イスラエル政府の公式発表や報道で伝えられている通りであれば、ハマスによる大規模な奇襲攻撃が敢行され、イスラエルは虚をつかれた形である。しかし、世界有数の実力を有する情報機関を持つイスラエルが、ハマスによる大規模攻撃の準備を察知出来なかったはずは無いと思う。ハマス内部にもイスラエルのスパイや協力者が浸透しているのは当然であり、高位の幹部にもイスラエルのスパイがいる可能性が高い。となると、イスラエルは、ハマスの計画を知っていながら、あえて先に手を出させたのであろう。その目的は、これを機にハマスを完膚なままに叩き潰してパレスチナ人の抵抗意思を挫くことか、あるいは、ハマスを支援する「宿敵」イランとの緊張をエスカレートさせ、同国との戦争の道筋を付けることか.。様々な意図が考えられるが、イスラエル政府とその背後のグローバリスト集団が戦争を望んでいたのは確実であろう。
なぜ、彼らは戦争を望んでいるのか?理由の1つは言うまでもなく、戦争が莫大な金儲けの絶好の機会であるからだ。ウクライナ戦争などは、分かりやすい実例であろう。今般の戦争で最も潤っているのは、米英を中心とした西側諸国の軍需産業であり、エネルギー産業なども同様である。もう1つの大きな理由としては、権力者ら、特にグローバリスト集団にとって、自分たちの支配を強め拡大するために利用出来るからである。一国単位の独裁者は別として、彼らの最終ゴールは、世界の支配を確立し、世界統一国家を樹立することである。その暁には、全ての宗教は廃止され、悪魔崇拝が唯一の宗教となる。悪魔崇拝者のグローバリストらが目指しているのは、そのような世界であり、その目的達成のために彼らは過去2回の世界大戦を起こして来た。彼らが3回目の世界大戦を起こそうとしているのは、もはや明白であろう。
間違えてはならないが、戦争を渇望するのは、多くの場合、それにより利益を得る権力者や大資本家のような人々であり、一般大衆では無い。だが、現状にあまりにも希望が持てない状況が長く続く場合、あるいは、他国に対する憎悪を抱くように洗脳された場合には、一般大衆も戦争を望むことがある。イスラエルとパレスチナの双方の大衆にも、戦争を望んでいた人々も少なからずいたであろうが、戦争は起きて欲しくなかったというのが、多くの人々の本心であったと推察する。なぜなら、兵士として動員されるのも、空爆で被害を受けるのも、権力者ではなく一般大衆であるからだ。
ハマスによるイスラエル攻撃自体は、民間人も攻撃し、拉致したりと、戦争犯罪に該当する。アラブ諸国を除く国際社会が、今回の侵攻を非難するのは当然である。だが、彼らに存在理由を与え、「育成」して来たのは、イスラエルの側である。すなわち、イスラエル政府のパレスチナ人に対する、長年の差別的、抑圧的な政策が、彼らに民衆の支持を与え、イランやアラブ諸国からの支援を得させる理由を与えて来たのだ、私自身は、基本的に親イスラエルの立場ではあるが、それでも、彼らの政府によるパレスチナ人抑圧政策は間違っていると思う。イスラエル人が本当に平和な社会に暮らしたいのであれば、パレスチナ人に対する迫害を止め、共存政策へと大転換するしか道はないと思う。歴史的に幾多の迫害や差別を経験して来たユダヤ人は、虐げられる者たちの痛みを知っているはずであるが、パレスチナ人に対しては心を鬼にできるのはなぜか?恐らくは、長年そのように洗脳され誘導されて来たためであろう。
「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである」(マタイによる福音書 24:6−8 口語訳)
本記事の最後に、聖書の預言を信じるクリスチャンとして、どうしても挙げておきたいことを書く。プロテスタント福音派など保守的な神学に立脚するクリスチャンの多くは、現在のイスラエルを聖書が預言している終末時代に再興されるユダヤ人国家と同一視している。だが、それはかなりウルトラC的な聖書解釈に基づいていると言えよう。私は、現イスラエル国家は人造国家であり、それを造り出したのはロスチャイルドであったと考える。現在においても、イスラエル政府の背後にいるのは悪魔崇拝者らを中心とするグローバリスト集団ではないだろうか。彼らにとっては、イスラエルは重要な駒であり、第3次世界大戦を引き起こす上での役回りを演じさせたいのであろう。長年の対パレスチナ政策や今般のハマスによる侵攻も、その文脈で捉えると合目的性がある。クリスチャンとしては、無自覚の内に彼らの目的遂行に協力してしまうことがないよう、神からの知恵を求める必要があるだろう。特に、エルサレム「第3神殿」の建立などには、間違っても支持を表明してはならない。仮に、建物としての神殿が「再建」されたとしても、それは聖書の教える神の神殿では無い。私たちは、「惑わしの霊」に欺かれないよう、知恵と分別を持って、この時代を生き抜いて行こうではないか。