴したとしても、いずれは陰府(黄泉)で最後の審判の日を震えながら待つ身となるだろう。

「悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者はともに主に憎まれる」(箴言 17:15 口語訳)